第7話 レベル2
夜の間に、雨が降ったらしい。
朝、目を覚ましたウィルは、しばらく天井を見上げていた。
昨日までなら、雨が降れば鍋の底を叩く音が聞こえていた。
ぽつん。
ぽつん。
眠っていても、その音で目を覚ました。
だが、今朝は聞こえない。
アレナの父親と一緒に張った板と防水布が、雨を防いでくれたようだ。
完全に直ったわけではない。
それでも、床は濡れていなかった。
「……大丈夫そうだな」
ウィルは寝台から降りた。
自分で直した屋根を見上げる。
正確には、ほとんど教えられながら手を動かしただけだ。
それでも、自分の手で家の一部を直したことに変わりはない。
少しだけ、昨日までとは違って見えた。
井戸から水を汲み、顔を洗う。
残っていた野菜を小さく切り、簡単なスープを作った。
今日は、ニンジンが柔らかくなるまで待った。
一口食べる。
「……昨日よりはましか」
母親の味にも、アレナの味にも遠い。
だが、食べられないほどではなかった。
白いパンをスープへ浸し、ゆっくり食べる。
食事を終えると、革防具を身につけた。
片手剣。
円盾。
母親の手紙が入った布袋。
準備を整え、家を出る。
今日の目標は決めていた。
スライムを、あと8体。
合計20体を倒せば、ガチャチケットをもう1枚獲得できる。
現在のチケットは4枚。
今日の目標を達成すれば、5枚になる。
11連ガチャまで、半分だ。
◇
冒険者協会へ入ると、昨日と同じ受付の女性がウィルに気づいた。
「おはようございます」
「おはようございます」
ウィルが受付の前へ立つと、女性の視線が額へ向けられた。
「昨日、森ゴブリンに石を投げられたそうですね」
「もう治っています」
「腕は?」
「少し痛むが、動かせます」
「少し痛むなら、治っているとは言いません」
受付の女性は呆れたように息を吐いた。
「今日は、何を狙う予定ですか?」
「スライムです」
「森ゴブリンではないんですね」
「ああ」
女性が少し驚いた顔をした。
「昨日倒せたから、今日も森ゴブリンを狙うのかと思いました」
「昨日は運がよかった」
一匹目には石を当てられ、土を投げられた。
二匹目は、《気配察知・小》が発現しなければ不意打ちを受けていた。
勝てたからといって、余裕があったわけではない。
「スライムを倒す理由がある」
「依頼ですか?」
「違います」
《ダンジョンガチャ》について話すつもりはなかった。
受付の女性も、それ以上は尋ねなかった。
「スライムでも、複数に囲まれれば危険です」
「分かっています」
「昨日よりは、返事に説得力がありますね」
「昨日も分かっていた」
「分かっていた人は、初日に角ウサギと戦って腕を腫らしません」
反論できなかった。
「無理はしません」
ウィルが言い直すと、女性は小さく頷いた。
「行ってらっしゃい。必ず戻ってきてください」
「ああ」
冒険者証を受け取り、協会を出た。
◇
《ユーカリ森林迷宮》の入口では、いつもの衛兵が立っていた。
「今日は何を倒しに来た?」
「スライムです」
「珍しく安全そうな答えだな」
「珍しく?」
「初日に錆びた剣で入り、角ウサギと戦い、次の日には森ゴブリンを倒した奴だからな」
「今日はスライムだけです」
「その言葉を信じていいのか?」
「たぶん」
「そこは言い切れ」
衛兵は冒険者証を確認すると、門の奥を指した。
「昨日の雨で、地面が滑りやすくなっている。木の根と泥に気をつけろ」
「分かりました」
「それと、帰るときはワープする前に言え」
「はい」
「目の前で突然消えるなよ」
ウィルは頷き、迷宮へ入った。
◇
森の中は、昨日までより湿っていた。
葉に残った雨水が、時折地面へ落ちている。
土は柔らかくなり、道の所々に浅い泥ができていた。
だが、足は取られなかった。
《森林歩行》の効果だ。
滑りやすい落ち葉を踏んでも、姿勢が大きく崩れない。
木の根を越えるときも、自然に足を置く場所が分かる。
速くなったわけではない。
それでも、余計な力を使わずに歩ける。
森の中で戦うウィルには、十分に役立つ力だった。
入口から少し進んだところで、《気配察知・小》に反応があった。
前方。
敵意は弱い。
数までは分からない。
ウィルは円盾を構え、慎重に進んだ。
木の陰に、緑色の丸い身体が見える。
スライムだった。
一匹だけ。
ウィルが近づくと、スライムが身体を縮めた。
跳び上がる。
ウィルは円盾を身体へ引き寄せ、足を前後に開いた。
体当たりが盾の中央へぶつかる。
衝撃を身体全体で受け止める。
左腕に痛みはない。
スライムが地面へ落ちた。
ウィルは片手剣を振り下ろす。
刃が緑色の身体を切り裂いた。
スライムが光の粒子へ変わる。
その直後だった。
『規定の経験値に到達しました』
頭の中へ、感情のない声が響く。
目の前に、光の文字が浮かび上がった。
『レベルが1から2へ上昇します』
「レベル……」
ウィルの身体を、淡い光が包み込んだ。
胸の奥から、温かなものが広がっていく。
腕。
脚。
背中。
身体の隅々へ、力が流れ込む。
鉱山で長く休んだあととも違う。
治癒魔法を使ったときとも違う。
身体そのものが、少しだけ強く作り直されていくような感覚だった。
光の中に、新しい表示が現れる。
名前:ウィル・クロード
レベル:1→2
生命力:18→20
筋力:16→17
敏捷:8→9
魔力:6
ウィルは表示を見つめた。
魔力以外の能力が上がっている。
特に大きく上昇したのは、生命力だった。
「魔力は、上がらないのか」
少し残念ではある。
だが、最初から魔法が得意だとは思っていない。
《治癒・小》と《ダンジョンワープ》が使えるだけでも十分だ。
それよりも、生命力と筋力が上がったことの方が、今のウィルには重要だった。
敏捷も、8から9へ上がっている。
わずか1の差。
どれほど変わったのかは分からない。
ウィルは右手を握った。
強くなった実感はある。
だが、突然別人になったわけではない。
剣の扱い方を覚えたわけでもない。
角ウサギより速くなったとも思えない。
『現在のスライム討伐数:13体』
『次回チケット獲得まで、あと7体』
表示が切り替わる。
ウィルは足元に残された魔石を拾い、《アイテムボックス》へ収納した。
「あと7体」
まずは、今日の目標を続ける。
◇
次のスライムを見つけるまでに、それほど時間はかからなかった。
浅い水場の近くに、一匹いる。
ウィルは盾を構え、近づいた。
スライムが飛び上がる。
盾で受ける。
先ほどと同じ攻撃だった。
だが、衝撃が少し軽く感じた。
盾を持つ腕が、ほとんど押し戻されない。
ウィルはそのまま盾を前へ突き出した。
スライムの身体が、地面を転がる。
一歩踏み込み、剣を振り下ろす。
一撃で倒した。
「筋力が上がったからか?」
武器は同じだ。
相手も同じスライム。
だが、剣を振ったときの感覚がわずかに違う。
以前よりも、刃へ力が伝わりやすい。
鉱山で鍛えた腕がさらに強くなったというより、身体全体が剣を振る動きに耐えられるようになった感覚だった。
ウィルは周囲を確認し、魔石を拾う。
スライム討伐数:14体。
あと6体。
◇
15体目。
16体目。
どちらも一匹ずつだった。
体当たりを盾で受け、地面へ落ちたところを斬る。
戦い方は変わらない。
だが、以前よりも余裕があった。
盾へ衝撃を受けても、姿勢が崩れにくい。
剣を振ったあとの隙も、少し短くなった。
敏捷が上がった影響かもしれない。
それでも、ウィルは急がなかった。
一匹倒すたびに周囲を見る。
《気配察知・小》へ意識を向ける。
魔石を拾う前にも、他の魔物が近くにいないことを確認する。
強くなったからといって、慎重さを捨てる理由はない。
17体目のスライムを探しているとき、右側の茂みから気配を感じた。
弱い敵意。
だが、一つではない。
正確な数は分からない。
ウィルは近くの太い木へ背中を向けた。
茂みが揺れる。
緑色の身体が、一つ現れた。
その後ろから、もう一つ。
さらに、左側の草むらにも一匹いる。
「三匹か」
今まで同時に戦ったのは、二匹までだった。
三匹なら、逃げた方がいいかもしれない。
だが、スライムはすでにこちらへ気づいている。
背中を向ければ、追ってくる可能性がある。
ウィルは周囲を見た。
背後には太い木。
右側には、大きな岩。
正面から来られる場所は狭い。
三匹に囲まれない位置を取れる。
戦える。
そう判断した。
最初のスライムが身体を縮める。
二匹目も、わずかに遅れて動いた。
ウィルは盾を構える。
一匹目が飛んできた。
盾で受ける。
以前なら、衝撃に耐えるだけで精いっぱいだった。
今は違う。
盾を斜めにし、スライムの身体を右側へ流す。
スライムが岩へぶつかった。
同時に、二匹目が跳び上がる。
ウィルは身体を木の陰へ移した。
二匹目が幹へぶつかり、弾かれる。
三匹目はまだ近づいてきている。
ウィルは木へぶつかったスライムを剣で斬った。
17体目。
光へ変わるのを待たず、盾を構え直す。
岩へぶつかったスライムが、再び身体を縮めた。
三匹目も跳んでくる。
攻撃の間隔が、ほとんど同じだった。
片方を盾で受ければ、もう片方が身体へ当たる。
ウィルは前へ出た。
先に、三匹目との距離を詰める。
スライムが跳ぶ前に、円盾を下から振り上げた。
盾の縁が、緑色の身体へ当たる。
スライムが宙へ浮いた。
「はっ!」
そこへ剣を振る。
刃が空中のスライムを切り裂いた。
18体目。
直後、岩のそばにいたスライムが飛んでくる。
避ける時間はない。
ウィルは円盾を身体へ引き寄せた。
体当たりを正面から受け止める。
衝撃で一歩下がった。
だが、倒れない。
以前より生命力が上がり、身体が衝撃に耐えられるようになっている。
スライムが地面へ落ちる。
ウィルは剣を振り下ろした。
19体目。
三匹すべてが光へ変わった。
森の中に、三つの小さな魔石が残される。
「三匹でも……勝てた」
呼吸は少し乱れている。
だが、怪我はない。
左腕も痛んでいなかった。
レベルが上がった影響は、確かにある。
それでも、周囲の地形を使わなければ危なかった。
正面から三匹を相手にしていれば、一匹の攻撃を身体へ受けていただろう。
「強くなっても、考える必要はあるな」
ウィルは魔石を拾い、《アイテムボックス》へ収納した。
スライム討伐数:19体。
次回チケット獲得まで、あと1体。
目標まで、あと一匹だった。
◇
次のスライムを探して森を進む。
頭の中では、先ほどの戦いを何度も振り返っていた。
盾を振り上げた動き。
空中に浮いたスライムへ剣を当てた瞬間。
以前の自分なら、間に合わなかったかもしれない。
敏捷が8から9へ上がった。
たった1。
それでも、戦いの中ではわずかな差が生まれている。
このままレベルが上がれば、いつか角ウサギの突進も避けられるようになるかもしれない。
だが、今はまだ無理だ。
数字が上がったからといって、過信すれば死ぬ。
ウィルが大きな倒木を越えたとき、《気配察知・小》が反応した。
正面。
敵意は弱い。
一つだけ。
木の根元に、緑色の身体が見えた。
「20体目」
ウィルは片手剣を抜いた。
スライムもこちらへ気づく。
身体を縮める。
体当たりが来る。
ウィルは盾を正面へ向けた。
だが、今度は受け止めなかった。
スライムが飛んでくる瞬間、右足を横へ動かす。
身体を半歩だけずらした。
緑色の身体が、肩のすぐ横を通り過ぎる。
完全に、避けた。
スライムが地面へ落ちる。
ウィルは振り返り、剣を横へ振った。
刃がスライムの身体へ入る。
一撃で光へ変わった。
『スライムを20体討伐しました』
『ガチャチケットを1枚獲得しました』
目の前に表示が現れる。
ガチャチケット:5枚。
11連ガチャまで、あと5枚。
「半分か」
ガチャを行うには10枚必要だ。
現在は5枚。
ようやく半分まで来た。
ウィルは20体目のスライムが残した魔石を拾った。
《アイテムボックス》へ収納する。
今日の目標は達成した。
まだ時間は早い。
体力にも余裕がある。
このまま進めば、角ウサギや森ゴブリンを倒せるかもしれない。
だが、ウィルは剣を鞘へ戻した。
強くなった感覚がある。
だからこそ、今日はここで帰る。
今の感覚に慣れていないまま、別の魔物と戦う必要はない。
スライムを相手に、自分の変化は十分に確かめられた。
レベルも上がった。
チケットも増えた。
欲張る理由はなかった。
◇
迷宮の入口へ戻ると、衛兵がウィルの姿を確認した。
「今日は早かったな」
「スライムを8体倒しました」
「本当にスライムだけで帰ってきたのか」
「はい」
「森ゴブリンに喧嘩を売ったり、角ウサギに追い回されたりしていないな?」
「していません」
衛兵はウィルの防具を確認する。
目立った傷がないことを見て、ようやく納得したようだった。
「今日は無傷か」
「はい」
「毎回そうしてくれ」
「努力します」
「そこは約束しろ」
ウィルは買取所へ向かった。
スライムの魔石が8個。
どれも小さな魔石だった。
高くは売れない。
それでも、確かな収入にはなる。
「銅貨16枚だ」
受付の男から硬貨を受け取る。
昨日よりも少ない。
森ゴブリンの魔石や棍棒を売ったときの方が、稼ぎはよかった。
危険な魔物ほど、得られる金も多い。
だが、今日は怪我をしていない。
治癒魔法も使っていない。
安全に稼いだ銅貨16枚だった。
買取所を出ると、ウィルは衛兵へ声をかけた。
「今から消えます」
「もう少し別の言い方はないのか?」
「自宅へ帰ります」
「最初からそう言え」
ウィルは頭の中に浮かんだ詠唱を口にした。
「道を繋ぎ、我を記されし地へ運べ――《ダンジョンワープ》」
足元へ、青白い魔法陣が広がる。
光に包まれ、周囲の景色が消えた。
◇
目を開くと、自宅の食卓が見えた。
転移による頭痛はある。
だが、昨日よりも少し軽い。
魔力の数値は上がっていない。
今日は《治癒・小》を使っていないため、余裕があるのだろう。
ウィルは装備を外し、《アイテムボックス》へ収納した。
食卓へ革袋を置く。
今日稼いだ銅貨が、乾いた音を立てた。
レベル:2。
ガチャチケット:5枚。
スライム討伐数:20体。
数字だけを見れば、小さな変化だ。
英雄と呼ばれるゲイルには、遠く及ばない。
王国槍士団の兵士と比べても、まだ弱いだろう。
それでも、昨日の自分よりは確実に強くなった。
鉱山刑務所にいた頃は、どれだけ石を砕いても、明日が近づいているとは思えなかった。
決められた量の鉱石を掘る。
終われば、また次の仕事を与えられる。
どれだけ働いても、人生が前へ進んでいる感覚はなかった。
今は違う。
魔物を倒せば、経験が積み重なる。
レベルが上がる。
チケットも増える。
稼いだ金で、家を直せる。
少しずつでも、すべてが前へ進んでいた。
ウィルは屋根を見上げた。
昨日張った新しい板が、古い屋根の中で目立っている。
直した跡は、消えない。
それでも、雨は入ってこなかった。
自分も、同じなのかもしれない。
7年間の跡は消えない。
元の十六歳へ戻ることもできない。
それでも、壊れたままでいる必要はなかった。
「あと5枚」
ウィルは小さく呟いた。
次の11連ガチャまで、あと5枚。
新しい装備か。
魔法か。
別の便利な道具か。
何が手に入るのかは分からない。
運に左右される。
だが、チケットを集める方法は分かっている。
魔物を倒す。
生きて帰る。
それを繰り返すだけだ。
ウィルは食卓の上の革袋を手に取った。
明日は、角ウサギを狙う。
以前は木へ角を突き刺させなければ倒せなかった。
レベルが上がった今なら、もう少し余裕を持って戦えるかもしれない。
だが、油断はしない。
強くなったのは、無理をするためではない。
生きて帰るためだ。
ウィルは新しく直された屋根の下で、明日の準備を始めた。




