第74話 ヴァルガスの日記①
牢獄の奥。
石造りの小部屋には、古びた机と椅子だけが残されていた。
机の上には、一冊の日記が置かれている。
革の表紙は色あせていたが、千年もの時が流れたとは思えないほど状態がいい。
ウィルは静かに日記を開いた。
最初のページには、一文だけが記されていた。
『もし、この本を読んでいるなら。
私は封印に失敗したのだろう。
――ヴァルガス』
小部屋に静寂が落ちる。
「……本人が書いたものなのでしょうか」
カイルが、日記を覗き込みながら尋ねた。
「分からん」
ゲイルが短く答える。
「だが、ここまで保存された状態で残されている。誰かに発見されることを想定していた可能性は高い」
ウィルは日記の端へ触れた。
「続きを読む」
次のページをめくる。
◇
私の名はヴァルガス。
この記録は、いつかここへ辿り着く者のために残す。
私は学者ではない。
英雄でもない。
ただ、一人の騎士であり、一人の娘を持つ父親だった。
もし、この先を読む者がいるなら。
一つだけ、必ず覚えていてほしい。
赤い水晶へ、決して願いを口にしてはならない。
◇
「願いを……?」
リディアが顔を上げた。
ウィルは、自分の右手を見る。
皮膚の一部を覆う黒い結晶は、今は静かなままだ。
声も聞こえない。
だが、あの言葉を忘れたわけではない。
『次は、お前の身体をもらう』
ウィルは視線を日記へ戻した。
◇
赤い水晶が発見されたとき、誰もそれを恐れてはいなかった。
人々は、水晶を奇跡と呼んだ。
折れた骨は元に戻った。
治療師にも治せなかった病が消えた。
失われた魔力を取り戻した者もいた。
剣士は、以前よりも速く剣を振れるようになった。
魔法使いは、自分の力では届かなかったはずの魔法を使えるようになった。
水晶は、人々が求めたものを与えた。
国中が歓喜した。
神が人間を救うために残した遺物。
誰もがそう信じた。
私も、その一人だった。
◇
「治癒魔法でも治せない傷まで……」
リディアが呟いた。
「そんなものを見せられれば、疑う方が難しいでしょうね」
カイルが苦い表情を浮かべる。
ウィルにも理解できた。
治らない傷が治る。
失った力が戻る。
弱かった者が強くなれる。
そんな光景を目の前で見れば、水晶を危険なものだとは思わない。
「力を与えること自体は事実だ」
ゲイルが言った。
「あの兵士たちも、水晶へ取り込まれる前より強くなっていた」
「ああ」
水晶は、嘘だけを見せるわけではない。
本当に願いを叶える。
だからこそ、人は手を伸ばしてしまう。
ウィルは次の記録を読み進めた。
◇
異変は、とても小さなものだった。
水晶に救われた者たちは、しばらくすると再び水晶を求めるようになった。
もう少しだけ強くなりたい。
もう少しだけ。
皆、同じことを口にした。
傷を治した兵士は、次に優れた剣技を望んだ。
魔力を取り戻した魔法使いは、さらに多くの魔力を求めた。
老いによって弱った身体を癒された者は、若さを望んだ。
一つの願いが叶えば、次の願いが生まれる。
そして、その願いにも終わりはなかった。
私は、最初は人間の欲が原因だと思った。
奇跡を目にして、欲深くなっただけなのだと。
だが、違った。
水晶は、人間の欲を育てていた。
◇
ウィルの指が止まる。
「欲を育てる……」
「力を与える代わりに、もっと欲しがるようにするということですか?」
リディアが尋ねた。
「そう読める」
ゲイルが答える。
ウィルの脳裏に、黒いウィルの姿が浮かんだ。
本物の自分よりも強く、迷いなく剣を振るう存在。
ウィルが、なりたいと望んでいた姿。
消える直前、黒いウィルは呟いた。
『もっと……強ければ……』
あれも、水晶がウィルの中から見つけ出した願いだった。
「黒い俺も、同じだったのかもしれない」
「何がですか?」
「俺が欲しかった強さを見せた」
水晶が作り出した強い自分。
それを受け入れれば、さらに力を与えられたのかもしれない。
代わりに何を失うのかも知らずに。
「お前は拒んだ」
ゲイルが言う。
「一人では勝てなかったがな」
「俺もだ」
ゲイルは、それ以上何も言わなかった。
ウィルも続けなかった。
考え方は違う。
互いに信頼しているわけでもない。
それでも、あの黒いウィルには二人でなければ勝てなかった。
ウィルは再び日記へ目を落とした。
◇
やがて、水晶を使用した者同士が争い始めた。
誰が一番強いのか。
誰が水晶に選ばれた者なのか。
昨日まで笑い合っていた仲間が、互いへ剣を向けた。
兄弟が争い。
友が友を疑った。
争いに勝った者へ、水晶はさらに大きな力を与えた。
敗れた者は、以前より強く水晶を求めた。
そのとき、私はようやく理解した。
水晶は、願いを叶えているのではない。
願いを餌に、人間を育てている。
多くの者へ力を与え。
互いに争わせ。
最後まで勝ち残った者を、自らの器として選ぶために。
◇
誰も言葉を発しなかった。
ヴァルガスは、この時点ですでに水晶の目的へ気づいていた。
だから水晶を封じようとした。
だが、封印は失敗した。
ヴァルガス自身が水晶へ取り込まれ、あの巨大な怪物へ変わった。
「ヴァルガスが、最後の器として選ばれたのでしょうか」
カイルが尋ねる。
「この記録だけでは断定できん」
ゲイルが答えた。
「だが、奴が強い人間だったことは間違いない」
ウィルは日記をめくる。
そこから先は、文字が少しずつ乱れていた。
それまでの冷静な記録とは違う。
文字が傾き、何度もペンを止めた跡が残っている。
ヴァルガスが追い詰められていたことが、筆跡だけでも分かった。
ページの途中に、一つの名前が記されていた。
エリナ。
ウィルは、その名を見た瞬間に息を止めた。
透明な赤い結晶の中で眠っている少女。
父親を助けてほしいと願った、ヴァルガスの娘。
続く記録は短かった。
◇
エリナには、水晶について何も話していない。
まだ十歳の娘を、これ以上巻き込みたくなかった。
すべてが終われば帰ると約束した。
エリナは笑い、土産を忘れないでと言った。
私は必ず買って帰ると答えた。
水晶を封じれば、それですべてが終わる。
そう思っていた。
今日まで、エリナだけは水晶に興味を示さなかった。
それだけが、私に残された救いだった。
だが、間に合わなかった。
今日、エリナが水晶の声を聞いた。




