第4話 予約したホテルはそこじゃない
夕方になっても、西条京子はソファに座ったまま本を読んでいた。文字が見えづらくなってきたところでようやく顔を上げ、窓の外がすっかり暗くなっていることに気づく。壁のスイッチを押したが照明はつかず、もう一度押しても結果は同じだった。
「……電気」
廊下へ出て照明を試し、ついでにキッチンのスイッチも押してみたが、どこもつかない。テーブルに置いてあったスマートフォンも充電が切れており、ケーブルはきちんとコンセントに刺さっていた。
京子はしばらくスマートフォンとコンセントを見比べたあと、冷蔵庫を開けてみた。中は暗い。
「そっか」
電気がないのだから充電もできないし、冷蔵庫も動かない。そこまで確認すると、京子は特に困った様子もなく財布と着替えをバッグへ入れた。
「ホテル」
玄関へ向かったところで鍵の開く音がした。
「京子ー? いるか?」
「いるよ」
返事をしながら玄関へ出ると、入ってきた齋藤孝之が暗闇の中に立っている京子を見て足を止めた。
「いるなら電気くらいつけろよ。誰もいないのかと思っただろ」
「つかない」
「つかない?」
孝之は靴を脱ぎ、壁のスイッチを押した。当然ながら何も起きない。
「いつから?」
「今」
「今消えたのか?」
「気づいたのが」
「ああ、気づいたのが今ね。いつからついてないのかは分からないと」
「うん」
「ブレーカーは?」
「上だった」
「そこは見たんだな」
「見たよ」
孝之は窓から外を見た。向かいのマンションにも隣の建物にも普通に明かりがついている。
「停電ではなさそうだな。それで、そのバッグは?」
「ホテル行く」
「電気がつかないから?」
「うん」
「ああ、そうか。家に電気がないなら電気のある場所に行けばいいと。お前の中ではもう解決したんだな」
「今日は」
「今日はな。明日帰ってきてもこの家は暗いままだぞ」
「明日やる」
「どうせなら今やろう。俺もいるんだから」
京子は少し考えてからバッグを床へ置いた。孝之はもう一度ブレーカーを確認し、電気設備に異常がありそうな様子がないことを確かめると、嫌な予感がしたらしく京子を振り返った。
「電気代、払った?」
「お金はあるよ」
「あー、そうだよな。金がないかどうかを聞いたんじゃない。電力会社に電気代を払ったかって聞いてるんだ」
「請求書は来てた」
「それは来るだろ。で、その請求書は払った?」
「たぶん」
「お前の『たぶん』は、ほぼ分からないって意味だからな。請求書どこ?」
「家」
「うん、この家に届いたんだろうな。そこからもう少し狭めようか」
京子はリビングを見回し、テーブルを指した。郵便物や雑誌、広告、封筒、レシートに読みかけの本まで重なっている。
「この辺」
「最初からそう言ってくれればいいんだよ」
二人で積まれた紙を調べ始めた。京子が途中で映画館から届いた案内を見つけて手を止めると、孝之は横から覗き込んだ。
「それ電気?」
「映画」
「じゃあ今はいい」
「期限切れてる」
「なおさら今はいい」
次に出てきたのは健康診断の案内だった。
「これ去年」
「それもあとで捨てよう。今は電気を探してるんだから」
「電気は紙じゃないよ」
「請求書を探してるんだよ。そのくらいは分かってるだろ」
「うん」
「たまに本気で分からなくなるんだよ、お前と話してると」
テーブルの上には見当たらず、孝之はソファの周辺まで探し始めた。下から何枚かの封筒を引っ張り出し、その一枚を見て手が止まる。
「あった。しかもこれ、二か月前のだぞ」
「払ってない?」
「少なくともこれは払ってないな。そのあとにも何か来てるはずだ」
さらに探すと、今度は冷蔵庫と壁の隙間から電力会社の通知が出てきた。孝之はその内容を読んでから、しばらく無言で京子を見る。
「止められてる」
「そっか」
「そっかじゃないんだよ。払える金があるのに電気止められる人、俺はお前以外知らないぞ」
「そうなの?」
「普通は止まる前に払うからな。お前、二十四年間それでよく生きてこられたな」
「うん元気」
「あーそうだよな。元気なのは知ってる。お金に困ったことがないのも知ってる。どうやって生活してきたか聞いたんだ」
「こうやって?」
孝之はしばらく京子を見た。
「……そうだな。俺が聞き方を間違えた」
「うん」
「そこは別に認めなくていいんだけどな」
孝之は通知をテーブルへ置いた。
「とにかく明日、電力会社に連絡しろ。復旧の手続きも必要だし、ついでに支払いも自動に変えた方がいい。お前に振込用紙は無理だ」
「カード?」
「カードでできるならそれにしろ。その方が俺も安心できる」
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「もういい。それは明日俺も確認する」
今夜すぐ電気が戻るわけではないので、結局ホテルに泊まることになった。電源の切れた京子のスマートフォンでは予約できず、孝之が代わりに駅近くのホテルを探す。
「グランドリーフホテルが空いてる。駅の東口から五分くらいだな。ここでいい?」
「うん」
「じゃあ取るぞ」
予約を済ませると、孝之はホテル名と出口を紙に書いた。
「グランドリーフホテル。東口。分かった?」
「分かった」
「ホテルの名前は?」
「グランドリーフ」
「出口は?」
「東」
「よし。これなら大丈夫だろ」
言った直後、自分でも不安になったのか孝之は京子を見る。
「大丈夫だよな?」
「うん」
「今の確認、何の意味もなかった気がしてきた」
そのとき孝之のスマートフォンが鳴った。仕事の連絡らしく、応答した孝之は何度か短く返事をしてから「分かりました。すぐ向かいます」と電話を切る。
「悪い。送っていけなくなった」
「大丈夫」
「ああ、お前がそう思ってるのは分かった。俺が心配してるのは本当にたどり着けるかどうかだ」
「たぶん」
「だろうな。さっきの紙は絶対なくすなよ。東口を出て、分からなくなったら人に聞け。自分の勘だけで歩くな」
「うん」
最寄り駅まで一緒に行き、改札の前で孝之と別れた。京子は電車に乗り、ホテルのある駅で降りる。改札を出たところで案内表示を見上げると、東口と西口の表示が別々の方向を指していた。
しばらく眺めたあと、京子は歩き出した。
◇ ◇ ◇
ホテル・セントアークのロビーは、普段より少し人が多かった。
大きなキャリーケースを引く宿泊客に混じって、黒いTシャツ姿で荷物を運んでいる人たちが何人かいる。ロビーの端には催し物の案内板も出ていたが、京子は特に気にすることなくフロントへ向かった。
「予約してる」
「いらっしゃいませ。お名前を頂戴してもよろしいでしょうか」
「西条京子」
「西条様ですね。少々お待ちくださいませ」
スタッフが端末を確認したが、しばらくして申し訳なさそうに顔を上げた。
「恐れ入ります。本日のご宿泊でお間違いございませんでしょうか」
「うん」
「ありがとうございます。申し訳ございませんが、西条京子様のお名前でご予約を確認できません。ご予約完了のメールなどはお持ちでしょうか」
「ない」
「ご予約された携帯電話はお持ちですか?」
「あるよ。切れてる」
「充電が切れているということでしょうか」
「うん」
「でしたら、こちらで充電器をお貸しできますが」
「電気ある?」
スタッフは一瞬だけ言葉に詰まった。
「はい。当館の電気設備は問題なく使用できます」
「よかった」
「ありがとうございます……。ちなみに、ご予約は西条様ご本人がされたのでしょうか」
「孝之」
「孝之様という方がご予約されたのですね。ご連絡することはできますか?」
「番号覚えてない」
「携帯電話に登録されているので、今は確認できないということですね」
「うん」
「ホテル名や住所を書いたものなどはお持ちではありませんか?」
「あるよ」
京子はバッグを開け、中身を探し始めた。財布や本、着替えをどかしても見つからず、もう一度底の方まで手を入れたところで、折り畳まれた紙が本の間から落ちた。
「あった」
「よろしければ確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「うん」
スタッフが紙を見る。
「西条様、こちらはグランドリーフホテル様ですね」
「うん」
「当館はホテル・セントアークでございます」
京子はフロントの背後にあるホテル名を見てから、もう一度紙を見た。
「違った」
「そのようですね」
「ごめんなさい」
「いえ、ご予約先が分かって何よりです。グランドリーフホテル様でしたら駅の反対側になりますので、地図をご用意いたします」
「ありがとう」
スタッフが地図を準備しているところへ、自動ドアから数人の警察官が入ってきた。フロントにいた別のスタッフがすぐに応対し、奥から責任者らしい男性も出てくる。
京子はそちらを見た。
警察官の一人が、同じように京子を見て足を止めた。
「……京子先輩?」
「史華」
「やっぱり京子先輩!」
西本史華は一瞬仕事を忘れたように笑った。
「お久しぶりです。卒業してから会ってないですよね? 先輩、全然変わってないですね。元気でした?」
「うん元気」
「ですよね。京子先輩に聞いたらそう答えますよね。私も元気です。聞かれてないですけど」
「よかった」
「ありがとうございます」
史華は制服の胸元を少し見せるようにして笑った。
「私、警察官になったんですよ」
「見れば分かるよ」
「ですよね。制服着てますもんね。でも一回ちゃんと言いたかったんです。学生の頃からずっと目指してたので」
「似合ってる」
「本当ですか? ありがとうございます」
「西本」
後ろから呼ばれて、史華が振り返る。
「はい。すみません」
年上の警察官が京子を見た。
「知り合いか?」
「はい。学生時代の先輩です」
「そうか。あとにしろ」
「はい」
仕事へ戻ろうとした史華を京子が呼び止めた。
「史華」
「はい?」
「仕事?」
「そうですよ。警察官ですから」
「ここで?」
「ああ、そういう意味ですね。はい。ホテルから連絡がありまして」
そこまで言ったところで、史華は自分で口を閉じた。
「すみません。詳しいことは言えないんです」
「うん」
「……そこは聞かないんですね」
「言えないんでしょ?」
「そうなんですけど、京子先輩って昔からそうでしたよね。気になるときと気にならないときの差がすごいというか」
「まだ気にならない」
「まだなんですか?」
史華が首を傾げる。そこへホテルの責任者が警察官たちへ近づいてきた。
「お待ちしておりました。こちらへお願いします」
彼らはフロント脇で短く話をしたあと、エレベーターへ向かった。ロビーを行き交う宿泊客の間を、先ほどから黒いTシャツ姿の人たちが大きなケースや段ボールを抱えて何度か通っている。責任者が彼らを避けながら警察官を案内していった。
京子はフロントスタッフから地図を受け取った。
「こちらが現在地です。グランドリーフホテル様は駅の反対側ですので、一度駅までお戻りになって東口へ出てください。迷われないよう、目印になる建物にも印をつけておきました」
「ありがとう」
「もし途中で分からなくなりましたら、無理に進まずお近くのお店などでお尋ねください」
「うん」
京子がバッグへ地図を入れようとしていると、史華が戻ってきた。
「京子先輩、まだいたんですか?」
「ホテル違った」
「ホテルが違った?」
「予約、別のホテルだった」
史華は少し考えてからフロントの名前を確認した。
「えっと……つまり、グランドリーフホテルを予約したのに、セントアークに来たんですか?」
「うん」
「どうして?」
「ホテルだったから?」
「いや、ホテルではありますけど。予約したホテルに行かないと泊まれませんよ」
「知ってるよ」
「知っててここに来たんですか?」
「間違えた」
「ああ……はい。そうですよね。それ以外ないですよね」
史華は納得したような、していないような顔をした。
「昔から方向音痴でしたけど、相変わらずなんですね」
「初めて」
「ホテルを間違えたのがですか?」
「うん」
「じゃあ悪化してるかどうかはまだ判断できないですね」
「そうなの?」
「たぶん私が真面目に考えることじゃないです」
史華が笑ったところで、エレベーターの方から先ほどの警察官が戻ってきた。
「西本、行くぞ」
「はい」
史華の表情がすぐに仕事のものへ戻る。
「じゃあ京子先輩、また今度。今度はちゃんと予約したホテルへ行ってくださいね」
「うん」
史華が向かおうとすると、ホテルの責任者が警察官へ声をかけた。
「ご家族にはこちらへ来ていただいています。客室には荷物が残ったままで、携帯電話も部屋にございます」
「分かりました。まずご家族から詳しくお話を伺います。防犯カメラについても、確認できる状態にしておいてください」
「はい」
京子の手が止まった。
「携帯置いてったの?」
史華が振り返る。
「先輩、聞こえてたんですか?」
「うん」
「今聞こえた範囲以上のことは話せませんよ」
「うん」
「……気になってきました?」
「ちょっと」
史華は苦笑する。
「ホテルに泊まってる人の所在が分からなくなってるんです。今言えるのはそれだけですからね」
「いなくなった?」
「それもまだ分かりません。部屋にいないことと、本人が消えたことは同じじゃないので。どこへ行ったのか、いつ出たのか、それをこれから確認するんです」
「そう」
「だから先輩は、まず自分のホテルに行ってください」
「うん」
「東口ですよ」
「分かってる」
「さっき西口に行ったからここにいるんですよね?」
京子は少し考えた。
「たぶん」
「そこは分かっててくださいよ」
「史華」
「はい?」
「その人、帰ってくるといいね」
史華は一瞬だけ目を丸くしてから、柔らかく笑った。
「はい。私もそう思います」
「じゃあね」
「はい。また」
京子はホテルを出た。今度はフロントでもらった地図を開き、赤い線を確かめながら駅へ向かう。
史華はその背中を見送ったあと、先輩警察官のもとへ戻った。
「知り合いなんだな」
「はい。学校の先輩です。すごく頭がいい人なんですけど、昔から日常生活の方がちょっと……」
「ちょっと?」
「説明すると長いです」
「じゃあ今はいい」
「はい」
エレベーターの扉が閉じる。
一方、京子は駅まで戻って案内表示の前に立っていた。
東口。
今度は間違えないよう、地図と表示を何度か見比べる。
その横を、黒いTシャツ姿の人たちが談笑しながら通り過ぎていった。京子はそちらを一度見ただけで、そのまま東口へ向かった。
この時点ではまだ、ホテルに残された携帯電話にも、ロビーを行き交う人々にも、それ以上の興味はなかった。
ただ、予約したホテルへ行かなければならない。
今の京子にとっては、その方がずっと難しい問題だった。
ご意見ご感想あればぜひぜひコメントしてください。一言でも構いません。励みになります。
私はいつでもMinority




