第71話 水晶の中の娘
『お父さんを、殺さないで』
赤い水晶の中から、少女の声が聞こえた。
ウィルは足を止めた。
「どうしたの?」
隣で水晶を抱えていたリディアが尋ねる。
「声がした」
「ヴァルガスの?」
「違う」
ウィルは水晶の奥を見つめる。
赤い光の中。
小さな人影が浮かんでいた。
十歳ほどに見える少女。
長い髪。
薄い服。
両手を胸の前で組み、こちらを見上げている。
『お願い』
少女の唇が動く。
『お父さんは、悪い人じゃないの』
「誰のことだ」
『ヴァルガス』
ウィルは背後を振り返る。
階段の下から、雷鳴と爆発音が響いている。
ゲイルとヴァルガスの戦いは続いている。
「悪い人じゃない?」
リディアが怪訝な顔をする。
「何人も魔物に変えた奴だよ」
『違うの』
「何が違う」
ウィルが問いかける。
『お父さんは、止めようとしていたの』
「何を」
『この水晶を』
赤い光が一瞬強くなる。
少女の姿が揺らいだ。
『早く、ここから離して』
「今、運んでいる」
『もっと遠くへ』
「どこまでだ」
『鎖の届かないところまで』
ウィルは水晶の下を見る。
床を這う黒い線。
先ほどから赤い水晶を追い、階段を登ってきている。
黒い線は少しずつ距離を縮めていた。
「追いつかれる」
リディアが言う。
「急ごう」
二人は再び階段を上がる。
水晶は重い。
持ち上げているだけで腕が痺れる。
しかも、先ほどより重くなっているように感じた。
「これ、本当に同じ重さ?」
「俺もそう思っていた」
「下から引かれてるのかも」
黒い線が水晶と繋がろうとしている。
ウィルは歩調を速めた。
『お父さんは、水晶を作っていない』
少女の声が続く。
「それは本人から聞いた」
『守っていたの』
「何から」
『人間から』
ヴァルガスと同じ答え。
「だが、今は人間を器にしようとしている」
『それは、お父さんじゃない』
ウィルは眉を寄せた。
「どういう意味だ」
『水晶の中にいるものが、お父さんの言葉を使っている』
「水晶の中にいるもの?」
『私たちは、閉じ込められたの』
「私たち?」
少女の姿の後ろ。
赤い光の奥に、いくつもの影が浮かんだ。
人。
何十人。
いや、もっと多い。
男。
女。
老人。
子供。
水晶の内部に、無数の人影が折り重なっている。
「これは……」
リディアの声が震える。
「全員、人間なの?」
『昔、この力へ触れた人たち』
「先遣隊もいるのか」
『まだ、ここには来ていない』
「まだ?」
『身体を失うと、最後にここへ来る』
ウィルは足を止めかけた。
第67話で倒れた五人。
魔物になりながら、最後まで人の言葉を話していた兵士たち。
彼らも、いずれこの水晶に取り込まれる。
「助けられるのか」
『分からない』
「分からない?」
『私はずっと、ここにいるから』
「どれくらいだ」
少女は答えなかった。
顔を伏せる。
『お父さんが封じられてから、ずっと』
「千年か」
リディアが呟く。
少女は小さく頷いた。
十歳ほどの姿のまま。
千年。
水晶の中へ閉じ込められている。
「お前の名前は」
『エリナ』
「エリナ。ヴァルガスは本当にお前の父親なのか」
『うん』
「では、あいつの身体は何だ」
『お父さんの身体』
「声だけが別のものに使われている?」
『違う』
エリナは首を振った。
『お父さんも、まだ中にいる』
「なら、外で戦っているのは誰だ」
『水晶に飲まれた、お父さん』
分かりにくい。
ヴァルガスの意識は残っている。
だが、水晶の力に支配されている。
先遣隊と同じなのかもしれない。
違うのは、力に耐えられるだけの器があったこと。
肉体も理性も完全には失わず、千年間生き続けている。
「止める方法は」
『胸の核を壊して』
「そうすればヴァルガスは死ぬ」
『身体は死ぬ』
「意識は」
『水晶へ戻る』
「お前と同じように?」
『うん』
リディアが表情を曇らせた。
「それは助けることになるの?」
『分からない』
また同じ答え。
エリナは千年間ここにいる。
だが、外のことは知らない。
水晶の仕組みも、すべて理解しているわけではない。
「水晶を壊したら、どうなる」
『みんな消える』
「解放されるのではなく?」
『分からない』
「本当に分からないことばかりだな」
リディアが責めるような口調になりかける。
ウィルは止めた。
「仕方ない」
「でも……」
「この子も閉じ込められている」
エリナが申し訳なさそうに顔を伏せた。
『ごめんなさい』
「謝る必要はない」
『お父さんが、みんなを傷つけた』
「お前がしたことではない」
『でも、私が呼んだの』
ウィルの足が止まる。
「何を」
『最初の人たちを』
「先遣隊を呼んだのか」
『違う』
エリナの声が小さくなる。
『もっと昔』
「いつだ」
『分からない』
「何のために呼んだ」
『助けてほしかったから』
水晶が弱く脈打つ。
『ずっと暗くて、誰も来なくて』
十歳の少女。
千年間。
誰にも気づかれず、水晶の中へ閉じ込められていた。
助けを求めても不思議ではない。
『でも、人が来るたびに、水晶がその人を食べた』
「食べた?」
『願いを聞いて、身体を変えて、最後にここへ連れてくる』
ウィルは赤い水晶を見る。
力を求める者へ力を与える。
その代わりに身体と意識を奪い、水晶の一部にする。
ヴァルガスが語っていたことは、完全な嘘ではなかった。
ただし、代償の本当の意味を隠していた。
「水晶自体に意思があるのか」
『ある』
「何を望んでいる」
『大きくなること』
単純な答えだった。
だからこそ不気味だった。
「人を取り込んで、力を増やしている」
『うん』
「ヴァルガスは、それを止めようとした」
『お父さんは、水晶を壊そうとした』
「失敗したのか」
『私を人質にされたの』
赤い光の中。
エリナの身体へ黒い線が絡みつく。
首。
腕。
脚。
それを見た瞬間、少女の姿が苦しそうに歪んだ。
『お父さんは、私を助けようとして水晶へ触れた』
「それで取り込まれた」
『うん』
「封印したのは誰だ」
『お父さんの仲間』
「仲間?」
『お父さんが完全に飲まれる前に、身体を鎖で封じたの』
「水晶ごと壊さなかったのは」
『私がいたから』
ヴァルガスの仲間たちは、水晶を壊せなかった。
中にエリナがいると知っていたから。
代わりにヴァルガスの身体を封印し、誰も近づけないよう扉を閉じた。
だが、完全ではなかった。
千年の間に水晶は少しずつ人を呼び寄せ、力を蓄えていた。
「黒い扉を開けたのは、俺たちだ」
『うん』
「お前が呼んだのか」
エリナは迷ったあと、首を横に振った。
『今回は違う』
「では水晶が」
『うん』
赤い水晶が先遣隊を呼んだ。
力を求める者の心へ触れ、ここへ誘導した。
そしてウィルやゲイルまで呼び込んだ。
「最初から、ゲイルか俺を器にするつもりだった」
『強い人を待っていた』
「なぜ二人だった」
『どちらかが負けたら、その力も食べられるから』
黒いウィルとの戦い。
あれは選別だけではない。
ウィルとゲイルを争わせ、片方を弱らせるためのものだった。
共闘して倒したことで、水晶の考えどおりにはならなかった。
「全部、利用されていたのか」
リディアが悔しそうに言う。
「まだ終わっていない」
ウィルは階段の上を見る。
出口は近い。
広間まで戻れば、黒い線から離せるかもしれない。
だが。
背後から大きな爆発音が響いた。
階段全体が揺れる。
天井から石片が落ちた。
『お父さんが、壊れる』
エリナが叫ぶ。
『急いで!』
「何が起きている」
『水晶と離されたから、身体を保てないの』
「なら、核を壊さなくても死ぬのか」
『違う』
エリナの顔が青ざめる。
『水晶が戻るために、お父さんの身体を全部使う』
「どうなる」
『怪物になる』
階段の下。
ゲイルの怒声が響く。
「下がれ、カイル!」
続いて、何か巨大なものが壁へ叩きつけられる音。
ヴァルガスの咆哮。
先ほどまでの人間の声ではない。
獣とも魔物とも違う。
広間そのものが叫んでいるような音だった。
「ゲイルが危ない」
ウィルは水晶を床へ置こうとする。
「待って!」
リディアが止めた。
「戻るの?」
「ああ」
「この水晶はどうするの」
「ここで守ってくれ」
「一人で?」
「槍士団の兵士も来る」
「まだ来てない!」
階段の上には誰も見えない。
負傷者たちは先に地上へ戻った。
この辺りにはウィルとリディアしかいない。
『私を置いていかないで』
エリナの声が震える。
ウィルは水晶を見る。
戻ればゲイルを助けられるかもしれない。
だが、水晶をここへ置けば、黒い線に追いつかれる。
リディア一人で守らせれば危険だ。
「二人で運ぶ」
ウィルは再び水晶を持ち上げた。
「でもゲイルは」
「自分で残ると言った」
「本当に置いていくの?」
「今戻れば、水晶も一緒に戻すことになる」
ヴァルガスへ水晶を近づければ、完全に復活する。
ゲイルを助けるために戻り、さらに危険な怪物を生み出しては意味がない。
「まず水晶を離す」
ウィルは歯を食いしばる。
「それがゲイルを助ける一番の方法だ」
本当にそうか。
自信はない。
だが、今は決めるしかない。
ゲイルに言われた言葉が頭をよぎる。
お前は失敗を恐れて決断を遅らせている。
ウィルは前を向いた。
「行くぞ」
二人で階段を上がる。
背後で、再び雷鳴が響く。
先ほどより弱い。
「急いで!」
リディアが叫ぶ。
「ああ!」
出口まで残り十段。
八段。
六段。
水晶が急に重くなった。
二人の腕が下がる。
「引かれてる!」
黒い線が追いついた。
階段の下から伸びた線が、水晶の底へ絡みついている。
赤い光が強くなる。
『いや!』
エリナが叫ぶ。
『戻りたくない!』
「切るぞ!」
ウィルは片手を離し、リディアの短剣を抜いた。
「持てる?」
「やるしかない!」
リディアが一人で水晶を支える。
膝が沈む。
ウィルは黒い線へ短剣を振り下ろした。
硬い。
刃が弾かれる。
「もう一度!」
同じ場所を狙う。
小さな亀裂。
さらに振るう。
黒い線が裂けた。
中から赤い液体が噴き出す。
ウィルの手へかかる。
「ウィル!」
「触るな!」
皮膚が熱い。
赤い線が手首へ伸び始める。
頭の中へ声が響いた。
戻せ。
水晶を戻せ。
力を与える。
すべてを奪い返せる。
「黙れ」
ウィルは短剣を握り直す。
黒い線を完全に切断した。
水晶が軽くなる。
「今だ!」
二人で残りの階段を駆け上がる。
広間へ出る。
赤い水晶の光が一気に弱まった。
床の黒い線は、階段の途中で止まる。
『離れた……』
エリナが安堵の息を漏らす。
だが、ウィルの右手には赤い線が残っていた。
手首。
腕。
少しずつ上へ伸びている。
「ウィル、手が……」
「まだ動く」
「さっきの薬を作って!」
「水晶に近づける」
空の容器を取り出す。
水晶へ触れさせる。
金色の文字が光った。
だが、液体は出ない。
「どうして」
『力が足りない』
エリナが言う。
「何が必要だ」
『お父さんの核』
「核?」
『水晶と核が揃わないと、止める薬は作れない』
ウィルは階段の下を見る。
核はヴァルガスの胸にある。
ゲイルとカイルが戦っている場所。
「結局、戻るしかないのか」
リディアが短剣を構える。
「今度は水晶を置いていける」
ウィルは水晶を広間の中央へ置いた。
『待って』
エリナが呼び止める。
「何だ」
『お父さんを殺さないで』
「核を取れば死ぬ」
『でも、水晶へ戻れる』
「戻ったあと、どうなる」
『分からない』
また、その答え。
ウィルは水晶の前へ膝をつく。
「約束はできない」
エリナの顔が歪む。
「俺はゲイルとカイルを助ける」
『お父さんも助けて』
「できる限りはやる」
『本当に?』
「ああ」
助けられる保証はない。
ヴァルガスが完全に怪物になっていれば、倒すしかないかもしれない。
それでも。
「最初から殺すつもりでは行かない」
エリナは小さく頷いた。
『お願い』
ウィルは立ち上がる。
「リディアはここに残れ」
「嫌」
「水晶を守る者が必要だ」
「一人で戻る方が危険でしょ」
「俺の手も変化している」
「だから一人にできない」
「ここへ敵が来たらどうする」
「水晶を持って逃げる」
「重いぞ」
「さっき一人で持った」
「数歩だけだ」
「それでも持てた」
リディアは譲らない。
ウィルも言い返そうとした。
そのとき、階段の下から足音が聞こえた。
重い。
一歩ごとに、石が砕ける。
「来る」
ウィルは短剣を構える。
黒い影が階段を上ってくる。
人間より大きい。
右腕は巨大な結晶に覆われている。
左肩から黒い角。
胸には赤い線。
だが。
顔はゲイルだった。
「ゲイル!」
リディアが叫ぶ。
ゲイルは階段の途中で立ち止まった。
左手にはカイルを抱えている。
カイルは気を失っていた。
鎧は砕け、頭から血を流している。
「受け取れ」
ゲイルがカイルを投げるように差し出す。
ウィルが駆け寄り、身体を受け止めた。
「生きている」
「そうか」
「ヴァルガスは」
「来る」
ゲイルの声は掠れている。
右目は完全に赤い。
黒い結晶が顔の半分まで広がっていた。
「お前も、もう限界だ」
「見れば分かる」
「核は取れなかったのか」
「取る前に、鎖が全部外れた」
「何が来る」
ゲイルが階段の下を見る。
「ヴァルガスではない」
暗闇の奥。
無数の赤い目が開く。
「千年間、水晶に食われた人間すべてだ」
階段を埋め尽くすほどの足音。
人の声。
魔物の唸り。
泣き声。
笑い声。
何百もの声が重なり、こちらへ近づいてくる。
「水晶を持って逃げろ」
ゲイルが槍を構えた。
「お前はどうする」
「ここで止める」
「その身体では無理だ」
「お前よりは使える」
「また一人で残るつもりか」
「今度は命令ではない」
ゲイルの黒い右腕へ雷が集まる。
「さっさと行け」
ウィルは動かなかった。
水晶。
負傷したカイル。
変化が進むゲイル。
階段の下から迫る怪物の群れ。
すべてを持って逃げることはできない。
何かを選ばなければならない。
そのとき。
赤い水晶の中で、エリナが両手を広げた。
『私が止める』
「何をするつもりだ」
『扉を閉める』
「できるのか」
『一度だけ』
「代償は」
エリナは答えなかった。
ただ、寂しそうに笑った。
『お父さんに、伝えて』
赤い光が広間へ広がる。
『ずっと待っていたって』




