第5話 森ゴブリン
目を覚ましたとき、頭の奥にはまだ鈍い痛みが残っていた。
昨夜、《治癒・小》と《ダンジョンワープ》を続けて使ったせいだろう。
身体を起こすと、左腕にもわずかな痛みが走った。
角ウサギの突進を、何度も盾で受けた腕だ。
「治ってはいないか」
動かせないほどではない。
だが、完全に回復したわけでもなかった。
もう一度《治癒・小》を使えば、痛みは消えるかもしれない。
けれど、ウィルは魔法を使わなかった。
今すぐ治さなければならない怪我ではない。
魔力がどの程度回復しているのかも分からなかった。
便利な力を手に入れたからといって、何も考えずに使えばいいわけではない。
ウィルは寝台を降りた。
ぽつん。
台所から、水滴が鍋へ落ちる音が聞こえる。
昨夜は雨が降っていなかった。
屋根の隙間に残っていた水が、まだ落ちているらしい。
鍋の中には、薄く濁った水が溜まっていた。
ウィルは天井を見上げる。
穴の周囲まで、木が黒く変色している。
板を一枚張り替えるだけでは済まない。
屋根材も必要だ。
梯子もない。
自分で直すとしても、道具と材料を買わなければならない。
昨日稼いだ銅貨三十一枚では、とても足りないだろう。
「まだ先だな」
ウィルは鍋の水を捨てた。
それから革袋の硬貨を数える。
食料を買う金はある。
だが、無駄遣いはできない。
朝食を外で買えば、それだけ金が減る。
今日からは、自分で作った方がいい。
家の棚に残されていた鍋は、洗えばまだ使えそうだった。
包丁も、少し錆びているだけだ。
火を起こす薪も、庭の隅に何本か残っている。
足りないのは食材だった。
ウィルは昨日手に入れた革防具を身につけた。
片手剣を腰へ下げ、円盾は《アイテムボックス》へ収納する。
町中で盾まで持ち歩けば、余計に目立つ。
犯罪者が武装して歩いている。
そう騒がれても困る。
最後に胸元へ触れ、母親の布袋があることを確かめる。
ウィルは家を出た。
◇
朝の市場には、すでに多くの人が集まっていた。
野菜を並べる店。
干し肉や魚を売る店。
焼きたてのパンを積んだ店。
ウィルは人の少ない端を歩いた。
こちらの顔に気づき、目を逸らす者もいる。
逆に、露骨に見つめてくる者もいた。
「昨日戻ってきたらしい」
「あの事件の……」
「七年で出てきたのか?」
小声で話しているつもりなのだろう。
だが、ウィルには聞こえていた。
立ち止まることはしなかった。
言い返しても何も変わらない。
今のウィルには、言葉より先に必要なものがある。
食べ物と、金だ。
形の悪い芋。
細いニンジン。
外側が傷んだ玉ネギ。
売り物として見栄えの悪い野菜を選び、少し安く買う。
店主はウィルの顔を何度か見た。
それでも、金を受け取ることは拒まなかった。
最後に塩を少量買う。
市場を出ようとしたところで、パン屋の前を通った。
並んでいるのは、白いパンと黒いパン。
白いパンは高い。
黒パンは安い。
ウィルは黒パンを見た。
鉱山刑務所で毎日食べていたものより、少しだけ柔らかそうだった。
それでも、買う気にはなれない。
「黒パンなら、昨日の残りを安くするよ」
店主が声をかけてきた。
「いりません」
「そうかい」
ウィルは迷った末、小さな白パンを一つだけ買った。
黒パンよりも三倍近く高い。
贅沢だとは思った。
だが、七年間食べ続けたものを、自由になった翌日からまた選ぶ気にはなれなかった。
白パンと野菜を《アイテムボックス》へ収納する。
昨日買った蒸し芋は、何時間経っても温かさを保っていた。
この中なら、野菜も長く保存できるはずだ。
食料を無駄にせずに済む。
それだけでも、家計はかなり助かるだろう。
ウィルは市場を離れ、冒険者協会へ向かった。
◇
昨日よりも、協会の中は空いていた。
朝早くから依頼へ向かう冒険者が多いらしい。
受付の列へ並ぶ。
昨日登録を担当した女性が、ウィルに気づいた。
「あ……昨日の」
「おはようございます」
「おはようございます。無事に戻られたんですね」
「ああ」
その言葉に、受付の女性は少し安心したようだった。
「角ウサギと戦ったと聞きました」
「もう伝わっているのか?」
「入口の衛兵から報告がありました。初日に角ウサギと交戦し、怪我をした新人がいると」
ウィルは左腕を見た。
「大した怪我じゃない」
「初日に大怪我をする方は、皆さんそう言います」
「……そうですか」
「そうなんです」
女性の口調は穏やかだったが、少しだけ厳しい。
昨日より話し方が柔らかくなっている気がした。
「今日は、どの魔物を狙う予定ですか?」
「森ゴブリン」
受付の女性の表情が曇った。
「昨日、角ウサギに苦戦したばかりですよね?」
「だから、先に聞きに来た」
「聞きに?」
「森ゴブリンの戦い方を知りたい」
受付の女性が、わずかに目を瞬かせる。
無謀に突っ込むと思われていたのかもしれない。
「少々お待ちください」
女性は受付の奥から、一枚の古い資料を持ってきた。
そこには森ゴブリンの絵と、簡単な特徴が書かれている。
「森ゴブリンは、スライムや角ウサギと違い、簡単な道具を使います」
女性が絵の中にある棍棒を指した。
「多くは木製の棍棒です。素手の個体や、石を投げる個体も確認されています」
「速さは?」
「角ウサギほどではありません。成人男性より少し素早い程度です」
成人男性より少し速い。
敏捷八のウィルよりは、確実に速いだろう。
「正面から戦えば勝てますか?」
「筋力だけなら、あなたの方が上だと思います」
受付の女性は、そこで言葉を切った。
「ただし、森ゴブリンは考えて戦います」
「考える?」
「相手の武器を見ます。隙があれば背後へ回り込みますし、不利だと思えば仲間を呼ぶこともあります」
一匹を見つけても、近くに別の個体がいるかもしれない。
資料にも、同じ注意書きがあった。
「一匹だからといって、すぐ近づかないでください。周囲をよく確認してください」
「分かりました」
「それから、盾で棍棒を防ぐときは、腕だけで受けないでください」
ウィルは女性を見る。
「昨日の報告に、盾で何度も突進を受けたと書かれていました」
「見ていたのか?」
「いえ。左腕の腫れと盾の傷を見れば、ある程度は分かります」
受付の女性は、自分の左腕を身体へ引き寄せるように動かした。
「盾を身体から離して構えると、衝撃がすべて腕へ入ります。肘を少し曲げ、身体全体で受けてください」
ウィルも同じように腕を動かしてみる。
「こうですか?」
「もう少し盾を内側へ」
女性が机越しに指示する。
「そうです。足も前後に開いてください。真正面から立つより、押し込まれにくくなります」
受付の仕事だけでなく、戦い方にも詳しいらしい。
「冒険者だったんですか?」
「以前は」
女性は短く答えた。
それ以上聞いてほしくなさそうだった。
ウィルも尋ねなかった。
「ありがとうございます」
「お礼は、無事に帰ってきてからにしてください」
「分かりました」
「それと、本当に危険だと思ったら逃げてください」
「ああ」
「返事が軽いです」
「必ず逃げます」
言い直すと、女性はようやく頷いた。
◇
《ユーカリ森林迷宮》の入口に着くと、昨日の衛兵が詰め所の前に立っていた。
ウィルを見るなり、眉間にしわを寄せる。
「お前、昨日いきなり消えただろう」
「ワープしました」
「見れば分かる!」
衛兵の声が大きくなる。
「こっちは、目の前で新人が光に包まれて消えたんだぞ。何か事故が起きたのかと思った」
「すみません」
「試すなら、一言言え」
「次から気をつけます」
「次もここで消える気か……」
衛兵は頭を押さえた。
ウィルは冒険者証を見せる。
「今日は森ゴブリンを探します」
「昨日、角ウサギにやられたばかりだろう」
「やられてはいません」
「腕を腫らして帰ってきた奴が言う言葉じゃない」
否定できなかった。
衛兵はため息をついた。
「森ゴブリンは、一匹見つけてもすぐに近づくな。仲間が隠れていることがある」
「協会でも聞きました」
「なら、分かっているな」
「はい」
「日が暮れる前に戻れ」
昨日と同じ言葉だった。
ウィルは頭を下げ、石造りの門をくぐった。
◇
迷宮へ入ると、まず円盾を取り出した。
左腕へ装着する。
昨日よりも、少し身体へ近づけて構えた。
肘を軽く曲げる。
足を前後に開き、押し込まれにくい姿勢を作る。
そのまま、近くの木の幹へ盾を軽く当てた。
昨日は、腕だけで攻撃を止めようとしていた。
受付の女性に教えられた構えなら、身体全体で衝撃を受けられる。
実際の戦闘で、どこまで役に立つかは分からない。
だが、知らないよりはいい。
ウィルは昨日と同じ道を進んだ。
木の形。
岩の位置。
道の曲がり方。
一度通った場所は、ほとんど覚えている。
途中でスライムを二体見つけた。
一体ずつ盾で攻撃を防ぎ、剣で倒す。
スライム討伐数:十二体。
次回チケット獲得まで、あと八体。
もう一度十体を倒せば、さらにチケットを一枚得られる。
だが、今日の目的はスライムではない。
森ゴブリンを探し、三種類目の討伐を達成する。
そのために来た。
昨日、角ウサギと戦った場所を通り過ぎる。
木の幹には、角が突き刺さった跡が残っていた。
さらに奥へ進むと、道の雰囲気が少し変わった。
地面に、小さな足跡がある。
人間よりも小さい。
だが、二本足で歩いている。
森ゴブリンのものかもしれない。
ウィルは足を止めた。
周囲を見回す。
木の陰。
茂みの中。
頭上。
動くものはない。
それでも、すぐには進まなかった。
受付で言われたことを思い出す。
一匹を見つけても、周囲に別の個体がいる可能性がある。
まだ一匹も見つけていない。
だが、足跡があるということは、近くを通ったということだ。
ウィルは地面へ膝をついた。
足跡の縁が崩れていない。
古いものではなさそうだった。
向きは、森の奥へ続いている。
足跡を追い、慎重に歩く。
しばらくすると、硬いものを叩く音が聞こえた。
こん。
こん。
一定ではない、不規則な音だった。
ウィルは大きな木の陰へ身を隠した。
ゆっくり顔だけを出す。
少し先の開けた場所に、小柄な魔物がいた。
緑色の肌。
尖った耳。
痩せた身体へ、動物の皮を巻きつけている。
手には、太い木の枝を削った棍棒。
森ゴブリンだ。
棍棒で、地面に落ちた木の実を叩いている。
一匹。
見える範囲には、他の魔物はいない。
ウィルはすぐには出ていかなかった。
反対側の木陰。
奥の茂み。
少し高くなった岩の上。
隠れられそうな場所を、一つずつ見る。
何も動かない。
森ゴブリンは、まだウィルに気づいていなかった。
背後から近づけば、先に攻撃できるかもしれない。
だが、ウィルは動かなかった。
本当に一匹だけなのか。
確認できていない。
それに、背後から音を立てずに近づける自信もない。
森ゴブリンが突然顔を上げた。
鼻を動かし、周囲を見回す。
ウィルは木の陰へ顔を戻した。
見つかったか。
棍棒で地面を叩く音が止まる。
代わりに、草を踏む足音が聞こえた。
近づいてくる。
ウィルは片手剣を抜いた。
円盾を構える。
足音が、木の反対側まで来た。
「ギャッ!」
森ゴブリンが飛び出してくる。
ウィルは盾を前へ出した。
棍棒が振り下ろされる。
硬い音が響いた。
衝撃が、盾から左腕へ伝わる。
昨日ほど痛くない。
腕だけではなく、足と肩でも受け止められた。
教えられた構えは、間違っていなかった。
ウィルは盾を押し返した。
森ゴブリンが一歩下がる。
そこへ剣を振る。
だが、森ゴブリンは素早く身体を引いた。
刃は、胸の前を通り過ぎる。
「ギギッ!」
森ゴブリンが笑った。
黄色い歯が見える。
こちらの剣が当たらないと分かっているようだった。
再び棍棒を振り上げる。
今度は、盾ではなく右手を狙ってきた。
ウィルは剣を引き、盾で受ける。
棍棒が盾の縁へ当たった。
森ゴブリンはすぐに攻撃を止め、横へ回り込む。
速い。
角ウサギほどではない。
だが、動きに規則性がなかった。
突進するだけの角ウサギとは違う。
ウィルの盾の位置を見て、攻撃する場所を変えている。
右側へ回り込まれた。
ウィルは身体ごと向きを変える。
森ゴブリンが、また一歩横へ動く。
盾のない側を狙っている。
「考えるって、こういうことか」
ただ攻撃を防ぐだけでは、いずれ背後へ回られる。
ウィルは自分から前へ出た。
盾を突き出す。
森ゴブリンは後ろへ跳んだ。
距離が開く。
次の瞬間、森ゴブリンが左手を腰へ伸ばした。
何かを投げる。
小さな石だった。
ウィルは反応できなかった。
石が額へ当たる。
「っ!」
痛みで視界が揺れた。
森ゴブリンが笑い声を上げる。
そのまま、棍棒を手に飛び込んできた。
ウィルは円盾を持ち上げた。
棍棒がぶつかる。
だが、受け止めた直後、森ゴブリンが盾を掴んだ。
細い腕で、盾を横へ引っ張る。
ウィルの姿勢が崩れた。
棍棒を持った右手が動く。
盾を掴んだまま、脇腹を殴るつもりだ。
ウィルは左腕へ力を込めた。
盾ごと、森ゴブリンを引き寄せる。
「ギッ!?」
力では、ウィルの方が上だった。
予想していなかったのか、森ゴブリンの身体が前へ流れる。
ウィルは右足を上げた。
森ゴブリンの腹へ、正面から蹴りを入れる。
軽い身体が地面を転がった。
手から棍棒が離れる。
今なら、攻撃できる。
ウィルは剣を構えて踏み込んだ。
倒れた森ゴブリンが、こちらを見た。
人間に近い顔。
怯えたように目を見開いている。
一瞬だけ、剣を振る腕が止まった。
その隙に、森ゴブリンが地面の土を掴んだ。
ウィルの顔へ投げつける。
「っ!」
目を閉じる。
その瞬間、足元を何かに払われた。
倒れた森ゴブリンが、ウィルの足を蹴ったのだ。
身体が傾く。
地面へ片膝をついた。
視界が戻ったときには、森ゴブリンが棍棒へ手を伸ばしていた。
迷えば、自分が死ぬ。
ここは刑務所ではない。
相手は降伏した人間でもない。
ウィルを殺そうとしている魔物だ。
「……悪い」
昨日、角ウサギへ言ったのと同じ言葉が口から出た。
ウィルは片膝をついた姿勢のまま、剣を横へ振った。
刃が森ゴブリンの首元へ入る。
「ギャッ!」
緑色の身体が地面へ倒れた。
それでも、まだ動いている。
ウィルは立ち上がり、もう一度剣を振り下ろした。
今度こそ、森ゴブリンの動きが止まる。
身体が淡い光へ包まれた。
無数の粒子となり、森の中へ消えていく。
あとには、小さな魔石と、使っていた棍棒が残された。
ウィルは荒い息を吐いた。
一匹だ。
森ゴブリン一匹を倒しただけ。
それなのに、額には石を受けた。
目潰しもされた。
足も払われた。
少し判断が遅ければ、棍棒で頭を殴られていたかもしれない。
『森ゴブリンを初めて討伐しました』
『ガチャチケットを一枚獲得しました』
ガチャチケット:四枚。
ユーカリ森林迷宮・討伐種類数:三種類。
『規定の討伐種類数へ到達しました』
『コンプリート報酬を獲得します』
目の前へ、二つの文字が浮かび上がった。
《森林歩行》
《気配察知・小》
「二つ……?」
最初に光ったのは、《森林歩行》だった。
緑色の光が、ウィルの足元へ集まる。
そのまま両脚を包み込み、身体の中へ入っていく。
頭の中に、スキルの内容が浮かんだ。
《森林歩行》
森林内における足場の影響を軽減します。
木の根、落ち葉、浅い泥などによる姿勢の乱れが減少します。
森林内での移動による疲労を、わずかに軽減します。
ウィルは足元を見た。
地面には、湿った落ち葉が積もっている。
試しに一歩踏み出す。
今までは、足を置く場所を選ばなければ滑りそうだった。
だが、今は靴の裏が地面へ吸いつくように安定している。
速くなったわけではない。
力が増えたわけでもない。
それでも、森の中を歩くことが少し楽になっていた。
次に、《気配察知・小》の文字が光る。
淡い光が頭と胸へ入り込んだ。
《気配察知・小》
一定範囲内に存在する、敵意や強い生命反応を感知します。
正確な位置、種類、数を把握することはできません。
能力差や遮蔽物により、感知できない場合があります。
「気配……」
どう使えばいいのか考えた、そのときだった。
背中が冷たくなる。
視界では何も見ていない。
音も聞こえない。
それでも、自分の斜め後ろ。
少し離れた茂みの中に、何かがいる。
そう感じた。
敵意。
はっきりした位置ではない。
だが、こちらを見ている何かの存在が、頭の奥へ引っかかっている。
ウィルは振り返らなかった。
今、倒した森ゴブリンは一匹だった。
本当に一匹だけだったのか。
受付と衛兵の言葉を思い出す。
一匹を見つけても、すぐに近づくな。
仲間が隠れていることがある。
ウィルは地面に落ちた魔石へ手を伸ばすふりをした。
円盾を少し下げる。
隙を見せる。
背後の気配が強くなった。
草が、わずかに鳴る。
ウィルはその瞬間、身体を左へ捻った。
棍棒が、先ほどまで頭のあった場所を通り過ぎる。
「ギャッ!?」
二匹目の森ゴブリンが、茂みから飛び出していた。
完全に不意を突いたつもりだったのだろう。
攻撃を避けられ、体勢を崩している。
ウィルは円盾を正面から突き出した。
盾の縁が、森ゴブリンの胸へ当たる。
小さな身体が後ろへ倒れた。
逃げる前に距離を詰める。
森ゴブリンが地面から石を拾おうとした。
同じ手は受けない。
ウィルは石を持つ手を、剣の平らな部分で打った。
森ゴブリンが悲鳴を上げ、石を落とす。
続けて棍棒を振ってきた。
円盾で受ける。
身体全体で衝撃を止め、そのまま前へ押し込む。
森ゴブリンの背中が、木の幹へぶつかった。
逃げ道がなくなる。
ウィルは剣を突き出した。
刃が胸へ入る。
森ゴブリンの身体から力が抜けた。
光の粒子へ変わり、消えていく。
あとには、二つ目の魔石と棍棒が残された。
ウィルは周囲を見回した。
《気配察知・小》へ意識を向ける。
もう、敵意は感じない。
今度こそ、本当に一人になったらしい。
「これがなかったら……」
二匹目の森ゴブリンには、まったく気づいていなかった。
新しいスキルを手に入れるのが少し遅ければ、棍棒で後頭部を殴られていた。
《気配察知・小》は、敵を倒す力ではない。
剣の威力も上がらない。
身体が速くなるわけでもない。
それでも、ウィルには何より価値のある力に思えた。
不意打ちに気づける。
戦う前に、危険を知ることができる。
臆病な自分には、よく合っている。
ウィルは二匹分の魔石と棍棒を、《アイテムボックス》へ収納した。
額へ触れる。
石が当たった場所が、少し腫れていた。
脇腹にも、棍棒がかすめた痛みがある。
治癒魔法を使うほどではない。
今日は、魔力を残しておく。
森の奥へ進めば、さらに森ゴブリンがいるかもしれない。
スライムをあと八体倒せば、チケットも増える。
だが、ウィルは戻ることにした。
目的だった三種類目の討伐は達成した。
新しいスキルも得た。
これ以上欲を出す必要はない。
「生きて帰る方が大事、か」
受付の女性の言葉を思い出す。
今日も無事に帰れば、明日また来られる。
ウィルは記憶していた道を戻り始めた。
《森林歩行》のおかげで、足取りは昨日よりも安定していた。
◇
「戻ったか」
迷宮の門を出ると、衛兵が声をかけてきた。
ウィルは頷く。
「森ゴブリンを二匹倒しました」
「二匹?」
「一匹、隠れていました」
「怪我は?」
「石を額に受けました」
衛兵がウィルの額を見る。
「森ゴブリン相手に、正面だけ見ていたな?」
「はい」
「初めてなら、よくあることだ」
怒られると思っていたが、衛兵は責めなかった。
「それで死ぬ奴もいる。次からは、先に周囲を見ろ」
「気をつけます」
「昨日よりは、少し冒険者らしい顔になったな」
「顔が変わったんですか?」
「そういう意味じゃない」
衛兵は呆れたように言った。
ウィルには、別の意味がよく分からなかった。
買取所へ向かう。
二匹分の森ゴブリンの魔石と、棍棒を二本並べた。
棍棒にはほとんど価値がないらしい。
それでも、薪や加工用の木材として、わずかな金にはなった。
途中で倒したスライム二匹の魔石も合わせ、銅貨十八枚。
昨日より少ない。
それでも、確かに稼いだ金だった。
◇
迷宮の入口近くで、《ダンジョンワープ》を使った。
今回は、衛兵へ先に伝えた。
「今から消えます」
「言い方が不気味なんだよ」
衛兵の声を聞きながら、詠唱する。
「道を繋ぎ、我を記されし地へ運べ――《ダンジョンワープ》」
青白い光に包まれる。
次に目を開けたときには、自宅の中に立っていた。
昨日ほど強い頭痛はない。
今日は《治癒・小》を使っていないため、魔力に余裕があるのだろう。
それでも、頭の奥に軽い重さを感じた。
転移魔法を何度も使えるわけではなさそうだ。
ウィルは装備を外し、《アイテムボックス》へ収納した。
市場で買った野菜と白パンを取り出す。
芋。
ニンジン。
玉ネギ。
塩。
母親が作っていた野菜スープには、もっと多くの野菜が入っていた。
肉も、時々入っていた。
今日の材料だけでは、同じ味にはならない。
それでも、作り方は覚えている。
鍋をよく洗い、井戸から汲んだ水を入れる。
野菜を小さく切る。
薪へ火をつけ、鍋をかけた。
ぐつぐつと水が沸く。
野菜が柔らかくなるまで煮込み、最後に少しだけ塩を入れる。
湯気とともに、懐かしい匂いが広がった。
「……違うな」
一口飲んだだけで分かった。
母親の作ったスープとは違う。
味が薄い。
野菜の切り方も揃っていない。
火を止めるのも少し早かったらしく、ニンジンが硬かった。
料理が下手というほどではない。
だが、美味いとも言いにくい。
それでも、ウィルは二口目を飲んだ。
温かかった。
鉱山刑務所で配られていた、冷めた薄いスープとは違う。
自分で買った野菜を使い。
自分で火を起こし。
自分の家で作った食事だった。
小さな白パンを割り、スープへ浸す。
柔らかくなったパンを口へ入れる。
黒パンではない。
それだけで、少しだけ嬉しかった。
食卓の向かいには、空の椅子がある。
母親が座っていた場所だ。
ウィルはしばらく、その椅子を見つめた。
「三種類、倒したよ」
返事はない。
「新しい力も手に入った」
気配を感じる力。
森を歩きやすくする力。
大英雄が使うような、派手な能力ではない。
それでも、今日のウィルを生きて帰してくれた。
「明日も行く」
ウィルはスープを飲んだ。
味は、母親のものとは違った。
けれど、七年ぶりにこの家で食べる、温かい夕食だった。
【作者より】
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
少しでも読みやすく、皆様に愛していただける物語になるよう、一話ずつ大切に執筆しています。
ただ、書き続けていると、作者自身でも「この物語は面白いのだろうか」「続きを読みたいと思ってもらえているのだろうか」と、不安になることがあります。
それでも、こうして読んでくださる方がいることを、とても嬉しく、光栄に思っています。
少し厚かましいお願いになりますが、面白い、続きが気になると思っていただけましたら、♡や★、作品フォローなどで応援していただけると嬉しいです。
皆様からいただく反応の一つひとつが、続きを書く大きな励みになります。
これからも、ウィルが少しずつ人生を取り戻していく姿を見守っていただけましたら幸いです。




