第29話 最初の剣
簡易魔石灯の光へ、片手剣をかざす。
鉱喰いネズミに噛まれた刀身は、中央が大きく欠けていた。
欠損した部分から、髪の毛ほどの細い亀裂が伸びている。
携帯砥石で刃先を整えることはできる。
だが、失われた厚みまでは戻らない。
「次に強い攻撃を受ければ、折れるな」
剣を横から確認したエドガーが、静かに告げた。
「ああ」
「戻るぞ」
迷いのない言葉だった。
灰晶洞窟迷宮の第二階層へ入ってから、それほど長い時間は経っていない。
討伐できた鉱喰いネズミも三体だけだ。
あと一種類。
新しい魔物を一種類倒せれば、ガチャチケットが10枚になる。
考えなかったわけではない。
だが、そのために無理をして剣を失えば、帰り道で別の魔物に遭遇したとき、戦う手段がなくなる。
欲しいものがあるからといって、命まで差し出すべきではない。
七年間の鉱山生活で、嫌というほど学んだことだ。
「分かった。赤い布を確認しながら戻ろう」
「ああ。俺が前を歩く」
エドガーが弓を手に、数歩先を進み始めた。
俺たちは岩壁へ結びつけた赤い布を一つずつ確認しながら、第二階層の入口を目指した。
曲がり角を二つ戻る。
三つ目の赤い布が見えたところで、エドガーが右手を上げた。
停止の合図。
俺は足を止め、円盾へ手を添えた。
前方には、左右の岩壁が狭まった細い通路がある。
来るときにも通った場所だった。
しかし、通路の中央に、見覚えのない灰色の岩があった。
人間の腰ほどの高さがあり、表面は不規則に尖っている。
行きに通ったとき、あんな岩はなかった。
エドガーが静かに弓を引く。
「岩じゃない」
灰色の岩の後ろで、細長いものが持ち上がった。
いくつもの節に分かれた尾。
その先端には、黒く鋭い針がついている。
「《岩殻サソリ》だ」
岩に見えていたものが、左右へ開いた。
二本の巨大な鋏。
八本の脚が一斉に動き、硬い足先が岩床を引っ掻く。
ギリギリと、石同士を擦り合わせるような音が、狭い通路へ響いた。
尾まで含めれば、俺の身長を超えている。
俺たちが近づくまで、岩へ擬態して待ち伏せていたらしい。
「避けて通れるか」
「無理だな」
通路の幅は狭い。
岩殻サソリは、大きな鋏を左右の壁へ届きそうなほど広げている。
来た道をさらに戻り、別の通路を探すことはできる。
だが、第二階層は入り組んでいる。
帰路として目印を残した道から外れれば、どれほど遠回りになるか分からない。
剣が壊れかけている状態で、長時間迷宮内を歩く方が危険だった。
「硬いのか」
「背中は矢が通らん。鋏も同じだ」
エドガーは岩殻サソリから目を離さずに答えた。
「狙うなら目か脚の関節。あとは腹だが、普通に戦って腹を見せる魔物じゃない」
岩殻サソリが鋏を打ち鳴らした。
硬い殻同士がぶつかり、甲高い音が響く。
後ろへ逃げる様子はない。
俺たちを餌として見ている。
「俺の剣は、もう斬撃には使えない」
「突きならどうだ」
「一度か二度。ただし、硬い殻に当てれば終わる」
「長引かせられないな」
「ああ」
俺は岩殻サソリの足元を確認した。
洞窟へ入ったばかりの頃なら、ただ石が散らばっているだけに見えただろう。
今は違う。
《洞窟歩行》を得てから、足場の状態が以前よりも分かりやすくなっている。
通路の右側は、平らな岩盤が続いている。
左側には細かな石が積もり、その下に斜めに傾いた大きな岩があった。
人間が踏んだ程度では動かない。
だが、岩殻サソリの巨体が乗れば、話は別だ。
岩殻サソリの左前脚は、その傾いた岩のすぐ近くに置かれている。
「エドガー。左目を狙えるか」
「片方だけならな」
「目を射たあと、左前脚を狙ってくれ。倒せなくてもいい。体勢を崩せればいい」
「お前はどうする」
「正面から近づく」
エドガーの視線が、俺の円盾へ動いた。
盾の金属縁には、鉱喰いネズミにつけられた歯形が残っている。
「その盾も、万全じゃないぞ」
「受け止めるつもりはない。横へ流す」
「失敗すれば、腕ごと持っていかれる」
「分かってる」
少しの沈黙のあと、エドガーが矢をつがえた。
「分かった。合わせる」
俺は鞘から剣を抜いた。
大きく欠けた刀身。
森へ入ったばかりの俺が、初めて手にした剣だ。
スライムを斬った。
角ウサギを倒した。
森ゴブリンと打ち合い、毒牙トカゲの鱗を抜け、糸蜘蛛の脚を断った。
疾風のフォレストウルフの身体にも、この刃を突き立てた。
まだ折れてはいない。
俺も。
この剣も。
「行くぞ」
エドガーの指が弦を離した。
矢が暗い通路を走る。
岩殻サソリが鋏を持ち上げたが、矢はその隙間を抜け、左目へ突き刺さった。
岩殻サソリの身体が大きく跳ねた。
耳障りな鳴き声を上げ、二本の鋏を振り回す。
俺は正面から走った。
右の鋏が、横殴りに迫ってくる。
受け止めれば、腕ごと折られる。
円盾を斜めに構え、鋏の内側へ当てた。
重い。
鉱石を満載した荷車が、正面からぶつかってきたような衝撃だった。
R《衝撃緩和の腕輪》が淡く光る。
《打撃耐性・小》も働いている。
それでも、肩と肘が軋んだ。
「ぐっ……!」
足を踏ん張らない。
押されるまま、身体を左へ回す。
盾の表面を、鋏の先端が滑った。
金属を引っ掻く甲高い音。
巨大な鋏が、身体の横を通り過ぎる。
俺を追うように、岩殻サソリの身体が左へ向いた。
「今だ!」
二本目の矢が飛ぶ。
矢は左前脚の関節へ突き刺さった。
岩殻サソリの左側が沈む。
傷ついた脚が、傾いた岩を強く踏んだ。
ゴッ、と低い音がした。
積もっていた小石が崩れ、斜めになっていた岩がわずかに動く。
岩殻サソリの巨体が傾いた。
だが、倒れない。
残った脚で踏ん張り、尾を大きく持ち上げる。
「ウィル、上だ!」
黒い毒針が落ちてくる。
俺は左へ踏み出そうとした。
だが、足元を小石が流れた。
一瞬、身体が沈む。
毒針が肩を掠めた。
革防具の表面が裂け、焼けるような痛みが走る。
深くは刺さっていない。
それでも、次は避けられない。
岩殻サソリが尾を引き戻す。
俺は剣を握ったまま、空いた左手で腰の小型ハンマーを抜いた。
傾いた岩の根元へ向け、全力で振り下ろす。
ガンッ!
岩そのものを砕くためではない。
岩を支えている小石を動かすための一撃だ。
七年間。
暗い坑道で、何度も岩の割れ目を探した。
どこを叩けば崩れるのか。
どこを叩けば、逆に岩が締まるのか。
覚えたくて覚えた技術ではない。
それでも、身体は覚えている。
二度目の一撃を振り下ろす。
大きな岩が、わずかに滑った。
左前脚を乗せていた岩殻サソリの身体が、大きく傾く。
エドガーの三本目の矢が、傷ついた関節へ突き立った。
左前脚が折れる。
巨体が横倒しになった。
岩の殻に覆われていない、柔らかな腹部が露出する。
「そこだ!」
俺は小型ハンマーを捨てた。
剣を両手で握る。
岩殻サソリの尾が、再び俺を狙って動いた。
止まれば刺される。
迷えば、起き上がられる。
俺は滑る小石を踏み越え、剣先を腹部へ向けた。
斬らない。
刃を横へ動かさない。
ただ真っすぐに、全身の力を乗せる。
「おおっ!」
剣が、柔らかな腹部へ突き刺さった。
刃の奥で、硬いものへぶつかった感触がする。
欠けた部分が、体内の殻へ引っかかった。
刀身から、嫌な振動が伝わってくる。
折れる。
そう思った瞬間、岩殻サソリの鋏が俺の脇腹へ迫った。
剣を引き抜いている余裕はない。
俺は柄を握ったまま、さらに体重を乗せた。
「まだだ……!」
剣先が、硬いものを突き破る。
岩殻サソリの身体が大きく震えた。
鋏が脇腹へ触れる直前で止まる。
持ち上がっていた尾が力を失い、岩床へ落ちた。
しばらく、誰も動かなかった。
聞こえるのは、俺の荒い呼吸だけだった。
「離れろ」
エドガーが矢をつがえたまま、岩殻サソリへ近づく。
俺が剣を引き抜き、後退する。
エドガーは残った右目へ矢を射ち込んだ。
岩殻サソリは動かなかった。
「……終わったな」
「ああ」
俺は手の中の剣を見る。
亀裂は、刀身の半分近くまで伸びていた。
それでも、最後まで折れなかった。
視界の端へ、文字が浮かぶ。
《岩殻サソリ》を初めて討伐しました。
ガチャチケットを1枚獲得しました。
所持ガチャチケット:10枚
灰晶洞窟迷宮討伐記録:5/10
間に合った。
俺は小さく息を吐いた。
「肩を見せろ」
「掠っただけだ」
「毒針だった。掠ったかどうかは、傷を見てから決める」
エドガーが近づき、裂けた革防具をずらした。
皮膚の表面が浅く切れている。
腫れや変色はない。
《毒耐性・小》があるとはいえ、毒針が深く刺さって無事で済むとは思えない。
本当に掠っただけだったようだ。
「運がよかったな」
「ああ」
「剣の方は、もう限界だ」
エドガーが、俺の手元へ目を向ける。
「帰れるか」
「剣を使わずに済めばな」
「さっきより悪くなってるぞ」
「分かってる」
エドガーが呆れたように息を吐いた。
「少し待ってくれ」
俺は周囲を見回した。
通路の先に、浅い窪みがある。
入口は狭いが、奥に魔物がいないことは《気配察知・小》で確認できた。
「条件がそろった」
「例の報酬か」
「ああ」
エドガーには、俺にだけ見える討伐記録が存在すること。
そして、魔物を倒すことで道具を得られる場合があることまでは話している。
チケットの正確な枚数や、排出される物の詳細までは伝えていない。
「武器が出るとは限らないんだろう」
「限らない」
「食料が山ほど出たらどうする」
「持って帰る」
「正しい判断だ」
「敵に投げる手もある」
「食べ物を粗末にするな」
真顔で注意された。
俺たちは窪みへ入り、入口から通路を見張れる位置へ腰を下ろした。
簡易魔石灯を置く。
俺は目の前へ表示されている文字へ意識を向けた。
ガチャチケットを10枚消費し、11連ガチャを実行しますか?
実行する。
そう念じた瞬間、10枚のチケットが淡い光へ変わった。
光が空中へ集まり、次々と形を作っていく。
1.N《小治癒ポーション》×2
2.N《低級解毒薬》×2
3.N《保存食セット》×3
4.N《携帯用油差し》
5.N《洞窟用白墨》×10
6.N《丈夫な麻縄》×20メートル
7.N《修理用鉄板》×2
8.N《投擲用石弾》×10
9.N《防水布》×2
10.N《低級魔石》×3
光の中から、瓶や袋が次々と現れる。
どれも今すぐ戦況を変える物ではない。
だが、迷宮探索や装備の補修には使える。
修理用鉄板は、鉱喰いネズミに削られた円盾の補強にも使えるかもしれない。
「本当に食料が出たな」
エドガーが保存食の袋を見ている。
「持って帰る」
「投げるなよ」
「分かってる」
俺は並んだ品を確認しながら、わずかに期待していた。
もし、《初心者用片手剣》がもう一本出れば。
同じ名前の装備なら、《装備統合》が使える。
壊れかけた剣へ新しい剣を吸収させれば、《初心者用片手剣+1》として、まだ使い続けられたかもしれない。
だが、十個の光の中に、剣はなかった。
残っているのは、確定したRの光だけだ。
白い光の中に、細長い影が浮かび上がる。
簡素な鞘。
黒い革を巻いた柄。
飾りの少ない鍔。
そして、真っすぐに伸びる厚い刀身。
11.R《鋼鉄の片手剣》
光が消え、鞘に収められた一本の剣が、俺の前へ現れた。
思わず、息を止める。
派手な装飾はない。
だが、鞘からわずかに抜いただけで、今までの剣とは質が違うと分かった。
刀身は鈍い銀色。
初心者用片手剣よりも、わずかに幅が広い。
背の部分も厚い。
俺は《鋼鉄の片手剣》を鞘から抜いた。
手に取った瞬間は、重いと感じた。
だが、構えると重さが消える。
重心が手元に近い。
狭い窪みの中で、軽く突きを放つ。
剣先は、ほとんどぶれなかった。
「悪くない」
エドガーが言った。
「見るだけで分かるのか」
「少なくとも、今までの剣よりは厚い。鉱喰いネズミに一度噛まれたくらいでは、あそこまで欠けないだろう」
「二度なら」
「試すな」
俺は《鋼鉄の片手剣》を見つめた。
欲しかった武器だ。
これがあれば、帰り道で魔物に襲われても戦える。
今まで刃が通らなかった硬い敵にも、対抗できるかもしれない。
嬉しい。
確かに、そう思った。
そのとき、最後の光が消えたはずの空中へ、新たな文字が浮かんだ。
《ダンジョンガチャ》の成長条件を満たしました。
迷宮完全攻略数:1
11連ガチャ実行回数:2
《ダンジョンガチャ》がレベル2へ上昇しました。
「ガチャにも、レベルがあったのか……」
思わず声が漏れた。
「何かあったのか」
「ガチャそのものが成長した」
「お前だけでなく、そっちまで育つのか」
「俺も今知った」
続けて、新しい表示が浮かぶ。
《ダンジョンガチャ》レベル2
・排出候補が拡張されました
・攻略済み迷宮の特性を持つ装備や道具が排出候補へ追加されました
・Nの一部排出物について、数量または品質がわずかに上昇します
・Sの排出率がわずかに上昇しました
・11枠目は引き続きR以上確定です
レベル2の効果は、次回のガチャから適用されます。
今回の結果が変わるわけではない。
次に10枚のチケットを集めたときから、新しい排出候補が加わるらしい。
「何が変わった」
「次から、出る物の種類が増える。攻略した迷宮に関係する装備も出るらしい」
「森で使える弓も出るのか」
「分からない」
「食料の味は」
「Nの品質が少し上がるとは書いてある」
「なら、次も食料が出るな」
否定できなかった。
俺は表示を確認する。
名前:ウィル・クロード
レベル:5
生命力:31
筋力:25
敏捷:17
魔力:13
ダンジョンガチャレベル:2
所持ガチャチケット:0枚
次回11連ガチャまで:あと10枚
迷宮完全攻略数:1
灰晶洞窟迷宮討伐記録:5/10
チケットは、また一枚目から集め直しだ。
だが、次に引くガチャは、今までと同じではない。
少しずつ強くなるのは、俺だけではないらしい。
俺は表示を閉じた。
そして、《鋼鉄の片手剣》を鞘へ戻し、隣へ置いた。
すぐに新しい剣を腰へ差す気にはなれなかった。
古い剣を膝の上へ乗せる。
濡らした布で、岩殻サソリの体液を拭き取った。
欠けた刀身。
何度も研いだせいで、最初よりも細くなった刃。
角ウサギの角を受けた傷。
森ゴブリンの武器と打ち合った傷。
疾風のフォレストウルフに噛まれたときについた、小さな歪み。
どれも消えずに残っている。
同じ剣が出れば、統合できた。
この傷も、欠けた刃も、新しい力へ変えられたかもしれない。
だが、同じ剣は出なかった。
代わりに、今までよりも強い剣が出た。
この剣の役目は、ここで終わったのだ。
使えなくなった道具は捨てられる。
鉱山では、つるはしの柄が折れれば、新しいものへ交換された。
折れた道具がどうなるのか、考えたこともなかった。
俺たちも、同じだったからだ。
働けなくなれば、代わりを入れられる。
怪我をして動けなくなれば、名前を呼ばれることもなくなる。
役に立たないものを残しておく余裕など、あそこにはなかった。
だが、今は違う。
俺には、帰る家がある。
雨漏りのしなくなった屋根がある。
役目を終えた物を、置いておける場所がある。
「持ち帰るのか」
エドガーが尋ねた。
「ああ」
「もう戦いには使えないぞ」
「分かってる」
俺は剣を布で包み、《アイテムボックス》へ収納した。
「こいつがなければ、俺はユーカリ森林迷宮の第一階層で死んでいた」
角ウサギにも。
森ゴブリンにも。
毒牙トカゲにも。
疾風のフォレストウルフにも勝てなかった。
最初から強い剣ではなかった。
俺と同じだ。
傷つきながら。
何度も研ぎ直しながら。
それでも、ここまで来た。
「だから、捨てたくない」
エドガーは、しばらく黙っていた。
やがて窪みの外へ目を向けたまま、静かに言う。
「使えなくなった物を置いておけるのは、悪くない」
「ああ」
「置く場所があるならな」
俺は《鋼鉄の片手剣》を腰へ差した。
古い剣よりも重い。
それでも、不思議と歩きにくさは感じなかった。
家へ帰ったら、最初の剣は壁へ掛けよう。
まだ直していない壁が多い。
どこへ掛けるかは、そのとき考えればいい。
俺たちは立ち上がり、窪みを出た。
通路には、倒した岩殻サソリが横たわっている。
帰り道を塞いでいた巨体を越え、赤い布をたどって進む。
腰には、新しい剣。
《アイテムボックス》の中には、役目を終えた最初の剣。
そして、次のガチャからは新しい装備や道具が出る可能性がある。
強い武器を手に入れたから、ここまで来られたわけではない。
弱い剣と一緒に、何度も逃げて、傷ついて、それでも迷宮へ戻ってきたからだ。
もう戦いで使うことはない。
それでも、あの剣が俺の最初の剣だったことは変わらない。
声に出して言う必要はないと思っていた。
だが、誰にも聞こえないほど小さな声で、俺は呟いた。
「今まで、ありがとう」




