第57話 最後の小部屋
冒険者協会の机に、三階の地図を広げた。
右側に四つの小部屋。
左側に三つの小部屋。
その中央に、昨日見つけた隠し階段を書き加えてある。
「四階には入っていないんですね?」
受付嬢が確認する。
「ああ。入口から、正面の石扉と左右の通路を見ただけだ」
「右側から音がしたんですよね」
リディアが頷いた。
「低い音でした。長く続いていましたが、風の音とは違うと思います」
「思います?」
「複数の風が重なっていたので、断定できません」
以前なら、役に立とうとして無理に答えていたかもしれない。
今は、分からないものを分からないと言える。
受付嬢が地図の右側を見る。
「三階の最後の小部屋は?」
「まだ調べていない」
「先に、そちらですね」
「ああ」
向かい側に座っていたエドガーも、同じ意見らしい。
左腕で地図を押さえ、右手は膝の上に置いている。
骨折した肩は、まだ動かせない。
「上へ行く道を見つけると、そっちへ進みたくなる」
エドガーが言う。
「だが、戻る道の近くに未知の部屋を残すな。何かが出てきた場合、退路を塞がれる」
「最後の部屋を調べる」
「中へ入る前に、壁と床を見ろ。七つの部屋が同じ役目を持っているとは限らない」
俺は頷いた。
次に、昨日持ち帰った古い革袋を机へ置く。
石の風車に詰まっていた物だ。
革は硬くなり、底には穴が開いている。
中に残っていたのは、錆びた金具と、文字の消えかけた小さな札。
「これは?」
「風車の奥にあった」
受付嬢が直接触れず、薄い布を使って札を持ち上げる。
表面を角度を変えながら見た。
「古い冒険者証の一部かもしれません」
「持ち主は分かるか?」
「番号が少し残っています。記録と照合してみますが、時間はかかります」
生きて帰った人間が落とした可能性もある。
だが、風車の中へ革袋だけが入り込むとは考えにくい。
「分かったら教えてくれ」
「はい。持ち帰ってくださってありがとうございます」
受付嬢は革袋を箱へ入れた。
「新しい階段を見つけたことも重要ですが、こういう物を回収することも、冒険者の仕事です」
俺は返事をしなかった。
鉱山では、倒れた人間の持ち物が残ることは少なかった。
使える物は、すぐに別の囚人へ渡される。
名前だけが消えていく。
あの袋の持ち主まで、消えたままにする必要はない。
◇
翌朝。
俺とリディアは《風鳴りの塔迷宮》へ入った。
今日の目的は一つ。
三階右側に残った、最後の小部屋を調べること。
四階へは行かない。
一階と二階を通り、外通路へ出る。
安全帯。
命綱。
手すり用の縄。
杭と金具を一つずつ確認する。
「風は昨日より弱いです」
リディアが《風読みの耳飾り》へ触れた。
「ただ、下から吹き上がる風は残っています」
「間隔は?」
「今のところ、一定ではありません」
「分かった」
弱いから安全とは限らない。
風が止まっている間に進む。
崩れた足場を越え、三階へ上がった。
七つの小部屋が並ぶ円形通路。
昨日動かした仕切り石板は、元の位置へ戻してある。
隠し階段も閉じていた。
「右側です」
リディアが杖を構える。
風袋ネズミのいた三つ目の部屋を通り過ぎる。
入口を塞いだ石板は、そのまま動いていない。
穴の奥に残っているネズミの気配もない。
眠っているのか、さらに奥へ移動したのかは分からない。
最後の小部屋の前で止まる。
入口には扉がない。
だが、中は暗かった。
「音は?」
「ほとんど聞こえません」
「風もか」
「はい」
七つの小部屋は、どこも風の音がしていた。
ここだけが静かだ。
魔石灯を床へ置く。
光が部屋の奥まで伸びた。
横幅は、他の小部屋と同じくらい。
奥の壁には、細い縦穴が三本並んでいる。
だが、風見布を入口へ近づけても動かない。
「穴が塞がっているのか?」
「風は流れていません」
すぐには入らない。
入口の石壁を見る。
右側に、細い線があった。
指で触れる。
浅く削れている。
床にも同じ線が残っていた。
一本ではない。
壁。
床。
天井近く。
細く真っすぐな傷が、何本も走っている。
「刃物でしょうか」
「人間の剣なら、こんな高さには届かない」
赤い風見布を一本取り出す。
入口の左右へ渡すように張った。
高さは、俺の胸ほど。
もう一本は、膝の高さ。
布の端を石へ固定する。
「石を入れる」
「はい」
投擲用石弾を床へ転がした。
石が部屋の中央へ入る。
何も起きない。
もう一つ。
今度は、少し強く投げる。
石が奥の壁へ当たった。
乾いた音。
その直後。
胸の高さに張った赤い布が、中央から切れた。
「下がれ!」
リディアと一緒に壁の陰へ入る。
切れた布が、ゆっくり床へ落ちた。
何かが飛んできたようには見えなかった。
「風です」
リディアが耳飾りを押さえる。
「一瞬だけ、細い風が通りました」
「方向は?」
「奥から入口です」
部屋の中を見る。
何もいない。
だが、《気配察知・小》には反応がある。
奥。
左の壁。
床ではない。
「壁にいる」
魔石灯を持ち上げる。
光の位置を変えた。
灰色の石壁に、二つの黄色い目が浮かぶ。
細長い身体。
四本の脚で壁へ張りつき、前脚だけが大きく曲がっている。
イタチに似ている。
だが、前脚の爪は薄く、長い。
半透明の刃のようだった。
《裂風イタチ》
裂風イタチが壁を蹴った。
「右へ!」
俺は左へ動く。
リディアは右側の壁へ下がった。
灰色の身体が、床へ着地する。
前脚が振られた。
部屋の埃が、細い筋になってこちらへ飛ぶ。
盾を正面へ向けない。
左へ傾ける。
見えない刃が、《沼甲の円盾》の表面を滑った。
甲羅に白い線が残る。
受け止めるのではなく、外へ流す。
「次が来ます!」
裂風イタチが反対側の前脚を上げた。
「氷壁!」
リディアの魔法。
俺たちの間ではなく、裂風イタチの右側へ薄い氷壁が伸びる。
見えない刃が氷へ当たった。
白い亀裂。
氷壁が斜めに切れる。
完全には止められない。
だが、刃の位置は見えた。
「二本です!」
「ああ」
一度に出せる風の刃は、前脚一本につき一つ。
撃った直後、爪の周りにあった風が消える。
次の風が集まるまで、短い間がある。
裂風イタチが壁を走った。
速い。
右。
天井近く。
左。
部屋の中を円を描くように移動している。
そのたびに、縦穴の周囲から細い風が引かれていた。
「穴から風を集めています!」
「なら、止める」
リディアが奥の壁へ杖を向ける。
「凍結!」
三本ある縦穴のうち、右側が白く凍った。
風の流れが一つ減る。
裂風イタチが甲高い声を上げた。
左の壁を蹴る。
俺へ向かってくる。
前脚には、まだ風が集まっていない。
円盾を前へ。
刃ではなく、身体へ当てる。
衝突。
軽い。
だが、速さがある。
盾を押し込まれ、右足が半歩下がった。
《岩走りの戦靴》が床を捉える。
裂風イタチが盾の上へ乗った。
前脚を上げる。
「ウィルさん!」
盾を振り上げた。
裂風イタチの身体が浮く。
天井までは飛ばない。
身体を捻り、壁へ着地しようとする。
「氷針!」
一本の氷が、右の前脚へ当たった。
爪ではない。
脚の付け根。
白い氷が広がる。
裂風イタチの着地が崩れた。
床へ落ちる。
それでも、左の前脚を振ろうとする。
俺は石弾を投げた。
石が頭の横へ当たる。
前脚が動いた。
見えない刃が、俺の右側を通り過ぎる。
壁へ新しい傷が走った。
撃った直後。
まだ次の風は集まっていない。
踏み込む。
円盾で左の前脚を床へ押さえる。
《疾風の鋼剣》を、首の下へ突き入れた。
硬い毛皮を抜ける。
裂風イタチの身体が大きく震えた。
剣を抜かない。
動きが止まるまで、盾で押さえ続ける。
黄色い目から光が消えた。
《裂風イタチ》を初めて討伐しました。
ガチャチケットを1枚獲得しました。
所持ガチャチケット:5枚
風鳴りの塔迷宮討伐記録:9/10
迷宮内の魔物を9種類討伐しました。
《高所平衡・極》を獲得しました。
身体の中で、何かが変わった。
力が増えた感覚ではない。
自分の重心が、以前よりはっきり分かる。
右足。
左足。
盾と剣の重さ。
傾いた床の上でも、どちらへ身体を戻せばいいのかが自然に伝わってくる。
「新しい能力ですか?」
「ああ。《高所平衡・極》」
「落ちなくなりますか?」
「ならない」
「やっぱりですか」
「足場と身体の傾きが分かりやすくなっただけだ」
「十分すごいと思います」
高い場所で姿勢を崩しにくくなる。
だが、風を消せるわけでも、落下を止められるわけでもない。
使う人間が間違えれば、落ちる。
裂風イタチから離れ、部屋の中を調べる。
三本の縦穴。
壁と床の無数の傷。
奥には、小さな骨が何本か落ちていた。
人間のものではない。
風袋ネズミか、風切りコウモリの骨だろう。
「この部屋の風が止まっていたのは、あれが風を集めていたからでしょうか」
「たぶんな」
縦穴の氷が少しずつ溶ける。
細い風が戻った。
赤い布の切れ端が、床の上で揺れる。
「三階は終わった」
「はい」
残る通常魔物は、あと一種類。
四階の右側から聞こえた、低く長い音。
あれが魔物なら。
次に調べる場所は決まっている。
◇
帰りの外通路。
風が下から吹き上がった。
以前なら、身体が浮く前に縄を強く握っていた。
今も握る。
能力を得たからといって、命綱を外す理由にはならない。
ただ。
外套が膨らみ、身体が右へ傾いた瞬間。
どこへ足を置けば戻せるのかが分かった。
左足を半歩。
腰を壁側へ。
盾を少し下げる。
身体が戻る。
「今、ほとんど動きませんでした」
「風は受けた」
「でも、足がずれていません」
「能力の効果だ」
リディアが少し考える。
「それなら、四階でも役に立ちますね」
「ああ」
役に立つ。
だからこそ、頼りすぎない。
命綱を外さず、俺たちは塔の外へ戻った。
風鳴りの塔迷宮討伐記録:9/10。
所持ガチャチケット:5枚。
三階に、調べていない部屋はもうない。
次は四階。
低く長い音の正体を確かめる。




