第25話 自分で選んだ暗闇
雨が上がった翌朝。
ウィルは目を覚ますと、最初に天井を見た。
新しい屋根板。
きれいに塞がれた穴。
雨漏りを受けるために置いていた桶は、もう床にない。
昨日まで降り続いていた雨は、家の中へ一滴も入ってこなかった。
「大丈夫だ」
屋根が一晩で壊れるはずはない。
それでも、確認せずにはいられなかった。
ウィルは寝台から起き上がる。
以前より、身体が軽い。
ユーカリ森林迷宮を完全攻略したことで、基礎能力は大きく上昇していた。
生命力:29。
筋力:24。
敏捷:16。
魔力:12。
疾風のフォレストウルフへ挑んだときより、明らかに強くなっている。
ただし、すべての力を次の迷宮で使えるわけではなかった。
ウィルは食卓へ置いた冒険者証を開く。
◇
《森林歩行・極》
森林内の悪路や傾斜による移動阻害を大幅に軽減します。
《森林狩人》
森林内における索敵、攻撃、回避能力が上昇します。
森林系魔物へ与えるダメージがわずかに増加します。
◇
どちらも、森林という環境で力を発揮するスキルだ。
今日から向かうのは森ではない。
《灰晶洞窟迷宮》
町から歩いて半日ほどの場所にある、推奨レベル4から7の迷宮。
狭い岩道。
暗闇。
濡れた足場。
森で身につけた歩き方が、そのまま通用するとは限らない。
それでも、迷宮完全攻略で得た全基礎能力+5は残っている。
森で得たものが、すべて失われるわけではなかった。
ウィルは朝食を取り、装備を身につけた。
《初心者用片手剣》
《初心者用円盾+1》
《初心者用革防具》
《衝撃緩和の腕輪》
修理を終えた円盾には、疾風のフォレストウルフが残した牙の跡が残っている。
傷を完全に消したわけではない。
削れた木板と革だけが補修され、粘糸索を繋いだ金属環も補強されていた。
革防具の左肩と脇腹には、新しい革が縫いつけられている。
《アイテムボックス》の中身も確認した。
小治癒ポーション。
体力回復薬。
低級解毒薬。
保存食セット。
投擲用石弾。
簡易魔石灯。
携帯砥石。
そして、《疾風の風晶》。
薄緑色の結晶は、まだ今の剣には使わない。
もっと長く使える、一段上の武器を手に入れるまで取っておく。
ウィルは扉の前で振り返った。
修復された屋根。
三脚の椅子が並ぶ食卓。
棚に置かれた食器。
以前よりも、家を空けることが少しだけ怖くなっていた。
失うものがなかった頃とは違う。
戻りたい場所ができたからだ。
「行ってくる」
ウィルは扉を閉めた。
◇
食堂の前を通りかかると、裏口からアレナが出てきた。
手には、小さな布包みを持っている。
「待ってた」
「俺を?」
「今日は洞窟へ行くんでしょ」
「どうして知っている?」
「昨日、父さんに話してた」
屋根の修理が終わったあと、次は灰晶洞窟迷宮へ向かうつもりだと伝えていた。
アレナは布包みを、ウィルへ差し出した。
「昼ご飯」
「保存食がある」
「毎回保存食だと飽きる」
「俺は飽きていない」
「私が飽きる」
「アレナは食べないだろう」
「作る方が飽きる」
よく分からない理由だった。
ウィルは布包みを受け取った。
中から、焼いたパンと肉の匂いがする。
「ありがとう」
「エドガーさんの分もある」
「二つ入っているのか?」
「三つ」
「なぜ?」
「足りなかったとき用」
鉱山刑務所から戻った直後よりも、ウィルの食べる量は増えていた。
魔物と戦い、レベルが上がるほど、身体が多くの食事を求めるようになっている。
「帰りは遅くなる?」
「今日は迷宮の入口近くにある詰所へ泊まる」
灰晶洞窟迷宮は町から遠い。
日帰りでは、往復するだけで探索時間がほとんどなくなってしまう。
そのため、入口付近には冒険者協会が管理する小さな詰所と宿泊小屋がある。
「明日の夜には戻る予定だ」
「予定?」
「危険なら早く戻る。問題がなくても、最初から奥へは行かない」
新しい迷宮。
知らない地形。
知らない魔物。
まずは第一階層の入口付近を確認するつもりだった。
「必ず戻るとは言わないんだね」
アレナが言った。
ウィルは答えに迷った。
迷宮へ入る以上、絶対はない。
戻るつもりで行く。
だが、何が起きても必ず帰ると約束することはできなかった。
「戻るために、無理をしない」
少し考えてから答える。
「それでいい?」
アレナは、しばらくウィルを見た。
「うん」
小さく頷く。
「帰ってきたら、洞窟の中を教えて」
「何を?」
「どんな形だったか。私が絵を描く」
「分かった」
「モグラがいたら、モグラも」
「まだいるとは決まっていない」
「洞窟にはいる」
アレナの中では、決まっているらしい。
「見つけたら覚えておく」
「耳の形も」
「戦いながら見るのか?」
「無理なら、倒したあとでいい」
当然のように言われた。
◇
冒険者協会では、エドガーが受付の前に立っていた。
背中には古い弓。
腰には短剣。
いつもより大きな鞄も持っている。
「遅くないな」
「約束の時間より前だ」
「毎回、同じことを言うつもりか?」
「エドガーが毎回確認するからだ」
ウィルは受付へ向かった。
「一つ、確認したい」
「灰晶洞窟迷宮についてですか?」
受付の女性が尋ねる。
「違う」
ウィルは隣のエドガーを見た。
「前に、次からは臨時ではないと言ったな」
「ああ」
「正式なパーティーという意味か?」
エドガーの眉が、わずかに動いた。
「今、確認するのか?」
「大事なことだ」
「協会へ来るまでに聞けただろう」
「会ってすぐ聞いている」
「そういう意味ではない」
受付の女性が口元へ手を当てている。
笑いをこらえているように見えた。
「違うなら、違うと言ってくれ」
ウィルが続ける。
「戦利品の分配や、撤退の条件にも関わる」
「分かった」
エドガーは諦めたように息を吐いた。
「正式なパーティーだ。少なくとも、灰晶洞窟迷宮へ一緒に入っている間はな」
「それが聞きたかった」
「俺は前にも、そう言ったつもりだった」
「臨時ではない、としか聞いていない」
「十分だろう」
「十分ではない」
受付の女性が、登録用の紙を取り出した。
「では、正式なパーティー登録を行いますね」
「名前が必要なのか?」
ウィルが尋ねる。
「パーティー名は任意です。今は空欄でも構いません」
「必要ない」
エドガーが即答した。
「俺も思いつかない」
「無理につける必要はありません」
登録する構成員は二人。
ウィル・クロード。
エドガー・リース。
戦利品は原則として均等分配。
特殊素材を一方が希望する場合は、相場の半額をもう一方へ支払う。
治療費と個人装備の修理費は、それぞれが負担する。
どちらか一人が撤退を宣言した場合、理由を問わず撤退する。
ユーカリ森林迷宮で決めた条件を、そのまま登録した。
「これで正式なパーティーです」
受付の女性が協会の印を押す。
「お二人の冒険者証を重ねてください」
ウィルとエドガーが、机の上で冒険者証を重ねる。
淡い光が広がった。
◇
パーティーが結成されました。
構成員:2名
ウィル・クロード
エドガー・リース
◇
短い表示が消える。
身体が強くなったわけではない。
新しいスキルを得たわけでもない。
それでもウィルは、もう一度、自分の冒険者証を見た。
「何か変わったか?」
エドガーが尋ねる。
「構成員が二名と表示されている」
「見れば分かる」
「ああ」
「それだけか?」
「それだけだ」
エドガーは少しだけ呆れた顔をした。
「灰晶洞窟迷宮について説明します」
受付の女性が、一般公開されている地図を広げた。
灰晶洞窟迷宮。
推奨レベルは4から7。
現在、三つの階層と最奥区画が確認されている。
「第一階層で多く確認されている魔物は三種類です」
女性は指を三本立てた。
「地中から襲う《穴掘りモグラ》。群れで飛行する《反響コウモリ》。岩壁へ擬態する《岩肌トカゲ》です」
アレナの予想が当たっていた。
「穴掘りモグラは、足音や地面の振動へ反応します」
「地中へいる間は、矢が届かないな」
エドガーが言う。
「地表へ出た瞬間を狙う必要があります。ただし、鼻先と前脚の爪は非常に硬いので、正面から剣を当てるのは避けてください」
「反響コウモリは?」
「高い鳴き声と、その反響で周囲の位置を把握します。暗闇でも正確に飛び、複数で冒険者を囲むことがあります」
「強い光を嫌う?」
ウィルが尋ねた。
「一時的に怯むことはあります。ただし、群れへ急に強い光を当てると、興奮して無秩序に飛び回る場合があります」
魔石灯を強くすれば安全になるとは限らない。
「岩肌トカゲは?」
「壁や天井へ張りついています。動かなければ、普通の岩とほとんど見分けがつきません」
「待ち伏せするのか?」
「はい。頭上から落下し、首や肩へ噛みつく例もあります。壁へ手をつく際も注意してください」
受付の女性が、地図の入口付近を指す。
「森林迷宮とは地面も視界も違います。森での戦いに慣れていても、同じ感覚で進まないでください」
「ああ」
それは、ウィル自身も分かっている。
森で役立ったスキルの環境効果は、洞窟では期待できない。
「今日は、どこまで進む予定ですか?」
「入口付近の地形を確認する」
エドガーが答えた。
「魔物と戦う場合も、一体までを目安にする」
「一体だけ?」
「新しい環境で、最初から数を狙わない」
受付の女性は安心したように頷いた。
「詰所へ到着したら、現地の管理人へ冒険者証を見せてください。宿泊小屋も利用できます」
「分かった」
「それから、ウィルさん」
「何だ?」
「洞窟へ入って、難しいと感じたら戻ってください」
女性は、それ以上のことを口にしなかった。
だが、ウィルには意味が分かった。
暗闇。
岩壁。
反響する音。
鉱山刑務所に似た場所。
「戻る必要があるなら、戻る」
「約束ですね」
「ああ」
◇
町を出た二人は、北東へ延びる街道を歩いた。
昨日までの雨で、道の端には水溜まりが残っている。
空は晴れていた。
風も弱い。
エドガーは、ときどき街道の外へ視線を向けている。
迷宮の中だけではなく、移動中も周囲を警戒していた。
「足が速くなったな」
歩き始めて一時間ほど経ったころ、エドガーが言った。
「迷宮を完全攻略して、身体能力が上がった」
詳しい数値までは伝えない。
エドガーも聞かなかった。
「前より歩幅が広い」
「合わせにくい?」
「逆だ。以前は俺が少し遅く歩いていた」
「言わなかったな」
「言う必要がなかった」
「今は?」
「普通に歩いている」
敏捷が11から16へ上がった影響は大きい。
疾風のフォレストウルフほど速く動けるわけではない。
それでも、以前より足の運びは軽かった。
長時間歩いても、呼吸が乱れにくい。
昼前。
二人は街道脇の大きな木の下で休んだ。
ウィルは、アレナから受け取った布包みを開く。
平たいパンに、焼いた肉と野菜が挟まれていた。
三つ入っている。
「一つはエドガーの分だ」
「頼んでいない」
「アレナが作った」
「なら、断る理由はない」
エドガーはすぐに受け取った。
「俺が作ったと言ったら?」
「保存食を食う」
「なぜ?」
「お前はスープしか作れないだろう」
「パンへ肉を挟むくらいはできる」
「肉を焦がしそうだ」
否定できなかった。
ウィルは一つ目を食べ終えた。
三つ目を半分に分ける。
「やはり、三つ必要だったな」
エドガーが言う。
「俺一人で三つ食べるつもりではない」
「少し残念そうだぞ」
「気のせいだ」
◇
灰晶洞窟迷宮の入口へ到着したのは、昼を少し過ぎたころだった。
低い山の側面。
灰色の岩壁に、大きな亀裂のような入口が開いている。
周囲には木が少ない。
露出した岩肌の一部には、白く濁った結晶が混じっていた。
陽の光を受け、鈍く輝いている。
迷宮の入口から少し離れた場所には、石造りの詰所と木製の宿泊小屋があった。
管理人へ冒険者証を見せ、二人分の寝床を確保する。
「初めてか?」
管理人の男が尋ねた。
「ああ」
ウィルが答える。
「中は冷える。灯りを消すな。壁へむやみに手をつくな」
「岩肌トカゲか?」
「指を噛まれた奴が何人もいる」
冗談ではないらしい。
「入口近くでも穴掘りモグラは出る。地面の柔らかい場所で、長く立ち止まるな」
「分かった」
「日が落ちる前には戻る」
エドガーが言った。
「戻らなかった場合は?」
「明日の朝、協会へ報告する」
管理人は、救助へ入るとは言わなかった。
新しい迷宮では、それが普通なのだろう。
ウィルは宿泊用の荷物を小屋へ置いた。
必要な装備だけを持ち、入口へ向かう。
近づくほど、空気が冷たくなった。
湿った岩と土の匂い。
ウィルの足が、ゆっくり止まった。
◇
暗い穴が、目の前にある。
入口から数歩先までは、外の光が届いている。
その先は暗い。
何も見えない。
洞窟の奥から、水滴の落ちる音が聞こえた。
ぽつり。
ぽつり。
壁へ当たり、何度も反響する。
その音に、別の音が重なった。
金属が岩へ当たる。
つるはし。
何度も。
同じ場所へ。
『止まるな!』
怒鳴り声。
『今日の分が終わるまで、休めると思うな!』
背中へ走る痛み。
崩れた岩の下から聞こえた声。
助けを求めていた。
だが、誰も作業を止めることは許されなかった。
ウィルの指が固まる。
左腕に持った盾が重くなった。
息が浅い。
「ウィル」
エドガーの声が聞こえた。
鉱山の看守ではない。
隣にいる仲間の声。
「聞こえている」
「入るか?」
急かされなかった。
戻るなとも言われない。
「……入る」
「今すぐでなくてもいい」
「今、入る」
ウィルは胸元の布袋へ触れた。
母親の手紙が入っている。
鉱山へ連れていかれた日。
ウィルに選択肢はなかった。
手枷をつけられた。
荷車へ乗せられた。
暗い穴の中へ押し込まれた。
だが、今日は違う。
足に鎖はない。
背後には、外へ続く道がある。
戻ろうと思えば戻れる。
自分で選び、ここに立っている。
ウィルは《アイテムボックス》から簡易魔石灯を取り出した。
灯りをつける。
白い光が、洞窟の中へ広がった。
「行こう」
「ああ」
二人は並んで、暗闇へ足を踏み入れた。
◇
入口から十歩ほど進むと、外の音が遠くなった。
洞窟の壁は灰色。
ところどころに、白く濁った結晶が混じっている。
魔石灯の光を受け、弱く反射した。
道幅は、人が三人並べる程度。
天井も低くない。
今の場所なら、エドガーが弓を使う余裕もある。
「入口付近は広いな」
「ああ」
ウィルは、自分の声が反響するのを聞いた。
一度。
二度。
奥から、同じ言葉が返ってくるようだった。
足元は湿っている。
小さな石も多い。
森の地面とは違い、足を置く場所を一歩ずつ選ぶ必要があった。
「右側の壁に亀裂がある」
ウィルが言う。
「崩れるか?」
「すぐには崩れない。ただ、強く叩かない方がいい」
エドガーが亀裂を見る。
「分かるのか?」
「岩の色が違う」
亀裂の周囲だけ、灰色が少し濃い。
水が染み込み、内側が弱くなっている。
「上から落ちる可能性は?」
「今はない」
「今は?」
「強い衝撃があれば分からない」
その言葉を口にした直後。
ウィルの足裏へ、かすかな振動が伝わった。
足を止める。
「どうした?」
「静かに」
エドガーも動きを止めた。
水滴の音。
遠くで風が抜ける音。
その下に、何かが土を掻く音がある。
ざり。
ざり。
硬い爪が、小石を押しのけていた。
「下にいる」
ウィルが囁く。
「敵意を感じたのか?」
「違う」
《気配察知・小》は反応していない。
まだ、こちらへ明確な敵意を向けていないのかもしれない。
「地面の振動だ。何かが掘っている」
「穴掘りモグラか」
「おそらく」
振動が少し強くなる。
エドガーが弓へ矢をつがえた。
「どこだ?」
ウィルは地面を見る。
湿った土。
小石。
右側に露出した平たい岩。
土の一部が、わずかに盛り上がった。
「エドガー、動け!」
二人が同時に後ろへ跳ぶ。
地面が弾けた。
黒褐色の身体が、土の中から飛び出す。
犬ほどの大きさ。
丸い胴体。
前脚には、短剣のように太く鋭い爪が三本ずつ伸びている。
目は小さい。
鼻先は硬い灰色の皮膚に覆われていた。
穴掘りモグラは空中で前脚を振った。
爪がエドガーの革防具を掠める。
エドガーが弓を向ける。
だが、モグラは着地すると同時に地面へ潜った。
「速いな」
「矢を撃つ時間がない」
土が動く。
今度はウィルの方へ向かっていた。
「来る!」
ウィルは円盾を足元へ向けた。
地面から爪が飛び出す。
盾へ強い衝撃が当たった。
金属ではなく、重い槌で叩かれたような感触。
左腕が持ち上がる。
穴掘りモグラの頭が地表へ出た。
ウィルは片手剣を振る。
刃が灰色の鼻先へ当たった。
硬い。
金属を叩いたような音が、洞窟内へ響く。
浅い傷しかつかない。
モグラはすぐに土の中へ戻った。
「正面は硬い」
「腹か首を狙うしかないな」
エドガーが周囲を見る。
「だが、地表へ出ている時間が短い」
地中にいる間は、弓も剣も届かない。
出てきた瞬間を狙っても、正面には硬い鼻と爪がある。
ウィルは足裏へ意識を向けた。
穴掘りモグラは止まっていない。
二人の周囲を回っている。
「俺たちの足音を追っている」
「音ではなく、振動か」
「ああ」
「止まれば?」
「さっきは、止まっていても近づいてきた」
「入口から歩いてきた振動を追っているのかもしれない」
エドガーは弓を構えたまま、足元を見る。
「地上へ引きずり出す方法は?」
ウィルは周囲を確認した。
柔らかい土。
平たい岩。
右側の壁から、大きな石が突き出している。
穴掘りモグラは土を掘れる。
だが、岩の中を同じ速さで進むことはできないはずだ。
「平たい岩へ乗る」
「二人とも?」
「エドガーだけだ」
「お前は?」
「岩の端で待つ」
ウィルは考えを説明した。
エドガーが平たい岩の上で足を踏み鳴らす。
モグラは振動へ向かう。
だが、岩の真下からは飛び出せない。
土と岩の境目へ回り、地表へ出るはずだ。
「出てくる場所が分かるのか?」
「地面の動きを見る」
「外したら?」
「盾で受ける」
「俺が囮か」
「嫌なら俺が――」
「やる」
エドガーは平たい岩へ移動した。
「どのくらい鳴らせばいい?」
「普段歩くより強く」
エドガーが片足で岩を踏む。
硬い音が洞窟へ響く。
一度。
二度。
三度。
足元の振動が変わった。
穴掘りモグラが、エドガーへ向かっている。
土の盛り上がりが、平たい岩の手前で止まった。
すぐに左へ動く。
岩の下へ入れない。
「左だ!」
ウィルは岩の左端へ走った。
穴掘りモグラが土を跳ね上げる。
硬い鼻先。
鋭い爪。
地表へ出た瞬間、ウィルは円盾を横から叩きつけた。
盾の縁が、モグラの側頭部へ当たる。
身体が横へ倒れた。
柔らかい腹部が見える。
「撃つ!」
エドガーの声。
ウィルは前へ出ず、身体を低くした。
矢が頭上を通る。
穴掘りモグラの後脚へ刺さった。
地中へ戻ろうとしていた動きが止まる。
「今だ!」
ウィルは踏み込んだ。
片手剣を両手で握る。
硬い鼻先ではない。
黒褐色の毛に覆われた、頭と胴体の境目。
片手剣を振り下ろす。
刃が深く入った。
穴掘りモグラの身体から力が抜ける。
黒褐色の身体が、淡い光へ変わっていった。
◇
《穴掘りモグラ》を初めて討伐しました。
初回討伐報酬を獲得しました。
ガチャチケット:1枚
所持ガチャチケット:5→6枚
◇
灰晶洞窟迷宮の討伐記録が解放されました。
討伐記録:1/10
次回コンプリート報酬獲得まで、あと2種。
◇
表示が消えたあと。
さらに強い光が、ウィルの身体を包んだ。
◇
レベルが上昇しました。
名前:ウィル・クロード
レベル:4→5
生命力:29→31
筋力:24→25
敏捷:16→17
魔力:12→13
◇
身体の奥へ、温かな力が広がる。
疾風のフォレストウルフを倒した経験。
ユーカリ森林迷宮で積み重ねてきた戦い。
そして、一段階上の迷宮で倒した新しい魔物。
それらが重なり、次のレベルへ届いた。
「レベルが上がったな」
エドガーが岩から下りてくる。
「ああ。レベル5だ」
「新しい迷宮へ入って、一体目で?」
「前の迷宮で得た経験も残っていたんだと思う」
ウィルは右手を握った。
完全攻略ボーナスほど大きな変化ではない。
それでも、生命力、筋力、敏捷、魔力が伸びている。
「動きを試したそうな顔をしているな」
エドガーが言った。
「少しだけなら」
「今日はやめろ」
「まだ試すとは言っていない」
「顔に出ている」
また言われた。
エドガーは地面に残った魔石を拾い上げる。
その横には、穴掘りモグラの太い爪が一本残っていた。
「素材か」
「何に使える?」
「掘削道具か、短剣の材料だろうな」
ウィルは爪を受け取った。
先端は非常に硬い。
初心者用片手剣で正面から何度も受ければ、刃こぼれする可能性がある。
実際、先ほど鼻先へ当てた場所には、小さな欠けができていた。
「新しい剣が必要だな」
「今の剣では倒せなかったか?」
「一体なら倒せた」
「なら、まだ使える」
「だが、洞窟には硬い魔物が多い」
岩へ擬態するトカゲ。
さらに下の階層には、もっと硬い魔物がいるかもしれない。
ウィルは、自分にだけ見える表示を確認した。
所持ガチャチケット:6枚。
次の11連ガチャまで、あと4枚。
「前に、一段上の剣が欲しいと言っていたな」
エドガーが尋ねる。
「ああ」
「お前にだけ見える報酬で、手に入る可能性があるのか?」
「可能性はある」
「必ず出るわけではない?」
「ああ」
「薬や食べ物が出ることも?」
「ある」
「不便な能力だな」
「役に立たない物は、ほとんど出ない」
「だが、欲しい物が出るとは限らない」
「そうだな」
自分で言いながら、少し不安になる。
二度目の11連ガチャで、新しい剣が出る保証はない。
薬。
食料。
修理道具。
便利ではあっても、今すぐ欲しい武器ではない物が出る可能性もある。
「出なければ、素材を売って買う」
「それでいい」
エドガーは洞窟の奥を見る。
「先へ進むか?」
ウィルも暗い通路を見る。
敵意は感じない。
身体には余裕がある。
レベルが上がったことで、疲労も少し軽くなっていた。
それでも。
今日の目的は、入口付近の地形確認と、新しい魔物との初戦。
すでに達成している。
「戻る」
ウィルは答えた。
「もう少し進めるが、地形も魔物もまだ分からない」
「ああ」
「レベルが上がった身体にも慣れたい」
「正解だ」
二人は魔石と爪を《アイテムボックス》へ収納した。
来た道を戻る。
洞窟の入口から、外の光が見えた。
その光へ向かって歩く。
鉱山では、一日の作業が終わっても、自分の意思で外へ出ることはできなかった。
今日は違う。
暗闇へ入ることも。
引き返すことも。
自分で決めた。
◇
詰所へ戻ると、管理人が二人を見た。
「早かったな」
「最初の一体だけ倒した」
ウィルが答える。
「何が出た?」
「穴掘りモグラ」
「怪我は?」
「ない」
「なら上出来だ」
管理人は、持ち帰った爪を確認した。
「状態がいい。武器屋なら銅貨20枚前後で買うだろう」
「魔石は?」
「合わせて銅貨35枚ほどだな。町へ戻ってから売る方がいい」
その場では売却せず、《アイテムボックス》へ戻した。
宿泊小屋へ入り、二人は装備を外した。
木製の寝台が四つ。
薄い毛布。
小さな机。
豪華ではないが、風と雨は防げる。
エドガーが弓の弦を緩め、矢を点検する。
ウィルも片手剣を抜いた。
穴掘りモグラの鼻先へ当てた場所に、小さな刃こぼれがある。
「やはり硬い」
携帯砥石を取り出し、刃を整える。
「次は正面へ当てるな」
エドガーが言った。
「分かっている」
「今日は浅い欠けで済んだ。何度も当てれば折れるぞ」
「盾で受ける」
「盾も打撃を受け続ければ壊れる」
森と同じ戦い方を続けるだけでは、装備が先に駄目になる。
洞窟には、洞窟の戦い方が必要だった。
「明日は反響コウモリか、岩肌トカゲを探す」
「見つけた方だ」
「ああ」
「ただし、コウモリの群れが大きければ戦わない」
「分かっている」
ウィルは剣を研ぎながら、自分の冒険者証を開いた。
◇
名前:ウィル・クロード
レベル:5
生命力:31
筋力:25
敏捷:17
魔力:13
所持ガチャチケット:6枚
次回11連ガチャまで:あと4枚
迷宮完全攻略数:1
灰晶洞窟迷宮討伐記録:1/10
次回コンプリート報酬獲得まで:あと2種
◇
数字が増えている。
レベル4から5。
チケット5枚から6枚。
新しい迷宮の討伐記録も、一つ埋まった。
森の迷宮では、最初の三種類を倒したときに報酬があった。
灰晶洞窟迷宮でも同じ仕組みなら、あと二種類。
ただし、何が得られるのかはまだ分からない。
誰かへ聞くこともできない。
これは、ウィルにだけ見える力だった。
「エドガー」
「何だ?」
「今日、俺が洞窟へ入れないと言ったら、どうした?」
「町へ戻った」
「何も言わずに?」
「理由は分かっている」
「次の日も無理だったら?」
「その次の日に聞く」
「ずっと無理だったら?」
エドガーは矢を一本、矢筒へ戻した。
「別の迷宮へ行く」
「灰晶洞窟迷宮を諦める?」
「迷宮は一つではない」
迷宮を攻略するために、命や心を壊す必要はない。
進めない場所があるなら、別の道を探せばいい。
「だが、お前は入った」
「ああ」
「だから明日も入る。それだけだ」
ウィルは研ぎ終えた剣を、布で拭いた。
外は、すでに暗くなっている。
だが、宿泊小屋の暗さと、洞窟の暗さは違った。
ここには灯りがある。
隣には仲間がいる。
扉を開けば、外へ出られる。
ウィルは寝台の横へ、片手剣を置いた。
手の届く場所へ武器を置く癖は、まだ消えない。
それでも今夜、鉱山の夢を見たとしても。
目を覚ませば、囚人ではない。
冒険者として。
自分で選んだ洞窟の入口にいる。
ウィルは灯りを見つめながら、ゆっくり目を閉じた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作のKindle版も発売中です。
Kindle版には、本編に加えて、
・エドガー視点――初めてウィルと組んだ日
・アレナ視点――七年ぶりに帰ってきた幼なじみ
・防具職人視点――壊れるための盾
・第24話後日談――三人で囲む食卓
以上の書き下ろし番外編を収録しています。
ウィルたちの物語を、別の視点からも楽しんでいただけたら嬉しいです。




