第46話 灰晶の杭
ベルクの工房へ着くと、作業台の上に一本の杭が置かれていた。
長さは、俺の前腕ほど。
先端には、灰晶王蛇の牙が使われている。
その後ろへ鉄製の返しが二枚取りつけられ、反対側には結晶糸の縄を結ぶための輪があった。
「できているぞ」
ベルクが杭を持ち上げる。
「名前をつけるなら、《灰晶返し杭》ってところだな」
「重さは?」
「普通の投げ槍より重い。人間が投げても、まともには飛ばん」
ベルクがリディアへ視線を向けた。
「本当に、氷魔法で飛ばせるんだな?」
「木の棒では成功しました」
「一度だけだろ」
「昨日も練習しました。十回中、七回は標的へ当てられました」
「深く刺さったのは?」
「……三回です」
リディアの声が小さくなる。
「本番は、その三回を出せ」
「はい」
ベルクは杭を作業台へ戻した。
その隣には、丸めた厚い布がある。
中へ革と綿を詰め、表面には油が染み込ませてあった。
縄を結べるよう、中央に鉄の輪が縫いつけられている。
「こっちは囮だ」
ベルクが油布を指で押す。
「舌の粘りがどれほどか分からんから、絶対に張りつかないとは言えねえ。ただ、乾いた布よりは外れやすいはずだ」
「破れないか」
「一度や二度なら持つ。丸ごと飲み込まれたら終わりだ」
「十分だ」
俺は《灰晶返し杭》を持ち上げた。
重い。
これを氷で飛ばし、沼王ガエルの前脚へ刺す。
一度しか使えない。
外せば終わりだ。
「縄を結んでおいた」
杭の後ろから、細い結晶糸の縄が伸びている。
灰晶洞窟迷宮で使ったものだ。
人の指ほどの太さしかないが、灰晶王蛇の尾を止められるだけの強度がある。
「傷んでいた部分は切ってある。長さは少し減ったが、強度には問題ない」
「ありがとう」
「礼は、生きて戻ってから聞く」
ベルクが俺の腰にある円盾を見る。
「盾は?」
「持っていく」
「舌を受けるなと言ったはずだ」
「受けるつもりはない」
「つもりで攻撃が避けられるなら、盾はいらねえ」
返す言葉がない。
ベルクは俺の前へ立ち、円盾の金属縁を指で叩いた。
「こいつは、次の強い一撃に耐えられるか分からん」
「ああ」
「壊れたら捨てろ」
「分かっている」
「剣と違って、盾は壊れた瞬間に持ち主まで道連れにする。情で握り続けるな」
最初から使ってきた盾。
何度も修理し、同じ盾を統合した。
手に持てば、身体の一部のようになじむ。
だが、ベルクの言うとおりだ。
「必要なら手放す」
「それでいい」
ベルクは、まだ完全には信用していない顔をしていた。
◇
迷宮へ向かう前に、治療所へ寄った。
エドガーは寝台の上で、俺たちが作った作戦書を読んでいた。
左手だけで紙を持ち、何度も同じ場所へ視線を戻している。
「前脚へ杭を撃つ」
「ああ」
「結晶糸の縄を石柱へ固定する」
「ああ」
「動きが止まったら、喉へ《氷槍》」
「ああ」
「書いてあることは分かった」
エドガーが紙を下ろした。
「書いていないことを確認する」
「何だ」
「杭が外れたら?」
「戻る」
「石柱が崩れたら?」
「戻る」
「リディアが一度目の《氷槍》に失敗したら?」
「戻ります」
リディアが答えた。
「ウィルが、あと少しで倒せると言ったら?」
リディアが俺を見る。
「戻ります」
「俺の意見は聞かないのか」
「危険なら撤退する決まりです」
答えるまでが早くなっている。
エドガーが満足そうにうなずいた。
「それでいい」
「俺も戻るつもりだ」
「お前は、倒せそうなときだけ判断が遅くなる」
「そんなことはない」
「灰晶王蛇のとき、自分の胸を押さえながら何と言った?」
「覚えていない」
「『まだ動ける』だ」
言ったような気もする。
「今日は俺がいない」
エドガーの声が少し低くなる。
「リディアの判断を聞け。自分だけで決めるな」
「ああ」
「リディア」
「はい」
「怖くなったとき、黙るな」
「はい」
「逃げたいなら、逃げたいと言え。それでウィルが怒ることはない」
「分かっています」
リディアが杖を握り直す。
「怖いです。でも、黙りません」
「なら行ってこい」
エドガーが左拳を差し出した。
俺は自分の拳を軽く当てる。
リディアは何をするのか分からず、少し迷っていた。
「お前もだ」
「私も?」
「仲間だろう」
「はい」
リディアも、恐る恐る拳を重ねた。
「三人で帰ってこい」
「エドガーはここにいるだろう」
「気持ちの話だ」
「分かりにくい」
「お前にだけは言われたくない」
◇
《霧の沼迷宮》へ入る。
白い霧。
黒い泥。
浅い水。
何度も通った道を、最奥へ向かって進む。
リディアは、以前より安定した足取りでついてくる。
怖くなくなったわけではない。
時折、泥ガエルの鳴き声に肩を揺らす。
水面が動けば、杖を強く握る。
それでも、立ち止まらない。
「体調は」
「大丈夫です」
「魔力は」
「まだ使っていません」
「怖さは」
「八くらいです」
「十段階か?」
「はい」
「高いな」
「迷宮主と戦うので……」
正直でいい。
俺も怖くないわけではない。
灰晶王蛇とは違う。
沼王ガエルは、自分の得意な場所からほとんど動かない。
こちらが引きずり出さなければ、剣は届かない。
最奥の石柱が見えた。
その向こうに、円形の黒い沼が広がっている。
中央では、白い霧が渦を巻いていた。
《霧感知・小》へ、巨大な気配が触れる。
水の下。
昨日と同じ場所にいる。
「準備する」
「はい」
沼から最も離れた石柱を選ぶ。
表面を確認する。
ひびはあるが、前回の鳴き声を受けた柱より太い。
結晶糸の縄を二重に巻きつけ、外れないように結ぶ。
縄の反対側には、《灰晶返し杭》。
石柱と沼の間へ、縄を一直線に伸ばした。
途中で絡めば、杭の軌道が変わる。
「縄の上を踏むな」
「はい」
リディアは杭を地面へ置き、その周囲へ氷を作る位置を確認する。
俺は油布の囮を取り出した。
普通の麻縄を結び、石の道の上へ置く。
「耳栓を」
布と蝋で作った耳栓を装着する。
リディアにも確認する。
「聞こえますか?」
「ああ」
「私の声は?」
「聞こえる」
完全に音を塞いではいない。
沼王ガエルの鳴き声を、少しでも弱めるためのものだ。
「一度目は、囮で舌を出させる」
「はい」
「舌が囮から外れたら、もう一度動かす」
「はい」
「水際まで出たら、前脚へ杭を撃て」
「分かっています」
リディアの手が震えている。
「無理か」
「まだできます」
「まだ、ではなく」
俺はリディアを見る。
「やるか、戻るかだ」
リディアは、黒い沼へ目を向けた。
水面には、何も見えない。
だが、巨大な魔物がいる。
「やります」
震えは止まっていない。
それでも、声ははっきりしていた。
「お願いします」
「ああ」
◇
俺は油布の囮を、石の道の上へ投げた。
縄を引く。
油を染み込ませた布が、地面を跳ねる。
ゴロッ。
ゴロッ。
不規則に動かす。
黒い水面に、波紋が広がった。
黄色い目が一つ現れる。
もう一つ。
沼王ガエルの巨大な頭が、水面へ浮かんだ。
「来るぞ」
囮を強く引く。
油布が石の上を転がった。
沼王ガエルの口が開く。
赤黒い舌が飛び出した。
速い。
囮へ張りつく。
縄が一瞬で張った。
俺は引かずに、手を離した。
囮が沼王ガエルへ向かって飛ぶ。
だが、口へ戻る途中。
油布が舌の表面を滑った。
囮だけが石の道へ落ちる。
「外れました!」
「ああ」
舌が口へ戻る。
沼王ガエルの黄色い目が、落ちた囮へ向いた。
もう一度、縄を引く。
油布が動く。
二度目の舌。
今度は囮の中央へ深く巻きついた。
油があっても、完全には外れない。
縄が引かれる。
「手を放して!」
リディアの声。
縄を放す。
油布が、今度は沼王ガエルの口へ消えた。
噛み潰す音がする。
「囮がなくなりました」
「問題ない」
役目は果たした。
沼王ガエルの身体が、水の下で動く。
餌が小さかったことに気づいたのか。
石の道にいる俺たちを見た。
「下がれ」
リディアが杭のそばまで下がる。
俺は円盾を構え、石の道へ一歩出た。
剣の腹で盾を叩く。
高い音。
「こっちだ」
沼王ガエルが水へ沈む。
《霧感知・小》に、巨大な気配が伝わった。
水の下を真っすぐ進んでくる。
速い。
前回よりも。
「来る!」
黒い水が盛り上がる。
沼王ガエルの頭が、水面を突き破った。
口が開く。
正面から噛みつくつもりだ。
俺は石の道を走る。
水際から離れる方向。
沼王ガエルの前脚が、岸へ乗った。
一歩。
もう一歩。
太い前脚が、石の道を叩く。
「リディア!」
「はい!」
背後で詠唱が始まる。
「冷たき水よ、我が声に応えよ」
俺は沼王ガエルの正面を横切る。
巨大な口が、俺を追う。
「集いて形を成し――」
《灰晶返し杭》の周囲へ、氷が伸びている。
訓練で使った木の棒より重い。
氷の形が、わずかに震えた。
沼王ガエルの舌が飛ぶ。
俺の胸へ向かってくる。
円盾で受けない。
身体を横へ投げる。
舌が外套の端へ触れた。
布が強く引かれる。
外套の留め具が首へ食い込む。
「っ!」
すぐに留め具を外した。
《霧除けの外套》が、舌に巻かれて持っていかれる。
沼王ガエルの口へ消えた。
「ウィルさん!」
「続けろ!」
外套は失った。
だが、俺は水へ引き込まれていない。
「敵を貫く、一条の槍となれ!」
沼王ガエルの右前脚が、石の道へ乗る。
動きが止まった。
「《氷槍》!」
灰晶の杭を包んだ氷槍が飛ぶ。
縄が石の上を走る。
狙いは前脚。
だが、重さで軌道が少し下がった。
杭の先端が、前脚の外側へ当たる。
刺さった。
浅い。
鉄の返しが、まだ皮膚の外に見えている。
「足りない!」
沼王ガエルが脚を引く。
縄が張る。
杭が抜けかけた。
俺は《探索用ベルト》から、小型ハンマーを抜いた。
前へ走る。
「ウィルさん、危険です!」
「杭が抜ける!」
沼王ガエルの前脚へ近づく。
巨大な頭が、こちらへ向いた。
舌は、外套を飲み込んだ直後。
まだ戻っていない。
杭の後部へ、ハンマーを振り下ろす。
ガンッ!
杭が少し深く入る。
二度目。
沼王ガエルが前脚を振った。
身体ごと持ち上げられる。
俺は杭から手を離し、地面へ転がった。
太い脚が、頭の横へ落ちる。
石の道が割れた。
「ウィルさん!」
「まだだ!」
立ち上がる。
杭は残っている。
返しが皮膚の中へ入った。
沼王ガエルが水へ戻ろうと後退する。
結晶糸の縄が張った。
石柱が震える。
杭は抜けない。
右前脚が引かれ、沼王ガエルの身体が傾く。
「刺さりました!」
「ああ!」
第一段階は成功した。
だが、沼王ガエルは岸へ固定されたまま暴れ始めた。
太い左前脚が石を砕く。
後ろ脚は、まだ水の中。
水を蹴るたび、大きな波が石の道へ押し寄せる。
俺の膝まで水が来る。
《沼歩き・極》で足場を感じ取る。
戦靴が濡れた石を捉えた。
「リディア、魔力回復薬を!」
「はい!」
リディアが青い小瓶を取り出す。
飲み干す。
沼王ガエルの喉が膨らみ始めた。
「鳴きます!」
「柱の後ろへ!」
二人で別の石柱へ走る。
結晶糸を結んだ柱ではない。
その隣。
身を隠した直後。
ボオオオオオッ!
低い鳴き声。
空気が震えた。
石柱の裏にいても、胸の中を叩かれる。
足元の水が跳ねる。
視界が揺れた。
リディアが耳を押さえ、膝をつく。
「リディア!」
「聞こえています……!」
返事はある。
意識も失っていない。
鳴き声が止まる。
だが、杭を固定している石柱から、嫌な音がした。
ミシッ。
表面のひびが広がっている。
「柱が割れます!」
「次の鳴き声までに決める」
石柱の後ろから出る。
沼王ガエルは、右前脚を何度も引いている。
結晶糸が、石柱の表面へ深く食い込んでいた。
長くは持たない。
「喉を狙えるか」
「やります」
リディアが杖を構える。
手が震えている。
さっきの鳴き声で、身体の感覚が戻っていないのかもしれない。
「無理なら言え」
「怖いです」
「ああ」
「でも、まだできます」
リディアが息を吸う。
「冷たき水よ――」
沼王ガエルが、リディアへ顔を向けた。
魔力の集まりに気づいた。
舌が口の奥で動く。
「俺を見ろ!」
石弾を投げる。
黄色い目へ当たった。
沼王ガエルの頭が、こちらへ向く。
「我が声に、応えよ……」
リディアの詠唱は続いている。
舌が飛ぶ。
俺の顔。
横へ避ける。
舌が頬を掠め、背後の石へ張りついた。
すぐに戻る。
沼王ガエルの喉が、再び膨らみ始めた。
「集いて、形を成し……」
鳴き声の準備が早い。
前よりも。
喉が大きく膨らむ。
「リディア、急げ!」
リディアの声が止まった。
黄色い目。
開いた口。
巨大な身体。
恐怖で、詠唱が消えた。
「無理……です」
聞こえた。
隠さずに言えた。
「分かった!」
俺は剣を抜く。
詠唱が間に合わないなら、別の方法で止める。
沼王ガエルの正面へ走る。
「ウィルさん、何を――」
「喉を斬る!」
膨らんだ喉は、白く柔らかい。
だが、高い。
そのままでは剣が届かない。
近くにある崩れた石柱へ足をかける。
一歩。
二歩。
《岩走りの戦靴》が、濡れた石を捉える。
上へ駆ける。
沼王ガエルの喉が、限界まで膨らんだ。
俺は石柱を蹴った。
身体が宙へ出る。
《疾風の鋼剣》を横へ振る。
風が刃を押す。
喉の表面へ届いた。
浅い。
だが、切れた。
白い皮膚から血が噴き出す。
膨らんだ喉が歪んだ。
ボオッ――!
鳴き声が途中で崩れる。
完全には止まらない。
至近距離の衝撃が、身体を吹き飛ばした。
「ぐっ!」
石の道へ落ちる。
背中を強く打つ。
《衝撃緩和の腕輪》が光った。
それでも息が詰まる。
円盾が手から離れ、石の上を転がった。
「ウィルさん!」
沼王ガエルが、俺へ向かって前脚を上げる。
避けなければ。
身体が動かない。
息が戻らない。
太い前脚が、頭上へ落ちてくる。
「《氷壁》!」
目の前へ、氷の壁が伸びた。
沼王ガエルの前脚が当たる。
氷が砕ける。
衝撃で破片が飛ぶ。
だが、前脚の軌道が横へずれた。
俺の肩のすぐ近くへ落ちる。
石が割れた。
「立てますか!」
「ああ……!」
剣を支えに身体を起こす。
リディアは、泣いていた。
それでも杖を向けている。
「すみません。《氷槍》が……」
「今からでいい」
「でも、詠唱を止めました」
「もう一度始めろ」
沼王ガエルの喉には、俺がつけた傷がある。
血が流れている。
「傷を狙え」
リディアが、震える息を吐いた。
「はい」
もう一度、杖を構える。
「冷たき水よ、我が声に応えよ」
俺は円盾を拾う。
金属縁には、新しい亀裂が入っていた。
まだ形は残っている。
「集いて、形を成し――」
沼王ガエルが前へ跳んだ。
右前脚は杭で固定されている。
完全には跳べない。
身体が横へ傾く。
結晶糸が強く引かれた。
ミシミシッ!
石柱のひびが一気に広がる。
「柱が!」
「詠唱を続けろ!」
沼王ガエルが左前脚で地面を叩く。
石と泥が飛ぶ。
俺は円盾で受ける。
金属縁の亀裂が伸びた。
「敵を貫く――」
沼王ガエルの舌が伸びる。
リディアへ向かっている。
間に入る。
円盾を構える。
受けるな。
ベルクの言葉。
盾へ張りつけば、水へ引かれる。
俺は円盾を投げた。
舌が盾の表面へ張りつく。
沼王ガエルが引く。
円盾が口へ向かって飛んだ。
牙へぶつかる。
バキッ。
長く使った盾が、中央から割れた。
二つに分かれ、沼王ガエルの口元へ落ちる。
身体は引かれていない。
それでいい。
「一条の槍となれ!」
リディアの杖へ、氷が集まる。
長い槍。
訓練場で見たものより、少し細い。
狙いは、喉の傷。
沼王ガエルの喉が、三度目の鳴き声へ向けて膨らみ始める。
「《氷槍》!」
氷の槍が飛んだ。
霧を貫く。
沼王ガエルが頭を動かす。
外れる。
そう思った瞬間。
リディアが杖を横へ振った。
氷槍の軌道が、わずかに曲がる。
完全には動かせない。
それでも、槍の先端が傷口へ入った。
深く。
膨らんだ喉を貫く。
沼王ガエルの鳴き声が、口から出る前に弾けた。
鈍い破裂音。
喉の皮膚が内側から裂ける。
血と冷気が噴き出した。
沼王ガエルの頭が、大きく下がる。
「当たりました!」
「ああ!」
終わっていない。
沼王ガエルが、水へ戻ろうとする。
杭を固定していた石柱が折れた。
ゴオッ!
巨大な石の上部が泥へ倒れる。
結晶糸の縄は切れていない。
折れた石柱を引きずりながら、沼王ガエルが後退する。
動きは遅い。
だが、水へ入れば、また相手の場所になる。
「逃がさない!」
俺は走る。
盾はない。
頼れるのは剣と足だけ。
沼王ガエルの前脚が、横から振られる。
《沼歩き・極》が、水底の硬い場所を伝える。
そこへ戦靴を置く。
身体を低くし、前脚の下を抜けた。
喉の傷。
氷槍が刺さったまま残っている。
《疾風の鋼剣》を両手で握る。
踏み込む。
刃を、氷槍のすぐ横へ突き込んだ。
「はああっ!」
柔らかい肉を貫く。
剣の根元近くまで入った。
沼王ガエルの身体が跳ねる。
剣を握ったまま、持ち上げられた。
手放せば落ちる。
握り続ければ、身体ごと振られる。
戦闘手袋が柄を捉える。
俺は足を沼王ガエルの胸へ押しつけた。
剣を、さらに深く押し込む。
風が刃の周囲を走った。
喉の奥。
硬いものへ触れる。
魔石か。
骨か。
構わない。
「ウィルさん、離れて!」
リディアの声。
すぐに剣を抜き、横へ跳ぶ。
「《凍結》!」
白い冷気が、喉の傷へ流れ込んだ。
血と水分が凍る。
傷口の内側から、氷が広がった。
沼王ガエルが大きく口を開く。
声は出ない。
喉が凍り、鳴き声を作れない。
巨体が石の道へ倒れた。
地面が揺れる。
俺は距離を取る。
まだ動く。
前脚が石を掻く。
後ろ脚が水を蹴る。
だが、右前脚は杭と石柱の残骸に引かれている。
水へ戻れない。
「リディア、下がれ!」
「はい!」
沼王ガエルが、最後の力で俺へ飛びかかる。
盾はない。
避けるしかない。
黄色い目。
開いた口。
牙の奥に、リディアの氷槍が見える。
左へ動く。
沼王ガエルの頭も追ってくる。
速い。
完全には避けられない。
俺は剣を横へ構えた。
噛まれる直前。
右足を、沈んだ石の上へ置く。
《岩走りの戦靴》が滑りを止める。
身体を反転させる。
大きな口が、肩の横を通った。
その勢いを使い、剣を振る。
風の補助。
凍った喉の傷へ、刃が入る。
氷と肉が、同時に割れた。
深い。
今までで最も深く入った。
沼王ガエルの身体が、俺の横を通り過ぎる。
石の道へ腹から落ちた。
水が跳ねる。
泥が飛ぶ。
後ろ脚が一度だけ強く伸びた。
それから。
動かなくなった。
◇
俺は剣を構えたまま、沼王ガエルを見ていた。
息が荒い。
背中が痛む。
左腕も痺れている。
だが、立っている。
「ウィルさん……」
「近づくな」
投擲用石弾を一つ取り出す。
沼王ガエルの黄色い目へ当てる。
反応はない。
二つ目。
喉の傷へ当てる。
動かない。
《霧感知・小》へ伝わっていた巨大な気配が、ゆっくりと消えていく。
「終わった」
その言葉を口にした瞬間。
リディアが、その場へ座り込んだ。
「怪我は?」
「ありません……」
「魔力は?」
「ほとんど残っていません」
「歩けるか」
「少し休めば……」
リディアは泣いていた。
だが、顔には笑みもあった。
「私、二回目の《氷槍》を使えました」
「ああ」
「途中で、できないと言ったのに」
「ああ」
「もう一度、できました」
「お前が喉を貫いた」
「ウィルさんが、傷をつけてくれたからです」
「二人で倒した」
リディアが涙を拭い、何度もうなずく。
「はい」
視界へ光が浮かんだ。
《沼王ガエル》を初めて討伐しました。
ガチャチケットを1枚獲得しました。
所持ガチャチケット:6枚
《霧の沼迷宮》の迷宮主を討伐しました。
通常魔物討伐記録:10/10
迷宮主討伐:完了
《霧の沼迷宮》を完全攻略しました。
迷宮完全攻略数:3
完全攻略報酬を獲得します。
《沼地狩人》
泥、浅い水、霧に覆われた湿地での感覚と身体能力が上昇します。
全基礎能力が10上昇します。
名前:ウィル・クロード
レベル:6
生命力:42→52
筋力:35→45
敏捷:27→37
魔力:23→33
ダンジョンガチャレベル:2
所持ガチャチケット:6枚
次回11連ガチャまで:あと4枚
迷宮完全攻略数:2→3
霧の沼迷宮討伐記録:10/10
身体の奥から、強い力が広がる。
傷が治るわけではない。
疲れが消えるわけでもない。
それでも、立っている足が少し軽くなった。
俺は表示を閉じる。
石の道には、割れた円盾が落ちていた。
二つに分かれた木の板。
歪んだ金属縁。
何度も俺を守った盾。
最後も、沼王ガエルの舌から俺を守った。
俺は二つの破片を拾った。
「持って帰るんですか?」
「ああ」
「もう、使えませんよね」
「分かっている」
古い剣と同じだ。
戦えなくなったからといって、置いていく理由にはならない。
「役目を終えただけだ」
リディアが盾の破片を見る。
「ウィルさんらしいです」
「どういう意味だ」
「簡単に捨てないという意味です」
俺は盾の破片を《アイテムボックス》へ入れた。
そのあと、沼王ガエルの巨大な身体を見る。
魔石や素材の回収は、協会の調査隊へ任せる。
今は、帰ることが先だ。
「立てるか」
「はい」
リディアが杖を支えに立ち上がる。
足は震えている。
だが、自分で歩ける。
「帰ろう」
「はい」
白い霧が、少しずつ薄くなっていた。
黒い沼の上に、今まで見えなかった空が広がっている。
完全に晴れたわけではない。
それでも、進む道は見えた。
怖がりな氷魔法使いと。
盾を失った剣士。
二人で倒した迷宮主を背にして。
俺たちは、三つ目の迷宮から帰り始めた。




