第2話 最初の一匹
屋根から落ちた雫が、床に置いた鍋の底を叩いた。
ぽつん。
少し間を置いて、もう一度。
ぽつん。
ウィルは古い寝台の上で目を開けた。
窓の外は、まだ薄暗い。
七年ぶりに眠った自分の家だったが、深く眠ることはできなかった。
風が吹くたびに屋根が軋み、壁の隙間から冷たい空気が入ってくる。
鉱山刑務所の寝床よりは静かだった。
それでも、身体が朝まで何度も目を覚ました。
誰かが見回りに来ることもない。
起床を命じる鐘も鳴らない。
もう眠っていても罰せられない。
そう分かっているのに、長年染みついた習慣は簡単には消えてくれなかった。
ウィルは身体を起こした。
床へ足を下ろすと、傷んだ板が小さく軋む。
昨日見つけた父親の剣は、寝台のすぐそばに置いてあった。
錆びた刃。
傷んだ鞘。
武器として使えるかどうかも怪しい。
それでも、今のウィルが持っている唯一の剣だった。
服の上から、胸元へ触れる。
母親が作った布袋の感触があった。
中には、最後の手紙が入っている。
「……行くか」
誰に聞かせるでもなく呟き、寝台から立ち上がった。
◇
台所に残っていた食料は、すべて駄目になっていた。
棚には乾燥した豆や小麦粉が置かれていたが、袋は虫に食われている。
水瓶の中も空だった。
ウィルは井戸から水を汲み、顔を洗った。
冷たい水が肌へ触れる。
鏡は埃をかぶっていた。
布で拭うと、痩せた男の顔が映った。
頬はこけ、目の下には薄い隈がある。
髪も、自分で適当に切っていたため不揃いだった。
十六歳の頃の面影は、ほとんど残っていない。
母親が今の自分を見ても、すぐには分からないかもしれない。
そう考えてから、ウィルは鏡から目を逸らした。
革袋の中身を食卓へ広げる。
銅貨が十六枚。
銀貨が二枚。
それが、七年間の鉱山労働で得た報奨金だった。
家を直すには、まるで足りない。
食料を買い、冒険者登録に金がかかれば、すぐになくなるだろう。
けれど、今日を生きる金はある。
ウィルは硬貨を革袋へ戻した。
父親の剣を腰へ差し、家を出る。
まず向かう場所は、決めていた。
◇
ユーカリの町の共同墓地は、町の北側にある。
朝早い時間だったため、人の姿はほとんどなかった。
石造りの門を抜けると、大小さまざまな墓石が並んでいる。
ウィルは管理人に母親の名前を伝えた。
年老いた管理人は、最初こそウィルの顔を不思議そうに見ていた。
だが、名前を聞いた瞬間、表情が固くなった。
「お前さんが……ウィルか」
「はい」
「そうか。戻ったのか」
歓迎する言葉はなかった。
追い返されもしなかった。
管理人は墓地の奥を指差した。
「母親の墓は、あっちだ。大きなユーカリの木の近くにある」
「ありがとうございます」
ウィルが頭を下げると、管理人はわずかに目を逸らした。
その態度が、罪を信じているためなのか。
それとも、母親を救えなかったことを気にしているのか。
ウィルには分からなかった。
聞くつもりもなかった。
教えられた道を進んでいく。
墓地の端に、大きなユーカリの木が立っていた。
その根元近くに、小さな墓石がある。
刻まれていたのは、母親の名前だった。
ウィルは足を止めた。
死亡を知らせる書類で知っていた。
家に母親がいないことも、昨日確かめた。
それでも、墓石に刻まれた名前を見ると、胸の奥に重いものが落ちた。
「……ただいま」
昨日、誰もいない家で口にした言葉を、もう一度言った。
返事はない。
ウィルは墓石の前に膝をついた。
持ってきた布で、表面の汚れを拭う。
墓の周囲には雑草が伸びていた。
一本ずつ抜いていく。
鉱山で硬い岩を砕き続けた指には、土の柔らかさが妙に頼りなく感じられた。
「手紙、読んだよ」
母親へ向けて話すことなど、いくらでもあるはずだった。
七年間、何があったのか。
鉱山刑務所でどんな暮らしをしていたのか。
ゲイルがどれほど憎いのか。
どうして自分を信じて待っていてくれなかったのか。
けれど、言葉は出てこなかった。
墓石を前にしても、母親が死んだという実感が湧かなかった。
「復讐はしない」
やっと出たのは、その言葉だった。
「約束できるのは、それだけだ」
ゲイルを許すことはできない。
憎しみを捨てることもできない。
幸せになると約束することも、今のウィルには難しかった。
自分の人生を生きる。
その意味すら、まだよく分からない。
「でも、生きるよ」
胸元の布袋へ触れる。
「少なくとも、もう少しは」
ウィルは立ち上がった。
最後にもう一度、母親の名前を見る。
「また来る」
今度は、言葉に迷わなかった。
◇
墓地を出たあと、ウィルは町の露店へ立ち寄った。
通りには、朝食を売る店がいくつも並んでいる。
焼きたてのパン。
野菜を煮込んだスープ。
肉を挟んだ薄焼きの生地。
鉱山刑務所では嗅ぐことのなかった匂いに、腹が鳴った。
「黒パン一つ、銅貨一枚だよ!」
店主の声に、ウィルの足が止まる。
露店の上には、黒く硬そうなパンが並んでいた。
鉱山刑務所で、毎日のように出されたものとよく似ている。
口へ入れた瞬間の乾いた感触。
水に浸しても残る硬さ。
何度噛んでも消えない酸味。
七年間で、一生分は食べた。
ウィルは何も言わず、その店を通り過ぎた。
隣の店で、蒸した芋を二つ買う。
一つをその場で食べ、もう一つは布に包んでもらった。
温かい芋は、塩が振られているだけだった。
それでも、黒パンよりはずっと美味かった。
食べながら町の中央へ向かう。
目的の建物は、すぐに見つかった。
木と石で造られた、三階建ての大きな建物。
入口の上には、剣と盾を描いた看板が掲げられている。
冒険者協会ユーカリ支部。
父親も、昔ここで冒険者登録をしたはずだ。
ウィルは入口の前で足を止めた。
中から、大勢の声が聞こえてくる。
笑い声。
怒鳴り声。
装備同士がぶつかる音。
知らない人間が大勢いる場所へ入ることに、身体が強張った。
鉱山刑務所では、余計なことを話さないようにしていた。
誰かと親しくなれば、相手の揉め事に巻き込まれる。
弱みを見せれば、利用される。
七年間、必要な言葉だけを口にして生きてきた。
その習慣は、外へ出ても変わらない。
ウィルは一度だけ息を吐き、扉を開けた。
◇
協会の一階には、いくつもの受付が並んでいた。
壁には依頼書が貼られ、大勢の冒険者が集まっている。
革鎧を着た若者。
大剣を背負った大男。
杖を持った魔術師。
ウィルの腰にある錆びた剣へ視線を向ける者もいた。
小さく笑う声が聞こえた。
だが、足は止めなかった。
受付の列へ並ぶ。
しばらく待つと、茶色い髪を後ろで束ねた女性がウィルを手招きした。
「次の方、どうぞ」
ウィルは受付の前へ立った。
「本日は、どのようなご用件でしょうか?」
「冒険者登録をしたい」
「新規登録ですね。身分を確認できるものはありますか?」
ウィルは革袋から、刑務所で渡された釈放証明書を取り出した。
受付の女性は紙を受け取った。
最初は事務的に文字を追っていた。
だが、名前と罪状を確認した瞬間、視線が止まる。
「ウィル・クロード……」
周囲の音が、少しだけ遠くなったように感じた。
受付の女性は顔を上げ、ウィルを見る。
「七年前の、ユーカリ森林迷宮スタンピード事件の……」
「そうです」
近くの受付にいた職員が、こちらを見た。
列に並んでいる冒険者たちの何人かも、声を潜める。
「あいつが?」
「刑務所から出たって噂は本当だったのか」
「よくこの町に戻ってこられたな」
聞こえないふりをした。
受付の女性は困ったように証明書とウィルを見比べた。
「登録ができないのなら、帰ります」
「い、いえ。そういうわけではありません」
女性は慌てて首を横に振った。
「刑期を終え、現在指名手配などを受けていない方であれば、前歴のみを理由に登録を拒否する規則はありません」
「分かりました」
「ただし、冒険者として問題を起こした場合、通常より厳しく処分される可能性があります」
「問題は起こしません」
短く答える。
女性は少しだけ迷ったあと、机の下から薄い石板を取り出した。
「では、こちらへ手を置いてください。能力値を測定します」
ウィルは言われたとおり、石板の上へ右手を置いた。
淡い光が指先から広がっていく。
石板の表面へ、文字と数字が浮かび上がった。
名前:ウィル・クロード
年齢:23
レベル:1
生命力:18
筋力:16
敏捷:8
魔力:6
技能:なし
受付の女性が、目を見開いた。
「筋力十六……? レベル一ですよね?」
「鉱山で働いていた」
「七年間ずっと、ですか?」
「ああ」
生命力と筋力は、新人冒険者としては高いらしい。
だが、敏捷と魔力は低い。
特に魔力六では、魔術師を目指すことは難しいだろう。
ウィル自身、魔法を使えるとは思っていなかった。
父親も剣士だった。
「戦闘経験はありますか?」
「ない」
「剣の訓練は?」
「ない」
受付の女性の視線が、ウィルの腰の剣へ移る。
「その剣で、ダンジョンへ入るつもりですか?」
「ああ」
「失礼ですが、かなり錆びています。刃こぼれもありますし、武器として使うには危険です」
「新しい剣を買う金がない」
「でしたら、協会で初心者用の武器を貸し出すこともできます。使用料と保証金が必要ですが……」
「いくらですか?」
「合わせて銀貨三枚です」
ウィルの持っている金では足りない。
「なら、これを使う」
「ですが……」
「折れたら逃げます」
逃げられれば、だが。
受付の女性は不安そうな顔をした。
それでも、冒険者になることを止める権利はないらしい。
「登録料は銅貨五枚です」
ウィルは革袋から銅貨を取り出した。
受付の女性は受け取ると、一枚の金属札へ名前を刻む。
「こちらが冒険者証です。紛失した場合は、再発行に費用がかかりますのでご注意ください」
渡された札は、手のひらに収まる大きさだった。
表にはウィルの名前。
裏には、最低位を示す一本の線が刻まれている。
「登録直後は、銅級冒険者となります。受けられる依頼と、入れるダンジョンに制限があります」
「ユーカリ森林迷宮には入れますか?」
「第一階層であれば、問題ありません」
受付の女性は机の上へ、簡単な地図を広げた。
「第一階層で確認されている魔物は、スライム、角ウサギ、森ゴブリンの三種類です」
地図の端には、それぞれの魔物の絵が描かれていた。
「スライムは体当たりしか行わない、最も弱い魔物です。ただし、油断して転倒すれば怪我をします」
女性の指が、次の絵へ移る。
「角ウサギは額の角を使って突進します。森ゴブリンは棍棒を持っている場合があります。戦闘経験がないのであれば、まずはスライムから始めてください」
「分かりました」
「できれば、経験者と一緒に行くことをお勧めします」
ウィルは周囲を見た。
自分を見ながら、何かを囁いている冒険者たち。
犯罪者と組みたい者などいないだろう。
「一人で行きます」
「……そうですか」
受付の女性は、少し声を落とした。
「危険だと思ったら、必ず逃げてください。魔物を倒すことより、生きて帰ることの方が大切です」
ウィルはわずかに目を瞬かせた。
形式的な説明ではなく、本気で心配している声だった。
「ありがとう」
女性は驚いたような顔をした。
ウィルは冒険者証と地図を受け取り、受付を離れた。
◇
《ユーカリ森林迷宮》は、町の東にある。
歩いて一時間ほどかかった。
森の入口近くに、石造りの門が立っている。
門の向こうには、木々に覆われた道が続いていた。
自然の森にしか見えない。
だが、ここから先はダンジョンだ。
外から見るよりも遥かに広く、内部には魔物が発生する。
入口の横には、協会の詰め所と素材の買取所が建っていた。
ウィルは詰め所の衛兵へ冒険者証を見せる。
衛兵は札を確認したあと、ウィルの剣を見て眉をひそめた。
「その剣で入るのか?」
「はい」
「死にに行くなら、別の場所にしてくれ。死体の回収にも金がかかる」
「死ぬつもりはありません」
「死ぬ奴は、だいたいそう言う」
衛兵は呆れたように息を吐いた。
「第一階層から下へ降りるな。日が暮れる前には戻れ。今日は森ゴブリンの目撃が多い。見つけても、戦わず逃げろ」
「分かりました」
「本当に分かっているのか……?」
ウィルは返事をせず、門をくぐった。
空気が変わった。
町の近くにある普通の森よりも、緑の匂いが濃い。
頭上を葉が覆っているが、不思議と暗くはなかった。
木漏れ日が道を照らしている。
遠くから、鳥に似た鳴き声が聞こえた。
だが、この場所に普通の鳥がいるとは限らない。
ウィルは腰から剣を抜いた。
刃に浮いた錆が、木漏れ日を鈍く反射する。
持ち方すら、これで合っているのか分からない。
鉱山では、つるはしを何度も振り下ろした。
だが、つるはしは襲ってこない岩へ使う道具だ。
魔物は違う。
こちらを傷つけようと動く。
足音を立てないよう、慎重に道を進んだ。
地図を覚えることは得意だった。
入口から曲がった回数と方角を、頭の中へ記録していく。
右へ二度。
左へ一度。
大きな岩の横を通過。
倒れた木を越えた。
戻ろうと思えば、迷わず入口へ帰れる。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になった。
しばらく進んだところで、草むらが揺れた。
ウィルは足を止める。
剣を両手で構えた。
緑色の何かが、草の間から転がるように現れた。
丸い身体。
透き通った表面。
子供が抱えられるほどの大きさしかない。
「スライム……」
地図に描かれていた姿と同じだった。
最弱の魔物。
体当たりしかできない。
頭では分かっている。
それでも、手に汗が滲んだ。
魔物を目の前にするのは、七年前のスタンピード以来だった。
町へ押し寄せる魔物。
響き渡る悲鳴。
燃える建物。
衛兵に腕を掴まれ、地面へ押さえつけられた感触。
『お前がコアを盗んだんだろう!』
『違う! 俺じゃない!』
過去の声が、耳の奥で蘇る。
スライムが身体を縮めた。
ウィルは反応できなかった。
弾むように飛び上がり、緑色の身体が胸へぶつかる。
「ぐっ……!」
衝撃を受け、二歩後ろへ下がった。
鉱山で鍛えられた身体のおかげか、倒れずに済んだ。
痛みも、それほど強くない。
スライムは地面へ落ちると、再び身体を震わせた。
次の体当たりが来る。
「怖がるな」
自分へ言い聞かせる。
最弱の魔物だ。
これすら倒せないなら、冒険者として生きることなどできない。
だが、怖いものは怖い。
手が震える。
逃げたい。
入口まで戻り、家の中へ閉じこもりたい。
それでもウィルは、剣を下ろさなかった。
母親の手紙が、胸元にある。
自分の人生を生きろ。
そのために、ここへ来た。
スライムが飛び上がった。
今度は動きが見えた。
ウィルは身体を横へずらす。
完全には避けられず、左腕へスライムがぶつかった。
それでも、狙っていた胸からは外れた。
スライムが地面へ落ちる。
その瞬間、ウィルは父親の剣を振り上げた。
剣の使い方など知らない。
腰も、足運びも、何もかも素人だった。
ただ、鉱山でつるはしを振り下ろしていたときのように。
両腕へ力を込め、真っ直ぐに振り下ろす。
「はあっ!」
錆びた刃が、スライムの身体へ食い込んだ。
柔らかな感触のあと、わずかな抵抗があった。
それを筋力だけで押し切る。
スライムの身体が、真ん中から二つに裂けた。
一瞬、緑色の液体が地面へ広がる。
次の瞬間、その身体は淡い光へ変わった。
無数の粒子となり、空気の中へ消えていく。
あとに残されたのは、爪ほどの大きさの小さな魔石だった。
「……倒したのか」
ウィルは剣を構えたまま、動けなかった。
息が荒い。
心臓が強く鳴っている。
相手は、最弱のスライム一匹だ。
それでも、自分の力で初めて魔物を倒した。
剣の先から、緑色の光が一筋だけ立ち上った。
「なんだ……?」
光は錆びた刃を伝い、柄へ流れ込む。
そのまま、剣を握るウィルの右手を包み込んだ。
逃げようとしたが、指が動かない。
眩い光が視界を埋める。
頭の中へ、聞いたことのない声が響いた。
『条件を達成しました』
男とも女とも分からない、感情のない声だった。
『ダンジョン内における、魔物の初討伐を確認』
『継承武器との接続を確認』
『固有スキルを起動します』
ウィルの目の前に、光の文字が浮かび上がる。
そこには、こう記されていた。
固有スキル――
《ダンジョンガチャ》
「……ガチャ?」
ウィルは光の文字を見つめたまま、呆然と立ち尽くした。




