第45話 沼王を岸へ
《霧の沼迷宮》から戻った俺たちは、そのまま冒険者協会へ向かった。
腕の痺れは、町へ着く頃にはほとんど消えている。
それでも、リディアに言われ、治療師の確認を受けた。
「軽い麻痺毒ですね」
治療師が俺の指先を触りながら言う。
「毒を受けた場所は?」
「盾を通してだ」
「直接触れていないなら、この程度で済むでしょう。ただし、次に同じ毒を受けた場合も、同じ症状とは限りません」
「《毒耐性・中》がある」
「耐性は無効化ではありません」
昨日、自分でも確認した説明と同じだった。
「分かっている」
「分かっている方は、毒を受けた直後に『問題ない』とは言いません」
隣にいたリディアが、何度もうなずいている。
「ほら、やっぱり問題があったんです」
「軽い痺れだ」
「軽くても問題です」
「もう治っている」
「治ったからといって、受けたことがなくなるわけではありません」
エドガーと同じようなことを言うようになってきた。
治療師から毒を和らげる薬を受け取り、協会の奥にある部屋へ移動する。
机の上には、俺が描いた迷宮の地図が広げられていた。
受付の女性。
治療所から馬車で来たエドガー。
それから、迷宮の調査を担当する年配の職員が待っている。
「通常魔物10種類の討伐、おめでとうございます」
受付の女性が言った。
「これで《霧の沼迷宮》は、迷宮主を残すのみとなりました」
「名前は《沼王ガエル》だった」
地図の最奥へ、円形の沼を描き加える。
「ここにいた。周囲には、崩れた石柱が並んでいる」
「大きさは?」
年配の職員が尋ねる。
「全身は見ていない。頭だけでも、大沼ワニより大きかった」
「水中に身体を隠していたのですね」
「ああ」
「攻撃は?」
「近づいていない。鳴き声だけだ」
石柱の一部が崩れるほどの衝撃。
耳で聞くだけではない。
空気そのものが震えていた。
「低い鳴き声で、周囲の水と石柱が揺れた」
「音の魔法でしょうか」
リディアが尋ねる。
「可能性はあります」
年配の職員が、別の資料を取り出した。
「大型のカエル系魔物には、喉に魔力を集め、衝撃波を発生させる種類がいます」
「喉を膨らませていた」
「ならば、その可能性が高いでしょう」
エドガーが地図を見る。
「水の深さは?」
「分からない。頭しか出ていなかった」
「足場は?」
「沼の外周に石の道がある。中央へ近づくほど水に沈んでいるように見えた」
「完全に相手の場所だな」
エドガーの言葉に、リディアが表情を曇らせる。
「水の中へ入ったら、勝てないでしょうか」
「少なくとも、ウィルは剣を振れん」
膝までの水なら動ける。
腰を越えれば、踏み込みも回避も難しくなる。
相手は、水の中を自由に動ける巨大なカエルだ。
「俺たちが水へ入る必要はない」
俺が言うと、エドガーが顔を上げた。
「どうする」
「向こうを岸へ出す」
「出てくるのか?」
「確かめる」
「確かめるために、食われるなよ」
「ああ」
リディアが、不安そうに俺を見る。
「今、少し間がありませんでしたか?」
「なかった」
「ありました」
「話を進めるぞ」
俺は円形の沼の外側を指す。
「崩れた石柱がある。隠れる場所には使える」
「鳴き声の衝撃を防げるかは分からん」
「一度受けさせて確認する」
「誰にだ」
「石柱に」
「お前ではないな?」
「ああ」
エドガーが、ようやく地図へ視線を戻す。
「岸へ出すなら、餌か刺激が必要だ」
「石を投げるだけでは、出てこないかもしれない」
「カエルなら、動く物へ反応する可能性があります」
リディアが言った。
「普通のカエルは、小さく動く虫を舌で捕まえます」
「沼王ガエルにも舌があると思うか」
「たぶん……」
本人も言いながら、大きな舌を想像したらしい。
顔が少し青くなった。
「人を丸ごと巻き取るほど長いかもしれません」
「なら、舌を使わせる」
エドガーが俺を見る。
「わざと狙わせるつもりか」
「人ではなく、餌を使う」
硬い保存食。
干し肉。
縄をつけて動かせば、生き物のように見せられるかもしれない。
「舌が出るなら、身体の一部が水から離れる」
「舌を斬るのか?」
「斬れるか確かめる」
「確かめることばかりですね」
リディアが小さく言う。
「まだ何も分かっていないからな」
最初から倒し方が分かる迷宮主などいない。
灰晶王蛇も、一度目の探索で攻撃や弱点を確認した。
逃げ帰ったから、次の戦いで勝てた。
「今日は戦わない」
俺はリディアを見る。
「迷宮主の攻撃範囲と、岸へ出るかだけ確認する」
「はい」
「危険だと思ったら戻る」
「はい」
「俺が続けようとしても、危険なら止めろ」
「……本当に止まりますか?」
「止まる」
エドガーが口を挟む。
「今の言葉は、書類に残しておけ」
「そこまで必要か」
「必要だ」
受付の女性が、本当に紙へ書こうとしている。
「書かなくていい」
「念のためです」
「必要ない」
なぜ誰も信用しない。
◇
協会を出たあと、ベルクの工房へ向かった。
壁には、大小さまざまな剣や斧。
作業台の上には、修理を終えたばかりの防具が並んでいる。
「今度は何を壊した」
俺を見るなり、ベルクが尋ねた。
「今日は壊していない」
「まだ朝だからな」
「相談がある」
《アイテムボックス》から、灰晶王蛇の牙を取り出す。
完全攻略のあと、売らずに残した一本。
俺の前腕ほどの長さがある。
「こいつを使うのか」
「ああ」
「武器にするなら、短剣か槍先だな」
「杭にできるか」
「杭?」
「硬いものを地面へ固定したい」
ベルクが牙を持ち上げ、光へかざす。
「何を固定する」
「迷宮主の舌か脚」
「また妙なことを考えてやがるな」
事情を説明する。
ベルクは途中で何度か顔をしかめたが、話を最後まで聞いた。
「巨大ガエルの舌を、地面へ縫いつけたいってことか」
「できるか」
「舌の硬さが分からん」
「普通の剣で斬れるかも分からない」
「なら、刃をつけた返し杭にする」
ベルクが紙へ簡単な形を描く。
先端は灰晶王蛇の牙。
その後ろに、鉄製の返し。
尻の部分には、縄を通す輪。
「刺さったあとに抜けにくくなる。ただし、投げて使うような物じゃねえ」
「近づいて刺す」
「そう言うと思った」
「私が刺します」
リディアが突然言った。
工房の中が静かになった。
「お前が?」
「《氷槍》なら、遠くから刺せます」
「牙の杭を氷槍へつけるのか」
「持ち上げられる重さなら、氷で包んで飛ばせるかもしれません」
訓練場で使った《氷槍》は、すべて氷でできていた。
だが、中心に杭を入れて形を作れば、射出できる可能性はある。
「やったことは?」
「ありません」
「練習は必要だな」
ベルクが牙を作業台へ置く。
「杭自体は今日中に作れる。だが、これを氷で飛ばして狙った場所へ当てるなら、何度も試せ」
「はい」
「一本しかない。練習では木の棒を使え」
灰晶王蛇の牙を失えば、同じ物はすぐに用意できない。
本番まで、実物は使えない。
「縄は何を使う」
ベルクが尋ねる。
「丈夫な麻縄がある」
「水を吸えば重くなる。迷宮主の力で引かれれば切れるかもしれん」
「ほかにあるか」
「灰晶洞窟で使った結晶糸の縄は?」
「あれは一本残っている」
灰晶王蛇の尾を止めるため、二本用意した。
一本は大きく傷つき、使えなくなった。
もう一本は、予備として持ち帰っている。
「それを使え。普通の縄より細いが、引っ張る力には強い」
「分かった」
「ただし、杭が刺さっても、人間二人で巨大ガエルを引けるとは思うなよ」
「引っ張るためではない」
「なら、何に使う」
「岸から逃がさないためだ」
ベルクが俺を見つめる。
「そこまで岸へ出せたら、だろう」
「ああ」
「まず生きて戻って、出てくるか確かめろ」
エドガーと同じことを言う。
◇
工房の裏にある空き地で、リディアの練習を始めた。
最初は、灰晶牙と同じ重さにした木の棒。
棒の後ろには、短い縄を結んでいる。
「本当に飛ばせると思うか」
「分かりません」
リディアは杖を構えた。
「でも、氷の中心に入れるだけなら……」
木の棒を地面へ置く。
リディアが杖を向け、ゆっくりと冷気を集めた。
「冷たき水よ、我が声に応えよ」
木の棒の周囲に、薄い氷が生まれる。
「集いて形を成し、敵を貫く一条の槍となれ」
氷が伸びる。
木の棒を包み込みながら、槍の形へ変わった。
「《氷槍》!」
氷槍が飛ぶ。
だが、十歩も進まないうちに傾いた。
木の棒の重さで軌道が下がり、地面へ突き刺さる。
「失敗です」
「重心が前すぎる」
「氷を後ろ側へ増やします」
二度目。
今度は、氷の後ろを太くする。
飛距離は伸びた。
だが、途中で氷が割れ、木の棒だけが落ちた。
「縄に引かれています」
リディアが息を整える。
「縄が地面を擦って、後ろへ引っ張っているみたいです」
「縄を最初から伸ばしておく」
杭から後方へ、縄をまっすぐ並べる。
途中で絡まないよう、輪を作らない。
三度目。
氷槍が木の標的へ飛ぶ。
棒の先端が標的へ当たった。
深くは刺さらない。
それでも、二度目よりはまっすぐ飛んだ。
「当たりました」
「ああ」
「もう一度やります」
「魔力は」
「まだ大丈夫です」
「三回使っている」
《氷槍》は消費が大きい。
実戦で何度も使える魔法ではない。
「今日はあと一度だ」
「でも、まだ成功していません」
「魔力を使い切っても、精度は上がらない」
「……はい」
四度目。
リディアは、氷の形をさらに細くした。
木の棒を完全に包むのではなく、後方だけを氷で支える。
「《氷槍》!」
飛ぶ。
縄は地面の上を滑る。
木の棒が、標的の中央へ突き刺さった。
深さは、指一本分ほど。
本物の灰晶牙なら、さらに深く入るかもしれない。
「できました」
リディアが杖を下ろす。
額に汗が浮かんでいた。
「一度だけだ」
「はい」
「本番までに、同じ形を何度も成功させる」
「分かっています」
嬉しそうではあるが、浮かれてはいない。
成功したあとに、何が足りないかも見ている。
「ウィルさん」
「何だ」
「杭が刺さっても、縄の反対側はどうするんですか?」
「石柱へ結ぶ」
「耐えられますか?」
「それも、今日確認する」
◇
午後。
俺たちは、再び《霧の沼迷宮》の最奥へ向かった。
戦うための探索ではない。
荷物も、最低限にしている。
低級解毒薬。
中治癒ポーション。
耳を守るための布と蝋。
投擲用石弾。
長い縄の先につけた干し肉。
迷宮主のいる円形の沼へ近づく。
《霧感知・小》に、巨大な気配が触れた。
昨日と同じ場所。
水の中で、ほとんど動いていない。
「います」
リディアが小声で言う。
「ああ」
崩れた石柱の後ろへ隠れる。
耳には、布と蝋で作った簡単な耳栓を入れている。
完全に音を防げば、リディアの声も聞こえなくなる。
鳴き声の衝撃を少し弱める程度だ。
「最初に、石柱が耐えられるか見る」
「どうやって鳴かせますか?」
「水へ石を投げる」
沼王ガエルがいる場所から少し離れた水面へ、石弾を投げる。
ポチャン。
小さな波紋。
反応はない。
二つ目。
今度は、巨大な頭の近くへ落とす。
黄色い目が開いた。
沼王ガエルの喉が膨らむ。
「隠れろ!」
石柱の後ろへ身体を入れる。
リディアも隣へしゃがんだ。
次の瞬間。
ボオオオオッ!
低い鳴き声。
石柱が震える。
空気が背中を押した。
耳栓をしていても、頭の奥へ音が響く。
石柱の表面から、小石と苔が落ちる。
だが、柱そのものは崩れなかった。
鳴き声が止まる。
「大丈夫か」
「はい……少し、気持ちが悪いです」
「俺もだ」
身体の外からではなく、内側を揺らされるような感覚。
何度も受ければ、立っていられなくなるかもしれない。
「石柱は、一度なら耐えた」
「何度まで耐えるでしょうか」
「分からない。二度目は受けさせない方がいい」
次は、舌を確認する。
干し肉を結んだ縄を取り出す。
「私が動かします」
リディアが言った。
「俺がやる」
「ウィルさんは盾を構えてください」
「舌がこちらへ来るかもしれない」
「だからです」
間違ってはいない。
俺は円盾と剣を持っておいた方がいい。
縄の端をリディアへ渡す。
「柱から離れるな」
「はい」
リディアが干し肉を石の道へ投げる。
縄を引く。
肉が、地面の上を小刻みに動いた。
沼王ガエルの黄色い目が、肉へ向く。
「見ています」
「ああ」
肉を、もう一度動かす。
沼王ガエルの頭が、わずかに上がった。
口が開く。
黒い穴。
その奥から、赤いものが飛び出した。
「伏せろ!」
舌。
俺の腕より太い。
赤黒い舌が、十歩以上の距離を一瞬で伸びた。
干し肉へ張りつく。
次の瞬間、縄が強く引かれた。
「きゃっ!」
リディアの身体が前へ動く。
俺は、リディアの腰へ腕を回した。
「縄を放せ!」
リディアが手を開く。
縄と干し肉が、沼王ガエルの口へ吸い込まれた。
噛む音。
干し肉だけではない。
縄の先も、一緒に消えた。
「今のが舌……」
「ああ」
人間が巻きつかれれば、そのまま水へ引き込まれる。
「どのくらい伸びましたか?」
「石柱の手前までだ」
沼の縁から、十数歩。
石柱の後ろなら届かない。
だが、石の道へ出た瞬間に攻撃範囲へ入る。
「岸へは出てきませんでした」
「餌が小さすぎたのかもしれない」
「もっと大きな餌を使うんですか?」
「次は石だ」
リディアが俺を見る。
「動かせません」
「縄で引く」
近くにあった、人の頭ほどの石へ麻縄を結ぶ。
重い。
リディア一人では動かしにくい。
俺が縄を引き、石を道の上で滑らせる。
ゴロッ。
ゴロッ。
大きな音。
沼王ガエルの目が動く。
石が生き物ではないと分かるのか。
すぐには舌を出さない。
「もっと速く動かします」
リディアが縄へ手を添える。
二人で引く。
石が跳ねるように動いた。
沼王ガエルが、突然水中へ沈んだ。
「消えた」
《霧感知・小》には、巨大な気配が残っている。
水の下を進んでいる。
こちらへ。
「下がれ!」
リディアと石柱の後ろへ戻る。
水面が盛り上がった。
巨大な頭が、沼の縁近くへ現れる。
前脚。
肩。
身体の一部が、水から出た。
沼王ガエルは、石の道にある大きな石を見つめている。
「出てきました」
「ああ」
完全に岸へ上がったわけではない。
後ろ脚と腹部は、まだ水の中。
だが、前半身は石の道へ乗っている。
喉の下。
白に近い、柔らかそうな皮膚が見えた。
狙える。
沼王ガエルが口を開く。
舌が飛び出した。
大きな石へ張りつく。
引く。
石が、簡単に持ち上がった。
人間の頭ほどある石を、舌だけで水へ引き込む。
「杭が刺さっても、舌の力で抜かれるかもしれません」
「杭だけでは足りない」
石柱。
結晶糸の縄。
灰晶牙の杭。
それだけでは、力負けする可能性がある。
沼王ガエルが石を吐き出した。
喉が膨らみ始める。
「戻るぞ!」
「はい!」
石柱の後ろから、さらに離れる。
今度は鳴き声を受ける必要はない。
石の道を走り、霧の中へ入る。
背後から、低い音が響いた。
地面が震える。
だが、距離がある。
立ち止まらずに進む。
沼王ガエルは追ってこなかった。
◇
安全な場所まで戻り、俺たちは太い木の根へ座った。
リディアが耳栓を外す。
「身体の中が、まだ震えている気がします」
「同じだ」
「でも、分かりました」
「ああ」
沼王ガエルは、動く物へ舌を伸ばす。
大きく音を立てれば、水際まで出てくる。
前半身が岸へ乗ったとき、白い喉が露出する。
「喉を狙うんですよね」
「ああ」
「鳴く前に?」
「できればな」
喉が膨らんでいる間は、魔力が集まっている。
そこへ《氷槍》を当てれば、鳴き声を止められるかもしれない。
「杭は、舌ではなく前脚へ使う」
「脚へ?」
「岸へ出た瞬間、片方の前脚を固定する」
舌は動きが速すぎる。
捕らえたあとも、口へ戻ろうとする力が強い。
リディアが狙い、杭を刺すのは難しい。
「前脚なら、石の道へ乗った瞬間に止まる」
「でも、前脚も太かったです」
「牙の杭なら通るかもしれない」
「刺したあと、縄を石柱へ結ぶんですか?」
「ああ」
それだけで動きを完全に止めるのは無理だ。
だが、一瞬でも身体が傾けばいい。
「私が前脚へ杭を撃つ」
「俺が舌を避け、岸へ誘う」
「そのあと、喉へ《氷槍》を撃つ」
「二本使えるか」
リディアは黙って考えた。
灰晶牙の杭を飛ばすために、一回。
喉を狙うために、もう一回。
「魔力回復薬を飲めば、使えます」
「詠唱を二度完成させる必要がある」
「はい」
「怖くなれば、できないかもしれない」
「はい」
否定しない。
「それでも、やります」
「理由は?」
「私にしかできないからです」
以前なら、守ってもらうことを恥じていた。
今は、自分ができる役割を見ている。
「失敗したら?」
「失敗したと伝えます」
「そのあとは」
「一緒に逃げます」
「それでいい」
倒すことだけを考えれば、死ぬ。
失敗したときに戻る道も、最初から用意する。
「あと一つ必要だ」
「何ですか?」
「沼王ガエルの舌を防ぐ物」
円盾で受ければ、盾ごと水へ引かれる可能性がある。
手放しても、盾を失う。
何度も修理した盾だ。
失いたくないからではない。
盾がなくなれば、その後の攻撃を防げない。
「舌に張りつかれても、すぐに外せる物が必要だ」
「油を塗るのはどうでしょうか」
「油?」
「カエルの舌は、表面が粘ついているから獲物が張りつくんですよね」
「ああ」
「油を塗った物なら、張りつきにくいかもしれません」
ガチャで手に入れた《携帯用油差し》がある。
装備の手入れや、火を使うための油。
「試す価値はある」
「盾へ塗るんですか?」
「いや」
盾へ油を塗れば、自分の手や剣まで滑る。
別の物を用意する。
厚い革か。
防水布。
丸めた布へ油を染み込ませ、縄をつけて動かす。
舌が張りつかなければ、何度も囮として使える。
張りついても、すぐ剥がれるなら、水へ引き込まれない。
「ベルクへ戻る」
「杭は、まだ完成していません」
「囮も作ってもらう」
リディアが立ち上がる。
顔には疲れが残っている。
それでも、迷宮主を見た直後のような青さはなかった。
「怖いか」
「怖いです」
「ああ」
「あの舌に巻きつかれたらと思うと、今も帰りたいです」
「なら、今日は帰る」
「はい」
リディアが杖を握り直した。
「でも、次は戻ってきます」
俺たちは入口へ向かって歩き始めた。
沼王ガエルの強さは、まだすべて分かったわけではない。
鳴き声。
長い舌。
水中での速さ。
巨大な身体。
正面から戦えば、勝てない。
だから、戦う場所を変える。
水から岸へ。
相手の場所から、俺たちが戦える場所へ。
灰晶王蛇の牙で前脚を縫い止め。
リディアの氷で動きを奪い。
膨らんだ喉へ、剣を届かせる。
倒し方の形が、少しずつ見え始めていた。




