第78話 父親の選択
ウィルの右手が、勝手に日記へ伸びた。
「止まれ……!」
肩へ力を込める。
だが、右腕は自分のものではないように動き続けた。
黒い指先が、日記を覆う結晶へ触れようとする。
「ウィルさん!」
リディアが杖を振った。
「《凍結》!」
冷気が右腕を包み、肘から先が白い氷に覆われる。
動きが止まった。
わずかに。
次の瞬間、黒い結晶が脈打った。
氷に亀裂が走る。
「離れろ!」
ゲイルがウィルの身体を蹴り飛ばした。
ウィルは机から離れ、石床を転がった。
右手は日記へ向かおうとしたまま、床を掻いている。
「乱暴すぎます!」
「日記に触れるよりはましだ」
ゲイルは机とウィルの間に立ち、槍を構えた。
「右腕を押さえろ」
カイルが後ろからウィルの肩を掴む。
左腕で身体を抱え込み、動きを封じた。
「悪い、少し耐えてくれ」
「ああ」
ウィルは歯を食いしばった。
右腕だけが、なおも日記を求めて動いている。
黒い結晶は、すでに手首を越えようとしていた。
血管のような黒い筋が、腕の内側を這っている。
『触れろ』
頭の中で声が響いた。
『日記を閉じろ』
『その先を読むな』
「逆だ」
ウィルは声に答えた。
「そこまで隠したいなら、必ず読む」
赤い結晶の中で目を開けたエリナが、ウィルを見つめている。
赤く染まった瞳。
少女の顔には何の感情も浮かんでいない。
「読めば、あなたも願う」
「何をだ」
「大切な人を助ける力を」
「それの何が悪い」
「悪くない」
エリナの唇が、わずかに笑った。
「だから、人間は拒めない」
右腕に力が入る。
カイルの身体が引きずられた。
「この力……!」
負傷しているとはいえ、カイルは王国槍士団の一員だ。
その男が両腕で押さえても、ウィルの右腕を止められない。
「ウィル!」
「分かっている!」
ウィルは左手で自分の右手首を掴んだ。
黒い結晶が左の指先へ触れる。
鋭い痛みが走った。
それでも離さない。
「リディア、日記を読め」
「ですが、ウィルさんが!」
「俺は押さえる。今のうちだ」
リディアは迷った。
日記。
ウィルの右腕。
赤い結晶の中のエリナ。
それぞれへ視線を動かす。
「早くしろ」
ゲイルが言った。
「水晶が日記を隠そうとしている間に読め」
「……はい」
リディアは机へ近づいた。
黒い結晶へ直接触れないよう、杖の先をページの端へ差し込む。
ゆっくりと持ち上げた。
結晶が軋む。
ウィルの右腕にも痛みが走った。
「ぐっ……」
「止めますか?」
「続けろ」
ページがめくられる。
その下には、ヴァルガスの記録が残されていた。
リディアが声に出して読み始める。
◇
私は迷った。
一瞬だけ。
本当に、すべてを受け入れようと思った。
私が怪物になれば、エリナが助かる。
娘が生きられるのなら。
私一人が人間でなくなることなど、どうでもよかった。
水晶は、私の心を読んだ。
喜ぶように赤く輝いた。
私は、水晶へ答えた。
分かった。
お前の器になる。
私のすべてを渡す。
だから、エリナを解放しろ。
◇
リディアの声が止まった。
ウィルの右腕が、さらに強く日記を求める。
「ヴァルガスは、受け入れたのか」
カイルが息を呑む。
「ああ」
ウィルには、その選択を責められなかった。
エリナを救うため。
自分一人を差し出せばいい。
そう言われれば、自分も同じ選択をしたかもしれない。
「だから言った」
赤い結晶の中で、エリナが囁く。
「あなたも同じ願いをする」
「まだ続きがあります」
リディアが日記へ視線を戻した。
◇
だが、私は水晶を信じてはいなかった。
願いを口にした瞬間。
私は、セイルたちへ合図を送った。
予定どおり、私ごと封印しろ。
エリナが解放されても。
解放されなくても。
決して術式を止めるな。
それが、私たちが事前に決めていた最後の合図だった。
水晶の力が、私の全身へ流れ込んだ。
骨が砕けた。
肉が裂けた。
それでも、痛みはすぐに消えた。
私の身体は膨れ上がり。
腕は人間の形を失い。
皮膚は赤黒い結晶へ変わった。
私は、水晶の器になった。
同時に、七つの封印柱が起動した。
◇
「あの姿は、そのときに……」
カイルが呟く。
ウィルたちが戦った巨大な怪物。
あれは千年かけて変化した姿ではない。
ヴァルガスが水晶を受け入れた瞬間に生まれたものだった。
◇
水晶は怒った。
私の身体を使い、封印柱を壊そうとした。
私は自分の腕を止められなかった。
仲間たちへ襲いかかった。
セイルが魔法で私の脚を止めた。
ドルグが鎖を巻きつけた。
マリアは、最後まで私の名を呼び続けた。
リオンは封印術式から手を離さなかった。
六つの封印柱が繋がった。
だが、最後の一つだけが起動しなかった。
準備が終わっていなかった柱。
このままでは、水晶を封じられない。
そのとき。
エリナが立ち上がった。
◇
赤い結晶の中のエリナが、わずかに身じろぎした。
日記の内容に反応している。
「エリナが、最後の封印を?」
リディアが尋ねる。
答える者はいない。
彼女は続きを読んだ。
◇
エリナの瞳は赤かった。
水晶に操られているのだと思った。
だが、エリナは私を見て言った。
お父さん。
帰れなくて、ごめんなさい。
その言葉を、水晶は知らない。
私たちが二人だけで交わした約束だった。
あれは、エリナ自身の言葉だった。
娘は水晶の支配に抗っていた。
エリナは、起動していない七つ目の封印柱へ手を置いた。
リオンが叫んだ。
封印を完成させれば、水晶に触れているエリナも巻き込まれる。
私と共に、永遠に封じられる。
それでもエリナは手を離さなかった。
お父さんだけを、一人にしない。
そう言って。
最後の封印を起動した。
◇
リディアの声が震えた。
腕の中に抱いている赤い結晶を見る。
千年間眠り続けた少女。
エリナは水晶に捕らえられたのではなかった。
自分の意思で、父親と共に封印へ残った。
「だから、七つの印を使えたのか」
ウィルが言った。
エリナ自身が、最後の封印だった。
父親を閉じ込めるためではない。
父親と共に、水晶を封じるために。
「お父さんを止めないで」
先ほどエリナが口にした言葉。
意味が違っていた。
ヴァルガスを倒すなという意味ではない。
ヴァルガスが続けている封印を、止めるな。
「今の言葉は、エリナ本人のものだったのかもしれません」
リディアが言った。
「水晶が混ざっている可能性は残る」
ゲイルは警戒を解かなかった。
「どちらにしても、日記を最後まで読め」
リディアは頷いた。
◇
七つの封印が完成した。
水晶の力が、私の身体へ集まった。
牢獄全体が沈み。
私たちは、この地下へ封じられた。
最後に見えたのは。
赤い光の中で笑う、エリナの顔だった。
私は娘を救えなかった。
娘に守られた。
この封印は完全ではない。
エリナが七つ目の柱の代わりになっている。
娘が力を失えば、封印は崩れる。
その前に。
いつか、この場所へ辿り着く者がいるなら。
七つ目の封印柱を完成させてほしい。
そうすれば、エリナを水晶から解放できる。
◇
「解放できる……」
リディアの表情に、初めて希望が浮かんだ。
「七つ目の封印柱を直せば、エリナちゃんを助けられます」
「方法は書かれているのか」
ゲイルが尋ねる。
リディアはページの下へ視線を移す。
そこには術式の図と、必要なものが記されていた。
◇
七つ目の封印柱を完成させるには。
水晶の力を受けながら、支配されなかった者が必要になる。
水晶へ願い。
力を与えられ。
それでも、自らの意思で拒んだ者。
その者が封印柱へ触れれば。
水晶と封印の繋がりを、エリナから移すことができる。
◇
全員の視線が、ウィルへ集まった。
黒いウィルを拒み。
水晶の力を受け入れなかった者。
右手には、今も黒い結晶が残っている。
「俺が七つ目の封印柱に触れればいいのか」
「待ってください」
リディアが日記をさらに読む。
次の一文を見た瞬間、顔色が変わった。
「何だ」
ウィルが尋ねる。
リディアはすぐに答えなかった。
「読め」
ゲイルが命じる。
リディアは唇を噛み、最後の記録を読み上げた。
◇
ただし。
繋がりを移された者は、水晶の新たな封印となる。
エリナは解放される。
代わりに、その者がこの牢獄へ残らなければならない。
◇
小部屋に、沈黙が落ちた。
エリナを救うには。
誰かが代わりに、ここへ残る必要がある。
ウィルの右腕から力が抜けた。
黒い手は、もう日記へ伸びようとしていない。
まるで。
選択を突きつけることこそが、水晶の目的だったかのように。
赤い結晶の中で、エリナがウィルを見つめた。
「だから、読んではいけなかった」
少女の赤い瞳から、一筋の涙が流れた。
「あなたは、私を助けようとするから」




