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第21話 退け



 翌朝。


 ウィルは家の前で、何度も短い踏み込みを繰り返していた。


 右足を前へ出す。


 剣を振る。


 すぐに盾を戻す。


 昨日、レベルが3から4へ上がった。


 筋力は18から19。


 敏捷は10から11になっている。


 数字の変化は小さい。


 だが、身体を動かすと違いが分かった。


 以前と同じつもりで足を出すと、半歩ほど前へ進みすぎる。


 剣を振ったあとの戻りも、わずかに速くなっていた。


「もう一度」


 ウィルは地面へ線を引いた。


 線の手前から踏み込み、剣を振る。


 今度は、足が線を越えなかった。


 力を増やすのではない。


 増えた力を、自分の身体へ馴染ませる。


 鉱山で新しいつるはしを渡されたときも、最初から全力では振らなかった。


 柄の長さ。


 先端の重さ。


 手へ返ってくる衝撃。


 道具が変われば、同じ動きでも結果は変わる。


 レベルが上がった身体も、同じだった。


 ウィルは剣を鞘へ戻す。


 次に円盾の留め具へ親指を置いた。


 一度押す。


 前腕を固定する革帯が外れる。


 手を開く。


 盾が地面へ落ちた。


 すぐに拾い、革帯を戻す。


 固定。


 解除。


 手放す。


 迷わず動けるまで、何度も繰り返した。


 疾風のフォレストウルフが盾へ噛みついた場合、腕を捻られる前に手放す。


 狼が盾へ気を取られている間に、エドガーが脚を射る。


 矢が刺さった場所を、ウィルが剣で狙う。


 それが、今日の基本となる作戦だった。


 ただし、狼は人間の動きを見る。


 一度目から予定どおりに動くとは限らない。


「退け」


 ウィルは短い合図を口にした。


 どちらか一人が、その言葉を発したら撤退する。


 相手が傷ついていても。


 勝てそうに見えても。


 理由を聞かず、入口へ戻る。


 昨日、エドガーと約束した。


 ウィルは装備を確認する。


 《初心者用片手剣》


 《初心者用円盾+1》


 《初心者用革防具》


 《衝撃緩和の腕輪》


 小治癒ポーションは1本。


 体力回復薬も1本。


 低級解毒薬が1本。


 投擲用石弾は、残り5個。


 最後に、胸元の布袋へ触れた。


「行ってくる」


 扉を閉める。


 今日は一人ではなかった。


     ◇


 冒険者協会へ入ると、エドガーは受付の前に立っていた。


 古い弓を背負い、矢筒の中身を一本ずつ確認している。


「身体は?」


 エドガーが尋ねた。


「問題ない」


「昨日と感覚は変わったか?」


「少し速く動ける。踏み込みが深くなった」


「調整したか?」


「ああ」


「なら、第一階層で最後に確認する」


 受付の女性が、二人の冒険者証を受け取った。


「本当に今日、最奥区画へ行くんですね」


「途中の練習で失敗すれば行かない」


 エドガーが答える。


「ウィルさんも、それでいいですか?」


「ああ」


「あと一体で迷宮を攻略できるとしても?」


「戻る」


「報酬が目の前でも?」


「戻る」


 女性は何度も聞いた。


 だが、今日は嫌だとは思わなかった。


 何度確認してもらってもいい。


 最奥区画へ入れば、確認する時間はなくなる。


「作戦を聞いても?」


 受付の女性が尋ねた。


「俺が前へ出る」


 ウィルが答える。


「エドガーは後ろから脚を狙う。狼が盾へ噛みついたら、俺は盾を手放す」


「盾を囮にするんですね」


「ああ」


「矢が当たった場合は?」


「負傷した脚を、ウィルが斬る」


 エドガーが続ける。


「矢が外れたら、一度距離を取る。無理に追わない」


「狼がエドガーさんを先に狙った場合は?」


「俺は入口側へ下がる。ウィルは狼と俺の間へ入る」


「背後から攻撃されたら?」


「名前を呼ぶ」


 昨日の森ゴブリン戦で決めたことだった。


 見えない仲間を確認するために振り返らない。


 声を聞く。


「撤退の合図は?」


「退け」


 二人が同時に答えた。


 受付の女性は、わずかに表情を緩めた。


「分かりました」


 臨時パーティーの登録を終える。


「必ず、二人で帰ってきてください」


「そのつもりだ」


 エドガーが答える。


 ウィルも頷いた。


「行ってきます」


     ◇


 第一階層へ入ってから、しばらくして角ウサギを一体見つけた。


「前、一」


 ウィルが告げる。


 エドガーは周囲を確認した。


「根が多い。正面で受けるな。右へ流せ」


「分かった」


 二人は短い言葉だけで動く。


 角ウサギがウィルへ気づいた。


 身体を沈める。


 突進。


「右」


 エドガーの声。


 ウィルは円盾をわずかに傾けた。


 角が表面を滑る。


 角ウサギの身体が右側へ流れた。


「今」


 ウィルが剣を振る。


 刃が首元へ入り、一撃で倒した。


 角ウサギ討伐数:16体。


 次回チケット獲得まで、あと4体。


「前へ出すぎていない」


 エドガーが言った。


「朝、練習した」


「盾の戻りも昨日より速い」


「レベルが上がった」


「数字だけではないようだな」


 エドガーは魔石と角を確認した。


「もう一体探すか?」


「今の動きで問題ないなら、先へ行きたい」


「俺も同じだ」


 二人は素材を収納し、第二階層へ向かった。


     ◇


 《森林歩行・極》のおかげで、ウィルはほとんど音を立てずに森を進めた。


 エドガーは地面の足跡や、折れた枝を確認する。


 二人で見ているものは違う。


 ウィルは敵意。


 エドガーは痕跡。


 第二階層では、大針蜂の羽音を遠くに聞いた。


「左へ迂回」


 エドガーが短く言う。


 ウィルは質問せず、左へ進んだ。


 しばらくすると、頭上を三匹の大針蜂が通り過ぎる。


 正面から進んでいれば、戦闘になっていた。


「どうして三匹だと分かった?」


 蜂が離れてから、ウィルが尋ねる。


「羽音が重なっていた」


「俺には一つに聞こえた」


「慣れだ」


「教えられる?」


「一匹の羽音は、一定だ。複数なら、わずかに音がずれる」


 エドガーは歩きながら答えた。


「お前の《気配察知》は、敵意がなければ反応しないことがある」


「ああ」


「俺の耳も、風や水音があれば間違える。だから二人で見る」


 どちらか一方の能力だけでは足りない。


 互いに不足する部分を補う。


 それが、パーティーなのだろう。


 第三階層へ入る。


 ウィルは簡易魔石灯を腰へ下げた。


「明るすぎる」


 エドガーが言う。


「消す?」


「一番弱くできるか?」


 ウィルは魔石灯へ意識を向けた。


 光量を低下できます。


 表示に従って操作する。


 白い光が弱くなった。


 足元だけを、淡く照らす程度になる。


「これなら、遠くから見つかりにくい」


 第三階層では、魔物と戦わなかった。


 毒牙トカゲの這った跡。


 糸吐き蜘蛛の古い巣。


 鎧甲虫が削った倒木。


 これまでウィルが一人で戦ってきた場所を、二人で通り過ぎる。


 エドガーは、鎧甲虫と戦った場所で足を止めた。


 泥の中に、木材を差し込んだ跡が残っている。


「本当にここで、甲虫をひっくり返したのか」


「ああ」


「岩を支点にした?」


「そうだ」


「一人で考えたのか?」


「鉱山では、重い岩を同じように動かした」


 エドガーは地面に残った跡を見た。


「迷宮主にも同じことをしようとは思うなよ」


「狼の下へ木材を差し込むつもりはない」


「それならいい」


 冗談だったのかもしれない。


 だが、エドガーの顔は真剣だった。


     ◇


 最奥区画へ続く石の通路へ到着する。


 二人は入口の手前で装備を点検した。


 エドガーが矢筒から、三本の矢を抜く。


 通常の矢より、矢尻が少し太い。


「迷宮主用?」


「ああ。脚へ刺さったあと、抜けにくい形になっている」


「毒は?」


「使っていない」


「なぜ?」


「毒が効くまで走り回られたら、こちらが先に疲れる。それに、肉や毛皮の価値も下がる」


 素材を傷めないためだけではない。


 確実性の問題だった。


「一本目は、狼の動きを見る」


 エドガーが説明する。


「無理に撃たない。お前が盾で攻撃を止めたあと、着地を狙う」


「盾を噛んだら?」


「留め具を外せ。盾を手放したら、すぐに左へ退け」


「なぜ左?」


「俺は入口から見て右側に立つ。お前が左へ動けば射線が空く」


 ウィルは最奥区画の簡単な地図を思い出す。


「狼がエドガーへ向かったら?」


「俺は左へ走る」


「俺が間へ入る」


「正面から追うな。斜めに入れ」


 エドガーは白い布を取り出した。


 入口近くの木の根へ結ぶ。


 前回、ウィルが使ったものと同じ目印だ。


「最後に確認する」


 エドガーがウィルを見る。


「どちらかが『退け』と言ったら?」


「入口へ戻る」


「狼が脚を引きずっていても?」


「戻る」


「あと一撃に見えても?」


「戻る」


「俺が間違っていると思っても?」


「戻ったあとで聞く」


 エドガーは頷いた。


「行くぞ」


     ◇


 二人は石の通路を進んだ。


 森の広場へ出る。


 頭上には、白く霞んだ空のような光。


 太い木々。


 大きな岩。


 低い草。


 前回と変わらない場所だった。


 ウィルが前。


 エドガーは、入口から見て右側へ移動する。


 二人の距離は、十歩ほど。


 遠すぎれば声が届かない。


 近すぎれば、一度に襲われる。


 ウィルは円盾を構えた。


 片手剣は、まだ抜かない。


 森から音が消える。


 風が止まる。


 空気が重くなった。


「来る」


 ウィルが短く告げた。


 左側の茂みが揺れる。


 灰色の巨体が現れた。


 疾風のフォレストウルフ。


 金色の目が、最初にウィルを見る。


 次に、エドガーへ向いた。


「グルルル……」


 低い唸り声。


 狼は、すぐには動かなかった。


 二人の位置を確認している。


 ウィルは盾を中央へ固定した。


 狼の動きだけを見る。


 エドガーを振り返らない。


 視界の端で、弓を構える音が聞こえた。


 疾風のフォレストウルフが、ゆっくり歩き始める。


 ウィルの左側。


 エドガーから遠ざかる方向。


「追わない」


 エドガーの声。


 ウィルはその場で身体の向きだけを変えた。


 狼が速くなる。


 灰色の身体が、広場を円形に走る。


 前回よりも速く感じた。


 レベルが上がり、敏捷も増えている。


 それでも、完全には目で追えない。


 《気配察知・小》へ意識を向ける。


 強い敵意が動く。


 左。


 前。


 右。


 突然、狼が進路を変えた。


 エドガーへ向かう。


「エドガー!」


 ウィルが名前を呼ぶ。


「そのまま!」


 エドガーは逃げなかった。


 弓を構えたまま、狼を見る。


 ウィルは狼の後ろを追わない。


 斜めに走る。


 狼とエドガーの間へ入るための最短距離。


 《森林歩行・極》が足元を支える。


 狼がエドガーへ届く直前、ウィルは円盾を横から差し込んだ。


 牙が盾へ当たる。


 強い衝撃。


 左腕が押される。


 狼は盾へ噛みつかなかった。


 身体を捻り、ウィルの横を通り過ぎる。


「右!」


 エドガーの声。


 ウィルは右へ向く。


 灰色の身体が、低い姿勢で戻ってきていた。


 狙いは脚。


 ウィルは盾を下げる。


 狼の牙が、円盾の表面へ当たる。


 今度は噛みついた。


「今だ!」


 ウィルは親指で留め具を押した。


 革帯が外れる。


 手を開く。


 円盾が狼の牙へ挟まれたまま、ウィルの腕から離れた。


 ウィルは左へ跳ぶ。


 射線を空ける。


 弦の鳴る音。


 エドガーの矢が飛んだ。


 狙いは、狼の右前脚。


 疾風のフォレストウルフは、盾を振り払おうと頭を動かしている。


 矢が脚へ近づく。


 その瞬間、狼が盾を口から放した。


 身体を横へ捻る。


 矢尻が右前脚を掠めた。


 灰色の毛が飛ぶ。


 深くは刺さらない。


「浅い!」


 エドガーが叫ぶ。


 狼は盾を捨て、木の近くへ走った。


 右前脚から血が流れている。


 動きが、わずかに遅い。


「追うな!」


 ウィルは足を止めた。


 最初から追うつもりはなかった。


 落とした盾は、狼とウィルの間にある。


 すぐには拾えない。


 ウィルは片手剣を抜いた。


 盾がない状態で、狼の攻撃を受けなければならない。


「俺の方へ下がれ」


 エドガーの声。


 ウィルは狼を見たまま、エドガーの方向へ下がる。


 疾風のフォレストウルフは右前脚を浮かせた。


 身体が傾いている。


 傷ついた脚を、地面へつけようとしない。


「効いている?」


 ウィルが尋ねる。


「浅い。だが、傷は入った」


 エドガーは二本目の矢を構える。


 狼は動かない。


 荒い息を吐き、ウィルたちを見ている。


 右前脚は、まだ浮いたまま。


「近づくな」


 エドガーの声が低くなる。


「分かっている」


 疾風のフォレストウルフが、一歩後ろへ下がった。


 傷ついた脚を引きずる。


 さらに一歩。


 身体が大きく揺れた。


 その場へ伏せる。


 ウィルは剣を構えたまま、動かなかった。


 頭の中に、受付で聞いた言葉が蘇る。


 迷宮主は、冒険者の失敗を待っている。


 エドガーの過去。


 負傷したふりをした狼へ、仲間が近づいた。


 その喉を噛まれた。


「撃てる?」


 ウィルが尋ねる。


「木が邪魔だ」


 狼の前には、太い幹がある。


 エドガーの位置からでは、脚を狙えない。


 ウィルが少し右へ動けば、狼も動くかもしれない。


「俺が誘う」


「待て」


「近づかない。動かすだけだ」


 ウィルは一歩だけ右へ移動した。


 狼の金色の目が動く。


 身体は伏せたまま。


 傷ついた脚も地面へ伸びている。


「もう一歩」


 エドガーの声。


 ウィルは右へ動く。


 狼の身体が、わずかにウィルの方へ向いた。


 木の幹から脚が見える。


 エドガーが矢を引く。


 その瞬間。


 疾風のフォレストウルフが地面を蹴った。


 傷ついているはずの右前脚を、強く踏み込む。


 灰色の身体が、一直線にウィルへ飛んできた。


「ウィル!」


 速い。


 盾はない。


 ウィルは剣を横へ構えた。


 牙を刃で受ければ、剣が折れる。


 身体を避ける。


 だが、狼はウィルの動きを見ていた。


 右へ避けようとした方向へ、前脚が伸びる。


「下!」


 エドガーの声。


 ウィルは考えず、身体を沈めた。


 爪が頭上を通り過ぎる。


 灰色の腹が見えた。


 剣を振れば届く。


 今なら、傷を与えられる。


 ウィルが片手剣を持ち上げる。


「退け!」


 エドガーの声が響いた。


 ウィルの手が止まる。


 一瞬だけ、迷った。


 狼の腹が目の前にある。


 剣を振れば、深い傷を与えられるかもしれない。


 迷宮討伐記録は9/10。


 あと一体。


 だが、約束した。


 ウィルは剣を振らなかった。


 狼の身体が頭上を通り過ぎる。


 すぐに立ち上がり、入口の方向へ走る。


「入口!」


 エドガーも弓を下ろし、後退を始めている。


 疾風のフォレストウルフが着地する。


 傷ついたはずの右前脚で地面を踏んだ。


 少し動きは鈍い。


 だが、走れないほどではない。


 負傷したふり。


 完全な演技ではなかった。


 矢で傷を負っている。


 それでも、弱って動けないように見せていた。


「来るぞ!」


 エドガーの声。


 狼が二人を追う。


 ウィルは盾がない。


 エドガーより後ろへ下がり、狼との間に入る。


「走れ!」


「お前は?」


「あとから行く!」


 エドガーが入口へ向かう。


 ウィルは片手剣を構えたまま下がる。


 狼が右側から回り込む。


 ウィルは腰の革袋へ手を入れた。


 投擲用石弾。


 狼の足元へ投げる。


 石弾が地面へ当たり、土が跳ねた。


 疾風のフォレストウルフが横へ避ける。


 ほんの一瞬だけ、距離が開く。


「ウィル、右!」


 エドガーの声。


 ウィルは右へ動く。


 矢が横を通り過ぎた。


 狼の進路へ刺さる。


 疾風のフォレストウルフが跳ぶ方向を変えた。


 ウィルはさらに入口へ下がる。


 白い布が見える。


 あと五歩。


 狼が走る。


 今度は、ウィルではない。


 入口へ向かっているエドガーを狙っている。


「エドガー!」


「見えている!」


 エドガーは振り返らない。


 狼が背後へ迫る。


 ウィルは斜めに走った。


 迷宮へ入る前に決めた動き。


 狼とエドガーの間へ入る。


 盾はない。


 剣だけだ。


 狼が跳ぶ。


 ウィルは片手剣を振らなかった。


 腰を低くし、肩から狼の側面へぶつかる。


 重い。


 ウィルの身体が弾かれる。


 だが、狼の進路も少しだけ逸れた。


 牙がエドガーの背中ではなく、革防具の端を掠める。


「ぐっ!」


 エドガーが前へ倒れそうになる。


 それでも足を止めない。


「入口まで二歩!」


 ウィルが叫ぶ。


 エドガーが石の通路へ入る。


 狼の敵意が、ウィルへ戻った。


 ウィルは後ろへ下がる。


 あと一歩。


 疾風のフォレストウルフが地面を蹴る。


 灰色の身体が近づく。


 ウィルは剣を身体の前へ置いた。


 攻撃するためではない。


 狼が顔を近づけにくくするためだ。


 牙が刃の横を通る。


 爪が、革の胸当てへ当たった。


 強い衝撃。


 ウィルの身体が後ろへ飛ぶ。


 石の通路へ倒れ込んだ。


 見えない境界を越える。


 疾風のフォレストウルフの動きが止まった。


 爪が、通路の入口ぎりぎりを掻く。


「グルルルル……!」


 金色の目が、倒れたウィルを見ている。


 右前脚からは、まだ血が流れていた。


 それでも狼は立っている。


 やがて一歩下がる。


 灰色の身体が森の中へ消えた。


     ◇


「動けるか?」


 エドガーが、ウィルの横へ膝をついた。


「ああ」


 ウィルは身体を起こした。


 胸当てには、爪の跡が三本残っている。


 革を裂いているが、皮膚へ深くは届いていない。


 肩を動かす。


 痛みはある。


 骨は折れていないようだった。


「エドガーは?」


「背中を掠めただけだ」


 革防具の表面が裂けている。


 血は出ていない。


 二人とも、大きな傷はなかった。


 ウィルは荒い呼吸を整えた。


「盾を置いてきた」


「中にあるな」


「取りに戻る?」


「今はやめろ」


 疾風のフォレストウルフは、まだ近くにいる可能性がある。


 盾を拾うためだけに、再び最奥区画へ入るべきではない。


「迷宮主が落ち着けば、あとで回収できる」


「消えない?」


「区画内へ置いた装備は、しばらく残る。戦闘が解除されたあとなら、狼が出る前に拾える場合がある」


「場合がある?」


「次に入った瞬間、狼が出てくることもある」


 簡単ではない。


 それでも、《初心者用円盾+1》を諦めるつもりはなかった。


「どうして撤退を言った?」


 ウィルが尋ねる。


「狼が、お前を誘っていた」


「負傷したふり?」


「ああ」


 エドガーの声が低い。


「矢は浅かった。脚を浮かせるほどの傷ではない」


「それでも血は出ていた」


「本当に傷ついていたからこそ、騙しやすい」


 完全な演技ではない。


 痛みはある。


 動きも、わずかに遅くなっている。


 その本当の傷へ、大きな嘘を重ねた。


「前に組んでいた仲間も、同じだった?」


「ああ」


 エドガーは失われた左手の小指へ目を落とした。


「狼が脚を引きずった。あいつは、もう走れないと思った」


「近づいた」


「俺が止めた。だが、聞かなかった」


 あと一撃。


 そう言って進んだ。


「今日、お前も剣を振ろうとした」


「ああ」


「俺が『退け』と言った」


「聞こえた」


「それで止まった」


 エドガーは、しばらく何も言わなかった。


「助かった」


「何が?」


「同じことを、もう一度見るところだった」


 ウィルは、自分の片手剣を見た。


 あの瞬間。


 狼の腹部が、目の前にあった。


 剣を振れば届いた。


 傷を与えられたかもしれない。


 だが、そのあと。


 狼は空中で身体を捻り、ウィルの喉へ噛みついていた可能性がある。


 エドガーには、それが見えていた。


「約束したから戻った」


「それでいい」


 信頼とは、相手が正しいと理解してから従うことではない。


 考える時間がないときに、決めていた言葉へ従うこと。


 今日、ウィルはそれを初めて実行した。


「勝てなかったな」


「ああ」


 エドガーは否定しなかった。


「だが、矢は当たった」


「浅かった」


「作戦そのものは使える」


 盾へ噛みつかせる。


 手放す。


 射線を空ける。


 エドガーが脚を射る。


 そこまでは成功した。


「足りなかったのは、矢を確実に深く入れる時間だ」


 エドガーが言う。


「盾を振り払うまでが早すぎる」


「動きを、もう少し止める必要がある」


「ああ」


 糸。


 ウィルの頭に浮かんだ。


 糸吐き蜘蛛が吐く、粘着性の強い糸。


 円盾へ貼りつき、木の根へ巻きついた糸。


 あれを狼の脚へ絡めることができれば。


「糸吐き蜘蛛の粘糸嚢」


 ウィルが口にする。


 エドガーが顔を上げた。


「持っているのか?」


「一度手に入れたが、売った」


「また取れるとは限らない」


「蜘蛛を倒せば、出る可能性はある」


「糸だけでは、狼を止められんぞ」


「木か岩へ固定する」


 糸吐き蜘蛛との戦いで、ウィルは糸を木の根へ巻きつけた。


 引く力の方向を変え、蜘蛛を落とした。


「最奥区画の入口近くに、太い木がある」


 ウィルは地図を思い出す。


「盾に糸を結ぶ?」


「狼が盾を噛む。俺が手放す。盾と木が糸で繋がっていれば、狼が引いたときに動きが止まる」


「糸の長さと強度次第だ」


「試せる」


 エドガーは少し考えた。


「盾を木へ固定しすぎれば、狼は噛みつかない」


「最初は緩ませておく」


「狼が盾を持ち上げたあとで、糸が張る長さにする?」


「ああ」


 狼が円盾へ噛みつく。


 ウィルが手放す。


 数歩動いたところで、盾へ結んだ粘糸が張る。


 突然、狼の動きが止まる。


 その瞬間に、エドガーが脚へ矢を撃つ。


「一度しか使えない」


 エドガーが言う。


「狼は二度目には警戒する」


「一度で、脚を傷つける」


「外せば終わりだ」


「なら、外さないように準備する」


 エドガーは、少しだけ笑った。


「お前は本当に、戦いの途中で妙なことを考えるな」


「盾を置いてきた」


「話が変わった」


「回収しないと、糸を結べない」


「まず身体を診てもらう。そのあと、盾をどう回収するか考える」


 二人は立ち上がった。


 戦いには負けた。


 迷宮討伐記録も、9/10のまま。


 ガチャチケットも4枚から増えていない。


 それでも、次に必要なものは見えた。


     ◇


 冒険者協会へ戻ると、受付の女性は二人の姿を見て、すぐに治療室へ案内した。


「討伐は?」


「失敗した」


 ウィルが答える。


「二人とも戻ったんですね」


「ああ」


「それなら、まずは十分です」


 治療師がウィルの胸と肩を確認した。


 爪は革防具を裂いていたが、皮膚には三本の浅い傷があるだけだった。


「骨に異常はない。打ち身だな」


 エドガーの背中も、皮膚までは傷ついていない。


 二人分の治療費は、合わせて銅貨18枚。


 ウィルが半分を払おうとすると、エドガーが止めた。


「自分の分は自分で払う」


「均等分配では?」


「治療費まで均等にするとは決めていない」


「次は先に決める?」


「怪我をしない方法を先に考えろ」


 治療室を出る。


 受付の女性は、ウィルの左腕を見た。


「盾は?」


「最奥区画へ置いてきた」


「手放す作戦は成功したんですね」


「矢も当たった」


「では、どうして撤退を?」


「狼が負傷したふりをした」


 エドガーが説明する。


 右前脚を引きずり、伏せたこと。


 ウィルを誘い、突然襲ったこと。


「『退け』と言った」


「ウィルさんは?」


「戻った」


 受付の女性は、少しだけ目を見開いた。


「すぐに?」


「剣を振りかけた」


「ですが、振らなかったんですね」


「ああ」


「よかったです」


 討伐できなかったのに、女性は安心したように笑った。


「次の作戦は、もう考えている」


「休む前にですか?」


「粘糸嚢が必要だ」


「糸吐き蜘蛛の?」


「ああ」


 ウィルは、盾と木を粘糸で繋ぐ案を説明した。


 受付の女性は、すぐには答えなかった。


「理屈としては、使えるかもしれません」


「問題は?」


「粘糸嚢から取り出した糸を、冒険者が扱える形へ加工する必要があります」


「そのままでは使えない?」


「粘りが強すぎます。盾へ結ぶ前に、手や道具へ貼りつきます」


 以前、盾から糸を剥がすだけでも時間がかかった。


「加工できる職人は?」


「町に一人います。革製品や罠を作る職人です」


「粘糸嚢を手に入れれば、頼める?」


「費用はかかりますが、相談はできます」


 まず、糸吐き蜘蛛を倒す。


 粘糸嚢が残るまで、何度か戦う必要があるかもしれない。


 そのあと職人へ加工を頼む。


 すぐには再挑戦できない。


「盾の回収は?」


 受付の女性が尋ねる。


「必要だ」


「最奥区画へ再び入れば、迷宮主が現れる可能性があります」


「エドガーが入口で援護する」


「回収だけなら、俺一人で入る」


 エドガーが言った。


「なぜ?」


「狼は弓を持つ俺より、盾を持つお前を先に警戒していた」


「一人なら、エドガーを狙う」


「走る前に盾を拾って戻る」


「危険だ」


「お前が言うか?」


 エドガーはため息をついた。


「二人で入る。ただし、戦わない。盾を拾ったら即座に戻る」


「狼が出たら?」


「退け、だ」


 また同じ合図。


 ウィルは頷いた。


     ◇


 その日の夕方。


 二人は再び最奥区画の入口へ立った。


 戦うためではない。


 盾を取り戻すためだ。


 身体には治療を受けている。


 長く戦える状態ではない。


「盾は入口から何歩?」


「前回は十歩ほど進んだ場所で落とした」


「狼が動かしていなければな」


 エドガーが弓へ矢をつがえる。


「入るぞ」


 二人は石の通路を進んだ。


 広場へ出る。


 森は静かだった。


 《気配察知・小》へ意識を向ける。


 敵意はない。


 ウィルは地面を見る。


 円盾は、最初に落とした場所から少し離れた草の上にあった。


 狼が振り払ったときに動いたらしい。


「見つけた」


「取れ」


 ウィルは走らない。


 足音を立てず、盾へ近づく。


 拾う。


 縁に新しい牙の跡があるが、壊れてはいない。


 留め具も動く。


「戻る」


 二人が入口へ下がり始めた。


 その瞬間。


 森の奥で、金色の目が光った。


 疾風のフォレストウルフ。


 右前脚には、浅い傷が残っている。


 だが、しっかり立っていた。


「退け」


 エドガーが静かに言う。


 ウィルは迷わなかった。


 二人は石の通路へ戻る。


 狼は追ってこなかった。


 ただ、木々の間から二人を見ていた。


 次に来ることを、知っているようだった。


     ◇


 家へ戻ったウィルは、円盾を食卓の横へ置いた。


 牙の跡。


 狼が振り払った傷。


 留め具に異常はない。


 修理店へ持っていく必要はあるが、まだ使える。


 ウィルは冒険者証を開く。


 レベル:4。


 迷宮討伐記録:9/10。


 所持ガチャチケット:4枚。


 何一つ、数字は変わっていない。


 迷宮主を倒していない。


 チケットも増えていない。


 屋根の修理資金も、今日は減った。


 治療費。


 ポーションは使わなかったが、防具の修理も必要になる。


 数字だけを見れば、前へ進んでいない。


 だが、前回とは違う。


 一人で逃げたのではない。


 二人で作戦を立てた。


 盾を囮にするところまでは成功した。


 矢も、浅いながら脚へ当たった。


 そして、狼が負傷したふりをしたとき。


 ウィルは、エドガーの《退け》を聞いた。


 目の前に攻撃できる場所があっても、剣を振らなかった。


 その判断で、二人とも生きて戻った。


 ウィルは円盾の表面へ手を置く。


「次は、止める」


 糸吐き蜘蛛の粘糸嚢。


 それを加工し、盾と木を繋ぐ。


 狼が盾を噛み、動こうとした瞬間に糸を張る。


 完全に動きを止められなくても、一呼吸あればいい。


 エドガーが矢を深く刺すための時間。


 ウィルが負傷した脚へ剣を届かせる時間。


 必要なものは分かった。


 あとは、手に入れる。


 迷宮攻略は、また遠回りすることになった。


 だが、今日の撤退を失敗だとは思わなかった。


 約束を守ったからこそ、次の作戦を考えられる。


 死ななかったからこそ、もう一度挑める。


 ウィルは、狼の牙痕が残る盾を壁へ立てかけた。


 勝つために必要なのは、最後まで前へ進み続けることではない。


 戻るべきときに戻ることも、戦いの一部だった。


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