第6話 灯りのついた家
翌朝。
ウィルは、玄関の扉を叩く音で目を覚ました。
こん、こん。
遠慮がちな音だった。鉱山刑務所で看守が鉄格子を叩いていた、乱暴な起床の合図とは違う。
それでも、身体は反射的に強張った。
寝台から起き上がり、枕元へ置いていた片手剣に手を伸ばす。
誰かが来た。
だが、自分を訪ねてくる者などいるはずがない。町へ戻ったばかりの犯罪者で、しかも昨日から噂になっている。
歓迎されるとは思えなかった。
もう一度、扉が叩かれた。
「ウィル」
聞き覚えのある声だった。記憶に残っているものより少し大人びていたが、間違えるはずがない。
「いるんでしょう?」
ウィルは剣から手を離した。
「……アレナ?」
「やっぱり、いる」
扉の向こうで、小さく息を吐く音が聞こえた。
ウィルは玄関へ向かった。鍵へ手をかけたところで、動きが止まる。
どんな顔をすればいいのか分からなかった。
7年前と同じように話せるはずもない。
「ウィル?」
「今、開ける」
錆びた鍵を回し、扉を開けた。
朝の光が、薄暗い室内へ差し込む。
そこに、一人の若い女性が立っていた。
赤みがかった茶色の髪を、肩の辺りでまとめている。白いシャツの上には、濃い色のエプロン。
両手には、大きな籠を抱えていた。
十六歳だった頃の面影は残っている。だが、少女だったアレナは、もう大人の女性になっていた。
「……久しぶり」
「ああ」
「7年ぶり」
「ああ」
「それだけ?」
アレナの眉が、わずかに寄る。
「何を言えばいいのか、分からない」
「普通は、元気だったかとか、久しぶりだなとか、いろいろあるでしょう」
「お前が先に久しぶりと言った」
「同じ言葉を返してもいいの」
「そうなのか」
「そういうところは変わってない」
アレナは呆れたように言った。
表情は落ち着いている。だが、籠を持つ指には力が入っていた。
ウィルも次の言葉が見つからず、互いに黙り込む。
そのとき、家の横から男が顔を出した。
「おお。ちゃんと起きていたか」
アレナの父親だった。
肩に梯子を担ぎ、反対の手には大工道具の入った木箱を持っている。7年前より髪に白いものが増えていたが、がっしりした体格は昔と変わらない。
「おじさん……」
「久しぶりだな、ウィル」
「どうして梯子を?」
「家を見れば分かるだろう。屋根を調べに来た」
当然のことのように答えられた。
「昨日、町で噂になっていたんだ。7年も空き家だったこの家に、明かりがついていたとな」
「それだけで噂になるんですか?」
「小さな町だからな」
アレナの父親は、梯子を地面へ下ろした。
「アレナが、朝から様子を見に行くと言って聞かなくてな」
「お父さんも、すぐに道具を出していたでしょう」
「俺は家が崩れる前に、状態を確かめようと思っただけだ」
「私も同じ」
「お前は一人で来ようとして、町の反対側へ歩いていた」
「少し道を確認していただけ」
「子供の頃から何度も来た家だぞ」
「7年で町並みが変わったから」
「町の東と西は入れ替わっていない」
アレナは何も言い返さず、視線を逸らした。
親子の会話は、昔とほとんど変わっていない。ウィルの口元が、わずかに緩む。
アレナがすぐにこちらを見た。
「今、笑った?」
「笑ってない」
「少し笑った」
「気のせいだ」
「昔から、そうやって誤魔化す」
「屋根を見てくるぞ」
アレナの父親は二人の会話を遮り、梯子を家へ立てかけた。
そのまま屋根へ上ろうとする。
ウィルは慌てて外へ出た。
「待ってください」
「なんだ?」
「頼んでいません」
「そうだな」
「修理代を払う金もありません」
「昨日、冒険者になったそうだな」
ウィルは少し驚いた。
「そこまで広まっているんですか?」
「例の事件の男が、錆びた剣を持って冒険者協会へ現れた。噂にならない方がおかしい」
「……そうですか」
「錆びた剣でダンジョンへ入ったとも聞いた」
「最初だけです」
「今は違うのか?」
「装備を手に入れました」
詳しく説明するつもりはなかった。
《ダンジョンガチャ》については、まだ誰にも知られたくない。アレナの父親も、それ以上は尋ねなかった。
「屋根の状態を見るだけなら、金はいらん」
「でも」
「修理するかどうかは、見てから決めればいい」
父親は梯子へ足をかけた。
「それとも、自分で屋根の状態を調べられるのか?」
「……できません」
「なら、覚えろ。ウィル、下から梯子を押さえてくれ」
「はい」
ウィルは梯子の両側を掴んだ。
父親が屋根へ上っていく。板を踏むたびに、危うい音がした。
「思っていたより悪いな」
屋根の上から声が降ってくる。
「穴の周囲まで腐っている。煙突の付け根も傷んでいるぞ」
「全部、張り替える必要がありますか?」
「全部ではない。だが、穴の周辺は広く交換した方がいい」
父親は慎重に屋根を移動していく。
「安い材料を使っても、銀貨10枚以上は必要だな」
ウィルの手持ちでは、まるで足りない。昨日までの稼ぎを合わせても、銀貨1枚にもならなかった。
屋根を直すという目標が、急に遠く感じられる。
「ただし、本格的に直す場合の話だ」
父親が続けた。
「雨漏りを一時的に止めるだけなら、今日できる」
「今日?」
「店の倉庫に、余った板と防水布があった。古いが、まだ使える」
「それを使うんですか?」
「そのために持ってきた」
家の横を見る。
梯子のほかにも、木の板と巻かれた布が置かれていた。
「受け取れません」
「なぜだ?」
「金を払えない」
「捨てる予定だった材料だ」
「それでもです」
屋根の上から、父親がウィルを見下ろした。
「相変わらず頑固だな」
「俺に物を渡したと知られたら、食堂に迷惑がかかります」
「誰に迷惑がかかるの?」
アレナが口を開いた。
「店に客が来なくなるかもしれない」
「それで?」
「それでって……」
「客が来なくなるかもしれないから、帰ってきた幼馴染を放っておけってこと?」
声は大きくなかった。表情もほとんど変わっていない。
それでも、怒っていることは分かった。
「私は、ウィルがやったなんて思ってない」
「証拠はない」
「信じるのに証拠が必要?」
「7年前は、必要だった」
口にしたあとで、言いすぎたと思った。
アレナの表情が固まり、父親も屋根の上で動きを止める。
短い沈黙が落ちた。
ウィルは梯子を握ったまま、視線を下げる。
「悪い」
「謝らないで」
アレナは籠を強く抱いた。
「そのとおりだから」
「アレナ」
「私たちは信じていた。でも、助けられなかった」
父親が静かに呼びかける。
それでも、アレナは止まらなかった。
「衛兵にも話した。ゲイルのことも調べてほしいって頼んだ。ウィルがそんなことをするはずがないって、何度も言った」
「もういい」
「よくない」
「お前たちのせいじゃない」
「でも、何もできなかった」
アレナは唇を噛んだ。
「7年間、ずっと」
ウィルは返す言葉を探した。
アレナたちに裏切られたと思っていたわけではない。最初の頃は無実を訴え続けたが、誰にも届かないと知ってからは、何も言わなくなった。
町のことも、アレナのことも、考えないようにした。
そうしなければ、鉱山で毎日を生きられなかった。
「手紙を、出せばよかった」
ウィルが言うと、アレナが顔を上げた。
「一通も来なかった」
「何を書けばいいのか分からなかった」
「元気だとか、苦しいとか、助けてくれとか。何でもよかったでしょう」
「助けられないと分かっていた」
「それでも、書いてほしかった」
アレナの声が、わずかに震えた。
「生きているかどうかも、分からなかったから」
ウィルは何も言えなかった。
「アレナ」
父親が、もう一度名前を呼んだ。
「家の前で全部話す気か?」
「……話さない」
「なら、中で待っていろ。俺は屋根を見る」
アレナは小さく頷いた。
それから、ウィルへ籠を差し出す。
「持って」
「これは?」
「食事」
「頼んでない」
「お腹は空くでしょう」
「金は払えない」
「昨日の残り」
アレナは言い切った。
押しつけられた籠は、ずしりと重い。残り物にしては、明らかに量が多かった。
「本当に残り物か?」
「余ったの」
「食堂で、こんなに余らせるのか?」
「今日は、たまたま」
「まだ朝だぞ」
「細かい」
アレナはウィルの横を通り、家の中へ入っていった。
昔から、都合が悪くなると話を終わらせる。その癖は変わっていなかった。
◇
アレナの父親が屋根を確認している間、ウィルとアレナは食卓を挟んで座っていた。
家の中には、ぎこちない沈黙が流れている。
アレナは、母親が使っていた作業机へ目を向けた。
途中まで縫われた布。
糸巻き。
針山。
「そのままなんだ」
「ああ」
「私も、ここへ入るのは久しぶり」
「母さんが死んだあと、来なかったのか?」
「何度か来た」
アレナは静かに答えた。
「掃除もした。窓も閉めた。壊れたところも、できる範囲で直した」
「そうだったのか」
「でも、途中から入れなくなった」
「誰かに止められた?」
「違う」
アレナは首を横に振る。
「ここへ来ると、おばさんがいる気がしたから」
作業机を見つめる。
「それなのに、声をかけても返事がないから」
ウィルは、空いている椅子へ目を向けた。
昨日、自分で作った野菜スープを食べたときも、同じことを思った。
「母さんの最後を、知っているか?」
聞こうと思っていた。
けれど、怖かった。
苦しんで死んだと知らされるかもしれない。一人きりだったと、分かってしまうかもしれない。
アレナは少し考えてから、口を開いた。
「病気が悪くなって、教会の治療院へ運ばれた」
「書類には、そう書いてあった」
「私のお母さんが、ずっと付き添っていた」
ウィルは顔を上げた。
「一人じゃなかったのか?」
「うん」
アレナは、はっきりと頷いた。
「私も、食堂が忙しくない日は会いに行った。お父さんも何度か」
「そうか」
「最後の日は、私のお母さんがそばにいた」
胸の奥に、固く縮まっていたものがあった。
母親は一人で死んだのではないか。最後まで自分を待ち続けていたのではないか。
考えないようにしていた。
「苦しんでいたか?」
「最後は眠っていたって」
「何か、言っていた?」
アレナは少しだけ迷った。
「ウィルは帰ってくるって」
胸元にある布袋が、急に重くなったように感じた。
「ずっと、そう言っていた」
「……そうか」
「家の鍵と手紙をあなたへ届けてほしいって、教会の人にも頼んでいた」
刑務所を出るときに返された、錆びた鍵。
あれは母親が最後まで、自分の帰る場所を残そうとしてくれたものだった。
「墓も、私たちだけで建てたわけじゃない」
アレナが続ける。
「おばさんに服を直してもらった人たちが、お金を出してくれた」
「町の人が?」
「全員が、あなたを犯罪者だと思っていたわけじゃない」
ウィルは何も言わなかった。
町へ戻ってから、冷たい視線ばかり気にしていた。
顔を背ける者。
小声で噂する者。
自分を恐れる者。
それしか見えていなかった。
「私たちは、あなたが帰ってくると思っていた」
アレナは、空の椅子を見た。
「少なくとも、おばさんは最後まで信じていた」
「7年もかかった」
「帰ってきたでしょう」
「帰っただけだ」
「それで十分」
アレナは淡々と言った。
「昨日までは、帰ってきてもいなかったんだから」
食卓の上には、持ってきた籠が置かれている。
アレナが布を外すと、中から蓋のついた鍋が出てきた。
柔らかそうな白いパン。
焼いた肉。
果物。
どう見ても、店の残り物という量ではない。
「多くないか?」
「普通」
「一人分じゃない」
「ウィルは身体が大きくなったから」
「鉱山で鍛えられた」
「だから、多めにした」
「今、多めにしたと言ったな」
「言ってない」
「言った」
「気のせい」
アレナは鍋の蓋を開けた。
温かな湯気が立ち上る。
中に入っていたのは、野菜スープだった。
芋。
ニンジン。
玉ネギ。
豆。
小さく切られた鶏肉。
懐かしい匂いがした。
「おばさんの味とは違うけど」
アレナが言った。
「何度か作り方を教えてもらった」
「母さんに?」
「うん」
「どうして?」
「食堂で出せるように」
アレナは、少しだけ視線を逸らす。
「それと、ウィルが帰ってきたときに作れるように」
ウィルは言葉を失った。
「7年前から?」
「ずっと作っていたわけじゃない」
「そうか」
「たまに」
「そうか」
「何か言って」
「何を言えばいいか分からない」
「またそれ」
アレナは小さく息を吐いた。
「食べればいい」
鍋と器を食卓へ並べる。
ウィルは木の匙を手に取り、スープを一口飲んだ。
母親の味とは違う。少し塩が強く、鶏肉の旨味も入っている。
食堂で出すために、分かりやすく美味しく作られていた。
それでも、どこか懐かしかった。
「どう?」
「美味い」
「それだけ?」
「昨日、俺が作ったものより、ずっと美味い」
「自分で作ったの?」
「ああ」
「何を入れた?」
「芋とニンジンと玉ネギ」
「豆は?」
「買ってない」
「肉は?」
「高い」
「ニンジンは、ちゃんと柔らかくなるまで煮た?」
「少し硬かった」
「少しじゃないと思う」
「見てないだろう」
「ウィルは昔から、待つのが苦手だったから」
「鉱山で7年働いて、待つことには慣れた」
言った瞬間、アレナの表情が曇った。
ウィルも口を閉じる。
普通に話そうとすると、7年間の空白が間へ入り込んでくる。
「悪い」
「謝らなくていい」
「でも」
「鉱山にいたことを、なかったことにはできないでしょう」
アレナは白いパンを半分に割った。
大きい方を、ウィルの皿へ置く。
「言いたくなったら言えばいい」
「聞きたいのか?」
「聞きたくない」
アレナは即答した。
「たぶん、聞いたら腹が立つから」
「俺に?」
「看守とか、ゲイルとか、何もできなかった自分とか」
アレナは、自分の皿へ小さい方のパンを置いた。
「でも、ウィルが話したいなら聞く」
「今は、話したくない」
「なら、話さなくていい」
それだけだった。
無理に聞き出そうとはしない。可哀想だとも言わない。
ただ、昔と同じように、少しだけ多く食べ物を置いた。
それが、ウィルにはありがたかった。
◇
食事を終える頃、屋根から父親の声がした。
「ウィル、上がってこい!」
外へ出る。
父親は屋根の上に座り、傷んだ板を指していた。
「俺も上がるんですか?」
「梯子くらい上れるだろう」
ウィルは梯子へ手をかけた。
鉱山では、足場の悪い場所を何度も上り下りした。屋根へ上がること自体は難しくない。
ただし、腐った板を踏み抜かないよう注意が必要だった。
「そこへ足を置くな」
父親が指示する。
「色の濃い板は腐っている。横の梁へ体重をかけろ」
「はい」
「返事はいい。足元を見ろ」
屋根の上から見ると、傷みのひどさがよく分かった。
穴が開いている場所だけではない。小さな隙間も、いくつもある。
「まず、この板を外す」
父親が金槌と釘抜きを渡した。
「端から少しずつだ。力任せに引くな。周りまで割れる」
ウィルは教えられたとおり、釘を抜いていく。
鉱山で使っていたつるはしより、道具はずっと軽い。少し力を入れただけで、板が大きく軋んだ。
「力が強くなったな」
「鉱山で鍛えられました」
「便利な言い方をするな」
「事実です」
「なら、その力を扱う方法も覚えろ。力がある奴ほど、細かい作業では慎重にならないといかん」
父親が隣で手本を見せる。
古い板を外す。
傷んだ部分を切る。
残っている木材の状態を確認する。
新しい板を合わせる。
一つ一つの作業には、理由があった。
「屋根は、上から板を置けば終わりじゃない」
父親は防水布を広げながら言った。
「水がどこへ流れるかを考える。下の板へ、上の板を重ねるんだ」
ウィルは頷いた。
ダンジョンで地図を覚えるときと似ている。
周囲を見る。
順番を考える。
失敗したとき、何が起こるかを想像する。
力だけではできない仕事だった。
「覚えられそうか?」
「たぶん」
「お前は昔から、道や手順を覚えるのは早かったな」
「絵は下手でしたけど」
「今も下手か?」
「7年間、絵を描く機会はありませんでした」
「なら、変わっていないだろうな」
父親が笑った。
ウィルも、少しだけ息を吐いた。
屋根の修理は、昼過ぎまでかかった。
完全に直ったわけではない。腐った板の一部を外し、持ってきた板へ交換した。
その上から、防水布も張った。
少なくとも、次の雨で鍋をいくつも並べる必要はなくなったらしい。
「今日はここまでだ」
父親が道具を木箱へ戻す。
「残りは、材料を買ってからだな」
「今日使った分はいくらですか?」
「まだ言うのか」
「払います」
「なら、貸しにしておく」
「金額は?」
「屋根が全部直ったときに決める」
「それでは困ります」
「俺は困らん」
「俺が困ります」
父親は腕を組み、ウィルを見る。
「それなら、うちの食堂で何か壊れたときに手伝え」
「日曜大工はできません」
「今日、覚えただろう」
「一部だけです」
「なら、これから覚えろ」
拒む言葉を探したが、見つからなかった。
父親は満足そうに頷く。
「決まりだな」
「勝手に決めないでください」
「嫌なら、金ができたときに払え。それまでは貸しだ」
ウィルは諦めて、頭を下げた。
「ありがとうございます」
「最初から、そう言えばいい」
父親がウィルの肩を軽く叩く。
その手は、昔と変わらず大きかった。
「俺たちは、お前を哀れんで来たわけじゃない」
父親は静かに言った。
「帰ってきたから来た。それだけだ」
「……はい」
「困ったときは頼れ。できることと、できないことはあるがな」
何でも助けるとは言わない。無実を証明してやるとも言わない。
できる範囲で手を貸す。
今のウィルには、それがちょうどよかった。
◇
帰る前に、アレナは空になった鍋を籠へ戻した。
「明日は、食堂に来る?」
「ダンジョンへ行く」
「帰りに」
「俺が店へ入れば、客が嫌がるかもしれない」
「嫌がる人は、嫌がればいい」
「店で働く人間が言うことじゃない」
「うちの店は、食事をする場所。刑期を終えた人を追い返す場所じゃない」
アレナは淡々と答えた。
「それに、店主はお父さんだから」
「俺の店だぞ」
道具箱を持った父親が口を挟む。
「お父さんも、同じことを言うでしょう」
「まあな」
「なら、問題ない」
アレナは籠を持ち上げた。
「来ないなら、また食事を持ってくる」
「毎日来るつもりか?」
「ウィルが食堂に来るまで」
「自分で作れる」
「ニンジンが硬いスープを?」
「次は長く煮る」
「肉は?」
「稼いだら買う」
「豆は?」
「買う」
「塩の量は?」
「適当に」
「それが駄目」
アレナは小さくため息をついた。
「明日、食堂に来て」
「考えておく」
「来るまで、毎日多めに作る」
「客に出せばいいだろう」
「ウィルの分だから」
アレナはそう言うと、父親より先に歩き出した。
だが、町へ続く道とは反対へ進んでいる。
「アレナ、そっちは森だ」
ウィルが声をかける。
アレナは足を止め、周囲を確認した。
「分かっていた」
「分かっていなかっただろう」
「家を一周しようとしただけ」
「籠を持って?」
「散歩」
「朝も似たようなことを言っていたぞ」
父親が笑いながら、アレナの肩を掴んだ。
「町はこっちだ」
「知ってる」
連れられるように、アレナが正しい道へ向かう。
その途中で、一度だけ振り返った。
「ウィル」
「なんだ?」
アレナは少し迷ったあと、口を開いた。
「おかえり」
昨日、誰もいない家で言った言葉。
母親の墓前でも口にした言葉。
返事を聞くことはできなかった。
今度は違った。
「……ただいま」
ウィルが答えると、アレナは小さく頷いた。
それ以上は何も言わず、父親と一緒に町へ戻っていく。
二人の姿が見えなくなるまで、ウィルは家の前に立っていた。
◇
夕方。
ウィルは食卓へ座り、屋根を見上げた。
穴が開いていた場所には、新しい板が張られている。古い屋根と色が違うため、直した部分だけが目立っていた。
完全に修理できたわけではない。
壁には隙間があり、床も軋む。庭も草だらけだ。
それでも、昨日より少しだけ家らしくなった。
ウィルはランプへ火をつけた。
柔らかな明かりが、室内を照らす。
小さな食卓。
二脚の椅子。
母親の作業机。
新しく直された屋根。
7年間、誰も暮らしていなかった家に、今日も明かりがついた。
昨日は、その明かりを見た誰かが噂にした。そして今日、アレナと父親が訪ねてきた。
誰にも見つからないように生きてきた7年間。
目立たず。
話さず。
期待せず。
それが、自分を守る方法だった。
だが、家に明かりをつければ、誰かに見つかる。訪ねてくる者もいる。
それが怖くないわけではない。
また傷つけられるかもしれない。
信じた相手を、また失うかもしれない。
それでも、誰にも見つからない人生を続けるために、ここへ帰ってきたわけではなかった。
ウィルは胸元の布袋へ触れた。
「帰ってきたよ」
母親へ向けて、静かに呟く。
壊れた家は、すぐには元へ戻らない。
自分の人生も同じだ。
腐った部分を確かめる。
一つずつ取り外す。
その上から、新しい板を重ねていく。
直した跡は残る。
元どおりにはならない。
それでも、雨を防げる家にはできる。
もう一度、誰かと食卓を囲める場所にもできる。
明日は、またダンジョンへ行く。
魔物を倒し、金を稼ぐ。
少しずつ材料を買う。
そして、この家を直していく。
7年ぶりに灯った明かりは、夜が深くなるまで消えなかった。




