第75話 水晶の声
ウィルは、最後の一文から目を離せなかった。
『今日、エリナが水晶の声を聞いた』
文字は、それまで以上に乱れている。
紙へ強く押しつけられた跡が残り、最後の一文字だけがわずかに掠れていた。
「水晶は、離れた場所にいる人間へも話しかけられるのか」
カイルが呟く。
「エリナは千年間、水晶の中に閉じ込められていた」
リディアが眠る少女の入った透明な結晶を見る。
「最初から、エリナを狙っていたのかもしれません」
「続きを読め」
ゲイルが短く言った。
ウィルは次のページをめくる。
◇
エリナが水晶の声を聞いたと話したのは、夕食のときだった。
彼女は怯えていなかった。
むしろ、少し嬉しそうだった。
きれいな声だった。
お母さんのように優しい声だった。
そう言った。
エリナの母親は、彼女が幼い頃に亡くなっている。
水晶はそれを知っていた。
私が教えたわけではない。
誰かが話したとも考えにくい。
水晶は、エリナの心を覗いたのだ。
私はすぐに、水晶から何を言われたのか尋ねた。
エリナは答えなかった。
言ってはいけないと言われたから。
そう言って、口を閉ざした。
私は彼女を叱った。
水晶の声を二度と聞くな。
話しかけられても答えるな。
水晶のある部屋には絶対に近づくな。
強い口調で言った。
エリナは泣いた。
私は、娘を守るためだと思っていた。
だが、あのときの私は、水晶の思うままに動かされていたのかもしれない。
エリナを怯えさせ。
私から遠ざけ。
誰にも相談できないようにした。
水晶は、私たちの間に最初の亀裂を作った。
◇
「家族まで争わせるのか」
カイルの表情が険しくなる。
「争わせたというより、疑わせたんだろう」
ウィルは答える。
水晶は、直接命令したわけではない。
願いを見せる。
不安を与える。
人間自身に選ばせる。
最後に残った結果だけを利用する。
「厄介ですね」
リディアが言った。
「何をしても、自分で決めたと思わされる」
「ああ」
ウィルも、黒い自分を思い出す。
あれは水晶が勝手に作った姿だった。
だが、元になった願いはウィルの中にあった。
もっと強くなりたい。
誰にも負けたくない。
自分の手ですべてを取り戻したい。
その願いまで、水晶に作られたものではない。
「人間の弱いところを使う」
ゲイルが言った。
「だから、力だけでは防げん」
ウィルは右手を握った。
黒い結晶は、何も答えなかった。
◇
その夜、私は仲間たちを集めた。
魔法使いのセイル。
治療師のマリア。
鍛冶師のドルグ。
術式研究者のリオン。
四人には、エリナが水晶の声を聞いたことを伝えた。
セイルは、すぐにエリナを王都から離すべきだと言った。
マリアは、水晶の声を聞いた者を一人にしてはならないと主張した。
ドルグは、水晶そのものを壊そうとした。
リオンだけは、何も言わなかった。
長い沈黙のあと。
彼は、水晶を破壊することはできないと言った。
正確には。
今の状態で水晶を壊せば、内部に蓄えられた力が一度に放出される。
王都の半分が消える可能性がある。
私は、信じられなかった。
人間の両腕で抱えられるほどの水晶が、王都を破壊する。
だが、リオンは冗談を言う男ではない。
水晶を壊せないなら、封じるしかない。
誰にも触れられず。
声も届かず。
人間の願いを感じ取ることのできない場所へ。
私たちは、古代の牢獄を利用することにした。
この場所は、かつて魔力を持つ罪人を閉じ込めるために作られた。
壁には魔力を遮断する術式が残っている。
牢獄のさらに奥には、七つの封印柱があった。
七つの印を繋げれば、水晶の力を地下深くへ閉じ込められる。
完全ではない。
だが、他に方法はなかった。
◇
「七つの印……」
リディアが顔を上げる。
「エリナが使ったものと同じです」
「ああ」
ヴァルガスを封じたとき。
エリナは七つの印を繋ぎ、黒い扉を閉じた。
千年前に使われた封印を、エリナは知っていた。
「父親たちが使った術式を覚えていたのか」
カイルが言う。
「千年間、水晶の中にいた」
ゲイルは日記を見たまま答えた。
「その間に、封印の構造を理解した可能性もある」
「それだけではないかもしれない」
ウィルが言う。
「何だ」
「ヴァルガスが教えたのかもしれない」
水晶に取り込まれたあとも、ヴァルガスの意識は残っていた。
父親としての意識が完全に消えていなかったのなら。
エリナへ、封印の方法を伝えようとしていた可能性もある。
「今は断定できん」
ゲイルが言う。
「ああ」
それでも、ヴァルガスとエリナの間には、千年間ずっと何かが残っていた。
ウィルはそう思った。
ページをめくる。
次の記録には、日付が書かれていない。
最初の一行から、文字が大きく乱れていた。
◇
エリナが消えた。
朝、彼女の部屋へ行ったとき。
窓は閉じられていた。
扉にも鍵がかかっていた。
争った跡はない。
眠っていたはずのエリナだけが、いなくなっていた。
枕元には、赤い欠片が落ちていた。
水晶と同じ色だった。
私は水晶の保管室へ走った。
警備兵は、誰もエリナを見ていないと言った。
だが、扉の鍵は開いていた。
保管室の中で、水晶が赤く輝いていた。
その光の中に、エリナが立っていた。
目を閉じたまま。
両手を水晶へ伸ばしていた。
私は彼女の名を呼んだ。
エリナは目を開いた。
そして。
私ではない誰かの声で言った。
「やっと来た」
◇
リディアの肩が震えた。
「水晶が、エリナの身体を使って……」
「まだ取り込まれる前だ」
ゲイルが言う。
「完全に身体を奪ったとは限らん」
ウィルは続きを読もうとした。
だが、次のページの端が黒く変色していた。
熱で焼けたような跡ではない。
黒い結晶が、紙の一部を覆っている。
「触るな」
ゲイルが止める。
ウィルは手を引いた。
黒い結晶は、ウィルの右手にあるものとよく似ていた。
静かだったはずの右手が、わずかに熱を持つ。
『読むな』
声が聞こえた。
小さい。
だが、はっきりと。
ウィルは黒い右手を押さえた。
「どうしました?」
リディアが近づく。
「声が聞こえた」
ゲイルの目が細くなる。
「何と言った」
「読むな、と」
小部屋に沈黙が落ちた。
日記を覆う黒い結晶。
ウィルの右手に残った侵食。
どちらも、同じ水晶から生まれたものだ。
「水晶は、この先を知られたくないらしい」
ウィルは日記を見つめた。
「なら、読む価値がある」
ゲイルが槍を構える。
「だが、今すぐ触るな。結晶を調べる」
「時間をかけている間に、また何か起きるかもしれない」
「だからといって、お前の手をさらに侵食させる必要はない」
「珍しく止めるんだな」
「お前が使い物にならなくなれば、ここから出る手間が増える」
「そうか」
やはり、仲間ではない。
だが、ゲイルの判断は正しかった。
ウィルは日記から手を離す。
そのとき。
透明な赤い結晶の中で眠っていたエリナの指が、わずかに動いた。
「エリナ?」
リディアが結晶を抱き上げる。
少女の目は閉じたまま。
だが、その唇がゆっくりと動いた。
「お父さんを……止めないで……」
かすかな声だった。
次の瞬間。
牢獄の奥から、何かが鎖を引きちぎる音が響いた。




