第68話 水晶の中の男
「ようやく来たか」
黒い扉の向こうから、男の声が響いた。
低く、落ち着いた声だった。
魔物の唸り声ではない。
人間の言葉。
ウィルは剣を構えたまま、扉へ近づかない。
扉の中央には、巨大な赤い水晶が埋め込まれている。
その中に、人影があった。
身体の半分以上が赤い光に包まれている。
頭を下げていた人影が、ゆっくりと顔を上げた。
男だった。
長い黒髪。
痩せた顔。
年齢は四十前後に見える。
目は開いている。
だが、瞳は赤く濁っていた。
「人間か」
ゲイルが槍を向けた。
「そう見えるか?」
男が笑う。
口元は動いていない。
声は水晶の中から、直接頭へ響いているようだった。
「名前を言え」
「名か」
男は少し考えるように目を伏せた。
「長く呼ばれていない」
「答えろ」
「命令する立場だと思っているのか?」
水晶が脈打つ。
ドクン。
床を走る黒い線が、赤く光った。
槍士団の兵士たちが身構える。
「全員、線から離れろ」
ゲイルが命じる。
兵士たちはすぐに壁際へ移動した。
ウィルも足元を確認する。
黒い線は階段から続き、扉の中央にある水晶へ集まっていた。
まるで、この場所全体が水晶へ血を送っているように見える。
「先遣隊を魔物へ変えたのは、お前か」
ウィルが尋ねた。
男の視線がウィルへ動く。
「違う」
「では、赤い水晶か」
「半分は正しい」
「残り半分は」
「彼ら自身だ」
槍士団の兵士たちの表情が険しくなる。
「仲間を侮辱するな」
一人が槍を構えた。
男は興味を失ったように目を逸らした。
「人は皆、変わりたいと願う」
「奴らは望んでいなかった」
ウィルが言う。
「本当にそうか?」
「何を言っている」
「強くなりたい。死にたくない。仲間を守りたい」
男の声が広間へ広がる。
「その願いを、あれは叶えただけだ」
「理性を奪い、仲間を襲わせることが願いを叶えることか」
「力を得るには代償がいる」
男は平然と答えた。
ゲイルが一歩前へ出る。
「制御できるのか」
ウィルが横を見る。
「ゲイル」
「黙っていろ」
ゲイルは男だけを見ている。
「人間の形と理性を保ったまま、力を得る方法があるのか」
水晶の中の男が笑った。
「やはり、お前は違う」
「質問に答えろ」
「ある」
兵士たちの間に動揺が走る。
ウィルは剣の柄を強く握った。
「嘘だ」
「なぜそう思う」
「できるなら、先遣隊をあんな姿にする必要はなかった」
「あれは失敗ではない」
「何だと」
「選別だ」
男の声に、わずかな喜びが混じった。
「力に耐えられない者は、形を失う。理性を失う。器が足りなかっただけだ」
「人間を実験に使ったのか」
「勝手に触れたのは彼らだ」
「危険だと知らせていなかった」
「知らぬものへ手を伸ばした責任まで、私が負う必要があるか?」
ウィルの中に怒りが広がる。
だが、剣は抜いたまま動かない。
感情に任せて近づけば、相手の思うつぼかもしれない。
「扉を開けたのは誰だ」
ウィルが尋ねる。
「お前たちの言う先遣隊だ」
「その前は」
「長い間、誰も来なかった」
「お前はいつからそこにいる」
男は答えない。
赤い水晶の内部で、黒い影が揺れる。
「このダンジョンを作ったのはお前か」
「違う」
「水晶を作ったのは」
「それも違う」
「なら、お前は何者だ」
男は初めて、少しだけ困ったような表情を見せた。
「守る者」
「何を」
「可能性を」
ゲイルが鼻で笑う。
「曖昧な答えだ」
「人間は、答えをすぐに欲しがる」
「必要だからだ」
「理解する前に結論を出す。それで、どれほどのものを失った?」
男の視線がゲイルからウィルへ移る。
「お前もそうだろう」
ウィルは眉を寄せた。
「何の話だ」
「罪人ではないと訴えながら、誰にも聞かれなかった」
広間の空気が変わった。
リディアが息を呑む。
ゲイルの目が細くなる。
「なぜ知っている」
ウィルは一歩だけ前へ出た。
「水晶は記憶を読む」
「俺は触れていない」
「すでに触れている」
男の声と同時に、ウィルの剣が赤く光った。
「なに?」
剣についた、わずかな黒い血。
元兵士との戦いで付着したものだった。
血の中に、小さな赤い結晶が混じっている。
ウィルはすぐに剣を床へ落とした。
「触るな!」
仲間たちへ叫ぶ。
剣の表面を、細い赤い線が這い始める。
まるで生き物のように、柄へ向かって進んでいた。
ウィルは足で剣を遠ざける。
「血に触れなくても、武器を通じて広がるのか」
リディアが呟く。
「血だけではない」
水晶の中の男が言う。
「力は、力を求めるものへ引かれる」
「意味が分からない」
「剣を握ったとき、何を願っていた」
ウィルは答えない。
ゲイルへ勝つこと。
強くなること。
助けられなかった者を、次は救うこと。
いくつもの思いがあった。
「お前は強くなりたい」
男が言う。
「違うか?」
「違わない」
「なら、なぜ拒む」
「力の代わりに、自分を失うつもりはない」
「失うとは限らない」
「先遣隊は失った」
「彼らとお前は違う」
男の声が甘くなる。
「七年を耐えた」
ウィルの脳裏に、鉱山の暗闇が浮かぶ。
狭い坑道。
汗と血の臭い。
崩れた岩。
呼んでも戻ってこない声。
「罪を押しつけられながら、生き残った」
「黙れ」
「憎しみを抱えながら、まだ誰かを助けようとしている」
「黙れ」
「お前の器なら、耐えられる」
赤い光が強くなる。
床へ落とした剣が震えた。
柄から黒い煙が上がる。
「ウィル、離れて!」
リディアが腕を掴む。
ウィルは後ろへ下がった。
水晶の中の男は、残念そうに目を細めた。
「惜しい」
「何がだ」
「あと少しで、望んだ力を得られた」
「いらない」
「ゲイルに勝つ力でも?」
ウィルの足が止まる。
男はそれを見逃さなかった。
「七年の差」
先ほどゲイルに言われた言葉。
「今のお前では届かない」
「黙れ」
「技術も、経験も、身体能力も足りない」
「分かっている」
「なら、埋めればいい」
「お前の力では埋めない」
「なぜだ」
「俺の力ではなくなる」
ウィルは男を睨む。
「俺は、あいつに勝ちたい」
ゲイルがわずかに眉を動かす。
「だが、何を使っても勝てばいいわけじゃない」
「勝たなければ、何も変わらない」
「勝ち方を捨てれば、俺まで変わる」
男はしばらく黙っていた。
やがて、ゲイルへ顔を向ける。
「では、お前はどうだ」
ゲイルは槍を下げない。
「力があるなら使う」
「ゲイル!」
槍士団の兵士が声を上げた。
「副団長、本気ですか」
「可能性を確認しているだけだ」
「先遣隊がああなったのですよ!」
「見た」
「なら――」
「恐怖で判断を止めるな」
ゲイルは男へ尋ねる。
「制御の条件は」
「ゲイル」
ウィルが低い声で呼ぶ。
「口を挟むな」
「奴の話を信じるのか」
「信じてはいない。情報を得ている」
「同じことだ」
「違う」
ゲイルはウィルを見た。
「敵の話を聞くことと、従うことは違う」
その点では、ゲイルが正しい。
だが、水晶の中の男は二人の対立を楽しんでいるように見えた。
「条件を言え」
ゲイルが繰り返す。
「三つある」
男が答えた。
「強い肉体」
「次は」
「死を恐れない精神」
「最後は」
男はゆっくりと笑った。
「大切なものを捨てること」
ゲイルの表情は変わらない。
ウィルは男の言葉の意味を考えた。
「何を捨てる」
「人によって違う」
「曖昧な答えはやめろ」
「家族。仲間。名前。記憶。良心」
兵士たちがざわめく。
「力を得る代わりに、どれかを失うということか」
ウィルが尋ねる。
「失うのではない」
「では何だ」
「自ら捨てる」
男は楽しそうに続けた。
「捨てられない者は、力に飲まれる」
「先遣隊は何も知らなかった」
「だから、何も選べなかった」
「選べば成功すると?」
「可能性は上がる」
「確実ではないのか」
「確実な力など存在しない」
ゲイルは水晶を見つめたまま動かない。
ウィルは横から、その表情を確認した。
何を考えているのか分からない。
だが、興味を失ってはいない。
「試すつもりか」
ウィルが尋ねる。
「まだ決めていない」
「考える必要もない」
「お前が決めることではない」
「お前一人の問題ではない」
「俺が失敗したときは、殺せばいい」
あまりにも簡単に言った。
槍士団の兵士たちが言葉を失う。
「副団長……」
「俺が理性を失えば、ためらうな」
「そのような命令には従えません」
「命令だ」
「できません!」
若い兵士が声を荒らげた。
「あなたを殺すために、ここへ来たわけではありません!」
ゲイルが兵士を見る。
「名は」
「カイルです」
「カイル。部隊に必要なのは、感情ではなく命令へ従う者だ」
「仲間を捨てる命令には従えません」
「俺が仲間でなくなってもか」
「それでもです!」
ゲイルは何も言わなかった。
カイルは震えていた。
怖いのだろう。
副団長へ逆らうことも。
ゲイルが魔物になることも。
そのどちらも恐れている。
「これが、お前の捨てられないものか」
水晶の中の男が言った。
ゲイルが視線を戻す。
「部下」
「黙れ」
「お前は、何も持たない男ではない」
「黙れと言った」
「だからこそ、力を得られるかもしれない」
男の声に、ゲイルが初めて苛立ちを見せた。
槍へ雷が集まる。
「扉ごと壊す」
「待て!」
ウィルが止める。
「なぜ止める」
「水晶が壊れたとき、何が起きるか分からない」
「先ほどは危険なら壊すと言っていた」
「調べてからだ」
「今がそのときだ」
「まだ足りない」
ゲイルは槍を構えたまま、ウィルを見る。
「では、何を聞く」
ウィルは水晶の中の男へ向き直った。
「扉の先に何がある」
「私の身体」
「水晶の中にいるのは身体ではないのか」
「これは器だ」
「本体は扉の向こうか」
「そうだ」
「なぜ閉じ込められている」
男の笑みが消えた。
「敗れたからだ」
「誰に」
「この場所を作った者に」
「お前は守る者ではなかったのか」
「かつてはな」
赤い水晶の中で、黒い影が広がる。
「私は力を守った」
「誰から」
「人間から」
「なら、なぜ今は人間へ力を与えようとしている」
男はしばらく答えなかった。
それだけで、ウィルには分かった。
「お前は外へ出たいだけだ」
男の表情が止まる。
「力を与える代わりに、誰かの身体を使うつもりだ」
槍士団の兵士たちが一斉に武器を構え直した。
ゲイルも男を見つめる。
「違うか」
ウィルが尋ねる。
「面白い」
男は低く笑った。
「何がだ」
「愚かではない」
「答えろ」
「力を得る者と、私は一つになる」
「やはり乗っ取るつもりか」
「共に生きるのだ」
「同じだ」
ウィルは剣を拾わない。
黒い血に侵された剣は、まだ床で震えている。
「先遣隊は器になれなかった」
「そうだ」
「ゲイルを器にするつもりだった」
「彼なら耐えられるかもしれない」
「俺にも同じことを言った」
「お前も候補だ」
男の目が赤く輝く。
「どちらが優れているか、試してもいい」
ドクン。
水晶が大きく脈打った。
床へ落ちていたウィルの剣から、赤い光が噴き出す。
「全員、下がれ!」
ゲイルが叫ぶ。
剣が浮き上がる。
刃が溶けるように形を失い、黒い塊へ変わっていく。
塊は膨らみ、人の形を作り始めた。
腕。
脚。
頭。
やがて、そこに立っていたのはウィルだった。
「な……」
リディアが言葉を失う。
同じ顔。
同じ体格。
ただし、皮膚は黒く、目は赤い。
手には、赤い結晶で作られた剣を握っている。
「お前の望んだ力だ」
水晶の中の男が言った。
黒いウィルが剣を構える。
「倒せるなら、拒む資格を認めよう」
「倒せなければ」
ウィルが尋ねる。
「お前が器になる」
黒いウィルが床を蹴る。
速い。
ゲイルと戦ったときよりも。
ウィルが反応する前に、赤い剣が目前へ迫った。




