第58話 低く長い音
「盾を置いてから食べて」
アレナに言われ、俺は食堂の壁へ《沼甲の円盾》を立てかけた。
裂風イタチの攻撃で、表面には細い白い傷が増えている。
甲羅を深く切られたわけではない。
だが、アレナにはすぐ見つかった。
「また傷が増えてる」
「盾の傷だ」
「見れば分かるよ」
俺は椅子へ座った。
机の上には、肉と根菜を煮込んだスープ。
黒くない柔らかなパン。
湯気が上がっている。
「ウィルの方は?」
「怪我はない」
「本当に?」
「ああ」
アレナが俺の両腕を見る。
次に、首と顔。
裂風イタチの刃は防いだ。
浅い切り傷もない。
「今日は信じる」
「いつも信じていないのか」
「怪我をしても浅いって言う人のことは、全部は信じられない」
「浅ければ浅い」
「そういうところ」
何が悪いのかは分からない。
パンをちぎり、スープへ浸す。
「塔は、あと少しなの?」
「通常魔物は一種類。迷宮主はまだ見ていない」
「一種類を倒したら、すぐ迷宮主と戦う?」
「戦わない」
アレナの手が止まる。
「先に見る。攻撃と地形と、戻る道を調べる」
「うん」
「勝てないなら帰る」
「うん」
同じ返事だった。
だが、二度目の方が少し安心している。
「それなら、明日の分もパンを用意しておく」
「明日、行くとは言っていない」
「行かないの?」
「行く」
「じゃあ用意する」
間違ってはいない。
アレナは厨房へ戻る。
俺はスープを口へ運んだ。
鉱山では、明日の食事を用意してくれる人間はいなかった。
明日も帰ってくると考える人間もいなかった。
今はいる。
それを、当たり前だと思わないようにする。
◇
食事のあと、エドガーの部屋へ向かった。
三階の地図の上に、裂風イタチのいた場所を書き込む。
四階は、まだ入口しか描かれていない。
正面の石扉。
左の通路。
右の通路。
右側に、低く長い音。
「音を聞いたとき、床は揺れたか?」
エドガーが尋ねる。
「分からなかった」
「胸や腹に響く感じは?」
「少しあった」
リディアが答える。
「耳で聞くというより、身体の中へ入ってくるような音でした」
「風読みの耳飾りは?」
「方向は右だと分かりました。ただ、近いのか遠いのかは分かりません」
エドガーが炭筆で、右側の通路に線を引く。
「音を使う魔物なら、耳栓を持っていけ」
「耳を塞げば防げますか?」
「分からん」
「なら、持っていくだけか」
「ああ。効かなければ、別の方法を考える」
耳栓があるから安全だとは言わない。
「四階へ入ったら、入口と階段を縄でつなげ」
エドガーが言う。
「目印だけでは足りないのか?」
「音で平衡感覚を崩された場合、目で見えていても真っすぐ歩けないことがある。縄があれば戻る方向を手で確認できる」
「左側は?」
「今回は調べるな。右から音がすると分かっているなら、目的を一つに絞れ」
右側の正体を確認する。
戦うとは決めていない。
正面の石扉にも触れない。
「異常を感じたら?」
エドガーが俺を見る。
「戻る」
「リディアが動けなくなったら?」
「連れて戻る」
「お前が動けなくなったら?」
「リディアが戻す」
「できます」
リディアが答えた。
声は小さくなかった。
エドガーは頷き、地図の右側に退路を示す矢印を書いた。
「なら行ってこい。倒すのは、見てからでいい」
◇
翌朝。
アレナから受け取ったパンを《アイテムボックス》へ入れ、塔へ向かった。
耳栓。
命綱。
予備の麻縄。
赤い風見布。
魔石灯。
中治癒ポーション。
リディアの魔力回復薬。
一つずつ確認する。
三階へ着くまで、戦闘はなかった。
七つの小部屋の仕掛けを動かす。
風車。
円形石板。
三つの重り。
四角。
丸。
三角。
柱の裏で、石が擦れる。
隠し階段が開いた。
「時間は?」
俺が尋ねる。
「魔力は減っていません。疲れも大丈夫です」
「怖さは」
「四階へ入ることは七です」
「音は?」
「九です」
見ていないものの方が怖い。
当然だ。
「行くぞ」
「はい」
階段を上る。
四階の小さな石室。
正面には、継ぎ目の少ない大きな石扉。
左と右に、細い通路が伸びている。
右側から。
オオオオオ……。
低い音。
昨日より、はっきり聞こえた。
リディアが顔をしかめる。
「耳飾りが、音を拾いすぎています」
「外せ」
リディアが《風読みの耳飾り》を外し、小さな布袋へ入れる。
「普通の耳なら?」
「聞こえます。でも、こちらの方が楽です」
装備が邪魔になるなら外す。
入口の壁へ重い杭を打つ。
《耐切創ロープ》を結び、反対側を俺とリディアの安全帯へつなぐ。
同じ縄に二人を固定しない。
途中で分岐させ、それぞれ別の金具へつなげる。
「右へ進む」
「はい」
通路は、緩やかに下っていた。
幅は二人が並べるほど。
天井は高い。
左右の壁に、丸いくぼみがいくつも並んでいる。
風見布を一つ結ぶ。
布は、右奥へ引かれていた。
風が通路の奥へ吸い込まれている。
十歩進む。
低い音が強くなる。
オオオオオ……。
胸の内側が震えた。
耳栓を入れる。
音は小さくなった。
だが、身体へ伝わる振動は残っている。
「効いていますか?」
「耳には効く。身体には効かない」
「私も同じです」
床の細かな砂が跳ねていた。
音が強くなるたび、白い石粉がわずかに浮く。
さらに進む。
通路が広がった。
円形の空間。
奥には、塔の外へ続く大きな風穴が開いている。
その前に、黒い物体が張りついていた。
最初は、石だと思った。
だが動いている。
六本の脚。
大きな角。
丸く盛り上がった背中。
馬車ほどではない。
それでも、俺たち二人よりは大きい。
青黒い甲殻には、四つの穴が開いていた。
風が穴へ吸い込まれている。
《風鐘甲虫》
「魔物です」
「ああ」
風鐘甲虫は、風穴を塞ぐように身体を置いている。
外から入った風が、背中の穴へ流れ込む。
甲殻の内部を通り。
低い音へ変わる。
「まだ、こちらを見ていません」
「近づかない」
目的は確認。
倒すことではない。
壁際を見ながら、円形空間の構造を調べる。
左側には行き止まり。
右側に、細い石段がある。
風鐘甲虫の向こう側だ。
石段は上へ続いているらしい。
「奥へ進むには、あれの近くを通る必要があります」
「ああ」
風鐘甲虫の頭が動いた。
二本の触角が、こちらを向く。
「気づかれました」
「戻る」
振り返った瞬間。
背後の音が止まった。
静かになったのではない。
風を吸い込む音だけが残っている。
「来ます!」
床へ伏せる。
次の瞬間。
ドオオオオオオオッ!
空気ではなく、音の塊が背中へぶつかった。
《衝撃緩和の腕輪》が熱を持つ。
身体が床の上を滑る。
円盾を床へ押しつける。
盾の縁が石へ引っかかった。
《高所平衡・極》が、自分の身体の傾きを伝える。
左へ倒れかけている。
右膝を立てる。
腰を下げる。
止まった。
「リディア!」
「います!」
リディアは壁際にいた。
両手で縄を握っている。
立ってはいない。
だが、入口へつながる方向を見失っていない。
「戻れ!」
「はい!」
風鐘甲虫が脚を動かした。
風穴から離れ、こちらへ向きを変える。
重い身体。
だが、動きは遅くない。
六本の脚が床を叩く。
リディアが杖を向けた。
「氷壁!」
通路の入口へ、厚い氷壁が伸びる。
風鐘甲虫が再び風を吸い込む。
背中の四つの穴へ、周囲の埃が集まっていく。
「下がれ!」
俺たちは通路へ入った。
直後。
ドオオオオオッ!
低い音が氷壁へぶつかる。
白い亀裂が一瞬で広がった。
氷壁が砕ける。
破片が通路へ飛んでくる。
盾で顔を守る。
細かな氷が、外套と盾へ当たった。
「走れ!」
縄を手でたどりながら進む。
床が揺れている。
足元の石粉で滑りそうになる。
それでも、進む方向は縄が教えてくれる。
四階の入口が見えた。
石室へ入る。
リディアを先に階段へ下ろす。
俺も続く。
背後から三度目の低い音。
だが、今度は遠い。
石室の壁が震えただけだった。
階段を下りきる。
三階へ戻る。
すぐには仕掛けを閉じない。
「怪我は?」
リディアが尋ねる。
「背中を打った。動ける」
「私はありません。耳も聞こえます」
「魔力は?」
「氷壁一回分です。まだ半分以上あります」
互いに確認する。
風鐘甲虫は追ってこない。
あの円形空間から、大きく離れられないのかもしれない。
あるいは、風穴を守っている。
「戻るぞ」
「はい」
階段を閉じる。
仕切りを元へ戻す。
逃げ道を残したまま帰らない。
◇
塔の外へ出たあと。
地面へ座り、背中を確認した。
革防具に大きな破損はない。
打撲はある。
だが、治癒ポーションを使うほどではない。
「倒せそうですか?」
リディアが尋ねた。
「今のままでは近づけない」
「氷壁も、一度で壊されました」
「ああ」
風鐘甲虫の攻撃には、準備があった。
背中の穴へ風を吸い込む。
そのあと、低い音を放つ。
「音が出る前に、埃が四つの穴へ集まっていました」
「私も見ました」
「あの穴を使っている」
「塞げば、音は止まりますか?」
「分からない」
塞いだ結果、別の場所から破裂する可能性もある。
近づく方法も必要だ。
それでも。
攻撃の前触れは見えた。
音が通路の外まで追ってこないことも分かった。
今日は倒せなかった。
だが、倒すために必要なものは持ち帰った。
形。
距離。
攻撃。
風の入口。
「次は?」
リディアが聞く。
「あれを鳴らさせない」




