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第24話 雨の止んだ家


 冒険者協会へ戻ったとき。


 ウィルは、受付の女性が最初に何を見るのか分かっていた。


「二人とも、こちらへ」


 迷宮主の魔石でもない。


 美しい灰色の毛皮でもない。


 ウィルの左肩と脇腹。


 エドガーの防具についた傷。


 女性は二人の身体を確認すると、そのまま治療室を指した。


「報告は治療のあとです」


「討伐したかは聞かないのか?」


 エドガーが尋ねる。


「持っているものを見れば分かります」


 ウィルの《アイテムボックス》には、疾風のフォレストウルフが残した素材が入っている。


 だが、女性の表情は喜ぶというよりも、安堵に近かった。


「二人で戻るという約束は守ってくれましたから」


「ああ」


 ウィルは短く答えた。


     ◇


 治療師は、ウィルの左肩の革防具を外した。


 疾風のフォレストウルフの爪が掠めた場所には、赤紫色の痣と浅い傷が残っている。


「縫うほどではない」


 傷を洗いながら、治療師が告げる。


「ただし、今日は剣を振るな」


「今日は?」


「明日もだ」


「二日間?」


「不満そうな顔をするな。肩が上がらなくなってからでは遅い」


 冷たい薬を塗られる。


 痛みが少し和らいだ。


 脇腹の傷も浅い。


 牙を受けた右脚には、前回の傷が残っていたが、新しく悪化した様子はなかった。


 エドガーも背中と腕を調べられた。


 大きな怪我はない。


 治療師は二人の間に立ち、交互に顔を見る。


「迷宮主を倒した者に、休めと言っても聞かないことが多い」


「俺は聞く」


 ウィルが答えた。


「以前よりはな」


 エドガーが言った。


「以前を知らないだろう」


「十分知った」


 二人分の治療が終わる。


 今回の治療費は、一人につき銅貨12枚だった。


 ウィルは自分の分を支払い、服を着直した。


「次に来るときは、治療ではなく顔を見せるだけにしてくれ」


 治療師が言う。


「努力する」


「約束しろとは言わん。お前の努力は、ときどき妙な方向へ行く」


 防具職人や受付の女性と、同じようなことを言われた。


     ◇


 治療室を出ると、受付の前には数人の冒険者が集まっていた。


 ウィルとエドガーが持ち帰った素材について、すでに話が広がっているらしい。


「本当に倒したのか?」


「疾風狼だろ?」


「二人だけで?」


 聞こえてくる声に、ウィルの足が止まりそうになる。


 以前なら、そのまま協会を出ていたかもしれない。


 注目されることには、まだ慣れない。


 視線を向けられると、何を言われるのか考えてしまう。


「止まるな」


 隣を歩くエドガーが言った。


「分かっている」


「俺ではなく、前を見ろ」


 ウィルは受付へ進んだ。


 女性が記録用の紙を用意する。


「迷宮主討伐の正式な報告をお願いします」


 ウィルは冒険者証を差し出した。


 そこには、完成した記録が表示されている。


 ユーカリ森林迷宮。


 討伐記録:10/10。


 女性は一度、表示を確認した。


 それから協会の印を記録用紙へ押す。


「ウィル・クロードさん、エドガー・リースさん」


 いつもより、少しだけはっきりした声だった。


「疾風のフォレストウルフ討伐、およびユーカリ森林迷宮の完全攻略を確認しました」


 周囲から、小さなどよめきが起きた。


 誰かが手を叩いた。


 一人。


 二人。


 大きな歓声ではない。


 それでも、協会の中へ拍手が広がった。


 ウィルは、どうすればいいのか分からなかった。


 頭を下げるべきなのか。


 手を上げるのか。


 エドガーを見る。


「俺を見るな」


「どうすればいい?」


「好きにしろ」


 それが分からないから聞いている。


 ウィルは、集まっている冒険者たちへ小さく頭を下げた。


 拍手が少しだけ大きくなった。


 その中には、前回で話を断られた三人組もいた。


 大きな盾を持つ男と目が合う。


 男は気まずそうに視線を外したあと、もう一度ウィルを見た。


「おめでとう」


 短い言葉だった。


「ありがとう」


 ウィルも短く返した。


 男がウィルの無実を信じたわけではない。


 それでも、冒険者として成し遂げたことは認めてくれた。


 今は、それでよかった。


     ◇


 素材の鑑定は、協会の奥にある大きな作業台で行われた。


 ウィルは《アイテムボックス》から、一つずつ取り出す。


 疾風のフォレストウルフの魔石。


 灰色の毛皮。


 二本の長い牙。


 最後に、薄い緑色の結晶。


 結晶の内部では、細い光が風のように渦巻いている。


 鑑定を担当する男性が、最初に魔石を持ち上げた。


「状態は良好。迷宮主の魔石として、銀貨8枚」


 次に毛皮。


「左肩に剣と矢の傷があるが、腹部と背中はきれいだ。銀貨6枚」


 牙は二本で銀貨2枚。


 魔石、毛皮、牙。


 合わせて銀貨16枚。


「こちらの結晶は?」


 ウィルが尋ねる。


「《疾風の風晶》だ」


 鑑定人は結晶へ灯りを当てた。


 内部の光が、さらに速く動き始める。


「疾風のフォレストウルフが、まれに残す特殊素材だ。武器や防具へ風属性の性質を付与できる」


「武器を強くできる?」


「武器そのものの切れ味を上げる素材ではない」


 鑑定人が説明する。


「剣へ使えば、振り始めと切り返しが軽くなる。盾なら、構える速度を補助できる。ただし、加工できる鍛冶職人は限られる」


「今の片手剣にも使える?」


「使えなくはない」


 鑑定人は、ウィルの腰にある《初心者用片手剣》を見た。


「だが、薦めない。この風晶は銀貨6枚ほどの価値がある。もっと長く使う武器を手に入れてから加工した方がいい」


 強い迷宮主を倒した報酬は、完成した強い剣ではなかった。


 これから手に入れる武器を、さらに成長させる素材。


 ウィルは緑色の結晶を見た。


 次にガチャを引けば、今の剣より一段上の武器が出る可能性がある。


 その武器へ使えば、洞窟迷宮の奥でも役に立つ。


「これは売らない」


 ウィルは言った。


「分配はどうする?」


 エドガーが尋ねる。


「俺が買い取る」


 風晶の価値は銀貨6枚。


 半分は、エドガーの取り分だ。


 ウィルが銀貨3枚を支払えば、結晶を自分のものにできる。


「屋根を直す金が必要なんだろう?」


「必要だ」


「なら、今回は――」


「均等分配だ」


 ウィルはエドガーの言葉を遮った。


「最初に決めた」


「俺は風晶を使わない」


「売れば金になる」


「頑固だな」


「エドガーもだ」


 エドガーは少し考えたあと、頷いた。


「分かった。銀貨3枚で、お前が持て」


 魔石、毛皮、牙の売却額は銀貨16枚。


 そこへ、迷宮主討伐の協会報酬として銀貨4枚が加わった。


 合計、銀貨20枚。


 二人の取り分は、銀貨10枚ずつ。


 ウィルはその中から、風晶の代金として銀貨3枚をエドガーへ渡した。


 ウィルの現金での取り分は銀貨7枚。


 エドガーは銀貨13枚。


 そしてウィルの手元には、《疾風の風晶》が残った。


 銀貨7枚を革袋へ入れる。


 重い。


 これまで少しずつ貯めてきた屋根の修理資金は、銀貨4枚と銅貨30枚。


 合わせれば、銀貨11枚と銅貨30枚になる。


 屋根を直せる。


 その事実が、迷宮主を倒したときとは違う形で胸へ広がった。


     ◇


「臨時パーティーは、今日で終了だ」


 精算を終えたあと、エドガーが言った。


 契約は、ユーカリ森林迷宮の攻略まで。


 最初から決めていたことだった。


「分かった」


「それだけか?」


「他に何を言う?」


「知らん」


 エドガー自身も、何を期待していたのか分からない顔をしている。


 ウィルは少し考えた。


「次の迷宮へ行きたい」


「ああ」


「灰晶洞窟迷宮を考えている」


 町から半日ほど離れた場所にある、推奨レベル4から7の迷宮。


 森より魔物が強く、暗い洞窟が続く。


 穴を掘る魔物。


 暗闇を飛ぶ魔物。


 岩へ擬態する魔物。


 これまでとは違う戦いになる。


「同行してくれるか?」


 ウィルは、自分から尋ねた。


 第19話では、エドガーから声をかけられた。


 今度は違う。


 断られる可能性があっても、自分から頼んだ。


「屋根はどうする?」


「先に直す」


「迷宮より家か?」


「ああ」


 ウィルは迷わず答えた。


「雨が降れば、また中へ水が入る」


 迷宮は逃げない。


 だが、壊れた家を放置すれば、次の雨でさらに傷む。


「何日かかる?」


「職人へ聞く」


「修理が終わったら、もう一度声をかけろ」


「それは、同行するという意味か?」


「断るなら、最初から断っている」


 エドガーは、いつもの古い弓を肩へ掛けた。


「ただし、洞窟では俺の弓が使いにくい場所もある」


「分かっている」


「森と同じようには戦えない」


「ああ」


「鉱山に似ている場所もあるぞ」


 ウィルの指が、わずかに固くなる。


 暗い穴。


 岩の匂い。


 つるはしの音。


 怒鳴り声。


 考えるだけで、背中の古い傷が痛むような気がした。


「それでも行く」


「そう言うと思った」


 エドガーは協会の出口へ向かう。


「ウィル」


 足を止め、振り返らずに名前を呼んだ。


「何だ?」


「次からは臨時ではない」


 それだけ言い、協会を出ていった。


 ウィルは、しばらく扉を見ていた。


「正式なパーティーへのお誘いですね」


 受付の女性が言う。


「そうなのか?」


「おそらく」


「本人は、はっきり言わなかった」


「エドガーさんも、そういうことが得意ではないのでしょう」


 似ているのかもしれない。


「次に来たとき、確認する」


「確認するんですか?」


「大事なことだ」


 女性は笑いをこらえるように口元へ手を当てた。


「それでいいと思います」


     ◇


 家へ戻る前に、ウィルは防具修理店へ寄った。


 牙の跡が増えた円盾を作業台へ置く。


 職人の眉間に、深い皺が寄った。


「壊れる前に持ってこいと言ったな」


「壊れてはいない」


「金具が曲がっている」


「抜けなかった」


「革帯も裂けかけている」


「外せた」


「そういう問題じゃない」


 職人は盾の表と裏を何度も調べた。


 牙で削られた木板。


 粘糸索に引かれ、わずかに変形した金属環。


 それでも、盾の中心部分は残っている。


「迷宮主は?」


「倒した」


 職人の手が止まった。


「この盾で?」


「ああ」


「そうか」


 短い返事だった。


 職人は盾の傷へ指を当てる。


「修理費は銅貨18枚だ。金属環は外すか?」


「残してほしい」


「また罠に使うつもりか?」


「分からない。ただ、役に立った」


「なら補強する」


 ウィルは革防具も預けた。


 左肩と脇腹の裂けた部分。


 修理費は銅貨10枚。


「三日後に来い」


「分かった」


 店を出る直前。


「迷宮主討伐、おめでとう」


 背中から声が聞こえた。


 ウィルは振り返る。


 職人はすでに作業台へ向かい、盾を分解し始めている。


「ありがとう」


     ◇


 家へ戻ると、ウィルは床板の下から小さな木箱を取り出した。


 屋根の修理資金。


 銀貨4枚。


 銅貨30枚。


 そこへ、今日得た銀貨7枚を加える。


 銀貨11枚。


 銅貨30枚。


 木箱を両手で持ち上げる。


 以前より、はっきりと重くなっていた。


 七年前。


 この家を出たとき、ウィルは何も持っていなかった。


 戻ってきたときには、屋根に穴が開き、壁は傷み、家具には埃が積もっていた。


 母親もいなかった。


 父親もいなかった。


 残っていたのは、錆びた剣と手紙だけだった。


 今は違う。


 食卓には、アレナから借りた食器がある。


 壁には魔石灯がついている。


 棚には保存食と薬がある。


 そして、屋根を直すための金がある。


「明日だな」


 ウィルは木箱を閉じた。


 明日。


 アレナの父親へ相談する。


     ◇


 翌朝。


 食堂の開店前に訪ねると、アレナの父親は裏口で野菜の箱を運んでいた。


「おはようございます」


「おう。肩はどうした?」


「迷宮主を倒しました」


「迷宮主を倒すと肩を怪我するのか?」


「今回は」


 説明が足りなかった。


 アレナの父親は箱を地面へ置く。


「中で聞こう」


 食堂へ入る。


 アレナは椅子を机の上から下ろしていた。


 ウィルの肩へ巻かれた布を見る。


「また怪我した」


「浅い傷だ」


「毎回そう言う」


「本当に浅い」


 ウィルは迷宮主を倒したことを伝えた。


 アレナの手が止まる。


「一人で?」


「エドガーと二人で」


「帰ってきた?」


「ここにいる」


「そうじゃなくて」


 アレナは少しだけ眉を寄せた。


「二人で帰ってきた?」


「ああ」


「なら、よかった」


 受付の女性と同じことを言った。


「それで、屋根を直したい」


 ウィルは銀貨の入った革袋を机へ置いた。


「銀貨11枚と銅貨30枚ある」


 アレナの父親は袋の中身を確認した。


「全部使うつもりか?」


「必要なら」


「全部は使うな。次の仕事まで食えなくなるぞ」


「食料はある」


「薬や装備の修理もあるだろう」


 防具職人にも、すでに代金を支払う必要がある。


「前に見た状態なら、屋根を全部剥がす必要はない」


 アレナの父親が紙を取り出した。


 木材。


 防水布。


 屋根板。


 釘。


 職人への工賃。


「傷んだ部分を交換して、残せるところは残す。銀貨10枚と銅貨80枚くらいだ」


「足りる」


「ああ」


「頼みたい」


「分かった。知り合いの職人へ話してみる」


 ウィルは銀貨10枚と銅貨80枚を数えた。


 残るのは銅貨50枚。


 木箱にあった重みが、ほとんど消える。


 だが、不安ではなかった。


 金がなくなったのではない。


 屋根へ変わる。


「俺も手伝う」


「肩を怪我しているだろ」


「軽いものなら運べる」


「治ってからだ」


「二日で――」


「治療師は何日休めと言った?」


「二日」


「なら二日休め」


 どこへ行っても、同じことを言われる。


「私も手伝う」


 アレナが言った。


 父親が娘を見る。


「お前は店があるだろう」


「終わってから行く」


「屋根に登るなよ」


「登らない」


「前に倉庫の屋根へ登って、下りられなくなっただろう」


「あれは道が分からなくなっただけ」


「屋根の上で迷うな」


 ウィルは、どのように迷ったのか想像できなかった。


     ◇


 屋根の修理は、三日後に始まった。


 朝早くから、二人の職人が家へ来た。


 アレナの父親もいる。


 傷んだ屋根板が外される。


 腐った木材。


 雨を吸い、黒く変色した部分。


 穴を塞いでいた応急処置の板も取り外された。


 青空が、家の中から見えた。


 最初に帰ってきた日と同じだった。


 だが、今日は壊れているから空が見えるのではない。


 直すために、一度開いている。


 ウィルは地上で、外された板を運んだ。


 肩に負担をかけないよう、一枚ずつ。


「無理するなよ」


 屋根の上から、アレナの父親が声をかける。


「していない」


「それを決めるのは、お前じゃない」


「誰が決める?」


「見ている人間だ」


 理不尽な気もした。


 だが、鉱山の看守が言っていた「働け」とは違う。


 今の言葉は、壊れるまで動くなという意味だった。


 昼過ぎ。


 アレナが食事を持ってきた。


 籠の中には、白いパンと肉の入ったスープ。


 職人たちの分もある。


「休憩」


 アレナが言った。


「もう少し運んでから」


「今」


「まだ――」


「今」


 父親とよく似ていた。


 ウィルは板を地面へ置いた。


 全員で家の前へ座り、食事を取る。


 職人の一人が、屋根を見上げた。


「今日中には板を載せられる。仕上げは明日だな」


「雨が降っても大丈夫になりますか?」


「明日の夕方まで待て。防水材が乾けば問題ない」


 ウィルは屋根を見上げた。


 新しい木材が組まれている。


 傷んでいない古い部分は残され、その隣に新しい板が並んでいた。


 すべてを新しくするわけではない。


 残せるものは残す。


 壊れたところだけを直す。


 自分の身体と似ていると思った。


 古い傷は消えない。


 七年間も、なかったことにはならない。


 それでも、傷んだ場所へ新しいものを加えれば、もう一度使うことができる。


「何を見ているの?」


 アレナが尋ねた。


「屋根」


「それは分かる」


「直っている」


「直しているから」


「そうだな」


 当たり前のことだった。


 だが、その当たり前が嬉しかった。


     ◇


 二日目の夕方。


 最後の屋根板が固定された。


 防水材を塗り、隙間を確認する。


 職人が梯子から下りてくる。


「終わったぞ」


 ウィルは家の中へ入った。


 天井を見上げる。


 光は差し込んでいない。


 新しい木の匂いがする。


 壁や床は、まだ傷んでいる。


 家具も少ない。


 それでも、上を見るたびに見えていた穴は消えていた。


「確認してみろ」


 アレナの父親が、屋根へ水をかけた。


 桶一杯。


 二杯。


 三杯。


 屋根を流れる水の音がする。


 ウィルは家の中で待った。


 いつも水が落ちていた場所。


 床へ置いていた桶。


 そこへ、何も落ちてこない。


 一滴も。


「どうだ?」


 外から声がする。


「大丈夫です」


「聞こえないぞ」


 ウィルは少し声を大きくした。


「雨漏りしていません!」


「なら完成だ!」


 外から、職人たちの笑い声が聞こえた。


     ◇


 その夜。


 アレナと父親を、家の中へ招いた。


 ウィルが自分から人を家へ呼ぶのは、戻ってきてから初めてだった。


 食卓の椅子は三つ。


 一つは古い。


 一つは食堂から借りたもの。


 もう一つは、アレナの父親が直してくれたものだった。


 食卓には、野菜スープ。


 白いパン。


 焼いた肉。


 ウィルが作った料理だけではない。


 アレナが持ってきたものも並んでいる。


「今日は祝いだから」


 アレナが言った。


「屋根の?」


「迷宮攻略も」


「それは昨日、協会で――」


「私たちは祝ってない」


「そうか」


 ウィルは三人分の器へ、野菜スープを注いだ。


 母親がよく作っていたもの。


 まだ同じ味にはならない。


 少し薄い。


 野菜の切り方も揃っていない。


 それでも、最初に作ったときよりはよくなっていた。


 アレナが一口飲む。


「前よりおいしい」


「塩を減らした」


「前は多かった」


「少しだけだ」


「少しじゃなかった」


 父親もスープを飲んだ。


「悪くない」


「本当ですか?」


「アレナよりは慎重に作っている」


「私も作れる」


「鍋を焦がしただろ」


「あれは火が強かった」


「火を強くしたのは誰だ」


 親子の会話を聞きながら、ウィルもスープを飲んだ。


 家の中に声がある。


 食器の音がする。


 天井には穴がない。


 風も入らない。


 食事を終えたころ。


 屋根の上で、小さな音が鳴った。


 雨だった。


 弱い雨が、次第に強くなる。


 以前なら、すぐに桶を並べていた。


 床へ布を敷き、濡れてはいけないものを移動させた。


 今日は誰も動かなかった。


 三人で、雨音を聞く。


 天井から水は落ちてこない。


 アレナが上を見た。


「降ってる」


「ああ」


「漏れてない」


「ああ」


「よかったね」


 ウィルは、すぐには答えられなかった。


 迷宮主を倒したとき。


 冒険者たちから拍手されたとき。


 銀貨を受け取ったとき。


 そのどれとも違うものが、胸の奥へ広がっていた。


 七年間。


 自分には帰る場所がないと思っていた。


 家が残っていても、誰もいない。


 屋根も壊れている。


 ただ過去だけが置かれている場所。


 そう思っていた。


 だが今は、雨を防ぐ屋根がある。


 食卓には人がいる。


 明日になれば、エドガーへ次の迷宮の話をしに行く。


 ウィルは小さく息を吐いた。


「うん」


 アレナを見る。


「よかった」


 それだけ言うと、アレナは少し笑った。


     ◇


 二人が帰ったあと。


 ウィルは食器を洗い、食卓へ冒険者証を置いた。


 ユーカリ森林迷宮。


 討伐記録:10/10。


 完全攻略によって獲得した《森林狩人》の詳細を開く。


     ◇


《森林狩人》


 ユーカリ森林迷宮完全攻略報酬。


 森林内における索敵、攻撃、回避能力が上昇します。


 森林系魔物に与えるダメージがわずかに増加します。


 迷宮完全攻略ボーナスが適用されます。


 全基礎能力+5。


     ◇


 数字が切り替わる。


     ◇


名前:ウィル・クロード


レベル:4


生命力:24→29


筋力:19→24


敏捷:11→16


魔力:7→12


     ◇


 ウィルは、何度か表示を見直した。


「全部、5……」


 生命力だけではない。


 筋力。


 敏捷。


 魔力。


 すべてが上がっている。


 レベルが上がったときよりも、大きな変化だった。


 右手を握る。


 筋力が増えたからといって、急に腕が太くなったわけではない。


 それでも、身体の内側に以前より強い力を感じる。


 耳を澄ます。


 雨音が、少しはっきり聞こえた。


 椅子から立ち上がる。


 身体が軽い。


 疾風のフォレストウルフへ挑む前の自分とは、明らかに違う。


 迷宮を完全攻略する。


 その意味を、ウィルは初めて理解した。


 レベルによる成長。


 ガチャによる装備。


 迷宮完全攻略による、確定した大きな強化。


 この三つを積み重ねれば、もっと強くなれる。


 それでも、頭に浮かんだのはゲイルではなかった。


 次の迷宮。


 暗い洞窟。


 そこで待つ、新しい魔物。


 そして、いつかガチャから出るかもしれない新しい剣。


 ウィルは《アイテムボックス》から、《疾風の風晶》を取り出した。


 薄い緑色の結晶。


 内部で風のような光が揺れている。


「まだ使わない」


 今の初心者用片手剣ではない。


 もっと長く使える剣。


 その剣を手に入れたとき、この結晶を使う。


 ウィルは風晶を収納した。


 冒険者証を閉じる。


 雨は、まだ降っている。


 だが、家の中へは一滴も入ってこなかった。


 ウィルは灯りを消し、修復された屋根の下で横になった。


 手の届く場所に剣を置く癖は、まだ消えていない。


 大きな音がすれば、身体は強張る。


 古い傷も残っている。


 それでも。


 この家は、もう壊れたままではなかった。


 ウィルの人生も。


 まだ、直し始めたばかりだった。


     ◇


第1章 七年ぶりの帰還 完


     ◇


【第1章終了時ステータス】


名前:ウィル・クロード


年齢:23歳


職業:冒険者


レベル:4


生命力:29


筋力:24


敏捷:16


魔力:12


迷宮完全攻略数:1


所持ガチャチケット:5枚


次回11連ガチャまで:あと5枚


【固有能力】


《ダンジョンガチャ》


 魔物の初回討伐、同種魔物の一定数討伐、迷宮主の再討伐などにより、ガチャチケットを獲得する。


《装備統合》


 同名装備を吸収し、基礎性能を強化する。


【習得スキル】


《アイテムボックス》


《小治癒》


《ダンジョン転移》


《気配察知・小》


《毒耐性・小》


《森林歩行・極》


《森林狩人》


【《森林狩人》完全攻略ボーナス】


全基礎能力+5


森林内での索敵能力上昇


森林内での攻撃・回避能力上昇


森林系魔物への与ダメージ微増


【装備】


武器:《初心者用片手剣》


盾:《初心者用円盾+1》


防具:《初心者用革防具》


装飾品:《衝撃緩和の腕輪》


※盾と防具は修理済み。


【主な所持品】


《疾風の風晶》


小治癒ポーション×1


体力回復薬×1


低級解毒薬×1


保存食セット×1


投擲用石弾×4


低級魔石×2


簡易魔石灯

※低級魔石一個を装着中。


携帯砥石


【攻略済み迷宮】


《ユーカリ森林迷宮》


推奨レベル:1〜4


討伐記録:10/10


完全攻略済み。


     ◇


【比較対象・第1章終了時】


名前:ゲイル


年齢:28歳


称号:《雷槍》


所属:王国槍騎士団副団長


レベル:72


生命力:342


筋力:396


敏捷:371


魔力:458


迷宮核出力:10/10


【主なスキル】


《雷槍術・極》


《雷属性魔法・極》


《雷装》


《迅雷突撃》


《身体強化・大》


《魔力循環・大》


《英雄の威圧》


《迷宮核同調》


【読者のみ閲覧可能な情報】


迷宮核同調率:100%→98%


※ゲイル本人は、力の変化に気づいていない。


     ◇


ウィル・クロード。


レベル4。


ゲイル。


レベル72。


その差は、いまだ圧倒的だった。


けれど。


七年前から一度も縮まらなかった距離が、初めて動き始めていた。




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