第73話 閉ざされた最下層
扉が閉じてから、一時間後。
王国槍士団は負傷者の搬送を終え、最下層の広間には静けさが戻っていた。
赤い水晶は布で覆われ、四方を結界具で囲まれている。
誰も近づこうとはしなかった。
「副団長」
カイルが報告書を手に歩いてくる。
「生存者は二十三名。戦死者は七名です」
「……そうか」
ゲイルは短く答えた。
表情は変わらない。
だが、その視線は亡くなった兵士たちへ向いていた。
「遺体はすべて回収しました」
「魔物化した者は」
「……回収できませんでした」
「記録だけ残せ」
「はい」
カイルは敬礼すると離れていく。
その背中を見送り、ゲイルは小さく息を吐いた。
「珍しいな」
ウィルが隣へ来る。
「ため息なんて」
「疲れただけだ」
「そういうことにしておく」
ゲイルは返事をしなかった。
代わりに右腕を見る。
黒い結晶は肘から先だけ残っている。
先ほどより色は薄い。
指も問題なく動く。
痛みもない。
だが、人間の腕ではない。
「動くのか」
ウィルが尋ねる。
「ああ」
「強くなった感じは?」
「ない」
「本当に?」
「試してみるか」
ゲイルが槍を持ち上げる。
軽く一振り。
雷が走る。
いつも通り。
以前より弱くも強くもない。
「変わらないな」
「そうだ」
ゲイルは黒い腕を見つめる。
「傷跡が残っただけだ」
「よかった」
「何がだ」
「力に飲まれたわけじゃない」
「安心するのは早い」
ゲイルはウィルの右手を見る。
こちらにも黒い結晶が残っている。
「お前はどうだ」
ウィルは拳を握る。
違和感はある。
だが痛みはない。
声も聞こえない。
「静かだ」
「なら忘れろ」
「忘れられるか」
「忘れられないなら、使わなければいい」
ウィルは苦笑した。
「珍しく意見が合ったな」
「勘違いするな」
ゲイルは視線を逸らす。
「俺は、その力を信用していないだけだ」
「使えるものは使うって言ってたのに」
「あれは戦場だ」
「今は違う?」
「今は調べる時間がある」
ウィルは少し驚いた。
ゲイルは力を否定しているわけではない。
ただ、**正体が分からないものを使わない**と言っている。
それは彼らしい判断だった。
「調査か」
「ああ」
「俺も付き合う」
「断る」
「何でだ」
「民間人だからだ」
「戦ったじゃないか」
「それとこれとは別だ」
「融通が利かないな」
「規則だ」
そのとき。
リディアが駆け寄ってきた。
「二人とも!」
「どうした」
「水晶!」
二人は同時に振り返る。
布を被せていた赤い水晶が、淡く光っていた。
兵士たちもざわつく。
「下がれ!」
ゲイルが命じる。
全員が武器を構えた。
しかし、水晶から現れたのは魔物ではない。
小さな光だった。
蛍のような光が一つ。
二つ。
三つ。
ゆっくりと天井へ昇っていく。
「これは……」
リディアが手を伸ばく。
光は逃げない。
指先へ触れた瞬間、小さく弾けた。
「ありがとう」
誰かの声。
女性だった。
「聞こえたか」
ウィルが尋ねる。
「うん」
また一つ。
別の光が昇る。
「家族に会えた」
老人の声。
そして次々に。
「ありがとう」
「やっと眠れる」
「帰れる」
光は天井へ吸い込まれるように消えていく。
誰一人、苦しそうな声はなかった。
兵士たちは静かに見送る。
「成仏……したのか」
カイルが呟く。
「分からん」
ゲイルも空を見上げる。
「だが、悪いものではなさそうだ」
最後の光が消える。
赤い水晶の輝きも弱くなった。
部屋が静寂に包まれる。
「エリナ」
ウィルは水晶へ近づく。
返事はない。
小さな結晶の中で眠る少女は、そのままだった。
「まだ起きないか」
「無理させたんだから」
リディアが小さく笑う。
「ゆっくり寝かせてあげよう」
「ああ」
ウィルは頷いた。
そのとき、広間の奥から足音が響く。
「副団長!」
一人の兵士が走ってきた。
「どうした」
「最下層のさらに奥で通路を見つけました!」
「さらに奥?」
「はい。壁が崩れまして」
ゲイルの眉が動く。
「行くぞ」
「今から?」
「確認だけだ」
ウィルも立ち上がる。
「俺も行く」
「断る」
「またそれか」
「民間人だ」
「じゃあ依頼として受ける」
「……好きにしろ」
リディアが吹き出した。
「結局認めてるじゃない」
「認めていない」
「はいはい」
三人は兵士の案内で奥へ進む。
崩れた壁の先。
そこには細い通路が続いていた。
人工的に削られた石の道。
壁には古代文字が刻まれている。
「研究施設?」
ウィルが呟く。
「いや」
ゲイルは首を振る。
「牢獄だ」
鉄格子。
小部屋。
鎖。
何十もの独房が並んでいる。
そのすべてが空だった。
「ここに誰かを閉じ込めていたのか」
リディアが辺りを見回す。
一番奥だけ扉が閉まっている。
ゲイルが押す。
ギィ……
古い音を立てて開いた。
部屋の中央。
机が一つ。
その上には分厚い本が置かれていた。
表紙には赤い水晶と同じ紋章。
誰も触れていない。
埃だけが積もっている。
「日記か」
ウィルが近づく。
本を開く。
最初のページには一行だけ書かれていた。
**『もし、この本を読んでいるなら。私は封印に失敗したのだろう』**
三人は顔を見合わせた。
文章の最後。
署名には、はっきりと名前が記されていた。
**――ヴァルガス。**




