第77話 ヴァルガスの願い
私は、世界で最も強い力を願った。
日記に記された一文を、誰もすぐには受け止められなかった。
ウィルは右手を押さえたまま、ページを見つめる。
ヴァルガスは力を求めた。
だが、それは名誉のためでも、誰かに勝つためでもない。
娘を救うためだった。
「水晶は、最初からヴァルガスを狙っていたのか」
カイルが呟く。
「エリナを使えば、断れないと分かっていたのでしょう」
リディアが胸元の赤い結晶を見る。
中で眠るエリナは、何も答えない。
「続きを読め」
ゲイルが言った。
ウィルは頷く。
黒い結晶が広がったページへ直接触れないよう、リディアが杖の先で日記を押さえた。
ウィルは文字を追う。
◇
私は、水晶へ願った。
エリナを返せ。
娘を助けるための力を寄越せ。
水晶は、すぐに答えた。
私の右腕へ赤い光が入り込んだ。
骨が軋み。
血が沸騰し。
全身が内側から引き裂かれるようだった。
だが、痛みは一瞬で消えた。
代わりに、これまで感じたことのない力が身体へ満ちていた。
剣を握れば、鋼を斬れる。
地面を踏めば、石床が砕ける。
魔力を込めれば、炎も雷も退けられる。
私は強くなった。
あまりにも簡単に。
長年積み重ねてきた鍛錬が、無意味に思えるほどに。
水晶は私へ言った。
もっと願え。
まだ娘を救えるほどではない。
私は、さらに強い力を願った。
◇
「一度ではなかったのか」
カイルの声が低くなる。
「願わせ続けた」
ウィルは答えた。
一つ叶えば、次の願いが生まれる。
ヴァルガスも同じだった。
ただし、本人の欲望を育てただけではない。
エリナの命を使い、願わなければならない状況を作った。
「卑怯ですね」
リディアが唇を噛む。
「水晶に卑怯も何もない」
ゲイルが言う。
「目的のために、最も効果的な手段を選んだだけだ」
「だから許されるわけではありません」
「許す必要もない。壊すか、封じるだけだ」
冷たい言葉だった。
だが、ゲイルの表情には僅かな怒りが見えた。
ウィルは何も言わず、次の記録へ目を戻した。
◇
二度目の願いで、私の左腕にも力が宿った。
三度目で、魔力が増えた。
四度目で、傷が塞がるようになった。
五度目で、私は眠る必要がなくなった。
水晶は、願うたびにエリナの姿を見せた。
赤い光の中で苦しむ娘。
助けを求める声。
私は止まれなかった。
だが、マリアが異変に気づいた。
私の傷を治そうとした彼女は、治癒魔法が弾かれるのを見た。
水晶の力は、私の身体を治しているのではなかった。
壊れた部分を、水晶へ置き換えていた。
腕も。
血も。
心臓さえも。
私は、少しずつ人間ではなくなっていた。
◇
ウィルは、自分の右手を見る。
黒い結晶は、手首の近くまで広がっている。
傷を治したわけではない。
置き換えている。
その言葉が、重く残った。
「ウィルさん……」
「大丈夫だ」
「大丈夫には見えません」
リディアが杖を握ったまま、ウィルの右手を見つめる。
「これ以上、日記へ近づかない方がいいです」
「まだ読める」
「ですが」
「この手がどうなるのかも、日記に書かれているかもしれない」
リディアは言葉を失った。
止めたい。
だが、ここで読むのをやめれば、侵食を止める方法を見逃す可能性がある。
その迷いが表情に出ていた。
「俺が読む」
ゲイルが手を伸ばす。
ウィルは日記を押さえた。
「お前には聞こえない」
「だから都合がいい」
「文字が消されている場所は、俺にしか分からないかもしれない」
水晶の声。
黒い結晶の反応。
日記とウィルの右手は繋がっている。
ゲイルはしばらくウィルを睨んだ。
「異変があれば、すぐに離れろ」
「分かった」
「本当に分かっているのか」
「少なくとも、お前よりは」
「くだらん」
ゲイルは手を引いた。
やはり仲間ではない。
だが、止めようとしていることだけは分かった。
ウィルは続きを読んだ。
◇
セイルは、私を殺すべきだと言った。
ドルグは反対した。
マリアは、まだ戻せると主張した。
リオンは沈黙した。
私は、彼らの話を部屋の外から聞いていた。
誰も間違ってはいない。
私の身体は、すでに水晶の一部になり始めていた。
私が完全に取り込まれれば。
水晶は、私の身体を使って牢獄の封印を破る。
そして、王都へ戻る。
エリナも助からない。
私は仲間たちへ、自分を封印に利用してほしいと頼んだ。
水晶が私を器として選ぶなら。
私ごと閉じ込めればいい。
七つの封印柱の中心に私が立ち。
水晶の力を、この身体へ集める。
その状態で封印を完成させれば、水晶は私と共に地下へ閉じ込められる。
セイルは反対した。
マリアは泣いた。
ドルグは私を殴った。
リオンだけが、実行可能だと答えた。
成功する保証はなかった。
それでも、他に方法はなかった。
◇
「ヴァルガス自身が封印の核になったのか」
カイルが言う。
「だから、あの扉の向こうにいた」
ウィルは思い出す。
巨大な身体。
全身を覆う赤黒い結晶。
水晶に操られながらも、エリナの声へ反応していた。
あれは封印を破ろうとしていた怪物ではない。
封印そのものの一部だった。
「なら、俺たちは……」
カイルが言葉を止める。
自分たちはヴァルガスと戦った。
彼を倒し、扉の向こうへ押し戻した。
だが、もしヴァルガスが封印を守っていたのなら。
自分たちは、封印を弱めたことになる。
「まだ壊れてはいない」
ゲイルが言う。
「エリナが扉を閉じた」
「ですが、以前と同じ状態とは限りません」
リディアが答える。
「あのとき、封印柱の一部が砕けていました」
「ああ」
ウィルも見ていた。
七つのうち、いくつかは赤黒く変色していた。
水晶の侵食は、千年かけて封印へ広がっている。
「日記の先に、修復方法があるかもしれない」
ウィルはページをめくった。
黒い結晶がまた小さく砕ける。
右手に痛みが走ったが、今度は耐えた。
◇
封印を行う前夜。
エリナが戻ってきた。
自分の足で、私の部屋へ入ってきた。
赤い水晶から解放されたように見えた。
私は娘を抱きしめた。
エリナも私の背中へ腕を回した。
だが、身体が冷たかった。
生きている人間とは思えないほどに。
エリナは私へ言った。
お父さん、一緒に帰ろう。
もう誰も傷つかなくていい。
水晶は悪くない。
願いを叶えてくれただけ。
私は、エリナの言葉ではないと分かっていた。
それでも、声は娘のものだった。
顔も。
手の温かさを失った身体も。
すべて、私の娘だった。
私が少しでも迷えば。
封印を諦めると、水晶は考えたのだろう。
私はエリナへ尋ねた。
母さんが最後に作った料理を覚えているか。
エリナは答えられなかった。
水晶は、エリナの心を覗ける。
だが、すべてを知っているわけではない。
思い出の意味までは理解できない。
私は剣を抜いた。
エリナの身体を傷つけるためではない。
娘を操っている水晶を追い出すために。
だが、剣を向けた瞬間。
エリナが泣いた。
お父さん。
怖い。
その一言で、私は動けなくなった。
◇
日記の文字が、そこで途切れていた。
次の数行には、インクが滲んでいる。
水に濡れた跡ではない。
同じ場所へ何度も筆を置いたような黒い染み。
ヴァルガスが何を書こうとしたのかは分からない。
ウィルは息を吐く。
「斬れなかった」
「当然です」
リディアが静かに言った。
「本物かもしれない娘へ、剣を向けたのですから」
「その迷いも利用された」
ゲイルの言葉に、リディアが睨む。
「分かっています」
「なら、感情だけで判断するな」
「感情を捨てれば正しい判断ができるとでも?」
「少なくとも、敵に利用されにくくなる」
「ゲイル」
ウィルが止めた。
「今は争うな」
ゲイルは黙る。
リディアも視線を日記へ戻した。
水晶は、ヴァルガスの強さを求めた。
同時に、父親としての弱さを利用した。
それでも封印は実行された。
何があったのか。
ウィルは次のページをめくる。
◇
私は剣を下ろした。
その瞬間、水晶が私の身体を奪おうとした。
右腕が勝手に動いた。
剣が、セイルへ向けて振られた。
私は止められなかった。
セイルは魔法で剣を防いだ。
ドルグが私を床へ押さえつけた。
マリアがエリナを抱き上げた。
リオンが封印術式を起動した。
予定より早かった。
準備は終わっていなかった。
七つの封印柱のうち、一つは術式が不完全だった。
それでも、始めるしかなかった。
水晶は私の口を使って叫んだ。
封印を止めろ。
娘が死ぬ。
私は、自分の声で答えた。
エリナを離せ。
水晶は笑った。
そして、初めて真実を教えた。
エリナは、もう水晶から離れられない。
娘を救う方法は一つだけ。
私が完全な器になり、水晶を受け入れること。
そうすれば、エリナだけは生かす。
私は迷った。
一瞬だけ。
本当に、すべてを受け入れようと思った。
◇
ページを読むウィルの声が止まる。
ウィルも、同じ問いを突きつけられたら。
大切な誰かを救うために、水晶を受け入れるかもしれない。
自分一人が怪物になるだけなら。
そう考えてしまう。
「ヴァルガスは、何を選んだ」
カイルが呟いた。
答えは次のページにある。
だが、そのページは半分以上が黒い結晶に覆われていた。
文字が読めない。
ウィルの右手が強く脈打つ。
『やめろ』
声が響く。
『その先を読むな』
黒い結晶が、指先から手首へさらに伸びた。
ウィルは歯を食いしばる。
「ウィルさん、もう限界です!」
リディアが日記から杖を離した。
「続きはあとだ」
ゲイルも言う。
「今読まなければ、結晶に全部覆われる」
「お前の腕まで覆われるぞ」
「それでも読む」
「馬鹿か」
「今さらだ」
ウィルは左手で剣を抜いた。
黒い結晶に覆われたページの端へ、刃先を差し込む。
「何をするつもりですか?」
「結晶だけ剥がす」
「日記まで切れます!」
「全部隠されるよりはいい」
慎重に刃を動かす。
黒い結晶が軋む。
同時に、右手へ焼けるような痛みが走った。
『やめろ!』
今度は、声が怒鳴った。
ウィルは止めない。
剣先を押し込む。
結晶に亀裂が入った。
その瞬間。
透明な赤い結晶の中で、エリナが目を開いた。
「ウィルさん!」
リディアが叫ぶ。
エリナの瞳は赤く光っていた。
眠っていた少女が、ゆっくりと顔を上げる。
口元が動く。
「その日記を、閉じて」
少女の声だった。
だが、ウィルの右手から聞こえる声と重なっている。
「エリナなのか」
ウィルが尋ねる。
少女は答えない。
「それとも、水晶か」
赤い瞳が細められる。
そして、エリナは静かに言った。
「お父さんが選んだことを知れば、あなたも同じ願いをする」
ウィルの右手が、勝手に日記へ伸びた。




