第1話 七年ぶりの帰還
重い鉄扉が、鈍い音を立てて開いた。
その向こうから差し込んできた朝の光に、ウィルは思わず目を細めた。
「出ろ」
背後に立つ看守が、短く告げる。
ウィルは何も言わず、一歩を踏み出した。
七年ぶりに、鉱山刑務所の外へ出た。
見上げた空は、記憶にあるものよりも広かった。
雲が流れている。
風が吹いている。
どこへ歩いても、誰にも止められない。
そのはずなのに、胸の奥に湧いたのは喜びではなかった。
何をすればいいのか分からない。
それだけだった。
「ウィル」
看守に呼ばれ、振り返る。
差し出されたのは、小さな革袋だった。
「預かり物と、鉱山労働の報奨金だ。確認しろ」
袋の中には、わずかな硬貨が入っていた。
それから、十六歳の頃に身につけていた古い首飾り。
さらに、錆びついた一本の鍵が入っている。
七年間働いて得た金としては、あまりにも少ない。
だが、文句を言う気にはならなかった。
ここでは、そういうものだった。
「本来なら、あと五年は働いてもらう予定だった」
看守は手元の書類をめくりながら言った。
「規則違反なし。作業拒否なし。喧嘩もなし。鉱山での勤務態度も良好。模範囚として刑期が短縮された」
「そうですか」
「嬉しくないのか?」
ウィルは答えなかった。
十二年が七年になった。
確かに、五年は戻ってきた。
だが、奪われた七年が返ってきたわけではない。
「もう戻ってくるなよ」
「戻るつもりはありません」
ウィルは革袋を受け取り、今度こそ刑務所をあとにした。
門の外には、一本の街道が延びていた。
右へ進めば、ユーカリの町。
左へ進めば、王都へ続く。
迷う必要はなかった。
ウィルが右へ歩き始めたとき、遠くから馬車の車輪が地面を鳴らす音が聞こえた。
何気なく道の端へ寄る。
近づいてきたのは、黒塗りの立派な馬車だった。
車体には、槍と王冠を組み合わせた紋章が描かれている。
王国槍士団の紋章だ。
馬車はウィルの横を通り過ぎる直前、速度を落とした。
窓が開く。
中から現れた男の顔を見て、ウィルの足が止まった。
「久しぶりだな、ウィル」
整った顔立ち。
隙なく整えられた金色の髪。
濃紺の軍服には、銀色の勲章がいくつも並んでいる。
七年前よりも大人びていた。
だが、口元に浮かぶ穏やかな笑みは、昔とほとんど変わっていない。
「ゲイル……」
「今日、釈放されると聞いてね。近くで任務があったから、少し寄らせてもらった」
偶然を装っているが、そんなはずはない。
王国槍士団副団長が、鉱山刑務所の近くで行う任務など、そう多くはない。
生きているか確認しに来た。
ウィルには、そうとしか思えなかった。
「身体は大丈夫か?」
「ああ」
「そうか。安心したよ」
ゲイルは柔らかな声で言った。
その表情だけを見れば、旧知の少年を心配する善良な男にしか見えない。
七年前もそうだった。
近所の大人たちには礼儀正しく、同年代には気さくに接していた。
年下の子供たちの前では、頼れる兄を演じていた。
だが、人の見ていないところでは違った。
気の弱い子供をからかい、困る様子を楽しむ。
ウィルも何度か標的にされた。
だから昔から、ゲイルのことが嫌いだった。
そしてゲイルも、それを知っていた。
「ユーカリへ戻るのか?」
「ああ」
「そうか。町の者たちも、突然戻れば驚くだろう。焦らず、静かに暮らすといい」
優しい言葉だった。
だが、ウィルには別の意味に聞こえた。
余計なことはするな。
黙って暮らせ。
お前の言葉を信じる者などいない。
「忠告、どうも」
「忠告だなんて。昔からの知り合いとして、心配しているだけだよ」
ゲイルは最後まで笑顔を崩さなかった。
「困ったことがあれば、槍士団へ手紙を送るといい。できる限り力になろう」
「必要ない」
「そうか」
断られても、ゲイルは気分を害した様子を見せなかった。
「では、元気で」
窓が閉まり、馬車が動き出す。
ウィルはその後ろ姿を、しばらく見送った。
胸の奥に、七年前から消えずに残っていたものが熱を持つ。
だが、それを口にすることはなかった。
証拠はない。
あの日、禁止されていたダンジョンコアの欠片が見つかったのは、ウィルの鞄からだった。
ダンジョンは暴走し、魔物が町へ押し寄せた。
そして、そのスタンピードを鎮圧したのがゲイルだった。
無実を訴えた十六歳の少年。
町を救った英雄。
人々がどちらを信じたのか、考えるまでもない。
馬車が離れていく。
そのまま歩き始めようとしたとき、少し先で馬車が止まった。
御者台から男が降り、馬具の留め具を確かめ始める。
風に乗って、馬車のそばに立つ槍士の声が聞こえてきた。
「副団長。あの男が、例の事件を起こした少年ですか?」
「ああ。もう少年という年齢ではないがね」
「ずいぶん落ち着いていました。七年も鉱山にいたとは思えません」
「人は慣れるものだよ」
ゲイルの声は穏やかだった。
「監視は必要でしょうか?」
「必要ない。七年前の判決が、今さら覆ることはないからね」
「ですが、無実を訴え出る可能性は?」
「証拠も証人もない。町の者が彼の話を信じるとも思えないよ」
ゲイルは小さく息を吐いた。
「鉱山で七年も耐えたことだけは、少し意外だったが」
馬具の確認を終えたらしく、馬車が再び動き出す。
ウィルは道の端に立ったまま、遠ざかっていく車輪の音を聞いていた。
やはり、自分がどうなったのか確かめに来たのだ。
そして、何もできないと知って安心した。
「……そうかよ」
口から出た声は、自分でも驚くほど静かだった。
怒鳴ったところで、七年は戻らない。
殴りかかったところで、返り討ちにされるだけだ。
《雷槍》のゲイル。
王国槍士団副団長。
七年前のスタンピードを鎮圧した英雄。
今のウィルとは、立っている場所が違いすぎた。
ウィルは握っていた拳を開き、ユーカリの町へ向かって歩き始めた。
◇
町へ着いた頃には、日が傾き始めていた。
七年前と変わらない建物もあれば、見覚えのない店もある。
道を歩く人々の顔にも、知っている者はほとんどいなかった。
いや、何人かはウィルに気づいていた。
視線を向け、顔を見合わせ、小声で何かを話している。
スタンピードを起こした犯罪者が帰ってきた。
おそらく、明日には町中へ広まるだろう。
ウィルは誰とも目を合わせず、町の中心を通り抜けた。
目指す家は、ユーカリの町外れにある。
人通りの少ない細道を抜けると、傾いた木の柵が見えてきた。
その奥に、小さな家が建っている。
「……残っていたのか」
母親名義の小さな持ち家だった。
古く、売ってもほとんど金にはならない。
そのうえ、スタンピードを引き起こした犯罪者の家として忌避されたため、母親の死後も誰にも使われず放置されていたらしい。
屋根の一部が崩れ、窓は埃で曇っている。
庭は伸び放題の草に覆われていた。
七年前、ここを出たときには、すぐに戻れると思っていた。
衛兵に事情を話せば、誤解は解ける。
母親も、家で待っていてくれる。
そんなことを信じていた。
ウィルは傾いた門を押し開け、玄関の前に立った。
革袋から、錆びついた鍵を取り出す。
預けていた覚えのない鍵だったが、その形には見覚えがあった。
家の鍵だ。
母親が、刑務所へ送ってくれたのだろう。
錆びついた鍵穴へ差し込み、何度か力を込める。
鈍い音とともに、鍵が回った。
扉を押すと、積もった埃が舞い上がった。
「ただいま」
返事はない。
分かっていた。
それでも、言わずにはいられなかった。
室内には、七年前の生活がそのまま残されていた。
小さな食卓。
二脚の椅子。
壁に掛けられた古い時計。
母親が裁縫に使っていた作業机。
机の上には糸巻きや針山が並び、途中まで縫われた布が置かれている。
母親は病弱だった。
長時間外で働くことができず、家で服の仕立てや修繕をして暮らしていた。
昔はこの机の前に座り、何時間も針を動かしていた。
ウィルが服を破いて帰るたびに、呆れた顔で笑っていた。
その姿が、今もそこにあるような気がした。
ウィルは作業机に触れようとして、手を止めた。
埃の上に指の跡を残すことさえ、ためらわれた。
奥の部屋へ向かう。
床板が何度も軋んだ。
寝室のベッドは空だった。
母親がどこで、どのように最期を迎えたのか、ウィルは詳しく知らない。
獄中で渡されたのは、死亡を知らせる短い書類だけだった。
病状が悪化した。
教会の治療院へ運ばれた。
その後、死亡した。
たったそれだけだ。
最後に何を食べたのか。
苦しんだのか。
誰かがそばにいてくれたのか。
何一つ知らない。
知ることも許されなかった。
ウィルは寝室を出て、台所の横にある扉を開けた。
地下の貯蔵室へ続く階段だ。
以前は野菜や保存食を置いていた場所だった。
ランプに火をつけ、ゆっくりと降りていく。
地下室の奥に、小さな木箱が置かれていた。
蓋の上には、見覚えのある字で名前が書かれている。
『ウィルへ』
母親の字だった。
ウィルはその場に膝をつき、箱を開けた。
中には、布に包まれた一本の剣が入っていた。
父親が冒険者だった頃に使っていた剣だ。
刃は赤茶色に錆び、鞘も傷んでいる。
父親が亡くなったあと、母親が大切に保管していた。
その隣には、小さな布袋が置かれている。
丈夫な布を二重にし、口を紐で絞れるように縫ってある。
不格好ではない。
裁縫師だった母親らしい、丁寧な作りだった。
布袋の中には、折り畳まれた手紙が一通入っていた。
ウィルは震えそうになる指で、手紙を開いた。
『ウィルへ。
この手紙を読んでいるということは、あなたは家へ帰ってこられたのですね。
おかえりなさい。
直接そう言ってあげられないことを、許してください。
私は、あなたがあんなことをする子ではないと知っています。
誰が何を言っても、あなたは人を傷つけて喜ぶような子ではありません。
小さな頃から臆病で、泣き虫で、それでも困っている誰かを見つけると、怖がりながら手を差し出す子でした。
私は、そんなあなたが大好きです。
きっと、今のあなたはたくさん怒っているでしょう。
悔しくて、悲しくて、誰かを恨まずにはいられないでしょう。
その気持ちまで捨てなさいとは言いません。
許せないものを、無理に許す必要もありません。
でも、あなたの残りの人生まで、あなたから七年を奪った人に渡さないで。
憎しみだけで生きれば、あなたは復讐者になってしまう。
私が大好きだった、あなたの笑顔や優しさまで奪われてしまう。
だから、どうかあなた自身の人生を生きて。
あなたが帰る場所を残しておきます。
古くて小さな家ですが、屋根を直せば、まだ暮らせるはずです。
お父さんの剣も入れておきます。
あなたがどんな道を選ぶのか、私には分かりません。
それでも、生きていてください。
幸せになってください。
それだけが、私の願いです』
最後の文字が、滲んで見えた。
ウィルは目を閉じた。
「……勝手なことを言うなよ」
七年だ。
十六歳から二十三歳まで。
母親の最期にも立ち会えなかった。
家へ帰ることも、墓へ花を供えることもできなかった。
ゲイルはその間に英雄となり、王国槍士団の副団長にまで上り詰めた。
自分は暗い鉱山で、石を砕き続けていた。
恨むなと言われて、恨まずにいられるはずがない。
忘れられるはずもない。
「俺は、そんなに優しくない」
返事はなかった。
地下室には、ランプの小さな炎が揺れているだけだ。
それでもウィルは、手紙を破ることができなかった。
丁寧に折り畳み、母親が作った布袋へ戻す。
布袋を服の内側へ入れ、紐を結んだ。
胸元に、わずかな重みが残った。
次に、父親の剣を手に取る。
剣は錆びていた。
刃こぼれもある。
まともな冒険者なら、武器として使おうとは思わないだろう。
だが、ウィルにはこれしかなかった。
鉱山で鍛えられた腕で持ち上げると、思っていたよりも軽く感じた。
戦い方は知らない。
魔物を倒した経験もない。
犯罪者の前歴がある自分を雇う者も、ほとんどいないだろう。
それでも、腹は減る。
家を直すにも金がいる。
生きるためには、自分で稼がなければならない。
ユーカリの町には、初心者でも入れる森林迷宮がある。
父親も、かつてはそこから冒険者として歩き始めたと聞いていた。
ウィルは剣を持って、地下室の階段を上った。
復讐はしない。
母親が望んだからだ。
だが、ゲイルを許したわけではない。
怒りが消えたわけでもない。
ただ、これ以上あの男に、自分の人生を渡すつもりはなかった。
明日、冒険者になる。
父親の錆びた剣を持ち、自分の足でダンジョンへ入る。
七年前に止まったウィルの人生は、ここからもう一度始まる。




