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第44話 霧の向こうの主



 探索へ向かう前に、ベルクの工房へ立ち寄った。


 作業台の上には、俺の円盾が置かれている。


 大沼ワニに噛まれた金属縁は歪み、表面には深い牙の跡が残っていた。


「よく腕ごと持っていかれなかったな」


 ベルクが金槌で縁を叩きながら言う。


「《衝撃緩和の腕輪》があった」


「衝撃を軽くするだけだ。ワニの顎を弱くする道具じゃねえ」


「盾を手放すことも考えた」


「考えただけか」


「ああ」


 ベルクが、呆れたように息を吐いた。


「盾は命より安い。腕を持っていかれそうになったら、次は迷わず捨てろ」


「分かった」


「本当に分かってんのか?」


「次は手放す」


 必要なら。


 その言葉は、口にしない方がよさそうだった。


 隣に立っていたリディアが、傷ついた盾を見つめている。


「私の詠唱を待っていたから、こんなに壊れたんですよね」


「違う」


「でも――」


「俺が盾を噛ませると決めた」


 リディアへ《氷槍》を使わせるためだった。


 その判断が間違っていたとは思っていない。


「お前が責任を感じる必要はない」


「私が、もっと早く詠唱できていれば……」


「訓練場でも、同じ長さだった」


「そうですけど」


「なら、最初から分かっていたことだ」


 長い詠唱が必要な魔法を使わせるなら、その時間を作るのは前衛の役目だ。


 俺が選んだ。


 盾の傷も、その結果だった。


「ただし、次は別の方法を考える」


「別の方法ですか?」


「ああ。毎回、盾を噛ませるわけにはいかない」


「当たり前だ」


 ベルクが会話へ入ってくる。


「その盾は、もう何度も修理している。金属縁も革帯も限界が近い」


 最初のガチャで手に入れた《初心者用円盾》。


 同じ盾を統合し、《初心者用円盾+1》になった。


 そのあとも、何度も攻撃を受けた。


 疾風のフォレストウルフの牙。


 岩肌トカゲの尾。


 鉱喰いネズミの前歯。


 灰晶王蛇の攻撃。


 そして、大沼ワニの顎。


「修理できないのか」


「今回は直せる」


 ベルクが歪んだ金属縁を火へ入れる。


「だが、次に同じ場所へ強い攻撃を受けたら、縁だけじゃ済まん。盾そのものが割れる可能性がある」


「新しい盾が必要か」


「すぐに買えとは言わねえ。だが、探しておけ」


 剣は《疾風の鋼剣》へ替わった。


 靴や外套、手袋も揃い始めている。


 盾だけが、最初から使い続けている装備になった。


「使える間は使う」


「捨てるなとは言わん。ただし、壊れる前に替えろ」


「ああ」


 壁にかけた古い剣を思い出す。


 限界まで使い、戦えなくなったあとも家へ持ち帰った。


 盾も同じだ。


 壊れるまで無理に使う必要はない。


 役目を終える時期を、俺が見誤らなければいい。


     ◇


 修理された円盾を受け取り、《霧の沼迷宮》へ転移した。


 現在の討伐記録は8/10。


 所持ガチャチケットは3枚。


 あと2種類で、通常魔物の討伐条件を達成できる。


「今日は、どこまで行きますか?」


 リディアが尋ねる。


「眠りバナを倒した場所より先だ」


「新しい魔物を2種類見つけるまで?」


「決めない」


 魔物が見つからなくても、疲労や魔力の消耗が大きければ戻る。


「帰るときは帰る」


「はい」


 リディアは、以前より素直にうなずいた。


 怖さを隠さない。


 疲れも隠さない。


 同時に、進みたい気持ちも口にするようになっている。


 浅い水へ足を入れる。


 《岩走りの戦靴》が泥を捉えた。


 《沼歩き》によって、水底の柔らかさもある程度分かる。


 霧の中を進み、眠りバナが生えていた場所を迂回する。


 白い花は、昨日より閉じていた。


 近づかなければ、花粉を吐き出すこともないらしい。


「右へ回る」


「はい」


 風上を選び、距離を取る。


 しばらく進むと、水が浅くなった。


 代わりに、地面を覆う泥が深くなる。


 表面だけを見れば固そうだが、杖を差し込むと半分近くまで沈んだ。


「歩けますか?」


 リディアが尋ねる。


「俺は大丈夫だ」


 《沼歩き》と戦靴がある。


 だが、リディアの長靴では足を取られるかもしれない。


「俺が先に進む。足跡と同じ場所を踏め」


「分かりました」


 一歩進む。


 戦靴が泥へ沈む。


 足首。


 それ以上は入らない。


 体重を前へ移し、次の一歩。


 リディアが、俺の足跡へ自分の長靴を入れる。


「少し沈みます」


「動けるか」


「はい」


 泥の中を慎重に進む。


 途中で、丸い岩がいくつも見えてきた。


 表面に泥が積もり、灰色の苔が生えている。


 足場として使えるかもしれない。


「岩へ上がる」


 近くにあった平たい岩へ足を置く。


 硬い。


 俺が体重をかけても動かなかった。


 リディアも、別の岩へ上がろうとする。


「待て」


「どうしました?」


 リディアが足を止める。


 彼女の前にある岩だけ、表面の泥が少しずつ流れていた。


 岩そのものが、ゆっくりと上下している。


 呼吸している。


「下がれ」


 俺は円盾を構え、投擲用石弾を岩へ当てた。


 コツン。


 岩の下から、太い頭が伸びた。


 黄色い目。


 曲がった嘴のような口。


 泥の中に隠れていた四本の脚が現れる。


《泥ガメ》


 甲羅だけで、円盾よりも大きい。


 泥ガメが首を伸ばし、俺の脚へ噛みついた。


 横へ避ける。


 嘴が閉じ、空気を切る音がした。


「速い……!」


 リディアが杖を向ける。


「脚を狙います!」


「待て!」


 泥ガメが四肢と頭を、甲羅の中へ引っ込めた。


 直後、身体を滑らせる。


 丸い甲羅が、泥の上を勢いよく進んできた。


 円盾で受ける。


 重い。


 だが、戦靴は滑らない。


 身体を斜めへ向け、甲羅を横へ流す。


 泥ガメが通り過ぎる。


 甲羅へ剣を当てた。


 硬い音。


 刃は傷をつけられない。


「甲羅は斬れない!」


「ひっくり返せば、腹が見えませんか?」


「ああ」


 問題は、どうやって返すかだ。


 泥ガメは、低く平たい。


 円盾を差し込む隙間がほとんどない。


 もう一度、泥ガメが滑ってくる。


 今度は正面から受けず、横へ避けた。


 泥ガメは止まらない。


 泥の上を滑り、背後の岩へ激突する。


 甲羅から頭が出た。


 何事もなかったように、こちらを向く。


「岩へ当たっても平気みたいです」


「甲羅が衝撃を受けている」


「どうしますか?」


 泥ガメが再び頭を引っ込める。


「リディア、低い《氷壁》を作れるか」


「低い壁ですか?」


「俺の膝より下でいい。上を斜めにしろ」


「やってみます」


 リディアが杖を泥へ向けた。


「我が前に、冷たき壁を。《氷壁》!」


 泥の中から、氷が伸びる。


 高さは俺の膝ほど。


 正面から見ると、片側だけが高い。


 小さな坂のような形になった。


「これでいいですか?」


「ああ。後ろへ下がれ」


 俺は氷壁の前へ立つ。


 円盾を叩く。


「来い」


 泥ガメが頭を出し、俺を見る。


 すぐに甲羅へ引っ込み、泥の上を滑り始めた。


 真っすぐこちらへ来る。


 俺は動かない。


 距離が縮まる。


 あと三歩。


 二歩。


 一歩。


 横へ跳ぶ。


 泥ガメの甲羅が、斜めの氷壁へ乗り上げた。


 片側だけが持ち上がる。


「今だ!」


 円盾の縁を、浮いた甲羅の下へ差し込む。


 重い。


 腕だけでは上がらない。


 足を踏み込む。


 《岩走りの戦靴》が、氷の横にある泥を捉えた。


「リディア、反対側を凍らせろ!」


「《凍結》!」


 泥ガメが戻ろうとした側の泥が凍る。


 脚を出しても、踏ん張れない。


 俺は盾を押し上げた。


「おおっ!」


 甲羅が傾く。


 泥ガメの脚が空中で暴れる。


 もう一歩、踏み込む。


 氷壁を支点に、甲羅が回った。


 泥ガメが仰向けに倒れる。


 柔らかそうな腹。


 四本の脚。


 伸びた首。


 泥ガメが身体を戻そうとする。


 俺は腹部へ剣を突き込んだ。


 刃が深く入る。


 泥ガメの口が開いた。


 首を伸ばし、俺へ噛みつこうとする。


「《氷針》!」


 リディアの魔法が、泥ガメの首へ刺さる。


 動きが止まった。


 剣を引き抜き、同じ場所へもう一度突き込む。


 泥ガメの脚が震える。


 やがて、力が抜けた。


 俺は距離を取り、動かなくなるまで待った。


《泥ガメ》を初めて討伐しました。


ガチャチケットを1枚獲得しました。


所持ガチャチケット:4枚


霧の沼迷宮討伐記録:9/10


9種類の魔物を討伐しました。


《沼歩き》が進化します。


《沼歩き・極》


泥、浅い水、湿った根の上での移動能力が大きく上昇します。


水底にある深い穴や、崩れやすい足場を感じ取りやすくなります。


深い水での遊泳を補助する能力ではありません。


 足元の感覚が変わった。


 泥の深さ。


 その下にある石。


 水底の傾き。


 見えない場所まで、足の裏から伝わってくる。


 俺は泥の中へ一歩下りた。


 先ほどよりも、身体が沈まない。


 沈んでいないわけではない。


 だが、どこへ体重をかければ抜けられるのか、自然に分かった。


「何かありましたか?」


「《沼歩き》が強くなった」


「だから、急に歩き方が変わったんですね」


「分かるのか」


「さっきまで、泥の中を確かめながら歩いていました。今は、普通の道みたいです」


 そこまでではない。


 だが、戦闘中に足を取られる危険はかなり減った。


「リディアも、俺の足跡を使え」


「はい」


 泥ガメの魔石を回収する。


 甲羅は素材として使えそうだが、重い。


 帰りに余裕があれば回収することにした。


「あと1種類ですね」


 リディアが言う。


「ああ」


「今日、探しますか?」


「体調は」


「大丈夫です。魔力も、まだ半分以上あります」


 俺も大きな怪我はない。


 円盾にも、新しい傷はついていない。


「もう少しだけ進む」


「はい」


     ◇


 《沼歩き・極》を意識しながら進むと、泥の下に細い道があることに気づいた。


 周囲より、わずかに硬い。


 自然にできたものではない。


 昔、石を並べて作られた道が、泥の下へ沈んでいる。


「この下に道がある」


「見えません」


「俺にも見えない。だが、足で分かる」


 道に沿って進む。


 霧が濃くなる。


 《霧除けの外套》を着ていても、五歩先までしか見えなくなった。


 《霧感知・小》には、細かな反応がいくつもある。


 だが、動きが遅い。


 風に揺れる草か。


 小さな虫か。


 判別できない。


「何か聞こえます」


 リディアが立ち止まった。


「どこだ」


「上です」


 空を見る。


 白い霧だけ。


 木の枝も見えない。


 かすかな音。


 濡れた布が擦れるような音が、頭上を移動している。


「近づいてくる」


 円盾を上へ向ける。


 霧の中に、丸い影が浮かんだ。


 人の頭より大きい。


 透明に近い身体。


 その下から、何本もの細い触手が垂れている。


《霧クラゲ》


 水の中ではない。


 霧の中を、ゆっくりと浮かんでいる。


「クラゲが飛んでいます……」


「触るな」


 触手の先に、青紫色の針が並んでいる。


 毒か。


 痺れか。


 どちらにしても、受けない方がいい。


 霧クラゲが身体を縮めた。


 触手が一斉に伸びる。


「下がれ!」


 円盾で受ける。


 細い触手が盾の周囲へ巻きついた。


 金属の表面で、青い火花のような光が走る。


 腕が痺れた。


 盾を通して、弱い電気のようなものが伝わってくる。


「ウィルさん!」


「触手に触るな!」


 円盾を強く振る。


 触手は離れない。


 剣で切る。


 一本。


 二本。


 切断された触手が泥へ落ちる。


 地面でしばらく動き続けた。


 残った触手が盾から離れ、霧の中へ戻っていく。


「逃げましたか?」


「上にいる」


 《霧感知・小》へ、ゆっくりと動く気配が伝わる。


 霧クラゲは、俺たちの頭上を回っている。


「《氷針》で狙えますか?」


「身体が見えません」


 姿が霧へ溶け込んでいる。


 輪郭が分からなければ、正確に当てるのは難しい。


「外套の風を使う」


 俺は《霧除けの外套》のフードを上げた。


 顔の周囲で流れていた風が、前方の霧を押す。


 弱い。


 霧クラゲを吹き飛ばすほどではない。


 だが、霧の流れとは別に動く場所があった。


 上。


 右。


「そこだ!」


 投擲用石弾を投げる。


 石は、白い霧の中へ消えた。


 直後、柔らかいものへ当たる音がした。


 透明な身体が揺れる。


「見えました!」


「撃て!」


「《氷針》!」


 三本の氷が飛ぶ。


 二本は外れた。


 一本が、霧クラゲの身体へ刺さる。


 だが、透明な身体を浅く通り抜けただけだった。


 傷口から水のような液体が落ちる。


 霧クラゲが大きく身体を縮めた。


 青紫色の霧が噴き出す。


「毒霧です!」


 《霧除けの外套》が、顔の周りにある霧を押し流す。


 完全には防げない。


 腕の痺れが、少し強くなる。


 《毒耐性・小》が症状を軽くしているのかもしれない。


「布で口を覆え!」


 リディアが濡れた布を取り出す。


 俺も鼻と口を覆った。


 霧クラゲの触手が、再び伸びてくる。


 円盾で受けず、横へ避ける。


 《沼歩き・極》と戦靴のおかげで、泥の上でも身体が流れない。


 触手を剣で切る。


 だが、身体は高い位置にある。


 このままでは、本体へ剣が届かない。


「リディア、《氷壁》を出せるか」


「どこにですか?」


「霧クラゲの後ろだ」


「見えません!」


「俺が石を投げる。音がした場所の奥へ出せ」


「やってみます!」


 石弾をもう一つ取り出す。


 外套の風が作る、わずかな霧の流れ。


 その中にある、不自然な影。


 投げる。


 当たった。


「今だ!」


「我が前に、冷たき壁を。《氷壁》!」


 地面から氷が伸びる。


 霧の中。


 霧クラゲの後方に、透明な壁が現れた。


 完全な位置ではない。


 だが、逃げ道の半分は塞いだ。


「ウィルさん、どうするんですか?」


「風で押す」


 《疾風の鋼剣》を両手で握る。


 腰を落とす。


 正面の霧へ向けて、横薙ぎに振った。


 刃を補助する風が、白い霧を切り開く。


 強い風ではない。


 人間を倒すほどの力もない。


 だが、霧クラゲの身体は軽い。


 透明な身体が、風に押される。


 後方の《氷壁》へ当たった。


 柔らかな身体が、氷の表面へ広がる。


「今です!」


 リディアが叫ぶ。


 俺は近くにあった太い木の根へ足をかけた。


 濡れている。


 普通の靴なら滑る。


 《岩走りの戦靴》の靴底が、根の表面を捉えた。


 一歩。


 二歩。


 駆け上がる。


 霧クラゲが触手を振る。


 一本が、俺の腕へ向かってくる。


「《氷針》!」


 リディアの氷が、触手の根元へ当たった。


 触手が凍り、動きが鈍る。


 俺は剣で切り払った。


 氷壁へ押しつけられた身体の中央。


 透明な肉の奥に、青白い球が浮かんでいる。


 核。


 木の根を強く蹴る。


 身体が宙へ出る。


 《疾風の鋼剣》を突き出す。


 刃が透明な身体へ沈んだ。


 抵抗が少ない。


 そのまま奥へ押し込む。


 剣先が、青白い核へ届いた。


 硬い感触。


「はあっ!」


 両手で柄を押す。


 核が割れた。


 青い光が弾ける。


 霧クラゲの身体から力が抜けた。


 氷壁を伝い、泥の中へ落ちていく。


 俺も木の根から飛び下りた。


 着地。


 戦靴が衝撃を受け止める。


 霧クラゲの触手は、まだ微かに動いていた。


 近づかず、石弾を当てる。


 反応はない。


 青紫色の霧も、少しずつ薄くなっていった。


《霧クラゲ》を初めて討伐しました。


ガチャチケットを1枚獲得しました。


所持ガチャチケット:5枚


霧の沼迷宮討伐記録:10/10


通常魔物10種類の討伐条件を達成しました。


迷宮主を討伐すると、《霧の沼迷宮》の完全攻略となります。


 達成した。


 だが、喜ぶより先に腕の状態を確認する。


 指は動く。


 痺れも、少しずつ弱くなっている。


「ウィルさん、腕は?」


「動く」


「本当に?」


 右手を開閉する。


 剣も握れる。


「問題ない」


「それは、問題がある人の言い方に聞こえます」


「誰から聞いた」


「エドガーさんです」


 余計なことを教えている。


「少し痺れているだけだ」


「毒消し薬を使いますか?」


「症状が弱くなっている。今は必要ない」


「強くなったら、すぐに言ってください」


「ああ」


 リディアは、まだ心配そうに俺の腕を見ている。


「お前は?」


「触手には触れていません。魔力は、あと三分の一くらいです」


「なら、戻る」


「迷宮主を探さないんですか?」


「今日は戦わない」


「見るだけなら……」


 リディアは途中で言葉を止めた。


 俺の腕。


 自分の魔力。


 周囲に残る毒霧。


 順番に確認する。


「戻った方がいいですね」


「ああ」


 判断できている。


 俺たちは、霧クラゲの魔石だけを回収した。


 身体や触手には毒が残っている可能性がある。


 素材は、協会の調査員へ任せた方がいい。


 来た道へ戻ろうとしたとき。


 《沼歩き・極》が、足元にある違和感を捉えた。


「待て」


「何ですか?」


 泥の下。


 さっきまで歩いていた石の道が、さらに奥へ続いている。


 そして、霧クラゲを倒したあと。


 周囲の霧が、わずかに薄くなっていた。


 正面に、二本の石柱が見える。


 古い。


 表面には苔が生え、半分ほど泥へ沈んでいる。


 石柱の間から、硬い道が奥へ伸びていた。


「道が現れました」


「霧クラゲが隠していたのかもしれない」


 奥までは進まない。


 だが、入口だけは確認しておく。


「少しだけ見る」


「はい」


 石の道へ足を乗せる。


 泥の中より歩きやすい。


 霧の中を、十数歩進む。


 やがて、視界が開けた。


 大きな円形の沼。


 水は黒い。


 周囲には、崩れた石柱が輪のように並んでいる。


 中央だけ、霧が渦を巻いていた。


 《霧感知・小》へ、巨大な気配が伝わってくる。


 水の下。


 動いていない。


 だが、確実に生きている。


「ウィルさん……」


 リディアの声が小さくなる。


「います」


「ああ」


 黒い水面に、波紋が広がった。


 一つ。


 二つ。


 水の中から、黄色い目が現れる。


 俺の頭ほどもある目。


 その横に、もう一つ。


 さらに、巨大な頭の輪郭が水面へ浮かぶ。


 泥と苔に覆われた皮膚。


 太い前脚。


 人間を一口で飲み込めそうな口。


《沼王ガエル》


 名前が視界へ浮かんだ。


 泥ガエルとは比べものにならない。


 身体の全体は、まだ水の下にある。


 それでも、大沼ワニよりはるかに大きいことが分かった。


 沼王ガエルが喉を膨らませる。


「下がれ!」


 リディアの腕をつかみ、石柱の後ろへ動く。


 直後。


 低い鳴き声が響いた。


 空気が震える。


 水面が大きく波打つ。


 周囲の石柱から、苔と小石が落ちた。


 リディアが耳を押さえる。


「これが……迷宮主……」


「ああ」


 沼王ガエルは、水から出てこない。


 石柱の外側までは追ってこないらしい。


 だが、黄色い目はこちらを見ている。


「戦うんですか?」


「今日は戦わない」


「いつかは?」


「ああ」


 完全攻略するなら、倒す必要がある。


 沼王ガエルの喉が、もう一度膨らみ始める。


「戻るぞ」


「はい」


 今度は、リディアも迷わなかった。


 俺たちは石の道を引き返す。


 霧の中へ入る直前、後ろを振り返った。


 黒い沼。


 崩れた石柱。


 その中央に浮かぶ、二つの黄色い目。


 灰晶王蛇とは違う。


 水の中を支配し。


 霧と泥を利用して戦う迷宮主。


 準備なしでは勝てない。


 腕の痺れを確かめながら、俺は沼王ガエルから目を離した。


 通常魔物は、10種類すべて倒した。


 残るのは、迷宮主だけ。


 白い霧の向こうで。


 《霧の沼迷宮》の主が、俺たちを待っていた。


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