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第37話 戻る力、失われる力


 灰晶洞窟迷宮の入口へ戻ったときには、エドガーの顔から血の気が失われていた。


 右腕は力なく下がり、歩くたびに呼吸が浅くなる。それでも、弱音は一度も吐かなかった。


「少し休むか」


「いや。ここまで来たなら、転移した方が早い」


 周囲に魔物の気配はない。


 俺はエドガーの左腕を肩へ回したまま、《ダンジョン転移》を発動した。


 視界が白く染まる。


 次の瞬間、俺たちは町外れの林へ立っていた。


 エドガーの身体が大きく傾く。


「エドガー!」


 腰を支え、地面へ倒れるのを防いだ。


「……転移には慣れたつもりだったが、怪我をしていると話が違うな」


「喋らなくていい」


「脚は動く」


「それでも、喋らなくていい」


「お前に言われる日が来るとはな」


 エドガーは苦しそうにしながらも、わずかに笑った。


 俺はその身体を支え、町へ向かって歩き始めた。


     ◇


 冒険者協会へ入った瞬間、受付の女性が立ち上がった。


「治療所へ!」


 迷宮の報告をする余裕はなかった。


 近くにいた職員が走り寄り、エドガーの反対側を支える。


「右肩です。岩柱の破片を受けました」


「迷宮主は?」


「倒した」


 受付の女性の足が、一瞬だけ止まった。


 だが、すぐに歩き出す。


「その話はあとです。今はエドガーさんを治療所へ運びます」


 正しい判断だった。


 迷宮を完全攻略した。


 その事実よりも、今はエドガーの肩の方が重要だ。


 治療所へ入ると、治療師たちが防具を外し始めた。


 右肩の革防具は大きくへこみ、その下の皮膚は赤黒く腫れている。


 治療師が肩へ触れた瞬間、エドガーの表情が歪んだ。


「骨にひびが入っています。肩の関節も傷めていますね」


「治るのか」


 俺が尋ねる。


「日常生活へ戻るだけなら、一か月ほど。ただし、弓を引けるまでには最低でも三か月は必要です」


「三か月……」


「無理をすれば、もっと長くなります。治りきる前に強い力をかければ、二度と以前のようには弓を引けなくなる可能性もあります」


 エドガーは何も言わなかった。


 左手の小指の一部を失っている。


 そこへ、今度は右肩。


 弓使いにとって、どちらも軽い怪我ではない。


「俺のせいだ」


 言葉が、勝手に口から出た。


 エドガーがこちらを見る。


「何がだ」


「俺を庇わなければ、こんな怪我はしなかった」


「違う」


「だが――」


「俺が自分で判断して、お前を押した」


 エドガーの声は弱い。


 それでも、言葉ははっきりしていた。


「お前に押せと命令されたわけじゃない。勝手に庇って、勝手に怪我をした。お前の責任じゃない」


「それでも……」


「俺は、あの岩を受けても死なないと判断した」


 エドガーが、腫れた右肩へ視線を落とす。


「弓をしばらく引けなくなるところまでは、計算できなかったがな」


「笑い事じゃない」


「ああ。だから笑っていない」


 ほんの少しだけ、口元が動いていた。


「それに、俺が押さなければ、お前は岩柱の下敷きになっていた。そうなれば、灰晶王蛇は倒せなかった」


「……ああ」


「俺は生きている。お前も生きている。迷宮主も倒した。十分だ」


 十分。


 そう言われても、胸の中に残った重さは消えなかった。


 だが、これ以上謝れば、エドガーの判断まで否定することになる。


「助かった」


「ああ」


「ありがとう」


 エドガーは少しだけ目を見開いた。


 やがて、ゆっくりとうなずく。


「どういたしまして、でいいのか?」


「たぶん」


「こういう会話には慣れていない」


「俺もだ」


「なら、これで終わりにしよう」


 治療師が、エドガーの肩へ固定具を当て始める。


「話が終わったなら、患者さんは横になってください」


「分かった」


「それから、あなたもです」


 治療師の指が、俺の胸を示した。


「俺は動ける」


「防具の下から血が出ています」


 自分の胸を見る。


 灰晶王蛇の身体へ弾き飛ばされたとき、革防具が裂けていた。


 興奮で痛みに気づかなかったらしい。


「座ってください」


「エドガーを先に」


「治療師はこちらに二人います」


 逃げる理由がなくなった。


 俺は隣の寝台へ座り、防具を外した。


     ◇


 大きな怪我はなかった。


 胸と脇腹の打撲。


 左腕の浅い裂傷。


 身体のあちこちに、岩片でできた傷がある。


 治療を終えた頃には、外が暗くなり始めていた。


 受付の女性が治療所へ入ってくる。


 いつもの書類を持っていたが、今日はすぐには広げなかった。


「灰晶王蛇を討伐したという報告で間違いありませんか?」


「ああ」


「最奥区画に、死骸と素材を残している」


 俺は地図を取り出した。


 エドガーが作成したものへ、最奥区画までの道を書き足している。


「確認と素材回収のため、協会から調査隊を出します」


「明日、俺も行く」


「行きません」


 即答された。


「道は分かっている」


「治療を受けた直後です」


「転移を使えば入口までは――」


「行きません」


 受付の女性の声が、少しだけ低くなった。


「あなたたちは、迷宮主を倒して帰ってきました。それで十分です。あとの仕事は、協会へ任せてください」


「だが、素材の分配がある」


「死骸を確認したあと、正式に査定します。お二人の取り分がなくなることはありません」


 俺はエドガーを見る。


 寝台へ横になったまま、左手だけを軽く上げた。


「任せろと言っている。任せておけ」


「……分かった」


 受付の女性が、ようやく表情を緩めた。


「まずは、お帰りなさい」


 その言葉を聞いて、胸の奥がわずかに動いた。


 迷宮へ入るとき。


 帰ってくることを考えていた。


 家。


 野菜スープ。


 壁へ掛けた最初の剣。


 戻る場所がある。


「ただいま」


 口に出すまで、少し時間がかかった。


 受付の女性は小さくうなずいた。


「灰晶洞窟迷宮の完全攻略については、調査隊の確認後に正式発表します」


「ああ」


「そして、おめでとうございます。これは確認前でも言わせてください」


 彼女は、俺とエドガーを交互に見た。


「二人とも、生きて戻りましたから」


     ◇


 治療所を出る前に、自分の状態を確認した。


名前:ウィル・クロード

レベル:5

生命力:36

筋力:30

敏捷:22

魔力:18

ダンジョンガチャレベル:2

所持ガチャチケット:5枚

次回11連ガチャまで:あと5枚

迷宮完全攻略数:2

灰晶洞窟迷宮討伐記録:10/10


 全基礎能力が、5ずつ上昇している。


 さらに、新しく得た能力へ意識を向けた。


《洞窟狩人》


・洞窟内での索敵能力上昇

・洞窟内での攻撃、回避能力上昇

・洞窟系魔物への与ダメージ微増

・全基礎能力+5


 能力は増えた。


 身体も強くなっている。


 だが、エドガーの怪我が消えるわけではない。


 俺が強くなることと、仲間が傷つかないことは別だ。


 その事実だけは、忘れないようにしなければならない。


「ウィル」


 寝台から声がした。


「先に帰れ」


「エドガーは?」


「今夜はここで寝ろと言われた」


「必要な物を持ってくる」


「必要ない」


「食事は」


「治療所で出る」


「弓は」


「枕元にある」


 本人の右側に、弓と矢筒が置かれている。


 すぐには使えない。


 それでも、手の届く場所へ置いておきたい気持ちは分かった。


「明日、また来る」


「ああ」


「必要な物を考えておけ」


「ないと言っている」


「考えておけ」


 エドガーが小さく息を吐いた。


「分かった。酒」


「怪我人は飲むな」


「では聞くな」


 いつもの調子に近い声だった。


 俺は少しだけ安心し、治療所を出た。


     ◇


 家の前には、アレナが立っていた。


 両手で鍋を抱えている。


 俺の姿を見た瞬間、彼女の肩から力が抜けた。


「……おかえり」


「ただいま」


 それだけで、アレナは何があったのか察したようだった。


「怪我したの?」


「俺は軽い。エドガーが右肩を折った」


「命は?」


「大丈夫だ」


「そう……」


 アレナは胸元へ手を当て、長く息を吐いた。


「迷宮主は倒した」


「うん」


「完全攻略した」


「うん」


 やはり、先に確認するのは攻略のことではなかった。


「エドガーは、俺を庇って怪我をした」


「ウィルは、ちゃんとお礼を言った?」


「ああ」


「それなら、治ったあとにも言えばいいよ」


「二度も言うのか」


「何度言っても減らないから」


 礼は、使えばなくなるものではない。


 分かってはいる。


 だが、何度も口にすることには、まだ慣れていなかった。


 アレナが鍋を少し持ち上げる。


「野菜スープ。二人分より多いけど」


「エドガーは治療所だ」


「明日持っていけばいいよ。治療師さんに、食べていいか聞いてからね」


「ああ」


 家へ入る。


 壁には、役目を終えた《初心者用片手剣》が掛かっている。


 腰には、《疾風の鋼剣》。


 一つ目の迷宮を攻略したときは、雨漏りが止まった。


 二つ目の迷宮を攻略した今日は、エドガーが怪我をした。


 勝てば、すべてがよくなるわけではない。


 それでも、帰ってこられた。


 俺は鍋を机へ置き、火をつけた。


 温められたスープの匂いが、静かな家の中へ広がっていく。


     ◇


 数日後。


 王都の中心にある高級酒場。


 最上階の個室で、ゲイルは長椅子へ深く腰を沈めていた。


 片手には、一本で平民の数か月分の収入になる酒。


 左右には、華やかな衣装をまとった女が座っている。


 向かいに立つ騎士が、一枚の報告書を差し出した。


「ゲイル様。以前、お調べになるよう命じられた男について、続報が届きました」


「男?」


「ウィル・クロードです」


 その名前を聞いた瞬間、ゲイルの手が止まった。


 ほんの一瞬だけ。


 次の瞬間には、口元へ笑みが浮かんでいた。


「あの便所虫が、まだ生きていたのか?」


 女たちが顔を見合わせる。


 人前で見せる、穏やかで礼儀正しい英雄の口調ではない。


「冒険者になったそうです。ユーカリ森林迷宮に続き、灰晶洞窟迷宮も完全攻略したと」


 一瞬。


 部屋の空気が止まった。


 ゲイルは報告書を受け取らず、酒を口へ運ぶ。


 やがて、喉の奥から笑い声が漏れた。


「は……はははっ」


 大きく身体を揺らし、心底愉快そうに笑う。


「面白いじゃねぇか。あいつは、つるはしでも振り回してゴブリンと戦っているのか?」


「迷宮主も討伐したと――」


「誰かの後ろを這いずり回っていただけだろ」


 ゲイルは女の腰を引き寄せた。


「スタンピードを起こした凶悪犯罪者と、ゴブリンの一騎打ちってか。これは見物だな。くくく……」


「灰晶洞窟迷宮の迷宮主は、ゴブリンではありません」


 報告した騎士が、思わず訂正する。


 ゲイルの笑いが止まった。


 騎士を見つめる。


 それだけで、男の顔から血の気が引いた。


「同じだ」


 ゲイルは低い声で言った。


「あの便所虫が戦える相手なら、どれもゴブリンと変わらん」


「失礼いたしました」


「それとも何だ? あいつが俺と同じ英雄にでもなると思っているのか?」


「い、いえ。そのようなことは……」


「だろうな」


 再び笑みを浮かべる。


「七年も穴の底で臭い石を砕いていた男だ。今度は自分から洞窟へ潜っているらしい」


 ゲイルはグラスを傾けた。


「鉱山が恋しくなったか。あいつには、陽の当たる場所より穴の底がお似合いだ」


 女の一人が、ゲイルに合わせて笑った。


「では、その方はいずれ迷宮で死んでしまうのですね」


「死ぬ?」


 ゲイルが鼻で笑う。


「死ぬ価値すらあるものか。魔物の糞にでもなれば、少しは役に立つだろう」


 部屋に笑い声が広がる。


 そのとき。


 ゲイルの右手に、わずかな痺れが走った。


「……?」


 指先から、紫色の雷が漏れる。


 いつもなら、意識した瞬間に消せる程度の小さな放電。


 だが、その雷は一瞬だけ制御を離れ、グラスの表面を走った。


 ピシッ。


 高価な硝子へ、細い亀裂が入る。


 女が小さな悲鳴を上げた。


「ゲイル様?」


 ゲイルは自分の右手を見た。


 指先に、ごく薄い痺れが残っている。


 これまで一度も感じたことのない違和感。


 だが、それもすぐに消えた。


「……安物を出すな」


 亀裂の入ったグラスを、床へ投げ捨てる。


 硝子が砕け、残っていた酒が絨毯を濡らした。


「もっと上等な酒を持ってこい」


「ただいま」


 女の一人が、慌てて部屋を出ていく。


 ゲイルは再び長椅子へ身体を預けた。


「ウィル・クロード、か」


 名前を口にして、嘲るように笑う。


「せいぜい、俺の耳へ届くくらいには足掻いてみろ。穴の底の便所虫」


 自分の力に何が起きているのか。


 その原因が、笑いものにしている男にあることを、ゲイルはまだ知らない。


 彼には見えない場所で、数字だけが静かに変わっていた。


迷宮核同調率:98%→95%


 それでも、ゲイルの表示は変わらない。


迷宮核出力:10/10


 奪った力は、まだ圧倒的だった。


 ただ、その土台には。


 誰にも気づかれないほど小さな亀裂が、確かに入り始めていた。


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