第70話 千年前の怪物
「お前たちのおかげで、千年ぶりに目を覚ませる」
黒い鎖に拘束された男が、ゆっくりと顔を上げた。
胸に埋め込まれた赤い水晶が脈打つ。
ドクン。
その音に合わせて、広間全体が揺れた。
「全員、下がれ!」
ゲイルの声が響く。
槍士団の兵士たちが、反射的に後方へ退く。
ウィルも一歩下がった。
だが、男から目は離さない。
全身を貫く黒い鎖。
両腕。
両脚。
首。
胸。
鎖は壁や床へ繋がっている。
それでも男は笑っていた。
まるで、自分を拘束するものなど最初から存在していないかのように。
「千年……」
リディアが呟く。
「本当に人間なの?」
「人間だった」
男が答えた。
「少なくとも、始まりはな」
「名前を言え」
ゲイルが槍を向ける。
「先ほども聞いたはずだ」
「今度は答えろ」
男はしばらくゲイルを見つめた。
やがて、わずかに口元を上げる。
「ヴァルガス」
「それが本名か」
「名に真偽が必要か?」
「必要だ」
「ならば、本名ということにしておけ」
ゲイルの眉が動く。
ヴァルガスはまともに答える気がない。
「この場所を作った者に敗れたと言ったな」
ウィルが尋ねる。
「そうだ」
「誰に敗れた」
「人間だ」
「名前は」
「忘れた」
「千年間も恨んでいて、名前を忘れたのか」
「人間の名前など、長く残らん」
ヴァルガスの胸の水晶が、もう一度光る。
黒い鎖が軋んだ。
「だが、力は残る」
鎖の一本に、細い亀裂が入った。
兵士たちがざわめく。
「扉が開いたことで、封印が弱まっている」
ウィルが言う。
「弱まったのではない」
ヴァルガスは笑う。
「役目を終えたのだ」
「役目?」
「外から扉を開く者が現れるまで、私を留めること」
「なら、もう鎖は切れるのか」
「いずれな」
「今すぐではない」
ゲイルが言った。
ヴァルガスの笑みがわずかに消える。
ゲイルは鎖の亀裂を見ていた。
「力は戻っていない。だから話をしている」
「何だと」
「完全に動けるなら、俺たちを会話に付き合わせる必要はない」
広間が静かになった。
ヴァルガスの赤い瞳が、ゲイルへ向く。
「続けろ」
「お前は時間を稼いでいる」
ゲイルは槍を構えたまま言う。
「水晶から力を集めているのか。先ほどの影が残した力を回収しているのか。理由は分からん」
ゲイルの足元に雷が走る。
「だが、完全に目覚める前なら殺せる」
「副団長」
兵士の一人が声を上げる。
「攻撃すれば、何が起きるか分かりません」
「何もしなければ、確実に目覚める」
「ですが――」
「命令を待て」
冷たい声だった。
兵士は口を閉じる。
ゲイルは部下を安心させない。
説明もしない。
必要な情報だけを告げ、従わせる。
ウィルはゲイルを見る。
「すぐに攻撃するのか」
「ほかに案があるなら言え」
「鎖を確認する」
「時間を与えるだけだ」
「何も知らずに攻撃すれば、封印を壊すかもしれない」
「すでに壊れ始めている」
「だからこそだ」
二人の視線がぶつかる。
ヴァルガスが低く笑った。
「また意見が分かれたか」
「黙れ」
ウィルとゲイルの声が重なった。
一瞬だけ、広間が静まる。
ヴァルガスは楽しそうに目を細めた。
「似ているな、お前たちは」
「どこがだ」
ゲイルが吐き捨てる。
「自分の考えが正しいと疑わないところだ」
ウィルは答えなかった。
否定できない部分があった。
「ウィル」
リディアが小さく呼ぶ。
「鎖の根元を見て」
彼女が指したのは、ヴァルガスの右腕を拘束する鎖だった。
鎖は壁へ繋がっている。
ただし、直接埋め込まれているわけではない。
壁には円形の石板があり、その中央に鎖が固定されている。
石板には文字のような模様が刻まれていた。
「読めるか」
「無理。見たことがない文字」
「ほかの鎖も同じか」
ウィルは周囲を見る。
七本。
すべての鎖が、それぞれ別の石板へ繋がっている。
床に三つ。
壁に三つ。
天井に一つ。
「封印は鎖だけではない」
ウィルが言う。
「石板が鎖を維持している」
「だから何だ」
ゲイルが尋ねる。
「水晶だけを壊せば、鎖がどうなるか分からない」
「壊さず待てば、鎖が切れる」
「どちらが危険か判断できない」
「判断する時間がないと言っている」
ドクン。
赤い水晶が脈打つ。
今度は、ヴァルガスの指が動いた。
ほんの少し。
だが、先ほどまでは動かなかった。
「副団長」
兵士が緊張した声を上げる。
「右手が……」
「見えている」
ゲイルは槍を引いた。
「全員、攻撃準備」
「待て!」
ウィルが前へ出る。
「邪魔をするな」
「石板を調べる」
「何分かかる」
「分からない」
「却下だ」
「失敗したら全員死ぬぞ」
「待っても同じだ」
ゲイルはウィルへ槍先を向けた。
「そこをどけ」
「断る」
槍士団の兵士たちが息を呑む。
リディアが短剣を構えた。
「ウィル」
「分かっている」
ゲイルが一歩近づく。
「俺たちは仲間ではない」
「ああ」
「先ほど共に戦ったからといって、俺の判断へ口を出せると思うな」
「思っていない」
「ならどけ」
「お前の判断で、俺たちまで巻き込むな」
「ここへ来ると決めたのはお前だ」
「危険を止めるためだ。増やすためじゃない」
ゲイルの目が細くなる。
「理想論だ」
「違う」
「違わん。お前は失敗を恐れて決断を遅らせている」
「お前は決断することに酔っている」
空気が凍った。
槍士団の兵士たちがウィルを見る。
ゲイルの表情から、わずかな感情が消えた。
「もう一度言ってみろ」
「必要な決断をしているんじゃない」
ウィルは退かなかった。
「誰より早く決めることで、自分が正しいと思いたいだけだ」
ゲイルの槍に雷が集まる。
「ウィル!」
リディアが叫ぶ。
ゲイルは槍を突き出した。
ウィルは避けない。
槍先は、ウィルの頬の横で止まった。
雷が皮膚を焼く。
「次に侮辱すれば、敵と見なす」
「好きにしろ」
「お前――」
ヴァルガスの笑い声が響いた。
「実にいい」
黒い鎖が大きく揺れる。
「人間は、いつもこうして争う」
ウィルとゲイルが同時にヴァルガスを見る。
「敵を前にしても、己の正しさを譲れない」
「お前に言われる筋合いはない」
ゲイルが槍を戻す。
「ならば、私が決めてやろう」
ヴァルガスの右手が開いた。
完全に。
鎖が一気に引かれる。
壁の石板へ、赤い亀裂が走った。
「まずい!」
リディアが叫ぶ。
石板が砕ける。
右腕を拘束していた鎖が壁から外れた。
ヴァルガスの右腕が自由になる。
「攻撃しろ!」
ゲイルが叫ぶ。
槍士団の兵士たちが一斉に槍を投げる。
十数本の槍。
ヴァルガスは右手を上げただけだった。
赤い光が壁のように広がる。
槍が空中で止まった。
「なに……」
次の瞬間。
槍が反転する。
「伏せろ!」
ウィルが叫ぶ。
槍が兵士たちへ戻ってくる。
盾。
鎧。
壁。
次々と槍が突き刺さる。
悲鳴が響いた。
「負傷者を下げろ!」
ゲイルが命じる。
ウィルは倒れた兵士へ駆け寄る。
槍が太腿を貫いている。
「抜くな!」
「分かってる!」
リディアが止血のため布を巻く。
ヴァルガスは自由になった右手を見つめていた。
「まだ足りんな」
指を曲げる。
それだけで、床の黒い線が赤く光った。
負傷した兵士の足元から、黒い針が突き出す。
「危ない!」
ウィルは兵士を抱えて横へ転がった。
黒い針が、先ほどまで兵士の胸があった場所を貫く。
「床から来るぞ!」
兵士たちが散る。
ヴァルガスは楽しそうに指を動かす。
床。
壁。
天井。
至るところから黒い結晶が伸びる。
「広間全体が敵か!」
リディアが結晶を避ける。
「水晶と繋がっている!」
ウィルはヴァルガスの胸を見る。
赤い水晶。
あれが力の源。
だが、ゲイルの言うように壊していいのかは分からない。
「石板を守れ!」
ウィルが叫ぶ。
「何?」
「残りの石板が壊れたら、全部の鎖が外れる!」
兵士たちが周囲を見る。
ヴァルガスも気づいた。
「正しい」
右手を、床の石板へ向ける。
赤い光が集まる。
「させるか!」
ゲイルが走った。
ヴァルガスの腕と石板の間へ飛び込む。
槍を床へ突き立てる。
雷が広がり、赤い光とぶつかった。
爆発。
ゲイルの身体が吹き飛ぶ。
床を転がり、壁へ激突した。
「副団長!」
兵士たちが叫ぶ。
「来るな!」
ゲイルは立ち上がろうとする。
右腕が震えている。
槍を握れていない。
「ウィル!」
リディアが叫ぶ。
ヴァルガスの右手が、今度はゲイルへ向いていた。
「邪魔をした罰だ」
赤い光が放たれる。
ウィルは走った。
ゲイルの前へ滑り込む。
盾はない。
剣も失っている。
リディアから借りた短剣だけ。
受けられない。
それでも身体を入れた。
「馬鹿が!」
ゲイルがウィルの肩を掴む。
強引に位置を入れ替えた。
赤い光がゲイルの胸へ直撃する。
鎧が砕ける。
血が飛ぶ。
ゲイルの身体が再び壁へ叩きつけられた。
「ゲイル!」
ウィルが駆け寄る。
「触るな」
「胸を見せろ」
「命令するな」
「死にたいのか!」
鎧の下。
胸には黒い傷が広がっていた。
赤い線が、皮膚の内側を這っている。
「変化が始まっている」
リディアの顔が青ざめる。
槍士団の兵士たちも動きを止めた。
「副団長……」
「近づくな」
ゲイルは壁へ手をつき、立ち上がる。
「血に触れるな」
「治療師を!」
「無駄だ」
「まだ分かりません!」
若い兵士が叫ぶ。
カイルだった。
「助ける方法を探します!」
「命令を聞け」
「そんな命令は――」
「カイル」
ゲイルの声が低くなる。
「部隊をまとめろ」
「ですが」
「今から指揮はお前が執れ」
「何を言っているのですか」
「俺が理性を失ったら殺せ」
広間が静まる。
「できません」
「やれ」
「できません!」
「なら、兵士を辞めろ」
カイルの顔が歪む。
ゲイルは慰めない。
肩にも触れない。
ただ命令だけを与える。
「俺一人のために、部隊を全滅させるな」
「副団長……」
「返事は」
カイルは唇を噛んだ。
血が滲む。
「……はい」
「聞こえない」
「はい!」
ゲイルはそれ以上、カイルを見なかった。
「お前は本当にそれでいいのか」
ウィルが尋ねる。
「何がだ」
「簡単に自分を捨てる」
「必要ならな」
「部下に殺させることまで必要か」
「俺が敵になれば必要だ」
「それで責任を負ったつもりか」
「またその話か」
「死ぬ側は楽だ」
ゲイルの目が鋭くなる。
「残された者に全部押しつけている」
「黙れ」
「カイルに自分を殺させて、それで責任を取ったことになるのか」
「黙れ!」
ゲイルが初めて声を荒らげた。
黒い傷が胸から首へ伸びる。
ゲイルは苦しそうに膝をつく。
「副団長!」
カイルが動く。
「来るな!」
雷がゲイルの周囲へ広がる。
近づけない。
「俺は……」
ゲイルが息を吐く。
「俺は、必要なことをしている」
「なら生きろ」
ウィルが言った。
「何だと」
「必要なことをするなら、最後まで自分でやれ」
「治す方法はない」
「探す」
「またそれか」
「さっき一人は止められた」
「薬はもうない」
「水晶の力なら、水晶の近くに止める方法があるかもしれない」
「根拠は」
「ない」
ゲイルが笑った。
苦しそうな、乾いた笑いだった。
「やはり理想論だ」
「そうかもしれない」
ウィルは立ち上がる。
「だが、お前を助けたいわけじゃない」
ゲイルが顔を上げる。
「勘違いするな」
ウィルはヴァルガスを見る。
「お前が魔物になれば、あいつの力が増える」
「それだけか」
「それだけだ」
ゲイルはしばらくウィルを見つめた。
「下手な嘘だ」
「何の話だ」
「お前は嘘をつくのが下手だ」
「うるさい」
ヴァルガスが笑う。
「美しい友情だ」
「違う」
二人の声が再び重なった。
ヴァルガスの笑みが深くなる。
「ならば、証明してみろ」
右手を握る。
ゲイルの胸の赤い線が、一気に広がった。
「ぐっ……!」
ゲイルが胸を押さえる。
背中から黒い結晶が突き出した。
「副団長!」
カイルが槍を構える。
手が震えている。
「まだだ!」
ウィルが叫ぶ。
「まだ理性がある!」
「しかし!」
「俺が止める!」
ゲイルの身体が変わり始める。
右腕が黒く染まる。
指先が結晶へ変わる。
それでもゲイルは槍を拾った。
「ウィル」
「何だ」
「俺が向こうを向いたら、背中を刺せ」
「断る」
「命令ではない」
「もっと断る」
「お前は本当に使えん」
「今さら気づいたか」
ゲイルが立ち上がる。
片腕はすでに人間のものではない。
だが、赤い瞳はまだヴァルガスを見ていた。
「一度だけだ」
「何が」
「俺があいつの動きを止める」
「その身体でか」
「この力を利用する」
「飲まれるぞ」
「だから一度だけだと言っている」
「止めても、どうする」
「胸の水晶を狙え」
「壊していいか分からない」
「なら奪え」
ウィルはヴァルガスの胸を見る。
巨大な水晶。
身体へ深く埋め込まれている。
「引き剥がせるのか」
「やってみろ」
「無茶を言う」
「お前に言われたくない」
ヴァルガスが右手を上げる。
「相談は終わったか」
「ああ」
ゲイルが槍を構える。
「行くぞ」
「勝手に決めるな」
ウィルも短剣を握る。
「俺が合図する」
「聞くと思うか」
「なら好きに動け」
「最初からそうする」
二人が同時に床を蹴った。
ヴァルガスの右手から赤い光が放たれる。
ゲイルが前へ出る。
黒く変わった右腕で光を受けた。
皮膚が焼ける。
結晶が砕ける。
それでも止まらない。
「ゲイル!」
「進め!」
ウィルはゲイルの影を走る。
ヴァルガスが指を動かす。
床から黒い槍が突き出す。
ウィルは避ける。
右。
左。
さらに前。
一本が脇腹をかすめる。
服が裂け、血が流れる。
止まらない。
ヴァルガスの右腕がウィルへ向く。
ゲイルの槍が、その腕へ突き刺さった。
「私の力を使って、私へ挑むか」
「使えるものは使う」
ゲイルが槍を捻る。
「お前は、やはり器に向いている」
「黙れ」
ヴァルガスの黒い手がゲイルの首を掴む。
持ち上げる。
ゲイルの足が床から離れた。
「今だ!」
ウィルがヴァルガスの胸へ飛びつく。
赤い水晶へ短剣を突き立てる。
刃が弾かれる。
「硬い!」
「当然だ」
ヴァルガスが笑う。
空いた左手は、まだ鎖に拘束されている。
だが、身体を捻るだけでウィルを振り落とそうとする。
ウィルは水晶の縁へ指をかけた。
隙間がある。
水晶と身体の間。
深く食い込んでいるが、完全に一体化してはいない。
「引き剥がせる!」
「ならやれ!」
ゲイルが叫ぶ。
ヴァルガスの右手が、ゲイルの首を締める。
黒い結晶がゲイルの頬へ広がる。
ウィルは短剣を水晶の隙間へ差し込む。
少しずつ。
刃が入る。
赤い液体が溢れた。
血ではない。
光る液体。
それがウィルの手へ触れる。
熱い。
皮膚が焼ける。
頭の中へ声が流れ込んだ。
強くなれ。
奪え。
殺せ。
ゲイルを超えろ。
ウィルの視界が赤く染まる。
「ウィル!」
リディアの声が遠い。
短剣を握る手に力が入る。
もっと深く。
もっと力を。
水晶を自分へ取り込めば。
ゲイルを超えられる。
七年を埋められる。
「ふざけるな」
ウィルは呟いた。
「何?」
ヴァルガスの笑みが止まる。
「俺の頭で、勝手に喋るな!」
短剣を捻る。
水晶が大きく揺れた。
ヴァルガスが初めて苦痛の声を漏らす。
「貴様……!」
ゲイルを掴んでいた手が緩む。
ゲイルは床へ落ちた。
「今だ、ゲイル!」
「命令するな!」
ゲイルは槍を両手で握る。
黒く変わった右腕へ雷を集める。
青白い雷と赤い光が混ざる。
槍を、水晶の隙間へ突き込んだ。
「抜けろ!」
二人で力を加える。
水晶が少しずつ浮く。
ヴァルガスが叫ぶ。
「やめろ!」
黒い結晶が周囲から伸びる。
兵士たちへ。
ウィルたちへ。
リディアが走った。
「邪魔させない!」
短剣で結晶を斬る。
槍士団も動く。
「副団長を援護しろ!」
カイルが叫ぶ。
兵士たちが石板の前へ立つ。
伸びてくる結晶を、盾と槍で防ぐ。
「押せ!」
「耐えろ!」
「石板を守れ!」
ヴァルガスの力が分散する。
水晶がさらに浮く。
赤い液体が噴き出す。
ゲイルの腕へかかる。
黒い変化が一気に進む。
「ゲイル!」
「止めるな!」
右肩まで結晶に覆われる。
首にも赤い線が伸びる。
それでも槍を離さない。
「あと少しだ!」
ウィルが叫ぶ。
「分かっている!」
「力を合わせろ!」
「不愉快な言い方をするな!」
二人が同時に引く。
水晶が、ヴァルガスの胸から外れた。
赤い光が爆発する。
ウィルは水晶を抱えたまま吹き飛ばされた。
ゲイルも床を転がる。
ヴァルガスの身体が大きく仰け反った。
「私の……力が……」
胸には大きな穴が空いている。
その奥に、赤い心臓が見えた。
いや。
心臓ではない。
小さな黒い核。
それが弱々しく脈打っていた。
「水晶が本体じゃない」
ウィルが言う。
「核だ!」
ヴァルガスの目が見開かれる。
「やめろ!」
ゲイルが立ち上がる。
身体の半分近くが黒く変わっている。
槍を構える。
「今度こそ終わらせる」
ウィルは赤い水晶を床へ置く。
「待て」
「またか」
「核を壊せば、ゲイルの変化も止まるかもしれない」
「なら壊す」
「逆に進むかもしれない」
「ではどうする」
ウィルは赤い水晶を見る。
水晶の光は弱くなっている。
だが、その中に何かが見えた。
文字。
細い金色の文字が、水晶の奥へ浮かんでいる。
「これは……」
見たことがある。
ガチャで手に入れた道具。
あの変化を止めた薬。
容器に刻まれていた模様と同じだった。
「リディア!」
「何?」
「あの薬の容器は持っているか!」
「空だけど、ある!」
「見せてくれ!」
リディアが小さな容器を投げる。
ウィルは受け取り、水晶の文字と比べる。
同じ。
完全ではない。
だが一部が一致している。
「薬は、この水晶から作られた」
「何だと」
ゲイルが近づく。
「変化させる力と、止める力は同じものだ」
「なら使え」
「方法が分からない」
「またそれか」
「黙って考えさせろ!」
ゲイルの右目が赤く染まり始める。
時間がない。
ヴァルガスの核も脈打っている。
再び水晶を取り戻そうとしているのか、黒い線が床を這い始めた。
ウィルは空の容器を水晶へ近づける。
金色の文字が光った。
容器の底に、一滴だけ赤い液体が落ちる。
「入った……」
「それを使え!」
ウィルはゲイルを見る。
「副作用があるかもしれない」
「今さら何を恐れる」
「死ぬかもしれない」
「使わなくても同じだ」
ゲイルはウィルの手から容器を奪う。
「待て!」
そのまま飲み込んだ。
「お前……!」
「判断が遅い」
ゲイルの身体が震える。
黒い結晶が軋む。
赤い線が一気に胸へ集まった。
「ぐっ……!」
ゲイルが膝をつく。
カイルが駆け寄ろうとする。
「来るな!」
ウィルが止める。
黒い結晶が、ゲイルの身体から剥がれ始める。
一枚。
また一枚。
床へ落ち、砕けていく。
「止まっている」
リディアが言う。
「いや」
ウィルはゲイルの右腕を見る。
完全には戻っていない。
肘から先。
黒い結晶が残っている。
指は動く。
だが、人間の腕ではない。
ゲイルはゆっくりと立ち上がった。
「生きているな」
ウィルが言う。
「見れば分かる」
「腕は」
「動く」
「痛みは」
「ある」
「そうか」
「嬉しそうな顔をするな」
「していない」
「している」
ゲイルは黒い右手で槍を握った。
指が柄へ食い込む。
以前より強い力。
ヴァルガスが低く笑った。
「結局、力を得たではないか」
ゲイルの表情が険しくなる。
「黙れ」
「望んでいた力だ」
「これは傷だ」
「使える傷だ」
ゲイルは一瞬だけ黒い腕を見る。
その目に迷いが浮かぶ。
だが、すぐに消えた。
「使えるなら使う」
ウィルが横を見る。
「お前……」
「勘違いするな」
ゲイルは槍を構える。
「この力を求めたわけではない」
「なら捨てろ」
「捨て方を知っているのか」
「知らない」
「なら黙れ」
「やっぱり、お前は変わらないな」
「お前に好かれるために生きていない」
ヴァルガスの胸の核が強く光った。
「話は終わりだ」
黒い鎖が一斉に揺れる。
残る石板へ亀裂が走る。
「水晶を戻せ!」
ヴァルガスが叫ぶ。
声から余裕が消えている。
「それがなければ、私は――」
「死ぬのか」
ウィルが尋ねる。
「違う!」
「なら、死ぬんだな」
ゲイルが槍へ雷を集める。
「待て!」
ウィルは今度も止めた。
「まだ何だ」
「核を壊す前に、水晶を持って離れる」
「なぜ」
「水晶と核が離れれば、力を失う」
「今ここで壊せばいい」
「水晶が近くにある状態で核を壊したら、何が起きるか分からない」
「また慎重論か」
「今度は聞け」
ウィルは赤い水晶を持ち上げる。
重い。
両腕で抱えても、身体が沈む。
「これを広間の外へ運ぶ」
「その間、誰があいつを止める」
ゲイルが黒い右手を開く。
「俺が止める」
「一人でか」
「お前が邪魔をしなければな」
「さっき一人では勝てなかっただろ」
「今は違う」
黒い腕へ雷が走る。
以前より強い。
床が震えるほどの力。
「その力を使えば、また変化が進むかもしれない」
「なら早く行け」
「ゲイル」
「勘違いするな」
ゲイルはヴァルガスから目を離さない。
「お前を逃がすためではない」
「分かっている」
「水晶を安全な場所へ運ぶためだ」
「ああ」
「戻ってこなくていい」
「それは断る」
「好きにしろ」
ウィルは水晶を抱え、出口へ向かう。
リディアが横へつく。
「一緒に持つ」
「重いぞ」
「見れば分かる」
二人で水晶を抱える。
槍士団の兵士たちも、負傷者を連れて後退を始めた。
カイルだけは残った。
「お前も行け」
ゲイルが命じる。
「残ります」
「命令だ」
「今は私が指揮官です」
ゲイルがカイルを見る。
「誰が決めた」
「副団長です」
一瞬。
ゲイルが言葉を失った。
「なら、指揮官として命令します」
カイルは槍を構える。
「副団長一人を残しません」
「馬鹿が」
「あなたの部下ですから」
ゲイルは舌打ちした。
だが、それ以上は追い返さなかった。
ウィルはその姿を見て、前を向く。
ゲイルはいい人間ではない。
冷たく。
傲慢で。
他人の犠牲を受け入れる。
それでも、部下は彼を見捨てない。
その理由を、ウィルはまだ理解できなかった。
「ウィル!」
リディアの声で我に返る。
黒い線が、水晶へ向かって床を走っている。
「追ってきてる!」
「急ぐぞ!」
二人は階段へ向かう。
背後で雷鳴が響いた。
「来い、怪物」
ゲイルの声。
「お前の力が、本当に使えるものか確かめてやる」
ヴァルガスの怒声が広間を揺らす。
「器ごときが、私に逆らうな!」
「俺を器と呼ぶな」
雷と赤い光が衝突する。
爆発が起きた。
ウィルは振り返らない。
今は水晶を運ぶ。
それがゲイルを助けるためでも。
ヴァルガスを倒すためでもない。
これ以上、誰も同じ姿にしないためだ。
階段を上がる。
赤い水晶は、腕の中で弱く脈打っていた。
その奥から。
別の声が聞こえた。
『壊さないで』
ウィルの足が止まる。
「どうしたの?」
リディアが尋ねる。
水晶の中に、小さな人影が浮かんでいる。
ヴァルガスではない。
少女だった。
『お願い』
少女が、赤い水晶の中からウィルを見上げる。
『お父さんを、殺さないで』
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