第23話 背中を預ける
決戦の日。
ウィルは、日の出よりも早く目を覚ました。
眠れなかったわけではない。
身体が、いつもより早く起きただけだった。
背中には古い痛みが残っている。
鉱山で傷めた指の関節も、朝は固い。
いつもと変わらない身体だった。
それでも今日、その身体で疾風のフォレストウルフへ挑む。
ウィルは水を飲み、野菜スープを温めた。
白いパンと一緒に、時間をかけて食べる。
腹が空いた状態では戦わない。
焦って装備を忘れない。
一つずつ確認する。
《初心者用片手剣》
《初心者用円盾+1》
《初心者用革防具》
《衝撃緩和の腕輪》
小治癒ポーション。
体力回復薬。
低級解毒薬。
投擲用石弾。
そして、罠職人のマルタが作った粘糸索。
盾の下側には、索を繋ぐための金属環がある。
腕を固定する革帯は、親指で留め具を押せば外れる。
固定。
解除。
手放す。
ウィルは最後に三度だけ動作を確かめた。
何度も繰り返せば、不安が消えるわけではない。
指が疲れるだけだ。
胸元の布袋へ触れる。
「行ってくる」
◇
冒険者協会へ入ると、エドガーは受付の横で矢を確認していた。
迷宮主用の太い矢が三本。
通常の矢も数本。
「眠れたか?」
「ああ」
「食事は?」
「食べた」
「盾の留め具は?」
「問題ない」
「粘糸索は?」
「持っている」
短い確認だった。
エドガーも、自分の弓や防具に問題がないことを伝えた。
受付の女性が、二人の冒険者証を受け取る。
「今日は、迷宮主へ挑戦するんですね」
「ああ」
ウィルが答える。
「作戦は変わっていませんか?」
「入口近くの二本の木へ粘糸索を通す」
円盾を狼へ噛ませる。
留め具を外し、盾を手放す。
狼が盾を持って離れようとしたところで、粘糸索が張る。
その一呼吸で、エドガーが脚を射る。
「矢が当たったあとも、すぐには近づかない」
エドガーが続ける。
「負傷したふりをする可能性があります」
「俺が《今》と言うまで、ウィルは攻撃しない」
「粘糸索が途中で見つかった場合は?」
「戻る」
「狼が盾へ噛みつかなかった場合は?」
「無理に噛ませようとしない。一度離れて動きを見る」
「エドガーさんが《退け》と言ったら?」
「戻る」
受付の女性は、最後にウィルを見た。
「倒せそうに見えても?」
「ああ」
「あと一撃でも?」
「戻る」
「分かりました」
女性は冒険者証を返した。
「帰ってきたら、結果より先に二人の怪我を確認します」
「討伐できたかは聞かない?」
「二人で戻れば、見れば分かります」
受付の女性は、静かに言った。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
◇
ユーカリ森林迷宮へ入る。
第一階層では、魔物との戦闘を避けた。
角ウサギの気配を感じても迂回する。
森ゴブリンの足跡を見つけても追わない。
今日の目的は一つだけだった。
第二階層。
第三階層。
進むほど、会話は少なくなる。
ウィルは敵意を探し、エドガーは痕跡と音を見る。
二人は止まる場所も、進む瞬間も、ほとんど同じになっていた。
最奥区画へ続く石の通路へ到着する。
エドガーが白い布を、入口の木の根へ結んだ。
「最後の確認だ」
「ああ」
「罠が成功しても、狼は死んでいない」
「分かっている」
「俺が矢を外したら?」
「退く」
「お前が剣を外したら?」
「距離を取る」
「負傷したふりをしたら?」
「近づかない」
エドガーは頷いた。
「行くぞ」
◇
二人は最奥区画へ入った。
広場には、まだ狼の姿がない。
静かな森。
太い木々。
大きな岩。
前回と同じ場所だった。
「急げ」
エドガーが周囲を警戒する。
ウィルは《アイテムボックス》から粘糸索を取り出した。
表面を薄い革で覆われた、八歩ほどの索。
盾側の留め具を、金属環へ繋ぐ。
一度引く。
外れない。
反対側を、入口の左にある太い木へ回す。
真っすぐ結ばない。
根元を一周させ、さらに奥の細い木へ通す。
鉱山で岩を吊るしていたときと同じように、力の向きを二度変える。
最後の輪を木の根へ固定した。
「長さは?」
「盾を持って、六歩まで動ける」
「狼が盾を持てば?」
「二歩ほど進んだところで張る」
粘糸索を地面へ這わせる。
土と落ち葉を薄く被せる。
完全には隠れない。
近くで見れば、不自然な線がある。
だが、狼が走りながら見抜けるかどうかは分からない。
「配置完了」
ウィルは盾を左腕へ固定した。
粘糸索は盾の下から地面へ落ちている。
動けば、後ろをついてくる。
動ける範囲は限られる。
罠の近くで狼を待たなければならない。
エドガーは、ウィルから右へ十歩ほど離れた。
弓へ太い矢をつがえる。
「来る」
ウィルが言った。
《気配察知・小》が、森の奥にある強い敵意を捉えた。
前方。
少し右。
灰色の身体が、木の陰から現れる。
疾風のフォレストウルフ。
右前脚には、前回の矢が掠めた傷が残っていた。
すでに血は止まっている。
金色の目が、ウィルを見る。
円盾を見る。
次に、地面へ伸びている索へ向いた。
ウィルの喉が固くなった。
「気づいたか?」
小さく尋ねる。
「分からん」
エドガーの声。
狼は動かなかった。
鼻を低くし、地面の匂いを嗅ぐ。
ゆっくりと右へ歩く。
索のある場所を避けるように、大きく回り始めた。
「見つかっている」
「ああ」
前回、盾を囮に使ったことも覚えている。
疾風のフォレストウルフは、同じ方法へ簡単にはかからない。
狼が速度を上げた。
円を描くように、二人の周囲を走る。
ウィルは追わない。
罠から離れすぎないよう、その場で身体の向きだけを変える。
狼は盾へ近づかない。
ウィルの右側を通る。
エドガーの射線へも入らない。
「賢いな」
「だから迷宮主だ」
エドガーが弓を引いた。
だが、撃たない。
無理に狙えば外れる。
狼が突然、走る方向を変えた。
エドガーへ向かう。
「右!」
エドガーが叫ぶ。
ウィルは右へ動こうとした。
粘糸索が地面を擦る。
動ける範囲が狭い。
狼とエドガーの間へ入るには、索を大きく引かなければならない。
「そのまま!」
ウィルは止まった。
エドガーが左へ走る。
狼は追う。
エドガーは入口側へ戻らず、ウィルの前を横切るように移動した。
狼も後を追う。
灰色の身体が、ウィルの正面へ入った。
「今は撃つな!」
「分かっている!」
狼はエドガーを追っているように見せて、急にウィルへ向きを変えた。
罠から遠い右側。
盾へ噛みつかず、脚を狙うつもりだ。
ウィルは円盾を下げた。
牙が来る。
前回と同じ攻撃。
だが、狼は盾へ触れる直前に身体を沈めた。
狙いが変わる。
腹部。
ウィルは後ろへ下がれない。
粘糸索がある。
円盾を身体へ押しつける。
疾風のフォレストウルフの肩が盾へぶつかった。
衝撃。
ウィルの身体が押される。
踵が土へ沈む。
《衝撃緩和の腕輪》が淡く光った。
完全には止められない。
それでも、左腕が折れるほどの衝撃ではなかった。
狼が前脚を振る。
爪が革防具の脇腹を掠めた。
ウィルは盾を押し返す。
狼はすぐに離れた。
「怪我は?」
「浅い!」
脇腹が熱い。
血は出ているが、動ける。
狼は再び距離を取った。
罠の位置を知っている。
盾を警戒している。
「このままでは噛まない」
ウィルが言う。
「ああ」
「索を外す?」
「今、外せば襲われる」
粘糸索があることで、ウィルの動ける範囲は狭くなっている。
狼もそれを理解しているようだった。
罠が、逆にウィルを縛っていた。
「退くか?」
エドガーが尋ねる。
まだ作戦は完全に失敗していない。
だが、このまま待てば体力を削られる。
ウィルは地面を見た。
索。
二本の木。
その間に積もった落ち葉。
狼は、盾と索を見ている。
罠の中心にいるウィルも見ている。
ならば。
「罠を捨てる」
「何?」
「索を木から外す」
「狼が来るぞ」
「来させる」
ウィルは片手剣を鞘へ戻した。
右手を、盾の金属環へ伸ばす。
盾側の留め具を外すと思わせる。
疾風のフォレストウルフの身体が低くなった。
「何をするつもりだ?」
「狼は、盾に糸がついているから噛まない」
「ああ」
「糸を外したように見せる」
実際には、金属環へ繋いだ留め具へ触れただけだった。
外してはいない。
ウィルは粘糸索を掴み、盾の後ろへ隠した。
地面から索が消えたように見える。
木側は、まだ繋がっている。
「見破られるぞ」
「かもしれない」
ウィルは左腕の盾を下げた。
右手で片手剣を抜く。
盾を使うつもりがないように、身体の横へ置いた。
粘糸索は、盾の陰へ隠れている。
疾風のフォレストウルフが、ウィルを見る。
すぐには動かない。
「エドガー」
「何だ?」
「俺を狙わせる」
「どうやって?」
「傷を見せる」
ウィルは、脇腹を庇うように身体を傾けた。
演技ではない。
爪を受けた場所は、本当に痛い。
呼吸をするたび、傷が引かれる。
狼は、人間の弱った場所を狙う。
前回も、負傷した右脚へ噛みついた。
「来るぞ」
エドガーの声。
疾風のフォレストウルフが走った。
今度は回り込まない。
ウィルの傷ついた右側へ、一直線に向かってくる。
速い。
盾は左。
傷は右。
普通なら、盾が間に合わない。
ウィルは右足を引いた。
剣を前へ出す。
狼は剣を避けるように、さらに低くなる。
狙いは脇腹。
ウィルは剣を振らなかった。
左腕を身体の前へ動かす。
円盾が、狼の口元へ入る。
牙が盾の縁へ当たった。
疾風のフォレストウルフは、一度離れようとした。
だが、ウィルが盾を前へ押した。
逃げる牙へ、盾の縁を食い込ませる。
「噛め」
狼の顎が閉じる。
円盾へ深く牙が入った。
「今だ!」
ウィルは親指で留め具を押した。
革帯が外れる。
盾を持つ手を開く。
疾風のフォレストウルフが、盾を奪うように後ろへ跳んだ。
一歩。
二歩。
盾の陰へ隠していた粘糸索が伸びる。
地面の落ち葉が跳ねた。
索が張る。
表面の革が裂けた。
白い粘糸が現れ、長く伸びる。
一本目の太い木が軋む。
力の向きが変わる。
二本目の木へ衝撃が伝わった。
疾風のフォレストウルフの頭が、強く後ろへ引かれた。
前脚が地面を滑る。
身体が止まった。
「撃つ!」
エドガーの弓が鳴る。
太い矢が飛んだ。
狼の右前脚。
前回、浅い傷を負わせた場所。
矢尻が深く入った。
「ギャウンッ!」
初めて、狼の悲鳴が響いた。
右前脚が地面へ落ちる。
身体が大きく傾く。
「今!」
エドガーの声。
ウィルは走った。
狼は円盾を口から離そうとする。
だが、牙が深く刺さっている。
粘糸索が盾を後ろへ引く。
頭を自由に動かせない。
ウィルは負傷した右前脚へ近づく。
剣を振り上げる。
疾風のフォレストウルフの金色の目が、ウィルを見た。
身体が沈む。
また、倒れるふりをする可能性がある。
ウィルは足を止めなかった。
今度はエドガーが《今》と言った。
狼の動きも、罠によるものだ。
演技ではない。
ウィルは片手剣を振り下ろした。
刃が、矢の刺さった右前脚へ入る。
骨までは断てない。
それでも、深い傷ができた。
狼が身体を振る。
円盾から牙が抜けた。
同時に、粘糸索が切れる。
白い糸が弾けた。
「離れろ!」
ウィルは後ろへ跳んだ。
疾風のフォレストウルフが前脚を振る。
爪が胸元を通り過ぎた。
盾は地面へ落ちている。
粘糸索は切れた。
罠はもう使えない。
だが、狼の右前脚には太い矢が刺さっている。
ウィルの剣で、さらに傷を深くした。
疾風のフォレストウルフが立ち上がる。
右前脚を地面へつけられない。
それでも、三本の脚で身体を支えていた。
「まだ速いぞ」
エドガーが二本目の太い矢をつがえる。
狼が下がる。
脚を引きずる。
身体が大きく揺れる。
そのまま地面へ伏せた。
前回と同じだった。
「近づかない」
ウィルが言う。
「ああ」
二人は待った。
疾風のフォレストウルフは動かない。
荒い呼吸。
右前脚から流れる血。
金色の目だけが、二人を見ている。
エドガーの位置からでは、太い木が射線を塞いでいた。
前回と同じ状況を作ろうとしている。
「誘っている」
エドガーが言う。
「分かっている」
ウィルは動かなかった。
狼も動かない。
時間だけが過ぎる。
最初に焦れた方が、隙を見せる。
ウィルは剣を構えたまま、呼吸を整えた。
脇腹の傷が痛む。
左腕も、盾の衝撃で痺れている。
それでも、近づかない。
疾風のフォレストウルフの耳が動いた。
視線が、ウィルからエドガーへ移る。
「来る」
ウィルが言った。
狼の身体が跳ねた。
負傷した右前脚を使わず、三本の脚で地面を蹴る。
狙いはエドガー。
前回、自分の脚へ矢を刺した相手。
「エドガー!」
「そのまま!」
ウィルは追わなかった。
助けへ走れば、狼の後ろを追うことになる。
エドガーは逃げる。
入口ではなく、大きな岩の方向へ。
狼は三本の脚でも速い。
距離が縮まる。
エドガーは、まだ振り返らない。
「左!」
エドガーの声。
ウィルは左へ動いた。
理由は分からない。
だが、言葉を信じる。
大きな岩の左側。
そこは、狼が通ると予想される場所だった。
エドガーが岩の直前で身体を低くする。
右へ転がった。
疾風のフォレストウルフも、方向を変えようとする。
だが、右前脚が使えない。
鋭く曲がれない。
灰色の身体が岩の横を滑るように通り過ぎた。
ウィルの正面へ来る。
「今!」
エドガーの声。
ウィルは踏み込んだ。
左足を地面へ置く。
腰を落とす。
肩と背中を使い、片手剣を両手で握った。
鉱山で、硬い岩へつるはしを振り下ろしていた動き。
腕だけではない。
脚。
腰。
背中。
七年間、岩を砕くために使わされた力を、一本の剣へ乗せる。
刃が、狼の左肩へ入った。
重い手応え。
疾風のフォレストウルフの身体が地面へ落ちる。
だが、止まらない。
狼が首を捻った。
牙がウィルへ向かう。
剣は肩へ食い込んでいる。
すぐには抜けない。
「伏せろ!」
エドガーの声。
ウィルは剣から手を離し、身体を地面へ落とした。
牙が頭上を通る。
直後。
矢が空気を裂いた。
ウィルの背中の上を通り過ぎる。
太い矢が、狼の左肩へ刺さった。
剣の入っている場所のすぐ近く。
疾風のフォレストウルフが大きくよろめく。
ウィルは振り返らなかった。
矢が自分へ当たるとは考えなかった。
エドガーが外さないと、決めていた。
ウィルは立ち上がる。
片手剣の柄を握る。
狼が前脚を振った。
爪がウィルの左肩へ当たる。
革防具が裂ける。
身体が横へ揺れた。
それでも、剣を離さない。
「下がれ!」
エドガーの声。
ウィルは剣を引き抜き、後ろへ下がった。
疾風のフォレストウルフが、再び立とうとする。
右前脚は動かない。
左肩にも剣と矢の傷。
それでも、金色の目から敵意は消えていない。
狼が口を開く。
低い唸り声。
ウィルの胸が強く鳴った。
鉱山の暗闇。
崩れる岩。
怒鳴る看守。
背後で倒れる誰か。
音と記憶が、一瞬だけ重なる。
身体が止まりかける。
「ウィル!」
名前を呼ばれた。
エドガーの声だった。
今いるのは鉱山ではない。
手にしているのは、つるはしではない。
逃げ場のない囚人でもない。
「聞こえている!」
ウィルは答えた。
声を出す。
自分がここにいることを、エドガーへ伝える。
疾風のフォレストウルフが最後の力で走った。
真っすぐ、ウィルへ向かう。
盾はない。
剣だけ。
狼は負傷している。
だが、弱ったように見えるからと近づいたのではない。
向こうから来る。
ウィルは待った。
三歩。
二歩。
一歩。
「右!」
エドガーの声。
ウィルは右へ半歩動いた。
狼の牙が、左肩の横を通る。
ウィルは剣を突き出した。
狙うのは、開いた口ではない。
首の下。
肩の傷で身体を支えられず、わずかに下がった場所。
切っ先が毛皮を貫く。
深く入る。
疾風のフォレストウルフの身体が、ウィルへぶつかった。
二人分以上の重さ。
ウィルは地面へ倒れた。
狼の身体が上へ重なる。
息ができない。
剣の柄から、手を離さなかった。
金色の目が、すぐ近くにある。
牙も見える。
だが、狼は動かなかった。
灰色の身体が、淡い光へ変わり始める。
重さが消えていく。
ウィルは地面へ仰向けになったまま、光が空へ昇るのを見た。
◇
《疾風のフォレストウルフ》を初めて討伐しました。
初回討伐報酬を獲得しました。
ガチャチケット:1枚
所持ガチャチケット:4→5枚
◇
ユーカリ森林迷宮の討伐記録が完成しました。
迷宮討伐記録:9/10→10/10
コンプリート報酬を獲得しました。
スキル《森林狩人》を習得しました。
◇
表示が、ウィルの視界へ浮かんだ。
迷宮討伐記録。
10/10。
すべて埋まっている。
ウィルは、しばらく起き上がれなかった。
「生きているか?」
エドガーが近づいてくる。
「……ああ」
「返事が遅い」
「狼が重かった」
「光になっただろう」
「まだ重い気がする」
エドガーが手を差し出した。
ウィルは、その手を見た。
左手。
小指の途中から先がない。
以前の迷宮主戦で、仲間を失った手。
ウィルは右手で掴んだ。
エドガーが引く。
ウィルも足へ力を入れ、立ち上がった。
「倒したな」
「ああ」
「今度は、負傷したふりに近づかなかった」
「ああ」
「《伏せろ》も聞いた」
「矢が近かった」
「当てていない」
「背中を通った」
「伏せるのが遅ければ当たっていた」
「先に言え」
「言っただろう。《伏せろ》と」
エドガーが笑った。
大きな声ではない。
だが、初めて見る笑い方だった。
ウィルも、少しだけ息を吐いた。
「盾は?」
「木の近くだ」
《初心者用円盾+1》は、切れた粘糸索と一緒に地面へ落ちていた。
表面には、新しい牙の跡が増えている。
金属環は曲がっているが、抜けてはいない。
「また修理だな」
「職人に怒られる」
「盾は壊れるためにあると言ったんだろう?」
「壊れる前に持ってこいとも言われた」
今回は、壊れる直前かもしれない。
狼が消えた場所には、大きな魔石が残っていた。
灰色の美しい毛皮。
長い牙。
そして、薄い緑色の結晶。
結晶の中では、風のような光が動いている。
「迷宮主の素材だ」
エドガーが魔石を調べる。
「状態も悪くない」
「毛皮は傷ついていない?」
「肩の部分に傷がある。だが、十分売れる」
「分配は半分だ」
「ああ」
まだ、売却額は分からない。
屋根の修理へ、どれほど近づけるのかも分からない。
それでも、普通の魔物とは違う価値があることは見ただけで分かった。
ウィルは、もう一度冒険者証を開いた。
レベル:4。
所持ガチャチケット:5枚。
迷宮討伐記録:10/10。
スキル《森林狩人》。
初めて一つの迷宮を、最後まで攻略した。
七年間。
鉱山では、どれだけ岩を掘っても終わりはなかった。
今日の仕事が終わっても、明日にはまた別の岩が待っていた。
何かを完成させたと思ったことは、一度もない。
だが、今は違う。
十種類の魔物。
三つの階層。
一人では倒せなかった迷宮主。
すべて終わった。
「エドガー」
「何だ?」
「ありがとう」
「最後に剣を刺したのは、お前だ」
「一人では、そこまで届かなかった」
エドガーは少し黙った。
「俺も、一人ではもう迷宮主と戦わなかった」
互いに、一人では届かなかった。
だから、二人で倒した。
「帰るぞ」
エドガーが素材を持ち上げる。
「受付が待っている」
「ああ」
ウィルは牙の跡が増えた円盾を拾った。
背中へエドガーの気配がある。
今度は振り返らなかった。
確認しなくても、そこにいると分かっていた。
二人は並んで、最奥区画をあとにした。




