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第46話 灰晶の杭



 ベルクの工房へ着くと、作業台の上に一本の杭が置かれていた。


 長さは、俺の前腕ほど。


 先端には、灰晶王蛇の牙が使われている。


 その後ろへ鉄製の返しが二枚取りつけられ、反対側には結晶糸の縄を結ぶための輪があった。


「できているぞ」


 ベルクが杭を持ち上げる。


「名前をつけるなら、《灰晶返し杭》ってところだな」


「重さは?」


「普通の投げ槍より重い。人間が投げても、まともには飛ばん」


 ベルクがリディアへ視線を向けた。


「本当に、氷魔法で飛ばせるんだな?」


「木の棒では成功しました」


「一度だけだろ」


「昨日も練習しました。十回中、七回は標的へ当てられました」


「深く刺さったのは?」


「……三回です」


 リディアの声が小さくなる。


「本番は、その三回を出せ」


「はい」


 ベルクは杭を作業台へ戻した。


 その隣には、丸めた厚い布がある。


 中へ革と綿を詰め、表面には油が染み込ませてあった。


 縄を結べるよう、中央に鉄の輪が縫いつけられている。


「こっちは囮だ」


 ベルクが油布を指で押す。


「舌の粘りがどれほどか分からんから、絶対に張りつかないとは言えねえ。ただ、乾いた布よりは外れやすいはずだ」


「破れないか」


「一度や二度なら持つ。丸ごと飲み込まれたら終わりだ」


「十分だ」


 俺は《灰晶返し杭》を持ち上げた。


 重い。


 これを氷で飛ばし、沼王ガエルの前脚へ刺す。


 一度しか使えない。


 外せば終わりだ。


「縄を結んでおいた」


 杭の後ろから、細い結晶糸の縄が伸びている。


 灰晶洞窟迷宮で使ったものだ。


 人の指ほどの太さしかないが、灰晶王蛇の尾を止められるだけの強度がある。


「傷んでいた部分は切ってある。長さは少し減ったが、強度には問題ない」


「ありがとう」


「礼は、生きて戻ってから聞く」


 ベルクが俺の腰にある円盾を見る。


「盾は?」


「持っていく」


「舌を受けるなと言ったはずだ」


「受けるつもりはない」


「つもりで攻撃が避けられるなら、盾はいらねえ」


 返す言葉がない。


 ベルクは俺の前へ立ち、円盾の金属縁を指で叩いた。


「こいつは、次の強い一撃に耐えられるか分からん」


「ああ」


「壊れたら捨てろ」


「分かっている」


「剣と違って、盾は壊れた瞬間に持ち主まで道連れにする。情で握り続けるな」


 最初から使ってきた盾。


 何度も修理し、同じ盾を統合した。


 手に持てば、身体の一部のようになじむ。


 だが、ベルクの言うとおりだ。


「必要なら手放す」


「それでいい」


 ベルクは、まだ完全には信用していない顔をしていた。


     ◇


 迷宮へ向かう前に、治療所へ寄った。


 エドガーは寝台の上で、俺たちが作った作戦書を読んでいた。


 左手だけで紙を持ち、何度も同じ場所へ視線を戻している。


「前脚へ杭を撃つ」


「ああ」


「結晶糸の縄を石柱へ固定する」


「ああ」


「動きが止まったら、喉へ《氷槍》」


「ああ」


「書いてあることは分かった」


 エドガーが紙を下ろした。


「書いていないことを確認する」


「何だ」


「杭が外れたら?」


「戻る」


「石柱が崩れたら?」


「戻る」


「リディアが一度目の《氷槍》に失敗したら?」


「戻ります」


 リディアが答えた。


「ウィルが、あと少しで倒せると言ったら?」


 リディアが俺を見る。


「戻ります」


「俺の意見は聞かないのか」


「危険なら撤退する決まりです」


 答えるまでが早くなっている。


 エドガーが満足そうにうなずいた。


「それでいい」


「俺も戻るつもりだ」


「お前は、倒せそうなときだけ判断が遅くなる」


「そんなことはない」


「灰晶王蛇のとき、自分の胸を押さえながら何と言った?」


「覚えていない」


「『まだ動ける』だ」


 言ったような気もする。


「今日は俺がいない」


 エドガーの声が少し低くなる。


「リディアの判断を聞け。自分だけで決めるな」


「ああ」


「リディア」


「はい」


「怖くなったとき、黙るな」


「はい」


「逃げたいなら、逃げたいと言え。それでウィルが怒ることはない」


「分かっています」


 リディアが杖を握り直す。


「怖いです。でも、黙りません」


「なら行ってこい」


 エドガーが左拳を差し出した。


 俺は自分の拳を軽く当てる。


 リディアは何をするのか分からず、少し迷っていた。


「お前もだ」


「私も?」


「仲間だろう」


「はい」


 リディアも、恐る恐る拳を重ねた。


「三人で帰ってこい」


「エドガーはここにいるだろう」


「気持ちの話だ」


「分かりにくい」


「お前にだけは言われたくない」


     ◇


 《霧の沼迷宮》へ入る。


 白い霧。


 黒い泥。


 浅い水。


 何度も通った道を、最奥へ向かって進む。


 リディアは、以前より安定した足取りでついてくる。


 怖くなくなったわけではない。


 時折、泥ガエルの鳴き声に肩を揺らす。


 水面が動けば、杖を強く握る。


 それでも、立ち止まらない。


「体調は」


「大丈夫です」


「魔力は」


「まだ使っていません」


「怖さは」


「八くらいです」


「十段階か?」


「はい」


「高いな」


「迷宮主と戦うので……」


 正直でいい。


 俺も怖くないわけではない。


 灰晶王蛇とは違う。


 沼王ガエルは、自分の得意な場所からほとんど動かない。


 こちらが引きずり出さなければ、剣は届かない。


 最奥の石柱が見えた。


 その向こうに、円形の黒い沼が広がっている。


 中央では、白い霧が渦を巻いていた。


 《霧感知・小》へ、巨大な気配が触れる。


 水の下。


 昨日と同じ場所にいる。


「準備する」


「はい」


 沼から最も離れた石柱を選ぶ。


 表面を確認する。


 ひびはあるが、前回の鳴き声を受けた柱より太い。


 結晶糸の縄を二重に巻きつけ、外れないように結ぶ。


 縄の反対側には、《灰晶返し杭》。


 石柱と沼の間へ、縄を一直線に伸ばした。


 途中で絡めば、杭の軌道が変わる。


「縄の上を踏むな」


「はい」


 リディアは杭を地面へ置き、その周囲へ氷を作る位置を確認する。


 俺は油布の囮を取り出した。


 普通の麻縄を結び、石の道の上へ置く。


「耳栓を」


 布と蝋で作った耳栓を装着する。


 リディアにも確認する。


「聞こえますか?」


「ああ」


「私の声は?」


「聞こえる」


 完全に音を塞いではいない。


 沼王ガエルの鳴き声を、少しでも弱めるためのものだ。


「一度目は、囮で舌を出させる」


「はい」


「舌が囮から外れたら、もう一度動かす」


「はい」


「水際まで出たら、前脚へ杭を撃て」


「分かっています」


 リディアの手が震えている。


「無理か」


「まだできます」


「まだ、ではなく」


 俺はリディアを見る。


「やるか、戻るかだ」


 リディアは、黒い沼へ目を向けた。


 水面には、何も見えない。


 だが、巨大な魔物がいる。


「やります」


 震えは止まっていない。


 それでも、声ははっきりしていた。


「お願いします」


「ああ」


     ◇


 俺は油布の囮を、石の道の上へ投げた。


 縄を引く。


 油を染み込ませた布が、地面を跳ねる。


 ゴロッ。


 ゴロッ。


 不規則に動かす。


 黒い水面に、波紋が広がった。


 黄色い目が一つ現れる。


 もう一つ。


 沼王ガエルの巨大な頭が、水面へ浮かんだ。


「来るぞ」


 囮を強く引く。


 油布が石の上を転がった。


 沼王ガエルの口が開く。


 赤黒い舌が飛び出した。


 速い。


 囮へ張りつく。


 縄が一瞬で張った。


 俺は引かずに、手を離した。


 囮が沼王ガエルへ向かって飛ぶ。


 だが、口へ戻る途中。


 油布が舌の表面を滑った。


 囮だけが石の道へ落ちる。


「外れました!」


「ああ」


 舌が口へ戻る。


 沼王ガエルの黄色い目が、落ちた囮へ向いた。


 もう一度、縄を引く。


 油布が動く。


 二度目の舌。


 今度は囮の中央へ深く巻きついた。


 油があっても、完全には外れない。


 縄が引かれる。


「手を放して!」


 リディアの声。


 縄を放す。


 油布が、今度は沼王ガエルの口へ消えた。


 噛み潰す音がする。


「囮がなくなりました」


「問題ない」


 役目は果たした。


 沼王ガエルの身体が、水の下で動く。


 餌が小さかったことに気づいたのか。


 石の道にいる俺たちを見た。


「下がれ」


 リディアが杭のそばまで下がる。


 俺は円盾を構え、石の道へ一歩出た。


 剣の腹で盾を叩く。


 高い音。


「こっちだ」


 沼王ガエルが水へ沈む。


 《霧感知・小》に、巨大な気配が伝わった。


 水の下を真っすぐ進んでくる。


 速い。


 前回よりも。


「来る!」


 黒い水が盛り上がる。


 沼王ガエルの頭が、水面を突き破った。


 口が開く。


 正面から噛みつくつもりだ。


 俺は石の道を走る。


 水際から離れる方向。


 沼王ガエルの前脚が、岸へ乗った。


 一歩。


 もう一歩。


 太い前脚が、石の道を叩く。


「リディア!」


「はい!」


 背後で詠唱が始まる。


「冷たき水よ、我が声に応えよ」


 俺は沼王ガエルの正面を横切る。


 巨大な口が、俺を追う。


「集いて形を成し――」


 《灰晶返し杭》の周囲へ、氷が伸びている。


 訓練で使った木の棒より重い。


 氷の形が、わずかに震えた。


 沼王ガエルの舌が飛ぶ。


 俺の胸へ向かってくる。


 円盾で受けない。


 身体を横へ投げる。


 舌が外套の端へ触れた。


 布が強く引かれる。


 外套の留め具が首へ食い込む。


「っ!」


 すぐに留め具を外した。


 《霧除けの外套》が、舌に巻かれて持っていかれる。


 沼王ガエルの口へ消えた。


「ウィルさん!」


「続けろ!」


 外套は失った。


 だが、俺は水へ引き込まれていない。


「敵を貫く、一条の槍となれ!」


 沼王ガエルの右前脚が、石の道へ乗る。


 動きが止まった。


「《氷槍》!」


 灰晶の杭を包んだ氷槍が飛ぶ。


 縄が石の上を走る。


 狙いは前脚。


 だが、重さで軌道が少し下がった。


 杭の先端が、前脚の外側へ当たる。


 刺さった。


 浅い。


 鉄の返しが、まだ皮膚の外に見えている。


「足りない!」


 沼王ガエルが脚を引く。


 縄が張る。


 杭が抜けかけた。


 俺は《探索用ベルト》から、小型ハンマーを抜いた。


 前へ走る。


「ウィルさん、危険です!」


「杭が抜ける!」


 沼王ガエルの前脚へ近づく。


 巨大な頭が、こちらへ向いた。


 舌は、外套を飲み込んだ直後。


 まだ戻っていない。


 杭の後部へ、ハンマーを振り下ろす。


 ガンッ!


 杭が少し深く入る。


 二度目。


 沼王ガエルが前脚を振った。


 身体ごと持ち上げられる。


 俺は杭から手を離し、地面へ転がった。


 太い脚が、頭の横へ落ちる。


 石の道が割れた。


「ウィルさん!」


「まだだ!」


 立ち上がる。


 杭は残っている。


 返しが皮膚の中へ入った。


 沼王ガエルが水へ戻ろうと後退する。


 結晶糸の縄が張った。


 石柱が震える。


 杭は抜けない。


 右前脚が引かれ、沼王ガエルの身体が傾く。


「刺さりました!」


「ああ!」


 第一段階は成功した。


 だが、沼王ガエルは岸へ固定されたまま暴れ始めた。


 太い左前脚が石を砕く。


 後ろ脚は、まだ水の中。


 水を蹴るたび、大きな波が石の道へ押し寄せる。


 俺の膝まで水が来る。


 《沼歩き・極》で足場を感じ取る。


 戦靴が濡れた石を捉えた。


「リディア、魔力回復薬を!」


「はい!」


 リディアが青い小瓶を取り出す。


 飲み干す。


 沼王ガエルの喉が膨らみ始めた。


「鳴きます!」


「柱の後ろへ!」


 二人で別の石柱へ走る。


 結晶糸を結んだ柱ではない。


 その隣。


 身を隠した直後。


 ボオオオオオッ!


 低い鳴き声。


 空気が震えた。


 石柱の裏にいても、胸の中を叩かれる。


 足元の水が跳ねる。


 視界が揺れた。


 リディアが耳を押さえ、膝をつく。


「リディア!」


「聞こえています……!」


 返事はある。


 意識も失っていない。


 鳴き声が止まる。


 だが、杭を固定している石柱から、嫌な音がした。


 ミシッ。


 表面のひびが広がっている。


「柱が割れます!」


「次の鳴き声までに決める」


 石柱の後ろから出る。


 沼王ガエルは、右前脚を何度も引いている。


 結晶糸が、石柱の表面へ深く食い込んでいた。


 長くは持たない。


「喉を狙えるか」


「やります」


 リディアが杖を構える。


 手が震えている。


 さっきの鳴き声で、身体の感覚が戻っていないのかもしれない。


「無理なら言え」


「怖いです」


「ああ」


「でも、まだできます」


 リディアが息を吸う。


「冷たき水よ――」


 沼王ガエルが、リディアへ顔を向けた。


 魔力の集まりに気づいた。


 舌が口の奥で動く。


「俺を見ろ!」


 石弾を投げる。


 黄色い目へ当たった。


 沼王ガエルの頭が、こちらへ向く。


「我が声に、応えよ……」


 リディアの詠唱は続いている。


 舌が飛ぶ。


 俺の顔。


 横へ避ける。


 舌が頬を掠め、背後の石へ張りついた。


 すぐに戻る。


 沼王ガエルの喉が、再び膨らみ始めた。


「集いて、形を成し……」


 鳴き声の準備が早い。


 前よりも。


 喉が大きく膨らむ。


「リディア、急げ!」


 リディアの声が止まった。


 黄色い目。


 開いた口。


 巨大な身体。


 恐怖で、詠唱が消えた。


「無理……です」


 聞こえた。


 隠さずに言えた。


「分かった!」


 俺は剣を抜く。


 詠唱が間に合わないなら、別の方法で止める。


 沼王ガエルの正面へ走る。


「ウィルさん、何を――」


「喉を斬る!」


 膨らんだ喉は、白く柔らかい。


 だが、高い。


 そのままでは剣が届かない。


 近くにある崩れた石柱へ足をかける。


 一歩。


 二歩。


 《岩走りの戦靴》が、濡れた石を捉える。


 上へ駆ける。


 沼王ガエルの喉が、限界まで膨らんだ。


 俺は石柱を蹴った。


 身体が宙へ出る。


 《疾風の鋼剣》を横へ振る。


 風が刃を押す。


 喉の表面へ届いた。


 浅い。


 だが、切れた。


 白い皮膚から血が噴き出す。


 膨らんだ喉が歪んだ。


 ボオッ――!


 鳴き声が途中で崩れる。


 完全には止まらない。


 至近距離の衝撃が、身体を吹き飛ばした。


「ぐっ!」


 石の道へ落ちる。


 背中を強く打つ。


 《衝撃緩和の腕輪》が光った。


 それでも息が詰まる。


 円盾が手から離れ、石の上を転がった。


「ウィルさん!」


 沼王ガエルが、俺へ向かって前脚を上げる。


 避けなければ。


 身体が動かない。


 息が戻らない。


 太い前脚が、頭上へ落ちてくる。


「《氷壁》!」


 目の前へ、氷の壁が伸びた。


 沼王ガエルの前脚が当たる。


 氷が砕ける。


 衝撃で破片が飛ぶ。


 だが、前脚の軌道が横へずれた。


 俺の肩のすぐ近くへ落ちる。


 石が割れた。


「立てますか!」


「ああ……!」


 剣を支えに身体を起こす。


 リディアは、泣いていた。


 それでも杖を向けている。


「すみません。《氷槍》が……」


「今からでいい」


「でも、詠唱を止めました」


「もう一度始めろ」


 沼王ガエルの喉には、俺がつけた傷がある。


 血が流れている。


「傷を狙え」


 リディアが、震える息を吐いた。


「はい」


 もう一度、杖を構える。


「冷たき水よ、我が声に応えよ」


 俺は円盾を拾う。


 金属縁には、新しい亀裂が入っていた。


 まだ形は残っている。


「集いて、形を成し――」


 沼王ガエルが前へ跳んだ。


 右前脚は杭で固定されている。


 完全には跳べない。


 身体が横へ傾く。


 結晶糸が強く引かれた。


 ミシミシッ!


 石柱のひびが一気に広がる。


「柱が!」


「詠唱を続けろ!」


 沼王ガエルが左前脚で地面を叩く。


 石と泥が飛ぶ。


 俺は円盾で受ける。


 金属縁の亀裂が伸びた。


「敵を貫く――」


 沼王ガエルの舌が伸びる。


 リディアへ向かっている。


 間に入る。


 円盾を構える。


 受けるな。


 ベルクの言葉。


 盾へ張りつけば、水へ引かれる。


 俺は円盾を投げた。


 舌が盾の表面へ張りつく。


 沼王ガエルが引く。


 円盾が口へ向かって飛んだ。


 牙へぶつかる。


 バキッ。


 長く使った盾が、中央から割れた。


 二つに分かれ、沼王ガエルの口元へ落ちる。


 身体は引かれていない。


 それでいい。


「一条の槍となれ!」


 リディアの杖へ、氷が集まる。


 長い槍。


 訓練場で見たものより、少し細い。


 狙いは、喉の傷。


 沼王ガエルの喉が、三度目の鳴き声へ向けて膨らみ始める。


「《氷槍》!」


 氷の槍が飛んだ。


 霧を貫く。


 沼王ガエルが頭を動かす。


 外れる。


 そう思った瞬間。


 リディアが杖を横へ振った。


 氷槍の軌道が、わずかに曲がる。


 完全には動かせない。


 それでも、槍の先端が傷口へ入った。


 深く。


 膨らんだ喉を貫く。


 沼王ガエルの鳴き声が、口から出る前に弾けた。


 鈍い破裂音。


 喉の皮膚が内側から裂ける。


 血と冷気が噴き出した。


 沼王ガエルの頭が、大きく下がる。


「当たりました!」


「ああ!」


 終わっていない。


 沼王ガエルが、水へ戻ろうとする。


 杭を固定していた石柱が折れた。


 ゴオッ!


 巨大な石の上部が泥へ倒れる。


 結晶糸の縄は切れていない。


 折れた石柱を引きずりながら、沼王ガエルが後退する。


 動きは遅い。


 だが、水へ入れば、また相手の場所になる。


「逃がさない!」


 俺は走る。


 盾はない。


 頼れるのは剣と足だけ。


 沼王ガエルの前脚が、横から振られる。


 《沼歩き・極》が、水底の硬い場所を伝える。


 そこへ戦靴を置く。


 身体を低くし、前脚の下を抜けた。


 喉の傷。


 氷槍が刺さったまま残っている。


 《疾風の鋼剣》を両手で握る。


 踏み込む。


 刃を、氷槍のすぐ横へ突き込んだ。


「はああっ!」


 柔らかい肉を貫く。


 剣の根元近くまで入った。


 沼王ガエルの身体が跳ねる。


 剣を握ったまま、持ち上げられた。


 手放せば落ちる。


 握り続ければ、身体ごと振られる。


 戦闘手袋が柄を捉える。


 俺は足を沼王ガエルの胸へ押しつけた。


 剣を、さらに深く押し込む。


 風が刃の周囲を走った。


 喉の奥。


 硬いものへ触れる。


 魔石か。


 骨か。


 構わない。


「ウィルさん、離れて!」


 リディアの声。


 すぐに剣を抜き、横へ跳ぶ。


「《凍結》!」


 白い冷気が、喉の傷へ流れ込んだ。


 血と水分が凍る。


 傷口の内側から、氷が広がった。


 沼王ガエルが大きく口を開く。


 声は出ない。


 喉が凍り、鳴き声を作れない。


 巨体が石の道へ倒れた。


 地面が揺れる。


 俺は距離を取る。


 まだ動く。


 前脚が石を掻く。


 後ろ脚が水を蹴る。


 だが、右前脚は杭と石柱の残骸に引かれている。


 水へ戻れない。


「リディア、下がれ!」


「はい!」


 沼王ガエルが、最後の力で俺へ飛びかかる。


 盾はない。


 避けるしかない。


 黄色い目。


 開いた口。


 牙の奥に、リディアの氷槍が見える。


 左へ動く。


 沼王ガエルの頭も追ってくる。


 速い。


 完全には避けられない。


 俺は剣を横へ構えた。


 噛まれる直前。


 右足を、沈んだ石の上へ置く。


 《岩走りの戦靴》が滑りを止める。


 身体を反転させる。


 大きな口が、肩の横を通った。


 その勢いを使い、剣を振る。


 風の補助。


 凍った喉の傷へ、刃が入る。


 氷と肉が、同時に割れた。


 深い。


 今までで最も深く入った。


 沼王ガエルの身体が、俺の横を通り過ぎる。


 石の道へ腹から落ちた。


 水が跳ねる。


 泥が飛ぶ。


 後ろ脚が一度だけ強く伸びた。


 それから。


 動かなくなった。


     ◇


 俺は剣を構えたまま、沼王ガエルを見ていた。


 息が荒い。


 背中が痛む。


 左腕も痺れている。


 だが、立っている。


「ウィルさん……」


「近づくな」


 投擲用石弾を一つ取り出す。


 沼王ガエルの黄色い目へ当てる。


 反応はない。


 二つ目。


 喉の傷へ当てる。


 動かない。


 《霧感知・小》へ伝わっていた巨大な気配が、ゆっくりと消えていく。


「終わった」


 その言葉を口にした瞬間。


 リディアが、その場へ座り込んだ。


「怪我は?」


「ありません……」


「魔力は?」


「ほとんど残っていません」


「歩けるか」


「少し休めば……」


 リディアは泣いていた。


 だが、顔には笑みもあった。


「私、二回目の《氷槍》を使えました」


「ああ」


「途中で、できないと言ったのに」


「ああ」


「もう一度、できました」


「お前が喉を貫いた」


「ウィルさんが、傷をつけてくれたからです」


「二人で倒した」


 リディアが涙を拭い、何度もうなずく。


「はい」


 視界へ光が浮かんだ。


《沼王ガエル》を初めて討伐しました。


ガチャチケットを1枚獲得しました。


所持ガチャチケット:6枚


《霧の沼迷宮》の迷宮主を討伐しました。


通常魔物討伐記録:10/10


迷宮主討伐:完了


《霧の沼迷宮》を完全攻略しました。


迷宮完全攻略数:3


完全攻略報酬を獲得します。


《沼地狩人》


泥、浅い水、霧に覆われた湿地での感覚と身体能力が上昇します。


全基礎能力が10上昇します。


名前:ウィル・クロード

レベル:6

生命力:42→52

筋力:35→45

敏捷:27→37

魔力:23→33

ダンジョンガチャレベル:2

所持ガチャチケット:6枚

次回11連ガチャまで:あと4枚

迷宮完全攻略数:2→3

霧の沼迷宮討伐記録:10/10


 身体の奥から、強い力が広がる。


 傷が治るわけではない。


 疲れが消えるわけでもない。


 それでも、立っている足が少し軽くなった。


 俺は表示を閉じる。


 石の道には、割れた円盾が落ちていた。


 二つに分かれた木の板。


 歪んだ金属縁。


 何度も俺を守った盾。


 最後も、沼王ガエルの舌から俺を守った。


 俺は二つの破片を拾った。


「持って帰るんですか?」


「ああ」


「もう、使えませんよね」


「分かっている」


 古い剣と同じだ。


 戦えなくなったからといって、置いていく理由にはならない。


「役目を終えただけだ」


 リディアが盾の破片を見る。


「ウィルさんらしいです」


「どういう意味だ」


「簡単に捨てないという意味です」


 俺は盾の破片を《アイテムボックス》へ入れた。


 そのあと、沼王ガエルの巨大な身体を見る。


 魔石や素材の回収は、協会の調査隊へ任せる。


 今は、帰ることが先だ。


「立てるか」


「はい」


 リディアが杖を支えに立ち上がる。


 足は震えている。


 だが、自分で歩ける。


「帰ろう」


「はい」


 白い霧が、少しずつ薄くなっていた。


 黒い沼の上に、今まで見えなかった空が広がっている。


 完全に晴れたわけではない。


 それでも、進む道は見えた。


 怖がりな氷魔法使いと。


 盾を失った剣士。


 二人で倒した迷宮主を背にして。


 俺たちは、三つ目の迷宮から帰り始めた。


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