第22話 糸を結ぶ
翌朝。
ウィルは、牙の跡が残った円盾を抱えて防具修理店へ向かった。
盾の縁には、疾風のフォレストウルフが噛みついた深い傷がある。
表面の革は裂けていたが、内側の木板までは砕けていない。
「また狼か」
職人は盾を見るなり、顔をしかめた。
「ああ」
「今度は、置いて逃げたのか?」
「自分から手放した」
「もっと悪く聞こえるな」
ウィルは、盾を囮にした作戦を説明した。
狼が噛みついた瞬間に留め具を外し、盾を手放したこと。
その間に、エドガーが脚を射たこと。
矢は当たったが、深く刺さらなかったこと。
「それで、次は盾を木へ結ぶ?」
「糸吐き蜘蛛の粘糸を使う」
職人は盾の裏側を調べた。
「ここへ直接結ぶな」
「なぜ?」
「革帯へ結べば、引かれたときに千切れる。持ち手へ結べば、留め具が動かなくなる可能性がある」
職人は盾の縁を指で叩いた。
「木板を貫く金具が必要だ。小さな環をつける」
「重くなる?」
「わずかにな。だが、噛みつかれた衝撃で抜けるよりはいい」
「頼める?」
「盾の補修と合わせて銅貨12枚だ」
ウィルは代金を支払った。
「夕方までにできる」
「今日、粘糸嚢を探しに行く」
「盾なしで?」
「予備がある」
防具屋で購入しておいた予備の円盾だ。
修理中に備え、《アイテムボックス》へ収納していた。
職人は、しばらくウィルの顔を見た。
「予備を持っていたのか」
「ああ」
「少しは冒険者らしくなったな」
「前は違った?」
「壊れるまで一つを使い続ける顔をしていた」
鉱山では、道具が壊れても交換してもらえなかった。
柄へ布を巻き、欠けた先端で岩を掘り続けた。
使えるうちは使う。
使えなくなっても、使う。
その癖が、まだ残っているのかもしれない。
「予備は、壊さないようにする」
「盾は壊れるためにある」
職人は作業台へ盾を置いた。
「お前の腕や頭の代わりにな。傷をつけるなとは言わん。壊れる前に持ってこい」
「分かった」
◇
冒険者協会へ着くと、エドガーは掲示板の前にいた。
糸吐き蜘蛛の討伐依頼を見ている。
「ちょうど依頼が出ている」
「何匹?」
「三匹。第三階層の西側で巣が増えたらしい」
「粘糸嚢が出るまで倒したい」
「三匹倒しても出なかったら?」
「今日は戻る」
エドガーが振り返る。
「十匹倒すまで帰らないとは言わないんだな」
「目的は討伐数ではない」
「成長したな」
「昨日も戻った」
「言われてからな」
受付で依頼を受ける。
女性は、ウィルが持っている盾を見た。
「いつもの盾ではありませんね」
「修理中だ」
「予備ですか?」
「ああ」
「盾にも予備があったんですね」
「俺が何も考えていないように言うな」
「そこまでは言っていません」
「顔に出ている」
女性は、少しだけ笑った。
「糸吐き蜘蛛の粘糸嚢が必要なんですよね」
「ああ」
「討伐の際は、腹部を大きく傷つけないでください。粘糸嚢が残らなくなります」
「頭を狙う」
「蜘蛛の頭部は小さく、動きも速いです」
「脚を止めてから斬る」
エドガーが答えた。
「俺が動きを制限する。ウィルが止めを刺す」
「糸に捕まった場合は?」
「無理に引かない」
前にウィルが一人で戦ったとき、盾へ糸を受けた。
力任せに引けば、蜘蛛のいる方へ身体ごと引き寄せられる。
「糸が木へ伸びているなら、根元を探す」
ウィルが言う。
「引く方向を変えれば、蜘蛛の方を動かせる場合がある」
「以前、それで倒したんですね」
「ああ」
「今回は一人ではありません」
女性は二人を見る。
「自分だけで解決しようとせず、声をかけてください」
「分かっている」
「昨日も言われたな」
エドガーが横から言う。
「今日は言われる前に声を出す」
「覚えておく」
◇
第三階層へ到着するまで、二人は魔物との戦闘を避けた。
目的は粘糸嚢。
途中で魔物を倒し、体力を消耗する必要はない。
薄暗い森を進む。
簡易魔石灯の光量は、前回と同じように最低まで落としていた。
ウィルは《気配察知・小》を使う。
敵意はない。
だが、頭上の枝や木々の間には、白い糸が増えていた。
「新しい」
エドガーが一本の糸を見た。
「分かる?」
「古い糸は、埃と葉がついて灰色になる。これはまだ白い」
糸は、二本の木の間へ斜めに張られている。
胸の高さ。
暗い場所で走れば、気づかず引っかかる位置だった。
「巣へ近づいている」
エドガーは矢を一本取り出した。
矢尻ではなく、木の柄を糸へ触れさせる。
粘糸が伸び、矢へ貼りついた。
「強いな」
「加工できる?」
「俺には無理だ」
「受付は、罠職人がいると言っていた」
「粘りを落とし、乾かして編み直す。時間がかかる」
「強度は残る?」
「腕のいい職人ならな」
エドガーは糸へついた矢を地面へ置いた。
「ここから先は、足元だけを見るな。顔の高さにもある」
「ああ」
二人は、張られた糸を避けながら進んだ。
数歩進んだところで、ウィルは敵意を感じた。
正面。
一つ。
だが、相手の姿は見えない。
「前、一」
「距離は?」
「近い。十歩以内」
エドガーが頭上を見る。
「上ではない」
「地面?」
ウィルは足元へ視線を落とした。
落ち葉が、不自然に盛り上がっている。
その中央から、細い糸が木の陰へ伸びていた。
「巣穴か」
「いや」
エドガーが小さな石を拾い、落ち葉の手前へ投げる。
石が地面へ落ちる。
何も起きない。
次に、細い枝を投げた。
枝が落ち葉の上へ乗った瞬間。
地面が跳ねた。
落ち葉の下から、黒い蜘蛛が飛び出す。
糸吐き蜘蛛。
八本の脚を広げ、枝へ噛みついた。
「獲物を待っていたのか」
「糸へ触れた振動で飛び出す」
糸吐き蜘蛛が、枝ではないと気づく。
赤い目が、ウィルたちを見た。
「来る」
ウィルは予備の円盾を構える。
蜘蛛の腹部が持ち上がった。
「糸!」
白い塊が飛ぶ。
ウィルは円盾を前へ出した。
粘糸が盾へ広がる。
視界の半分が白く塞がれた。
糸吐き蜘蛛が、すぐに糸を引く。
左腕へ強い力がかかった。
予備の盾には、留め具がない。
簡単には手放せない。
「エドガー!」
「右へ倒せ!」
ウィルは盾を引き戻そうとせず、右側へ向けて倒した。
糸の向きが変わる。
蜘蛛が引いている糸が、近くの木の幹へ触れた。
粘糸が木へ貼りつく。
蜘蛛がさらに引く。
自分の糸が木へ絡み、動きが止まった。
「脚を止める!」
エドガーが矢を放つ。
矢は蜘蛛の前脚へ刺さらず、地面へ当たった。
だが、狙いは蜘蛛ではなかった。
糸が地面と矢の間へ挟まれる。
引く方向が、もう一つ増えた。
糸吐き蜘蛛の身体が傾く。
右側の脚が浮いた。
「今だ!」
ウィルは盾を持ったまま前へ出る。
粘糸が張り、左腕が引かれる。
力で逆らわない。
引かれる方向へ一歩進み、蜘蛛との距離を詰める。
片手剣を突き出した。
切っ先が、蜘蛛の頭部へ入る。
黒い身体が大きく震えた。
八本の脚から力が抜ける。
糸吐き蜘蛛が光へ変わった。
糸吐き蜘蛛討伐数:2体。
次回チケット獲得まで、あと8体。
残ったものは、小さな魔石だけだった。
「粘糸嚢はないな」
エドガーが言う。
「ああ」
ウィルは円盾へ貼りついた糸を見た。
剥がそうとしても、手へつく。
「そのまま収納できるか?」
「やってみる」
ウィルが盾へ触れる。
《初心者用円盾》を収納しました。
粘糸も一緒に《アイテムボックス》へ入った。
「便利だな」
「中で他の物へついていないといいが」
「分けて収納されるんじゃないのか?」
「分からない」
取り出すのが少し怖かった。
◇
二匹目の糸吐き蜘蛛は、さらに奥にいた。
周囲には、何本もの糸が張られている。
木から木。
枝から地面。
胸の高さだけではない。
足首ほどの位置にも、細い糸が伸びていた。
「この先にいる」
エドガーが囁く。
「気配は?」
「一つ」
「見えるか?」
「見えない」
エドガーは周囲の糸を目で追った。
何本もの糸が、一本の太い木へ集まっている。
「木の裏だ」
「回る?」
「この糸を越えれば気づかれる」
正面から進めば、糸へ触れる。
遠回りしようとしても、左右へも巣が広がっている。
「誘い出す」
エドガーが、小さな木片を取り出した。
だが、ウィルは止めた。
「待ってくれ」
「何だ?」
「糸が多すぎる」
「だから誘う」
「蜘蛛が出てきたら、俺たちも動けない」
足元へ何本もの糸が張られている。
戦いが始まれば、避けるために下がっただけで足を取られるかもしれない。
「先に道を作る」
「切るのか?」
「全部切れば気づかれる」
ウィルは糸の張り方を見る。
鉱山で岩を吊るすために使われていた縄。
一本を切れば、重さが別の縄へ移る。
張りが変われば、支えていたものが崩れることもある。
「この糸と、この糸」
ウィルは足元の二本を指した。
「同じ木へ繋がっている」
「ああ」
「片方を緩めれば、もう片方の張りも変わる」
「どうやって緩める?」
「木の根元に巻かれている部分を外す」
ウィルは糸へ触れないよう、木の根元へ近づいた。
白い糸が、太い根へ何重にも巻きついている。
直接手で触れば取れなくなる。
片手剣の鞘を使い、糸の下へ差し込む。
少し持ち上げる。
粘糸が伸びた。
「切るぞ」
「待て」
エドガーが弓を構える。
「糸が動けば、蜘蛛が出る」
「どこを狙う?」
「正面の木の左側。頭が見えたら撃つ」
「俺は?」
「右へ回れ。腹は斬るな」
「分かった」
ウィルは剣を抜いた。
糸を支える一本へ刃を当てる。
一度では切れない。
粘りがあり、刃へまとわりつく。
押し切るように力を加えた。
糸が切れた。
張られていた何本もの糸が、一斉に緩む。
森の奥で、葉が揺れた。
「来る!」
太い木の裏から、糸吐き蜘蛛が飛び出す。
エドガーの矢が放たれた。
矢は蜘蛛の頭部を外れ、左前脚へ刺さる。
蜘蛛の身体が傾いた。
だが、止まらない。
腹部がウィルへ向く。
「散れ!」
ウィルは右へ走る。
エドガーは左へ。
糸の塊が、二人の間を通り過ぎた。
後ろの木へ貼りつく。
糸吐き蜘蛛が、次にエドガーを見る。
負傷した前脚を引きずりながら、八本の脚で地面を走る。
「エドガー!」
「自分の位置を見ろ!」
ウィルの前には、緩んだ粘糸が垂れている。
このまま進めば、脚へ絡む。
ウィルは踏み込まなかった。
「左から回る!」
「分かった!」
声を出し、自分の動きを伝える。
エドガーは蜘蛛から離れながら、二本目の矢をつがえた。
だが、蜘蛛との距離が近すぎる。
弓を十分に引けない。
「ウィル、来い!」
呼ばれた。
今度は迷わない。
ウィルは、糸のない左側から蜘蛛へ近づく。
糸吐き蜘蛛が気づき、身体をウィルへ向けた。
「撃つ!」
エドガーの声。
ウィルは前へ出るのを止め、身体を低くした。
矢が頭上を通る。
蜘蛛の右側の脚へ刺さった。
左右の前脚を傷つけられ、糸吐き蜘蛛の身体が地面へ落ちる。
「今!」
ウィルは踏み込んだ。
蜘蛛の腹部ではない。
赤い目の下。
頭部と胴体の境目へ片手剣を振り下ろす。
刃が深く入った。
糸吐き蜘蛛討伐数:3体。
次回チケット獲得まで、あと7体。
黒い身体が光へ変わる。
地面に、小さな魔石が残る。
その横に、乳白色の袋が落ちた。
「出た」
ウィルは声を上げた。
粘糸嚢。
以前に売却したものと同じ素材だった。
拳より少し大きい。
表面は柔らかく、中には強い粘りを持つ液体と糸が詰まっている。
「触るな」
エドガーが止める。
「破れたら終わりだ」
ウィルは粘糸嚢へ直接触れず、《アイテムボックス》へ収納した。
粘糸嚢を収納しました。
「依頼は三匹だったな」
「あと一匹」
「どうする?」
エドガーはウィルへ尋ねた。
目的の素材は手に入った。
討伐依頼を完了するには、もう一匹必要だ。
身体にはまだ余裕がある。
矢も残っている。
「探す」
ウィルは答えた。
「ただし、次の巣が大きすぎたら戻る」
「それでいい」
◇
三匹目は、単独で木の枝にいた。
巣も小さい。
周囲へ張られた糸も少なかった。
エドガーの矢で枝から落とし、ウィルが地面で動きを止める。
二人は、これまでより短い時間で倒した。
糸吐き蜘蛛討伐数:4体。
次回チケット獲得まで、あと6体。
粘糸嚢は出なかった。
だが、依頼に必要な三匹の討伐は終わった。
「帰るぞ」
エドガーが言う。
「ああ」
ウィルは、すぐに頷いた。
目標は達成している。
これ以上、戦う理由はなかった。
◇
冒険者協会へ戻り、討伐依頼を報告した。
三匹分の魔石と討伐記録を確認した受付の女性が、報酬を机へ置く。
「討伐報酬は、銀貨1枚と銅貨20枚です」
二人で分ければ、一人あたり銅貨60枚。
追加で得た一匹分の魔石も売却し、ウィルの取り分は合計銅貨66枚になった。
「粘糸嚢も出た」
ウィルは《アイテムボックス》から、乳白色の袋を取り出した。
受付の女性は、破れていないことを確認する。
「状態は良いですね。腹部を傷つけずに倒せたんですか?」
「エドガーが脚を止めた」
「ウィルが頭を斬った」
「連携できたんですね」
女性は地図を取り出した。
「罠職人の工房は、協会から北へ二つ目の通りです。看板に、輪へ通した縄が描かれています」
「今日、頼める?」
「工房が開いていれば。ただし、加工には一日か二日かかると思います」
「分かった」
エドガーも一緒に行こうとする。
「罠の形は、二人で決めた方がいい」
ウィルは頷いた。
◇
罠職人の工房は、武器屋や防具店よりも小さかった。
扉の上には、縄で作られた輪の看板がある。
中へ入ると、壁一面に道具が並んでいた。
獣を捕らえる鉄製の罠。
細い縄。
鈴。
木製の杭。
革で作られた袋。
奥の作業台には、灰色の髪を短く切った女性が座っている。
年齢は、エドガーより少し上に見えた。
左目へ、小さな単眼鏡をつけている。
「何の罠だい」
挨拶より先に、女性が尋ねた。
「疾風のフォレストウルフを止めたい」
ウィルが答える。
女性の手が止まった。
「殺す罠か?」
「違う。一呼吸だけ動きを止めたい」
「一呼吸?」
「弓を当てる時間があればいい」
ウィルは作戦を説明した。
円盾へ狼を噛みつかせる。
盾を手放す。
盾と木を粘糸で繋ぎ、狼が離れようとした瞬間に糸を張る。
エドガーが脚を射る。
女性は最後まで聞き、粘糸嚢へ単眼鏡を近づけた。
「名前は?」
「ウィル・クロード」
「エドガー・リースだ」
「私はマルタだ」
マルタは粘糸嚢を持ち上げた。
「この大きさなら、八歩分ほどの粘糸索が作れる」
「八歩?」
「大人の足で八歩だ。引っ張れば少し伸びる」
「強度は?」
「人間二人を吊れる。ただし、疾風狼が全力で引けば切れる」
「切れるまで、どのくらい止められる?」
「使い方次第だ」
マルタは作業台の下から、一本の縄を出した。
「盾と木を、真っすぐ繋ぐつもりか?」
「ああ」
「それでは、衝撃が全部一か所へかかる」
縄の片方を机の脚へ結び、もう片方を引く。
縄が張る。
「狼が引けば、盾の金具か糸が切れる」
「どうすれば?」
「木へ一周巻いてから、別の木へ回す」
力の向きを、一度変える。
鉱山で大きな岩を動かすときにも使った方法だった。
「二本の木を使う?」
「そうだ。最初の木で衝撃を受け、二本目で止める」
「最奥区画に、ちょうどいい木がある」
ウィルは地図を思い出した。
入口の左側に太い木。
その奥に、少し細い木が立っている。
「ただし、あらかじめ張れば狼に見つかる」
エドガーが言う。
「地面へ這わせる」
マルタは答えた。
「粘糸索へ土と葉がつかないよう、外側へ薄い革を巻く。引かれた瞬間に革が裂け、中の粘糸が伸びる」
「そんな加工ができるのか?」
「そのための罠職人だ」
マルタは紙へ簡単な図を描いた。
盾。
一本目の木。
二本目の木。
粘糸索は地面へ置き、木の根元を通す。
狼が盾を噛んで引けば、最初は革で覆われた索が地面を滑る。
やがて余裕がなくなる。
力がかかる。
革が裂け、中の粘糸が伸びながら衝撃を受ける。
「完全には止まらない」
マルタが言う。
「だが、狼の頭は引き戻される。足も一度止まるだろう」
「それで十分だ」
「盾へつける金具は?」
「今、職人へ頼んでいる」
「環の大きさを見たい」
「夕方に完成する」
「持ってきな。合う留め具をつける」
「費用は?」
「粘糸嚢を持ち込むなら、銅貨80枚」
ウィルの今日の取り分より高い。
だが、払えない額ではなかった。
「頼む」
「先に半分だ」
ウィルは銅貨40枚を支払った。
「明日の夕方に来な」
「明後日には使える?」
「使い方を間違えなければな」
マルタはウィルの手を見た。
「縄を扱ったことは?」
「鉱山で」
「どんな結び方を使った?」
ウィルは作業台に置かれた縄を手に取った。
輪を作る。
端を通す。
引かれれば締まり、反対側を引けばすぐに解ける結び方。
岩を吊ったり、木材をまとめたりするときに使っていた。
「悪くない」
マルタが言う。
「盾側は、その結び方を使う。戦いが終わったあと、切らずに外せる」
「糸が切れなければ?」
「切れる前提で考えな。罠は一度働けば十分だ」
盾も。
糸も。
矢も。
一度の機会を作るために使う。
あとは、ウィルの剣が届くかどうかだった。
◇
工房を出たあと、エドガーはしばらく無言で歩いた。
「何か問題がある?」
ウィルが尋ねる。
「罠は使えると思う」
「では、何を考えている?」
「俺が外した場合だ」
粘糸索で狼が止まる時間は、一呼吸。
そこで矢を外せば、同じ機会は来ない。
「外したら撤退する」
「簡単に言うな」
「最初から、そう決めている」
「お前は盾を失う。罠も切れる」
「それでも戻る」
「次の粘糸嚢を探すところからやり直しだ」
「生きていれば、また探せる」
エドガーが足を止めた。
「昨日、俺が言った言葉だな」
「ああ」
死ななければ、もう一度挑める。
「俺は、矢を外すかもしれない」
「知っている」
「前の戦いでも浅かった」
「あれは、狼が盾を早く離したからだ」
「言い訳はしない」
「なら、俺も剣を外すかもしれない」
ウィルはエドガーを見る。
「二人とも失敗する可能性がある。それでも、できる準備をするしかない」
「怖くないのか?」
「怖い」
答えはすぐに出た。
「最奥区画へ入るだけで、喉が固くなる。狼の唸り声を聞くと、鉱山の音を思い出すこともある」
「それでも行く?」
「ああ」
「なぜ?」
「倒したいからだ」
迷宮を完全に攻略したい。
報酬が欲しい。
ガチャチケットも欲しい。
迷宮主の素材を売れば、屋根の修理も進む。
だが、それだけではない。
「あの狼を倒せば、次の迷宮へ行ける」
「急いでいるのか?」
「止まりたくない」
七年間、同じ場所で岩を掘り続けた。
朝が来ても、景色は変わらなかった。
夜になっても、何も終わらなかった。
今は、自分で進む場所を選べる。
「ただし、死ぬほど急ぐつもりはない」
「それならいい」
エドガーは再び歩き始めた。
「一つ聞いていいか?」
「何だ?」
「迷宮主を倒したあとも、俺と組むつもりはある?」
エドガーはすぐには答えなかった。
「まだ決めていない」
「そうか」
「お前は?」
「分からない」
「聞いておいて、それか」
「最初の迷宮も終わっていない」
その先のことは、まだ考えられない。
エドガーを完全に信用したわけでもない。
エドガーも、ウィルの無実を信じたとは言っていない。
それでも、背中を預けて戦った。
次も一緒に戦えるかどうかは、迷宮主を倒したあとに考えればいい。
「一つずつだな」
エドガーが言った。
「ああ」
◇
夕方。
ウィルは防具修理店で、円盾を受け取った。
牙の跡は残っている。
完全に消すのではなく、裂けた革だけが補修されていた。
盾の下側には、小さな金属の環が取りつけられている。
表から見ると、ほとんど目立たない。
「引く力は、盾全体へ分散するようにしてある」
職人が説明する。
「ただし、絶対に抜けないとは言わん」
「分かっている」
「盾を手放す留め具と、糸をつける環は離してある。糸が絡んでも、革帯は外せるはずだ」
ウィルは留め具を押した。
革帯が外れる。
金属環には触れていない。
「問題ない」
「次は、噛み砕かれる前に戻ってこい」
「ああ」
盾を持ち、マルタの工房へ向かう。
金属環を見たマルタは、細い革紐で大きさを測った。
「これなら合う」
「明日の夕方?」
「ああ。それまで盾は置いていけ」
また、盾のない一日になる。
だが、明日は迷宮へ入らない。
身体を休める。
エドガーとは、最奥区画の地形をもう一度確認する約束をしていた。
「明日、試しに引ける?」
「完成したあと、工房の裏で重りを使う」
「狼と同じ重さは?」
「そんな重りがあるわけないだろう」
マルタは呆れたように言った。
「人間三人分で試す。それで切れるなら、狼には使えない」
◇
家へ戻ると、扉の前に小さな籠が置かれていた。
中には白いパンと、布に包まれた煮込み料理。
籠の底に、紙が一枚入っている。
『今日は食堂へ来なかったので置いておきます。鍋に移して温めてください。焦がさないでください。アレナ』
最後に、小さな犬の絵が描かれていた。
なぜ犬なのかは分からない。
だが、アレナが描いたものだとすぐに分かった。
ウィルは籠を家へ運び、料理を鍋へ移した。
火を弱くする。
焦がさないよう、木の匙でゆっくり混ぜる。
豆と根菜。
小さく切った肉。
湯気と一緒に、懐かしい匂いが広がる。
料理が温まるまでの間、食卓へ紙を広げた。
最奥区画の地図。
入口。
左側の太い木。
その奥の細い木。
盾へ繋いだ粘糸索を、二本の木へ通す。
狼が盾を噛む。
ウィルが手放す。
索が張る。
狼の動きが止まる。
エドガーが矢を撃つ。
その次。
ウィルは地図へ線を引いた。
負傷した脚へ、正面から近づかない。
狼は傷ついたふりをする。
矢が刺さっても、すぐには攻撃しない。
エドガーの声を待つ。
《今》と言われたら進む。
《退け》と言われたら戻る。
ウィルは、地図の端へ書いた。
『罠が成功しても、勝ったと思わない』
罠は勝利ではない。
剣が届く時間を作るだけだ。
鍋から、小さな音がした。
ウィルは慌てて火を止める。
底へ木の匙を入れる。
焦げてはいない。
「危なかった」
料理も、作戦も。
考えすぎて、目の前のものを忘れてはいけない。
ウィルは煮込み料理を器へ入れた。
白いパンを添える。
一人で食卓へ座る。
以前は、静かな家が怖かった。
誰もいないことを、何度も思い知らされるからだ。
今は違う。
食卓には、アレナが置いていった料理がある。
壁には、職人が直した道具がある。
明日は、エドガーと作戦を確かめる。
家の外に、自分を待つ人が少しずつ増えていた。
ウィルは煮込み料理を一口食べた。
味は少し濃い。
昨日、自分で作ったスープよりも、ずっとおいしかった。
◇
翌日の夕方。
マルタの工房の裏庭に、完成した粘糸索が置かれていた。
見た目は、太い革紐に近い。
長さは八歩ほど。
表面へ薄い革が巻かれ、その中に加工した粘糸が編み込まれている。
片側には、盾の金属環へ繋ぐ留め具。
反対側には、木へ巻きつけるための輪がついていた。
「試すぞ」
マルタが、索の片側を太い柱へ固定した。
反対側には、大きな木箱が三つ繋がれている。
中には石が詰まっていた。
「人間三人でも、これを一気に動かすのは難しい」
エドガーが索の状態を確認する。
「俺が引く」
ウィルは木箱へ繋がれた縄を持った。
「一人では動かないだろう」
「鉱山で、もっと重いものを動かした」
「腰を壊すなよ」
ウィルは足を開いた。
腕だけでは引かない。
腰を落とし、背中と脚を使う。
ゆっくり力をかける。
木箱が、わずかに動いた。
「もっと急にだ」
マルタが言う。
「狼は、ゆっくり引かない」
ウィルは一度力を抜いた。
次に、地面を強く踏んで縄を引く。
木箱が一気に動く。
粘糸索が張った。
表面の革が裂ける。
中から白い糸が現れ、長く伸びた。
柱が軋む。
だが、索は切れない。
木箱は一歩分動いたところで止まった。
「一呼吸以上ある」
エドガーが言う。
「ああ」
弓を構え、矢を放つには十分な時間だった。
マルタが索を確認する。
「今ので一度使った。これは練習用だ」
「もう一本ある?」
「本番用は工房の中だ」
粘糸嚢一つから、二本作れたらしい。
「ただし、本番用も一度しか使えない」
「十分だ」
ウィルは、白い糸が伸びた練習用の索を見た。
一本の糸だけでは、疾風のフォレストウルフを倒せない。
盾が必要だ。
弓が必要だ。
剣が必要だ。
地形を選ぶ必要もある。
そして、それらを使う二人が、同じ瞬間に動かなければならない。
一人では作れない罠だった。
「明日、行くか?」
エドガーが尋ねた。
ウィルは、完成した本番用の粘糸索を受け取った。
表面は硬い革で覆われている。
その中に、二人で倒した蜘蛛の糸がある。
「行く」
「一度でも配置に失敗したら?」
「戻る」
「索が途中で見つかったら?」
「戻る」
「矢が外れたら?」
「戻る」
エドガーが頷く。
「俺が《今》と言うまで?」
「剣を振らない」
「《退け》と言ったら?」
「迷わず戻る」
ウィルは、粘糸索を《アイテムボックス》へ収納した。
迷宮討伐記録は、まだ9/10。
所持ガチャチケットも4枚のまま。
レベルも4から変わっていない。
それでも、次の一戦へ必要なものは揃った。
盾へ残った狼の牙痕。
エドガーの矢。
二人で手に入れた蜘蛛の糸。
鉱山で覚えた、力の向きを変える方法。
どれか一つだけでは足りない。
ばらばらだったものを、一本の糸で結ぶ。
ウィルは、明日の最奥区画を思い浮かべた。
次に盾を手放すとき。
その盾は、ただ地面へ落ちるだけではない。
狼の動きを止める罠になる。
そして、その一呼吸を。
今度こそ、二人で勝利へ繋げる。




