第76話 封印を守る者
牢獄の奥から、鎖が引きちぎられる音が響いた。
一度ではない。
重い金属が石床を叩き、何かがこちらへ近づいてくる。
「全員、下がれ」
ゲイルが槍を構えた。
カイルも負傷した身体を押して立ち上がる。
リディアは、エリナが眠る透明な赤い結晶を胸元へ抱えた。
「お父さんを……止めないで……」
エリナはそれ以上、何も言わなかった。
瞼も開かない。
指先からも、すぐに力が抜けた。
「今のは、どういう意味だ」
カイルが牢獄の奥を見ながら尋ねる。
「分からない」
ウィルは剣を抜いた。
止めるな。
助けてほしいと願っていたエリナが、今度は父親を止めるなと言った。
言葉だけを受け取れば、矛盾している。
だが、エリナ本人の意思だったとは限らない。
水晶が彼女の口を使った可能性もある。
「来ます」
リディアが杖を向けた。
暗い通路の向こうから、人影が現れる。
全身を錆びた鎧で覆っていた。
頭部には兜。
顔は見えない。
両手首と両足首には、引きちぎられた鎖が残っている。
歩くたび、鎖の先が石床を削った。
「人間か?」
カイルが声を張る。
「王国槍士団だ。止まれ!」
人影は止まらない。
鎧の隙間から、黒い煙が漏れている。
右手には、刃の折れた長剣。
左手には、古びた円盾。
千年前の装備だ。
だが、鎧の内部に人間の肉体は見えなかった。
「生きてはいない」
ゲイルが槍の穂先を向ける。
「なら、何だ」
「封印に残された守護兵か。あるいは、水晶に動かされている死体だ」
鎧の人影が剣を持ち上げた。
空洞の兜の奥に、赤い光が灯る。
《封印守》
ウィルの視界へ名前が浮かんだ。
「来るぞ」
封印守が地面を蹴った。
見た目からは想像できない速さだった。
最初に狙ったのは、日記ではない。
リディアが抱える赤い結晶。
「させない!」
カイルが前へ出る。
剣と剣がぶつかった。
負傷したカイルの身体が押し戻される。
封印守の長剣は折れている。
それでも、振り下ろされた力は重い。
ゲイルの槍が横から伸びる。
穂先が鎧の脇腹へ突き刺さった。
金属がひしゃげる。
だが、封印守は止まらない。
身体を回転させ、円盾で槍を弾いた。
「中身がない」
ゲイルが距離を取る。
「鎧そのものが動いている」
封印守の胸部から、黒い煙が噴き出した。
煙は鎧の傷を覆い、曲がった金属を元へ戻していく。
「再生するのか」
黒いウィルと同じ。
水晶の力を持つ存在は、傷を塞ぐ。
「核を探す」
ウィルは《鑑定》を使った。
《封印守》
千年前の封印に使用された守護鎧。
内部に封印術式の核が存在します。
核を破壊すると活動を停止します。
核の位置までは表示されない。
封印守が再び動く。
今度はウィルへ剣を振り下ろした。
円盾で受ける。
腕へ重い衝撃が走った。
修理を重ねた盾が軋む。
黒く変化した右手が、わずかに熱を持った。
『壊せ』
声が聞こえる。
右手から。
いや。
水晶から。
『その鎧を壊せ』
力が流れ込もうとする。
剣を握る指が強くなる。
視界の端が赤く染まりかけた。
「ウィルさん!」
リディアの声で意識が戻る。
ウィルは奥歯を噛んだ。
「使わない」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
封印守の剣を盾で押し返す。
足を踏み込み、腹部へ剣を突き立てた。
刃は鎧の隙間を通る。
中には何もない。
黒い煙だけが渦巻いている。
「核が見えない!」
「なら、動きを止めろ」
ゲイルが叫ぶ。
槍が封印守の膝裏を打った。
金属の関節が砕ける。
封印守が片膝をつく。
「リディア!」
「《凍結》!」
床と鎧の脚が氷で繋がった。
封印守は無理やり立ち上がろうとする。
氷にひびが入る。
「長くはもちません!」
「十分だ」
ウィルは鎧の周囲を回った。
胸。
背中。
頭部。
どこにも核らしきものは見えない。
だが、封印守が動くたび、黒い煙が一箇所へ集まっている。
左胸。
鎧の奥で、赤い光が一瞬だけ瞬いた。
「左胸だ!」
ゲイルは迷わなかった。
槍を両手で握り、封印守の左胸へ突き出す。
穂先が鎧を貫く。
硬い音。
何かに当たった。
封印守の動きが止まる。
だが、核は砕けていない。
赤い光が強くなる。
黒い煙がゲイルの槍へ絡みついた。
「離れろ!」
ウィルが叫ぶ。
ゲイルが槍を引こうとする。
だが、抜けない。
封印守の左手が、槍の柄を掴んだ。
右手の折れた剣が持ち上がる。
カイルが横から斬りつけた。
「団長から離れろ!」
剣が封印守の腕へ当たる。
浅い。
止まらない。
ウィルは円盾を捨てた。
両手で剣を握る。
「ゲイル、そのまま押さえろ!」
「命令するな」
「じゃあ、勝手に動くな!」
封印守の剣が振り下ろされる。
ゲイルが身体をずらす。
刃は肩当てを掠め、鎧の表面を削った。
ウィルは槍の穂先へ向かって剣を振る。
ゲイルの槍は、核に当たっている。
その上から力を加えればいい。
「はあっ!」
剣の腹で、槍の石突を叩いた。
穂先がさらに深く入る。
赤い光に亀裂が走った。
封印守の身体が大きく震える。
「もう一度だ!」
「言われなくても分かる!」
ゲイルが槍を押し込む。
ウィルも剣で柄を叩く。
赤い核が砕けた。
乾いた音。
封印守の兜から、赤い光が消える。
黒い煙が鎧の隙間から抜けた。
鎧はその場へ崩れ落ちた。
石床に、古びた金属音が響く。
誰もすぐには動かなかった。
「終わった……?」
リディアが尋ねる。
「ああ」
ウィルは黒い煙が消えたことを確認した。
崩れた鎧の左胸には、小さな赤い破片が残っている。
水晶と同じ色。
だが、光は失われていた。
「なぜ襲ってきた」
カイルが息を整える。
「日記を守っていたのではないのでしょうか」
リディアが言う。
「違う」
ウィルは、封印守が最初に狙ったものを思い出す。
「エリナを狙った」
全員の視線が、透明な赤い結晶へ集まる。
エリナは眠ったまま。
先ほど声を出した形跡もない。
「この鎧が封印を守るために作られたのなら」
ゲイルが崩れた鎧を見下ろす。
「エリナを危険な存在として認識した可能性がある」
「エリナが?」
「正確には、その中に残る水晶の力だ」
ウィルは答えた。
エリナは千年間、水晶の中にいた。
力を使い果たしたあとも、赤い結晶の中で眠っている。
彼女自身と水晶の力を、封印守が区別できなかったのかもしれない。
「なら、さっきの言葉も水晶が言わせた可能性がある」
カイルが険しい顔をする。
「お父さんを止めないで、という言葉ですか」
リディアが結晶を強く抱いた。
「でも、エリナちゃんの声でした」
「声だけでは判断できん」
ゲイルが言う。
「水晶は死んだ母親の声さえ真似た」
日記に書かれていた。
エリナへ最初に話しかけた水晶は、亡くなった母親のような声を使った。
今度は、エリナ自身の声を使ったとしても不思議ではない。
「続きを読む」
ウィルは机へ向かった。
日記の次のページには、黒い結晶が広がっている。
先ほどよりも範囲が増えていた。
文字の一部が隠れている。
「待て」
ゲイルが止める。
「また声を聞くぞ」
「だから読む」
「侵食が進めば、日記どころではなくなる」
「この先に、水晶が隠したいことがある」
「お前の身体を差し出してまで知る必要はない」
「差し出すつもりはない」
ウィルは黒い右手を見た。
声は聞こえない。
だが、日記の結晶へ近づくほど、熱が強くなる。
水晶同士が引き合っている。
「直接触らなければいい」
リディアが荷物から布を取り出した。
厚手の治療用布。
それを何重にも折り、日記の端へかぶせる。
「これでページをめくれませんか?」
「危険だ」
ゲイルが言う。
「ウィルさんの手で触るよりは安全です」
「お前も触るな」
「では、杖を使います」
リディアは杖の先で布を押さえた。
ゆっくりとページを持ち上げる。
黒い結晶が軋んだ。
小さな破片が床へ落ちる。
その瞬間。
ウィルの右手へ激痛が走った。
「ぐっ……!」
膝をつく。
「ウィルさん!」
右手の黒い結晶が、手首へ向かってわずかに広がっていた。
ほんの指一本分。
だが、確実に侵食が進んでいる。
『読むな』
また声が聞こえた。
今度は一つではない。
何人もの声が重なっている。
『封印を解け』
『助けてくれ』
『力をやる』
『エリナを返せ』
頭の中へ、言葉が流れ込む。
男。
女。
老人。
子供。
千年間、水晶へ取り込まれた者たちの声。
その中に。
低く、掠れた声があった。
『娘に……触れるな……』
ヴァルガス。
ウィルは顔を上げた。
「今、ヴァルガスの声がした」
「何と言った」
ゲイルが尋ねる。
「娘に触れるな、と」
ヴァルガスの意識は残っている。
扉の向こうへ封じられた今も。
水晶の声に混ざりながら、エリナを守ろうとしている。
リディアが杖を動かす。
黒い結晶に覆われたページが、ゆっくりとめくられた。
その下に、新しい記録が現れる。
文字の大半は乱れている。
それでも、最初の数行は読めた。
◇
水晶は、エリナを器に選んだのではなかった。
私を従わせるために、娘を選んだ。
エリナの命と引き換えに。
水晶は、私へ一つの願いを要求した。
――私の力を求めろ。
◇
ウィルは言葉を失った。
ヴァルガスは、力を欲しがって水晶へ触れたのではない。
娘を救うために。
自分から、水晶の力を求めた。
ページの下には、さらに一文が続いている。
◇
私は水晶へ手を伸ばした。
あの日。
エリナを救うために。
私は、世界で最も強い力を願った。




