第53話 風の音に潜むもの
《風鳴りの塔迷宮》から持ち帰った素材は、どれも普通の魔物とは性質が違っていた。
ベルクの工房。
作業台の上には、《風糸グモ》の透明な糸と、《石羽フクロウ》から剥がれ落ちた羽が並んでいる。
「素手で触るなよ」
ベルクが厚い革手袋をはめ、透明な糸を持ち上げた。
目を凝らさなければ、そこにあることすら分からない。
「張っていない状態なら、ただの細い糸だ」
ベルクが両端を金具へ固定する。
ゆっくりと糸を引く。
緩んでいた糸が、真っすぐに張った。
「力がかかるほど硬くなる」
細い鉄片を、糸へ押し当てる。
鉄の表面に、浅い傷が入った。
「剣で斬るより、人間の方が先に切れるな」
「凍らせれば壊れた」
「ああ。糸の中に含まれている水分が凍ると、硬さは増すが粘りがなくなる」
ベルクが小さな氷を糸へ押し当てる。
白く霜がついたところへ、金槌を軽く当てた。
透明な糸が、乾いた音を立てて切れる。
「使い道はありそうか」
「罠を作るには向いている。ただし、仲間まで切りかねねえ」
普通の縄の代わりにはならない。
敵の進路を塞ぐ罠。
あるいは、侵入を知らせる仕掛け。
「見えないことが、一番危険だ」
「色をつければ使えますか?」
リディアが尋ねる。
「染料が定着すればな。試してみる」
次に、ベルクは石羽フクロウの羽を手に取った。
石の板に見えるが、金属より軽い。
「こっちは、防具の表面に使える」
羽を少し曲げる。
硬い。
それでも完全な石ではなく、わずかにしなる。
「何枚か重ねれば、刃や飛び道具を受け流す肩当てになる。ただ、数が足りねえ」
「もう一体倒せば作れるか」
「素材の状態にもよるがな」
石羽フクロウを探すためだけに、迷宮へ入るつもりはない。
次に遭遇したとき、余裕があれば素材を回収する。
「それから、盾を見せろ」
《沼甲の円盾》を作業台へ置く。
表面には、風糸グモの糸が残した細い傷。
石羽フクロウの羽が刺さった跡もある。
「まだ問題ない」
ベルクが傷へ指を滑らせる。
「表面の背皮が少し削れただけだ。芯の甲羅までは届いてねえ」
「直せるか」
「この程度なら、油と樹脂を塗れば塞がる」
ベルクが作業台の端から、小さな容器を取り出す。
「だが、傷が増えるたびに持ってこいとは言わねえ。《簡易装備手入れセット》が出たんだろ」
「ああ」
「帰ったあと、自分で手入れしろ。浅い傷を放っておくと、そこから水や砂が入る」
ガチャから手入れ道具が出たときは、地味な品だと思った。
だが、装備が増えれば必要になる。
「今日から使う」
「道具の使い方は教えてやる」
ベルクは盾へ樹脂を塗りながら、俺を見た。
「迷宮へ入る前に、装備を直す時間も予定に入れろよ」
「分かっている」
「その返事を、あとでリディアにも確認してもらう」
「私も確認します」
頼んでいない。
◇
冒険者協会の奥。
机に広げた三階の見取り図を、エドガーが左手で押さえていた。
俺たちが確認した範囲は、まだ入口付近だけだ。
右側に四つの小部屋。
左側に三つ。
正面には、崩れた床を挟んで上階へ続く階段がある。
「協会が確認していた六種類は、全部倒したんだな」
「ああ」
風切りコウモリ。
壁走りトカゲ。
風槍ツバメ。
風乗りザル。
風糸グモ。
石羽フクロウ。
「次に遭遇する新種は、協会の記録にない可能性が高い」
「戦い方も分からないんですね」
リディアが地図を見る。
「分からないから、調べる」
エドガーが右側の小部屋を指した。
「前回、同じ場所から風の音が繰り返していたんだな?」
「ああ」
「石羽フクロウが動く音とは別か?」
「今は分からない」
石の羽が擦れる音は、ゴリゴリという重い音だった。
耳飾りが捉えたものは、もっと細い。
風が穴を通り抜けるような、高い音。
「小部屋を一つずつ調べる」
「全部の扉を同時に開けるなよ」
「ああ」
「一つ開けたら、印をつける。中へ入る前に、風見布を使え」
「音も確認します」
リディアが右耳の《風読みの耳飾り》へ触れた。
「ただ、塔の中は風が多すぎます。音が重なると、場所が分からなくなります」
「分からないときは?」
「分からないと言います」
エドガーがうなずく。
「それでいい」
以前のリディアなら、役に立とうとして無理に答えたかもしれない。
今は、できないことを先に伝えられる。
「三階の床は?」
「通路は安定していた。小部屋の中は見ていない」
「安全帯は外すな」
「通路は広い」
「中央が吹き抜けだろ」
「壁際を歩けば――」
「外すな」
エドガーとリディアの声が重なった。
「分かった」
「今のは素直でした」
リディアが少し驚いた顔をしている。
「必要だと判断した」
「前回、階段から落ちかけたからだな」
エドガーが言う。
「落ちていない」
「安全帯が止めたからだ」
「同じことだ」
「違う」
話が進まない。
◇
三階へ到着するまで、魔物とは遭遇しなかった。
外通路には、前回張った縄が残っている。
結び目。
鉄杭。
耐切創ロープ。
すべてを確認してから渡った。
先に俺。
次にリディア。
《高所平衡》を得たことで、細い足場でも以前より身体の重心を保ちやすい。
だが、風が消えたわけではない。
「次の風が来ます」
リディアが耳飾りへ触れる。
俺たちは同時に身体を低くした。
下から吹き上がる風。
《風渡りの外套》が広がり、風圧を左右へ流す。
安全帯の縄は張らなかった。
それでも、外さない。
渡り終えたあと、リディアが自分の金具を確認した。
「外套があっても、縄は必要ですね」
「ああ」
「本当に理解したんですね」
「前から分かっている」
「行動が追いついたんですね」
余計な一言が増えている。
三階へ上る。
円形の通路。
中央には、下階まで続く吹き抜け。
右側の小部屋から、細い風の音が聞こえていた。
ヒュウ……。
少し間を置き。
また同じ音。
ヒュウ……。
「前と同じです」
リディアが小声で言う。
「ああ」
最初の小部屋の前へ立つ。
石の扉は、半分開いていた。
外から中を見る。
暗い。
奥行きは十歩ほど。
左右の壁には、丸い穴がいくつも開いている。
床の中央にも、大きな穴があった。
その上を、細い石の板が二本渡されている。
「下があります」
リディアが扉の外から覗く。
中央の穴は、塔の内部へ続いている。
底は見えない。
下から風が上がり、壁に開いた穴へ流れ込んでいた。
ヒュウ……。
細い音。
壁の穴が、笛のように鳴っている。
「魔物ではないのでしょうか」
「まだ分からない」
赤い風見布を、扉の横へ結ぶ。
布は室内へ向かって揺れたあと、突然こちら側へ戻った。
「風向きが変わっています」
「ああ」
下から入った風が、壁の穴を通って別の場所へ流れている。
一定ではない。
「中へ入る」
「私が扉の近くに残ります」
「一人で進まない」
「二人で石の板へ乗る方が危険です」
正しい。
部屋の中央を通る二本の石板は、人一人が歩ける程度の幅しかない。
「俺が先に確認する。お前は扉から援護しろ」
「安全帯は?」
「外の杭へつなぐ」
通路の石壁へ重い鉄杭を打つ。
《耐切創ロープ》を安全帯へ接続。
念のため、もう一本を手すり代わりにする。
「引かれたら声を出せ」
「はい」
《防風ゴーグル》を装着する。
石の粉や砂が舞っても、目は守れる。
部屋へ入る。
足元。
壁。
天井。
動くものはない。
石板へ右足を乗せる。
《高所平衡》によって、身体の中心が自然に足の上へ収まった。
左足。
一歩ずつ進む。
中央の穴から吹き上がる風が、《風渡りの外套》の裾へ当たる。
風圧は軽くなる。
それでも、細い足場の上では無視できない。
「今は、右の壁から音が三つです」
リディアが言う。
「近いのは?」
「分かりません。全部、同じくらいです」
「そのまま聞いていろ」
石板の中央まで進む。
穴の下を見る。
暗い。
下から風と一緒に、小さな砂粒が上がってくる。
ゴーグルへ当たり、細かな音を立てた。
「何か変わりました」
リディアの声。
「どこだ」
「右の音が、一つ消えました」
右側の壁を見る。
丸い穴が五つ。
どれから音が消えたのか、目では分からない。
風見布を取り出そうとした瞬間。
石板の下で、何かが動いた。
「下だ!」
円盾を構える。
灰色の長い身体が、穴の縁から飛び出した。
何本もの脚。
節ごとに、丸い穴が開いている。
人間の腕より太く、長さは三歩以上。
《風鳴りムカデ》
風鳴りムカデが石板へ身体を巻きつける。
節に開いた穴を風が通り、複数の音が一斉に鳴った。
ヒュウ!
ヒュウ!
ヒュウ!
「音が増えました!」
リディアが叫ぶ。
風鳴りムカデの頭が、俺へ向かう。
大きな顎。
石板の上では横へ避けられない。
円盾を前へ出す。
顎が盾へ噛みついた。
衝撃。
足元が揺れる。
《沼甲の円盾》が力を広げる。
それでも、身体が後ろへ押された。
右足が石板の端へ近づく。
《高所平衡》で重心を戻す。
「ウィルさん!」
「まだ大丈夫だ!」
風鳴りムカデが盾を噛んだまま、身体を捻る。
石板から俺を落とすつもりだ。
安全帯の縄が張る。
胸と腰へ力が分散した。
盾を引かず、前へ押す。
相手の捻る力へ逆らわない。
石板の上で足を入れ替え、身体の向きを合わせる。
風鳴りムカデの顎が少し緩んだ。
盾を横へ捻る。
牙が外れる。
「頭を狙います!」
リディアが杖を上げる。
「撃つな!」
正面に俺がいる。
氷針が外れれば、逃げる場所がない。
風鳴りムカデが身体を縮めた。
節の穴へ風が集まる。
高い音。
耳の奥が痛む。
「何か来ます!」
リディアの声が、音にかき消されかける。
俺は円盾を構える。
風鳴りムカデの身体から、細い風が一斉に噴き出した。
針のような風。
盾へ当たる。
金属を叩く細かな音。
上下から回り込んだ風が、肩と脚を切った。
浅い傷。
《風圧耐性・小》があっても、完全には防げない。
《風渡りの外套》が背中へ回る風を流す。
外套に覆われていない脚だけが傷ついていた。
「距離を取る!」
後ろへ下がる。
風鳴りムカデが追ってくる。
身体を石板へ巻きつけているため、落ちない。
こちらより高所に慣れている。
「リディア、壁の穴を塞げ!」
「どれですか?」
「右側全部だ!」
風鳴りムカデは、壁の穴と自分の節を使って風を集めている。
部屋へ流れる風を減らせば、攻撃も弱くなるかもしれない。
「我が前に、冷たき壁を。《氷壁》!」
右側の壁。
五つの穴を覆うように、氷が伸びる。
風の音が一部消えた。
室内の流れが変わる。
風鳴りムカデの節から出ていた高い音が低くなった。
「効いています!」
「ああ!」
風鳴りムカデが、リディアへ頭を向ける。
石板から壁へ移動。
無数の脚で石をつかみ、扉へ向かって走る。
「リディア、下がれ!」
俺も石板を戻る。
風鳴りムカデの方が速い。
扉へ近づく。
「《氷針》!」
今度は、俺が射線の外にいる。
三本の氷。
風向きが変わった室内を飛ぶ。
一本が頭の甲殻へ当たる。
弾かれた。
二本目は脚。
三本目が、節に開いた穴へ刺さった。
風鳴りムカデの身体が大きく震える。
刺さった節から、風が漏れた。
「穴を狙え!」
「小さすぎます!」
「一つ当てた!」
「偶然です!」
「もう一度できる!」
「簡単に言わないでください!」
それでも、リディアは杖を構え直した。
風鳴りムカデが壁を走る。
速い。
リディアの前へ出る。
円盾を上げる。
風鳴りムカデが壁を蹴り、こちらへ飛んだ。
受ける。
盾へ身体がぶつかる。
軽くはない。
だが、石板の上ではない。
床には十分な広さがある。
《岩走りの戦靴》で踏ん張り、盾を押し返す。
風鳴りムカデの身体が床へ落ちる。
すぐに丸まり、外側を甲殻で覆った。
「守っています!」
剣を振り下ろす。
硬い。
刃が弾かれる。
風鳴りムカデの節穴から、再び音が鳴り始めた。
「攻撃が来る!」
盾を構える。
リディアが、俺の後ろへ入った。
細い風の針。
盾と外套。
すべては防げない。
ゴーグルへ風と砂が当たる。
目は守られている。
脚へ、いくつか浅い傷。
「丸まっている間は穴が外側です!」
リディアが言う。
「ああ!」
「動かないなら、狙えます!」
リディアが盾の横から杖を出す。
「《氷針》!」
三本。
一本目は甲殻へ弾かれた。
二本目。
節の穴のすぐ横。
三本目が、別の穴へ刺さった。
風鳴りムカデの音が一つ消える。
「当たりました!」
「もう一度だ!」
「魔力を使いすぎます!」
「なら、《凍結》でまとめて塞げ!」
リディアが杖を床へ向ける。
「凍てつけ、《凍結》!」
白い冷気が、丸まった風鳴りムカデへ広がった。
甲殻。
脚。
節の穴。
すべてへ薄い氷がつく。
音が止まった。
風を取り込めない。
風鳴りムカデが身体を開こうとする。
氷に覆われた節が、うまく動かない。
「今だ!」
円盾の縁を、丸まった身体の隙間へ差し込む。
力を入れる。
重い。
筋力が47まで上がっていても、簡単には開かない。
戦靴で床を踏む。
盾を梃子にして、身体を押し広げる。
凍った脚が何本か折れた。
風鳴りムカデが暴れる。
頭が隙間から出る。
大きな顎。
俺の腕へ噛みつこうとする。
盾で顎を押さえる。
「リディア、首の下!」
「見えました!」
「《氷針》!」
近い距離。
三本の氷が、開いた首の下へ刺さる。
柔らかい部分。
深く入った。
風鳴りムカデの身体が伸びる。
剣を振り上げる。
氷針が刺さった場所へ刃を入れる。
抵抗。
さらに押す。
首の半分まで切り込んだ。
風鳴りムカデが身体を振る。
長い胴が脚へ当たる。
転びそうになる。
《高所平衡》が重心のずれを伝えた。
左足を半歩動かし、身体を戻す。
剣を抜く。
同じ場所へ二撃目。
首が切れた。
頭部が床へ落ちる。
胴体は、しばらく激しく動き続けた。
「離れろ!」
リディアと通路へ下がる。
長い身体が石床を叩く。
節に開いた穴から、弱い風が漏れた。
やがて。
動きが止まる。
投擲用石弾を、頭と胴体へ一つずつ当てる。
反応はない。
《風鳴りムカデ》を初めて討伐しました。
ガチャチケットを1枚獲得しました。
所持ガチャチケット:3枚
風鳴りの塔迷宮討伐記録:7/10
「七種類目……」
リディアが、動かなくなった魔物を見る。
「協会にも記録がない魔物ですね」
「ああ」
次からは、既存の資料に頼れない。
俺たちの報告が、最初の記録になる。
「怪我は?」
「腕と脚に浅い傷だけだ」
「外套は?」
背中と肩を確認する。
銀糸に傷はない。
布の表面も裂けていない。
「問題ない」
「本当に?」
「見て確認しろ」
リディアが外套の背中と裾を見る。
「大丈夫そうです」
「お前は」
「怪我はありません。盾の後ろにいました」
「魔力は」
「半分より少し少ないです」
《氷壁》。
《氷針》を何度か。
《凍結》。
戦闘を続ける余裕はある。
だが、未知の魔物と戦った直後だ。
「今日は戻る」
「小部屋は、まだ一つ目です」
「一つで十分だ」
室内の構造。
風鳴りムカデの攻撃。
弱点。
新しい情報を得た。
「今のウィルさんなら、止めなくても戻ると思っていました」
「俺は最初から慎重だ」
「そういうことにしておきます」
◇
帰る前に、風鳴りムカデの素材を回収する。
節に開いた穴。
その内側には、薄い膜があった。
空気を震わせ、音と風の針を作っていた部分らしい。
甲殻を数枚。
節の膜。
魔石。
すべてを解体している時間はない。価値の高そうな部分だけ切り離して持ち帰る。
さらに、小部屋の奥を扉から確認した。
風鳴りムカデが倒れたあと。
壁の穴から聞こえていた音は、明らかに減っている。
「全部が魔物の音ではなかったんですね」
「ああ」
自然に鳴る穴。
魔物の身体が鳴らす音。
二つが重なっていた。
リディアが耳飾りへ触れる。
「今なら、区別できる気がします」
「次も同じとは限らない」
「はい。でも、知らなかった音を一つ知りました」
怖さが消えたわけではない。
分からない音が、すべて危険ではなくなっただけだ。
扉の横に、洞窟用の白いチョークで印をつける。
丸。
中を確認済み。
魔物討伐済み。
残る小部屋は六つ。
四階へ続く道も、まだ見つけていない。
それでも。
協会の記録が途切れていた先へ。
俺たちは、自分たちの足で新しい一行を書き加えた。
風鳴りの塔迷宮討伐記録:7/10
所持ガチャチケット:3枚
次回11連ガチャまで:あと7枚
風の音に隠れていた七種類目。
次に塔へ入るとき。
もう、正体の分からない音ではなかった。




