第62話 英雄と呼ばれる男
新ダンジョンへの参加登録を済ませたあと、ウィルたちは町の商店を回った。
必要なのは、食料、薬、替えの武器、ロープ、明かり。
これまでのダンジョンでも使ってきたものばかりだったが、今回は量が違う。
どれほど深いのか。
何日かかるのか。
途中で補給できる場所があるのか。
何一つ分かっていない。
「保存食、もう少し買っておいた方がいいんじゃない?」
リディアが店先に積まれた固いパンを指差した。
「十分だ」
「ウィルの十分は信用できないよ」
「なぜだ」
「自分の分を減らして、みんなに渡すから」
「足りなくなればそうする」
「だから、足りなくならないように買うの」
リディアは勝手に保存食を追加した。
ウィルは止めなかった。
鉱山にいた頃は、一日分の食事を確保することすら難しかった。
水のように薄いスープ。
石のように固いパン。
それを奪われないように、壁を背にして食べた。
今は違う。
金を払い、必要な分を買える。
自分以外の人間が、ウィルの食事まで心配している。
それだけのことが、未だに少し不思議だった。
「次は薬だね」
「ああ」
薬屋へ入ると、回復薬と毒消しを多めに購入した。
未知のダンジョンでは、何が起きるか分からない。
毒。
麻痺。
病気。
呪い。
薬では対処できないものもあるが、準備を怠る理由にはならない。
「高いね」
リディアが値札を見ながら呟く。
「命よりは安い」
「それはそうだけど」
ウィルは迷わず金を払った。
以前なら、こんな使い方はできなかった。
ガチャチケットを得るため。
装備を整えるため。
少しでも強くなるため。
稼いだ金のほとんどを使ってきた。
だが、今回だけは惜しむつもりがなかった。
相手はゲイルだけではない。
入口付近にAランク級の魔物が現れるダンジョン。
まず生きて戻らなければ、ゲイルと戦うことさえできない。
◇
準備を終えた夜。
ウィルは一人で、ガチャの前に立っていた。
手元に残っているチケットを確認する。
今すぐすべて使うべきか。
それとも新ダンジョンで、さらにチケットを集めるべきか。
ガチャから何が出るかは分からない。
強力な武器が出ることもある。
役に立たない物が出ることもある。
どれほど考えても、結果を選ぶことはできない。
それでも、引かなければ何も得られない。
「回すか」
ウィルはチケットを投入した。
ガチャが光る。
内部で何かが回転する音が響き、やがて一つの玉が落ちてきた。
ウィルは、それを拾い上げる。
期待していたほどのものではなかった。
だが、使えないわけでもない。
新しいダンジョンでは、役に立つ可能性がある。
「もう一度」
続けてチケットを投入する。
再びガチャが回る。
落ちてきた玉を確認し、ウィルは僅かに眉を動かした。
武器ではない。
防具でもない。
それでも、これまで持っていなかった種類の報酬だった。
ゲイルを倒す切り札になるかは分からない。
だが、戦い方の幅は広がる。
ウィルは入手した物を確認し、仲間たちのいる部屋へ戻った。
「引いたの?」
真っ先に気づいたのはリディアだった。
「ああ」
「何が出た?」
「あとで見せる」
「今じゃ駄目なの?」
「使い方を確認してからだ」
「また一人で試すつもりじゃないよね」
「そのつもりだった」
「駄目」
即答された。
ウィルは黙る。
「危険なものだったらどうするの?」
「危険かどうかを確かめるために使う」
「そういうところだよ」
リディアは呆れたように額へ手を当てた。
「明日、みんなで確認しよう。何が起きても対応できるように」
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「一人で夜中に試さない?」
「試さない」
リディアは疑うような目を向けていたが、最後には頷いた。
「ならいいよ」
ウィルは自分の部屋へ戻った。
眠る前に、もう一度装備を確認する。
剣。
防具。
薬。
食料。
そして、ガチャから得た報酬。
どれほど準備をしても、不安が消えることはなかった。
だが、不安があるからこそ確認する。
恐れているからこそ、生き残る方法を考える。
無謀と勇気は違う。
鉱山で、嫌というほど学んだことだった。
◇
三日後。
町の北門前には、多くの冒険者が集まっていた。
大規模な調査隊。
参加者のほとんどがAランク以上。
身につけている装備だけを見ても、これまで一緒に依頼を受けた冒険者たちとは違う。
魔力を帯びた剣。
分厚い金属鎧。
複数の杖。
高価な魔法の鞄。
誰もが、いくつもの修羅場を生き抜いてきた者たちだった。
その中に、ウィルたちも並んでいる。
「見られてるね」
リディアが小さな声で言った。
「ああ」
周囲から向けられる視線。
好意的なものばかりではない。
「あれが鉱山帰りの男か」
「本当にAランク相当なのか?」
「最近、いくつもダンジョンを攻略したらしい」
「ガチャを持っているって噂だぞ」
「犯罪者じゃなかったのか?」
聞こえてくる声に、ウィルは反応しなかった。
慣れている。
七年間。
それよりも酷い言葉を、毎日のように浴びてきた。
今さら、噂話で足が止まることはない。
「大丈夫?」
リディアが尋ねる。
「問題ない」
「本当に?」
「あいつらが何を言おうと、ダンジョンの魔物は弱くならない」
「それはそうだけど」
「強さは、戦えば分かる」
ウィルは前を向いた。
やがて調査隊が出発する。
馬車に乗る者。
徒歩で進む者。
騎乗する者。
隊列は長く、町を出るまでにも時間がかかった。
北部山岳地帯までは、数日かかる。
平原を抜け、森を越え、その先に目的地がある。
移動中、ウィルは周囲の冒険者たちを観察していた。
誰が前衛か。
誰が魔法を使うのか。
誰が治療役なのか。
何か起きたとき、どの部隊がすぐに動けるか。
新ダンジョンでは、彼らと協力する可能性もある。
同時に、敵になる可能性もあった。
希少な素材。
宝箱。
攻略報酬。
ダンジョンでは、魔物より人間の方が危険なこともある。
「ずっと周りを見てるね」
リディアが話しかけてきた。
「覚えている」
「何を?」
「全員の装備と位置だ」
「そんなことまで覚えられるの?」
「必要だからな」
鉱山でも同じだった。
誰が食料を隠しているのか。
誰が弱い者を狙うのか。
誰が監視役へ密告するのか。
人間を見ていなければ、生き残れなかった。
違うのは、今は守るべき仲間がいることだった。
◇
移動を始めて三日目。
遠くに山脈が見え始めた。
灰色の岩肌。
山頂には雪。
その周囲には、黒い雲が留まっている。
新ダンジョンが発見されたのは、あの山の麓だ。
調査隊が休憩に入った頃、前方から馬の蹄の音が聞こえた。
最初は、一頭。
すぐに数が増える。
大勢の騎兵が、こちらへ向かっていた。
先頭に掲げられているのは、王国の紋章。
「槍士団だ」
誰かが声を上げた。
冒険者たちが立ち上がる。
馬に乗った兵士たちは、一糸乱れぬ動きで隊列の前方へ進んだ。
全員が長槍を持っている。
その中でも、中央を進む男だけは、明らかに他と違った。
銀色の鎧。
背中に負った長槍。
堂々とした姿勢。
周囲の者たちは、男を見るだけで声を上げた。
「雷槍だ」
「ゲイル副団長だ」
「あの人がいれば安心だ」
「本当に英雄が来たぞ」
英雄。
その言葉が、ウィルの耳に刺さった。
馬上の男が近づいてくる。
七年が経っている。
だが、忘れるはずがなかった。
自分を罪人へ落とした顔。
何もかもを奪った男。
ゲイル。
ウィルの手が、無意識に剣の柄へ伸びる。
「ウィル」
リディアが腕を掴んだ。
「分かっている」
ここで剣を抜くつもりはない。
兵士たちに囲まれた場所で襲えば、ただの犯罪者に戻る。
ゲイルを倒すだけでは駄目だ。
罪を暴き、自分の人生を取り戻す。
そのために、七年間生き延びた。
ゲイルを乗せた馬が、ウィルたちの近くを通る。
一度、そのまま通り過ぎた。
気づかなかったのか。
そう思った瞬間。
馬が止まった。
ゲイルが、ゆっくりと振り返る。
その視線が、ウィルを捉えた。
驚きはなかった。
怯えもなかった。
ただ、少し懐かしむように目を細めた。
「生きていたのか」
七年ぶりに聞く声。
ウィルの胸の奥で、積み重ねてきた怒りが燃え上がる。
それでも、剣は抜かなかった。
「ああ」
ウィルはゲイルを見上げた。
「お前を倒すためにな」
周囲の空気が凍りついた。
冒険者たちが息を呑む。
兵士たちが槍へ手をかける。
だが、ゲイルだけは笑っていた。
「そうか」
その笑みは、七年前と変わらない。
自分が勝つことを疑っていない者の顔だった。
「なら、ダンジョンで見せてもらおう」
ゲイルは前へ向き直る。
「七年かけて、お前がどれほど強くなったのかを」
馬が進み始める。
槍士団も、そのあとを追った。
ウィルは動かなかった。
遠ざかっていくゲイルの背中を見つめ続ける。
七年。
こちらが地獄で生き延びている間、あの男は英雄になった。
力を得た。
地位を得た。
多くの者から信頼を得た。
だが、それもすべて終わらせる。
「ウィル」
リディアが呼ぶ。
「大丈夫だ」
ウィルは剣の柄から手を離した。
「まだ戦わない」
「うん」
「だが、必ず倒す」
山脈の上で、雷が鳴った。
新ダンジョン。
ゲイル。
七年間追い続けた相手が、ようやく手の届く場所にいる。
ウィルは歩き出した。
今度は、奪われる側では終わらない。




