第18話 森を駆けるもの
翌朝。
ウィルは寝台から起き上がると、背中へ手を回した。
鎧甲虫をひっくり返したときに使った筋肉が、鈍く痛んでいる。
木材へ全体重をかけ、無理な姿勢で押し続けたせいだろう。
鉱山にいた頃なら、この程度の痛みを気にすることは許されなかった。
腰が曲がっていても、指が腫れていても、つるはしを握らされた。
今は、自分で身体の状態を確かめられる。
ウィルは両腕を上げた。
肩に痛みはあるが、剣を振れないほどではない。
膝を曲げる。
腰を捻る。
深く息を吸っても、胸や背中へ鋭い痛みは走らなかった。
「今日は、戦わない方がいいかもしれないな」
迷宮討伐記録は9/10。
残っているのは、最奥区画にいる一体だけ。
あと一体倒せば、ユーカリ森林迷宮をコンプリートできる。
新しいスキルも手に入るはずだ。
だが、昨日感じた敵意は、これまでの魔物とは明らかに違っていた。
身体が万全ではない状態で挑む相手ではない。
今日は情報を集める。
装備を整える。
戦うとしても、相手の姿と動きを確認するだけにする。
ウィルは食卓へ座った。
昨日、アレナの店で包んでもらった白いパンを食べる。
残っていた野菜スープも温めた。
ニンジンと芋は、形が少し崩れるほど柔らかくなっている。
塩の量も、以前より安定していた。
「今度は、持っていってもいいか」
アレナから、味を確認すると言われている。
まだ残っていれば持っていくと答えたまま、何日か過ぎていた。
今日の分を小さな容器へ入れておく。
忘れなければ、帰りに食堂へ寄るつもりだった。
食事を終えたあと、ウィルは武器と防具を確認した。
《初心者用片手剣》
《初心者用円盾+1》
《初心者用革防具》
《衝撃緩和の腕輪》
片手剣の刃には、小さな傷がいくつも増えている。
携帯砥石で手入れはしているが、鎧甲虫の脚へ何度も打ち込んだ影響が残っていた。
迷宮主へ挑む前に、武器職人へ見せる必要がある。
「先に店だな」
ウィルは父親の剣が《アイテムボックス》に入っていることも確認した。
胸元の布袋には、母親の手紙。
いつものように、家へ声をかける。
「行ってくる」
◇
武器店の主人は、ウィルの片手剣を光へ向けた。
刃の両面を確認し、指の腹で慎重になぞる。
「かなり使ったな」
「鎧甲虫の脚を斬った」
「殻には当てていないだろうな?」
「一度も当てていない」
「なら、まだましだ」
主人は作業台へ剣を置いた。
「大きな刃こぼれはない。ただ、細かい歪みが増えている。このまま硬いものへ何度も当てれば、刃が欠けるぞ」
「直せますか?」
「研ぎ直せばな。銅貨18枚だ」
「お願いします」
ウィルが硬貨を払うと、主人は砥石と水を用意した。
「冒険者が携帯砥石で手入れするのは悪くない。だが、毎回自分だけで直そうとするな」
「防具職人にも似たことを言われた」
「自分でできる手入れと、職人に任せる修理は別だ」
刃を一定の角度で砥石へ当てる。
しゃり、しゃり、と小さな音が続いた。
「次は何と戦う?」
「ユーカリ森林迷宮の主です」
主人の手が止まった。
「一人でか?」
「ああ」
「お前、まだ新人だろう」
「レベルは3です」
「数字を聞いて安心すると思ったか?」
「思っていない」
武器店の主人は、もう一度剣を研ぎ始めた。
「迷宮主はフォレストウルフだ」
「普通の狼とは違う?」
「大きさも速さも違う。森の中じゃ、人間が振り向くより先に背後へ回る」
「弱点は?」
「狼なら、首や腹だ。だが、当てられればの話だな」
受付へ行く前に、少しだけ情報が手に入った。
「剣で受けるのは?」
「やめろ。爪や牙へ刃を合わせれば、剣を弾かれる。最悪、折れる」
「盾なら?」
「一度は止められるだろう。二度目も止められるかは知らん」
主人はウィルの円盾を見た。
「それでも、初心者用にしては少し丈夫そうだな」
「同じ盾を統合してある」
「前にも聞いたが、妙な強化だ」
研ぎ終わった剣を布で拭く。
刃には、以前より滑らかな光が戻っていた。
「迷宮主と戦うなら、倒すことより、生きて帰ることを考えろ」
「そのつもりです」
「戦う前は、みんなそう言う」
最近、何人もの人間から同じことを言われている。
ウィルは片手剣を受け取った。
「無理だと思ったら戻る」
「迷宮主を前にして、それができるなら長生きする」
◇
冒険者協会へ入る。
受付の女性は、ウィルの腰にある片手剣へ目を向けた。
「武器の手入れをしてきたんですね」
「ああ」
「今日は迷宮主へ挑むつもりですか?」
「情報を聞きに来た」
「それだけですか?」
「姿を見る可能性はある」
「戦う可能性もありますね?」
「相手次第だ」
受付の女性の表情が険しくなった。
「相手が弱そうに見えたら戦う、という判断はやめてください」
「弱くは見えないと思う」
「そういう意味ではありません」
女性は机の下から、一冊の資料を取り出した。
これまで渡された階層ごとの資料よりも薄い。
表紙には、《ユーカリ森林迷宮・最奥区画》と書かれている。
「迷宮主の名前は、《疾風のフォレストウルフ》です」
頁を開く。
そこには、灰色の狼が描かれていた。
通常の狼より一回り以上大きい。
前脚は太く、牙も長い。
背中から尾へかけて、黒い線のような模様が走っている。
「正式には、フォレストウルフの特殊個体と考えられています」
「特殊個体?」
「通常のフォレストウルフより、速度と判断力が高い個体です。迷宮の主として、同じ特徴を持つ個体が繰り返し現れます」
「倒しても、また現れるのか?」
「一定期間が過ぎれば再出現します。迷宮ですから」
迷宮主を一度倒しても、二度と現れなくなるわけではない。
初回討伐だけでなく、再討伐でもガチャチケットを得られる。
その理由も、少し分かった。
「攻撃は噛みつきと爪?」
「はい。ただし、真正面から襲うだけではありません」
受付の女性は、狼の周囲へ指を動かした。
「距離を取りながら周囲を走り、相手の反応を確認します。盾を右へ向ければ左。左へ向ければ背後へ回ります」
「樹上猿と同じように、人間を見るのか」
「樹上猿より厄介です。相手が疲れるまで、何度も攻撃するふりをします」
「攻撃するふり?」
「近づいて、直前で方向を変えます。冒険者が剣や盾を動かした瞬間に、反対側から攻撃します」
早く反応すればいいわけではない。
相手の動きに釣られれば、隙を作られる。
「長く走り続けられる?」
「迷宮主の縄張りの中では、かなり長く動き続けます」
「こちらが逃げ続ければ?」
「人間の方が先に疲れます」
ウィルの敏捷は10。
以前より上がっている。
《森林歩行・極》もある。
それでも、速さを得意とする迷宮主と競うつもりはなかった。
「狭い場所へ誘い込めないか?」
「最奥区画には、太い木と岩があります。ただし、疾風のフォレストウルフは自分が通れない場所へ無理に入ってきません」
「牙猪のように、岩へぶつけることはできない?」
「難しいと思います。あの個体は、障害物の位置を理解しています」
「罠は?」
「罠を設置してから入ることはできません」
最奥区画の入口には、特殊な境界があるらしい。
中へ持ち込んだ道具は使える。
だが、迷宮主が現れる前に罠だけを設置し、一度外へ戻ることはできない。
「中へ入ると、すぐに戦闘になる?」
「一定の場所まで進めば、迷宮主が姿を現します」
「逃げられる?」
「入口まで戻れば、最奥区画から出られます」
「追ってこない?」
「区画の外までは追ってきません」
逃げ道はある。
だが、狼より先に入口へ戻らなければならない。
「背を向けて走れば、追いつかれるな」
「はい」
「なら、盾で防ぎながら下がる?」
「それが基本です。ですが、入口の位置を見失わないでください」
戦いながら方向を変え続ければ、どこから入ってきたのか分からなくなる可能性がある。
「目印を置くのは?」
「地面へ置いたものは、戦闘中に踏まれるかもしれません」
「木へ印をつける」
「迷宮の木を傷つけすぎない程度なら」
ウィルは携帯している白い布を思い出した。
木へ結べば、入口の方向を見失いにくい。
「倒すための基本は?」
「速度を落とすことです」
「脚を傷つける?」
「はい。ただし、最初から脚だけを狙うと動きを読まれます」
「では?」
「攻撃を防いだ直後か、着地の瞬間を狙うしかありません」
角ウサギでも似た戦い方をした。
だが、相手の速度と判断力が違う。
「複数人の場合は、役割を分けます。一人が盾で注意を引き、別の者が側面から脚を狙う」
「一人なら?」
「正直に言えば、今のウィルさんにはおすすめしません」
はっきりと言われた。
「勝てない?」
「私は、あなたの戦いを直接見たわけではありません」
女性は言葉を選ぶように続ける。
「ですが、これまで一体ずつ工夫して倒してきたことは分かっています。それでも、迷宮主は通常魔物とは違います」
「何が一番違う?」
「失敗を待っています」
短い言葉だった。
「通常魔物は、自分の攻撃を繰り返すことが多いです。ですが、疾風のフォレストウルフは、冒険者が疲れることも、焦ることも理解しているように動きます」
人間が盾を下げる。
呼吸が乱れる。
足元を気にする。
そうした一瞬を待ってから襲う。
「一度、姿だけ見て戻るのは?」
「最奥区画へ入れば、向こうは戦うつもりで来ます」
「それでも、最初から帰る準備をして入る」
「……本当に討伐を狙わないと約束できますか?」
「今日は動きを確認する」
「攻撃できそうな隙があっても?」
「一撃だけなら入れるかもしれない」
「約束になっていません」
ウィルは資料の狼を見つめた。
戦えるかもしれないと思えば、剣を振る可能性はある。
それを否定すれば嘘になる。
「深追いはしない」
「ウィルさん」
「傷を負ったら戻る。盾が壊れそうになっても戻る。入口から離れすぎても戻る」
「迷宮主へ傷を与えたあとでも?」
「戻る」
受付の女性は、しばらくウィルの顔を見た。
「分かりました」
「止めないのか?」
「禁止されているわけではありません。あなたには、最奥区画へ入る資格があります」
迷宮の通常魔物を九種類倒した。
それが、最奥へ進む条件なのだろう。
「ただし、解毒薬とは別に、小治癒ポーションを確認してください」
「一本ある」
「一本だけですか?」
「ああ」
「協会で追加購入できます」
「いくら?」
「一本、銅貨30枚です」
ガチャから出た小治癒ポーションは、残り一本。
迷宮主へ挑むなら、予備があった方がいい。
ウィルは一本購入した。
所持している小治癒ポーションは、合計二本になった。
「体力回復薬は?」
「一本ある」
「疲労を感じなくなるからといって、動き続けないでください」
「無理をするための薬ではない」
「覚えていたんですね」
「自分で考えた」
受付の女性は、小さく息を吐いた。
「それでは、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
「帰ってきてください」
いつもの言葉のあとに、一言が加わった。
ウィルは頷いた。
「ああ」
◇
ユーカリ森林迷宮へ入る。
第一階層。
第二階層。
第三階層。
《森林歩行・極》を獲得してから、移動は以前より楽になっていた。
湿った苔。
木の根。
黒い泥。
足を置く場所を意識すれば、ほとんど姿勢を崩さない。
移動時の音も小さくなっている。
第二階層では、樹上猿の近くを通った。
灰色の猿は枝の上で木の実を食べていたが、ウィルには気づかなかった。
第三階層では、遠くに毒牙トカゲの気配を感じた。
戦わず、別の道を進む。
余計な戦闘は一度もしなかった。
最奥区画へ続く、古い石の通路へ到着する。
入口には、昨日読んだ文字が刻まれていた。
最奥区画。
森を駆けるものを倒し、迷宮を踏破せよ。
ウィルは簡易魔石灯を消した。
石の通路の奥には、自然の光が見える。
最奥区画は、完全な地下ではないらしい。
装備を確認する。
片手剣。
円盾。
革防具。
衝撃緩和の腕輪。
腰の革袋には、投擲用石弾を三つ。
《アイテムボックス》には、小治癒ポーション二本。
体力回復薬一本。
低級解毒薬一本。
保存食。
水。
白い布。
ウィルは布を取り出し、入口近くの木の根へ結んだ。
退路の目印だ。
「見るだけだ」
倒すことを考えない。
相手の速さを知る。
攻撃の仕方を知る。
逃げられる距離を確認する。
ウィルは円盾を構え、石の通路を進んだ。
◇
通路の先には、広い森があった。
第三階層と同じ地下にあるはずなのに、頭上から淡い光が差している。
天井は見えない。
太い木々の上に、白く霞んだ空のようなものが広がっていた。
地面は平らではない。
低い草。
木の根。
大きな岩。
中央には、ひらけた場所がある。
森の中に作られた、小さな広場のようだった。
ウィルは入口から離れすぎないよう、十歩だけ進んだ。
背後を確認する。
白い布が見える。
あと十歩ほど下がれば、石の通路へ戻れる。
《気配察知・小》へ意識を向ける。
敵意はない。
「いない?」
さらに一歩進んだ。
その瞬間。
森から、鳥の鳴き声が消えた。
風も止まる。
空気が、急に重くなった。
ウィルは盾を上げた。
右側の茂みが揺れる。
灰色の影が現れた。
疾風のフォレストウルフ。
資料で見た姿より大きい。
四本の脚で立った状態でも、背中はウィルの胸近くまである。
灰色の毛。
背中から尾へ続く黒い模様。
前脚は太く、爪は地面へ食い込んでいる。
金色の目が、ウィルを見ていた。
口元が開く。
白い牙が並ぶ。
「グルルル……」
低い唸り声。
ウィルの背中へ、冷たいものが走った。
身体が強張る。
大きな音。
獣の唸り声。
逃げ道の少ない場所。
一瞬だけ、迷宮ではなく鉱山の坑道が見えた。
看守の怒鳴り声。
石の崩れる音。
狭い道で動けなくなる囚人。
「違う」
ここは坑道ではない。
足は鎖で繋がれていない。
手には剣と盾がある。
逃げることも、自分で決められる。
ウィルは息を吐いた。
疾風のフォレストウルフは、襲ってこない。
十歩以上離れた場所から、こちらを観察している。
ウィルが盾を右へ動かす。
狼が左へ一歩移動した。
盾を中央へ戻す。
狼も止まる。
「見ているな」
受付の女性が言っていたとおりだ。
疾風のフォレストウルフは、相手の反応を確かめている。
ウィルは入口の位置を確認した。
白い布は背後。
まだ見える。
狼が、ゆっくりと歩き始める。
円を描くように、ウィルの左側へ回る。
ウィルも身体の向きを変えた。
常に盾を狼へ向ける。
狼の歩みが速くなる。
小走り。
さらに速く。
灰色の身体が、木々の間を駆ける。
ウィルも向きを変え続ける。
だが、速い。
正面。
左。
背後へ近づく。
ウィルは足を動かし、狼を視界から外さないようにする。
疾風のフォレストウルフが地面を蹴った。
突然、こちらへ向かってくる。
ウィルは盾を構えた。
狼との距離が縮まる。
十歩。
五歩。
三歩。
牙が盾へ届く。
そう思った瞬間、狼が横へ跳んだ。
「っ!」
攻撃ではない。
狼は盾の外側を通り過ぎ、ウィルの右側へ回る。
ウィルが身体を向ける。
そこにはもういない。
背後から、草を蹴る音。
ウィルは振り返らず、前へ飛んだ。
爪が革防具の背中を掠める。
布が裂ける音がした。
ウィルは地面へ片膝をついた。
すぐに振り返る。
狼は、すでに離れた場所へ戻っている。
「今のが、攻撃か」
目で追えなかった。
盾を向けた方向へは来ない。
盾を動かした瞬間、反対側へ回る。
ウィルは背中の傷を確かめられない。
皮膚に痛みはない。
革の表面を掠めただけらしい。
疾風のフォレストウルフが再び走り出す。
今度は、すぐに盾を動かさない。
身体の正面へ固定する。
狼が左側を走る。
ウィルは目だけで追う。
足音。
草の揺れ。
《気配察知・小》で敵意の位置を探す。
狼が突進してくる。
正面。
ウィルは盾を上げなかった。
攻撃するふりかもしれない。
距離が縮まる。
三歩。
二歩。
狼の口が開く。
「今度は来る」
ウィルは盾を前へ出した。
牙が円盾の縁へ当たった。
強い衝撃。
《初心者用円盾+1》が受け止める。
《衝撃緩和の腕輪》が、左腕へ伝わる力を弱める。
それでも、身体が後ろへ押された。
狼は盾へ噛みついたまま、頭を横へ振る。
ウィルの左腕が捻られる。
「ぐっ!」
盾を離すべきか。
そう考えた瞬間、狼が自分から牙を外した。
すぐに横へ跳ぶ。
ウィルは剣を振った。
刃は、灰色の毛の先を掠めただけだった。
狼は着地すると、再び走り始める。
「速すぎる」
盾で攻撃を止めても、剣を当てる時間がない。
牙猪や角ウサギは、攻撃後に身体が流れた。
疾風のフォレストウルフは、盾へ当たった直後に自分から離れている。
ウィルは後ろへ一歩下がった。
入口まで、あと九歩ほど。
まだ白い布が見える。
動きを確認するという目的は果たした。
これ以上戦う必要はない。
「戻る」
盾を構えたまま、一歩ずつ後退する。
狼は追ってこない。
一定の距離を保ちながら、ウィルの周囲を走る。
入口まで、あと七歩。
ウィルは背後を見ない。
足元は《森林歩行・極》が支えている。
狼の姿だけを追う。
あと五歩。
疾風のフォレストウルフが、急に走る方向を変えた。
右から左。
ウィルの背後へ回る。
《気配察知・小》が、強い敵意を知らせた。
ウィルは振り返らず、円盾を背中側へ回した。
爪が盾へ当たる。
硬い音。
衝撃で身体が前へ押される。
入口へ近づく形になった。
あと三歩。
ウィルは盾を正面へ戻し、さらに下がる。
狼が地面を蹴る。
今度は低い。
狙いは脚。
ウィルは剣を下げた。
狼の頭が近づく。
剣を振る。
当たらない。
狼は直前で身体を沈め、ウィルの剣の下を通った。
牙が右脚のすね当てへ噛みつく。
「ぐっ!」
革へ牙が食い込む。
ウィルは円盾の縁を、狼の頭へ振り下ろした。
狼がすぐに牙を外す。
盾は空を切った。
灰色の身体が、後ろへ跳ぶ。
右脚に熱い痛み。
革は破れている。
牙が皮膚まで届いたかもしれない。
入口まで、あと二歩。
ウィルは背を向けなかった。
片足を引きずりながら下がる。
狼が再び走る。
ウィルは腰の革袋から、投擲用石弾を取り出した。
当てるためではない。
狼の進路へ投げる。
石弾が地面へ当たり、土と草が跳ねた。
疾風のフォレストウルフが一瞬だけ進路を変える。
その隙に、ウィルは最後の二歩を下がった。
石の通路へ入る。
見えない境界を越えた瞬間、狼の足が止まった。
「グルルル……」
金色の目が、通路の中にいるウィルを見つめる。
だが、それ以上は近づいてこない。
疾風のフォレストウルフは、しばらく入口の前に立っていた。
やがて身体を反転させ、森の奥へ歩いていく。
灰色の姿が木々の間へ消えた。
ウィルは、その場へ座り込んだ。
「逃げるだけで、これか」
息が乱れている。
左腕は、盾を振られた衝撃で痺れていた。
右脚も痛む。
相手の動きを確認した。
攻撃も二度、防いだ。
それだけで、身体にはこれほど負担が残っている。
もし討伐まで戦い続けていれば、先にウィルの体力が尽きていた。
ウィルは右脚のすね当てを外した。
革に、牙の跡が二つ残っている。
皮膚にも浅い傷。
血が滲んでいた。
深くはない。
ウィルは《小治癒》を使わなかった。
ガチャで手に入れた小治癒ポーションを一本取り出す。
栓を外して飲む。
淡い光が右脚を包んだ。
出血が止まり、傷口がゆっくりと塞がる。
痛みは残る。
それでも、普通に歩ける程度にはなった。
「一本使ったか」
買い足した一本が、まだ残っている。
初めての迷宮主との遭遇で、治療薬を一本消費した。
だが、死なずに情報を持ち帰れた。
安いものだった。
ウィルは破れたすね当てをつけ直した。
白い布を木の根から外す。
疾風のフォレストウルフ。
速い。
攻撃すると見せかけて、盾を動かさせる。
盾で防いでも、反撃する前に離れる。
脚を狙う。
退路も理解している。
「今のままでは勝てない」
口に出して認める。
怖くはなかったと言えば、嘘になる。
だが、絶望するほどではない。
速さは見た。
攻撃の方法も分かった。
完全に見えなかった最初の一撃も、《気配察知・小》を使えば、二度目からは防ぐことができた。
勝つ方法がないのではない。
まだ見つけていないだけだ。
◇
冒険者協会へ戻る。
受付の女性は、ウィルの歩き方を見ただけで立ち上がった。
「怪我をしましたね」
「浅い」
「治療室へ行きます」
「ポーションを使った」
「それでも診てもらってください」
拒む意味はない。
ウィルは治療室へ案内された。
昨日も診てもらった老齢の治療師が、ウィルの顔を見る。
「今度は何に噛まれた?」
「フォレストウルフです」
「迷宮主か」
右脚の防具を外す。
ポーションで傷は塞がっている。
治療師は皮膚を押し、骨や筋肉に異常がないかを確認した。
「骨は問題ない。筋肉も少し打たれた程度だ」
「明日は戦えますか?」
「今日の話をしているうちに、明日の戦いを考えるな」
「痛みがなければ?」
「休め」
はっきりと言われた。
「背中も見せろ」
革防具を外す。
最初の攻撃で、背中には細い裂け目ができていた。
皮膚には届いていない。
「防具がなければ、背中を裂かれていたな」
「ああ」
「左腕は?」
「少し痺れている」
盾を噛まれ、頭を振られた影響だ。
治療師は肘と肩を動かした。
「関節は無事だ。ただ、今日は重い物を持つな」
「治療費は?」
「銅貨10枚だ」
ウィルは代金を払った。
治療室を出ると、受付の女性が待っている。
「討伐は?」
「していない」
「戻ったんですね」
「ああ」
女性の肩から、少しだけ力が抜けた。
「どこまで戦いましたか?」
「攻撃を二度防いだ。背後から一度。脚へ一度噛みつかれた」
「それを、姿を見ただけとは言いません」
「動きを確認した」
「身体で確認しすぎです」
ウィルは受付の前へ座った。
「速かった」
「資料に書いてあります」
「文字で読むより速い」
「それは、そうでしょうね」
ウィルは、最奥区画で見た動きを説明した。
盾を動かすと、反対へ回る。
攻撃するふりをする。
盾を噛んでも、反撃される前に離れる。
脚を狙う。
入口へ戻ろうとすると、背後から攻撃して前へ押す。
「退路を塞ごうとしたんですね」
「ああ」
「迷宮主は、冒険者が逃げる方向も見ています」
「正面だけを見ていても駄目だ」
「一人では難しいと分かりましたか?」
ウィルはすぐに答えなかった。
一人で難しい。
それは確かだった。
複数人なら、一人が盾を向けている間に別の者が脚を狙える。
だが、誰かを誘えるほど親しい冒険者はいない。
七年間、人と深く関わらないようにしてきた。
出所してからも、必要以上に近づかないようにしている。
「一人では、攻撃を当てる時間がない」
「そうですね」
「なら、その時間を作る必要がある」
「まだ一人で戦うつもりですか?」
「ほかに方法がなければ考える」
「誰かと組むことも方法です」
受付の女性が言った。
ウィルは目を伏せた。
「俺と組みたい冒険者がいるとは思えない」
「探してもいないのに、決めつけるんですか?」
「噂を知っているだろう」
「知っています」
禁じられた迷宮核を盗み、スタンピードを起こした罪人。
町では、今もそう思われている。
「それでも、あなたが魔物を倒しているところを見た人はいます。買取所や修理店の人たちも、あなたが戻ってくるたびに話を聞いています」
「それだけで組む相手は決めない」
「なら、あなたも同じです」
「何が?」
「まだ誰とも話していないのに、全員が断ると決めています」
受付の女性は、資料を閉じた。
「一人で戦う方法を考えるのは止めません。ですが、誰かと組む選択まで捨てないでください」
ウィルは答えなかった。
人に頼る。
背中を預ける。
七年間、一度もしなかったことだ。
鉱山刑務所でも表面上の付き合いはあった。
道具を貸す。
食事の列を教える。
崩れそうな場所を伝える。
それ以上は近づかなかった。
親しくなれば、失う。
裏切られる。
目の前で倒れても、助けられない。
そう考えていた。
「考えておく」
ようやく、それだけ答えた。
「考えるだけでも、昨日より進んでいます」
受付の女性は、いつものように冒険者証を返した。
◇
防具修理店へ向かう。
職人は、裂けた背中と牙の跡が残るすね当てを確認した。
「今度は狼か」
「疾風のフォレストウルフです」
「迷宮主に挑んだのか?」
「動きを見ただけです」
「その言い方は、最近流行っているのか?」
「受付にも同じことを言われた」
職人は裂け目へ補修用革を当てた。
「背中とすね当て。材料は預かっている革を使う。銅貨7枚だ」
「お願いします」
「盾は?」
ウィルは《初心者用円盾+1》を渡す。
表面には牙が当たった傷。
縁には、噛まれた跡が残っている。
「壊れてはいないな」
「頭を振られて、腕を捻られた」
「盾が丈夫でも、人間の腕は強化されない」
「腕輪で衝撃は少し減っている」
「衝撃と捻りは別だ」
武器店の主人や受付からも、似たようなことを言われた。
装備一つで、すべての危険を防げるわけではない。
「盾の持ち手を変えられないか?」
「どう変える?」
「すぐに手を離せて、持ち直しやすくしたい」
今の円盾は、前腕を通す革帯と、手で握る持ち手で固定している。
完全に外すには、腕を引き抜かなければならない。
鎧甲虫に挟まれたときも、盾を手放してから完全に離れるまで時間がかかった。
「革帯を外れやすくすれば、防いだ衝撃で盾が飛ぶぞ」
「必要なときだけ外せる形は?」
職人は盾の裏側を見つめた。
「留め具をつける方法はある。だが、戦闘中に片手で外すなら、少し加工が必要だ」
「いくらですか?」
「試作になる。銅貨25枚」
安くはない。
だが、迷宮主に盾を噛まれたとき、腕を守るためには役立つ。
「お願いします」
「今日中には無理だ。明日の夕方まで預かる」
「明日は休むように言われている」
「珍しく、ちょうどいいな」
職人へ防具と盾を預ける。
迷宮主へ再挑戦するのは、そのあとだ。
◇
食堂へ入ると、アレナはウィルの手にある容器へ気づいた。
「それ、何?」
「スープ」
「ウィルが作ったの?」
「ああ」
「持ってきてくれたの?」
「確認すると言っていただろう」
アレナは、少しだけ目を見開いた。
「覚えてたんだ」
「忘れていた日もあった」
「今日は覚えてた?」
「ああ」
容器を受け取る。
アレナは店の奥へ持っていき、小さな器へ移した。
温め直してから、木の匙ですくう。
ウィルは壁際の席へ座った。
食堂にいた客の何人かが、こちらを見る。
だが、今日はスープを持ち込んだ男が気になるだけかもしれない。
アレナが一口食べる。
すぐには何も言わない。
「どうだ?」
「ニンジンは柔らかい」
「そこは確認した」
「芋も崩れすぎてない」
「塩は?」
「少し薄い」
ウィルは黙った。
自分では、ちょうどいいと思っていた。
「不味い?」
「不味くない」
「なら、いい」
「それだけ?」
「前よりは美味い?」
「前は食べてない」
「なら、比べられないな」
アレナはもう一口食べた。
「でも、ちゃんとスープの味がする」
「最初からスープだった」
「最初の頃は、お湯で煮ただけみたいだったでしょう?」
「見ていたのか?」
「おじさんから聞いた」
アレナの父親は、屋根を直しに来たときに鍋の中まで見ていたらしい。
「褒めると言っていただろう」
「うん」
「まだ褒めていない」
アレナは匙を置いた。
「美味しいよ」
「塩が薄いんじゃないのか?」
「少し薄いけど、美味しい」
「両方なのか?」
「両方」
ウィルには、少し分かりにくかった。
完璧ではなくても、美味しいと言っていいらしい。
「次は、もう少し塩を入れる」
「入れすぎないでね」
「測る」
「それなら大丈夫」
アレナはウィルの左腕へ目を向けた。
「今日は盾がないね」
「修理に出した」
「また壊したの?」
「壊れてはいない」
「怪我は?」
「脚を噛まれた」
「何に?」
「狼」
アレナの表情が変わった。
「大きいの?」
「かなり」
「傷は?」
「治療した」
「見せて」
「今日は食事をしに来た」
「見せてから食べて」
結局、すね当てを外して傷を見せることになった。
傷はポーションで塞がっている。
アレナは皮膚に残った赤い跡を見て、眉を寄せた。
「明日は休む?」
「ああ」
「本当に?」
「治療師にも言われた」
「なら、家にいる?」
「戦い方を考える」
「それは休んでるの?」
「身体は使わない」
アレナは納得していない顔だった。
それでも、それ以上は言わずに食事を運んできた。
◇
家へ戻る。
円盾も革防具も修理店へ預けている。
片手剣は手入れを終えている。
ウィルは食卓へ座り、紙と炭を用意した。
母親が服の型を描くために使っていた紙だ。
その上へ、最奥区画の簡単な形を描く。
入口。
中央の広場。
木。
岩。
疾風のフォレストウルフが走った方向。
正確ではない。
それでも、記憶に残っている範囲で書き込む。
狼は、ウィルの周囲を走った。
盾を動かすと、反対側へ回った。
真正面から噛みつくこともある。
脚を狙う。
退路へ向かうと、背後から攻撃する。
「足を止めなければ、剣は当たらない」
投擲用石弾を当てることも難しい。
大針蜂より速い。
樹上猿より、人間の動きを読む。
牙猪より長く追い続ける。
鎧甲虫のように、地形へ誘導して簡単に止めることもできない。
罠を使うなら、戦闘中に設置する必要がある。
一本の木材では足りない。
糸吐き蜘蛛の粘糸があれば、脚を絡められるかもしれない。
だが、粘糸嚢はすでに売っている。
次に糸吐き蜘蛛を倒して、素材を手に入れる方法もある。
確実に残るとは限らない。
「誰かと組む……」
受付の女性の言葉を思い出す。
一人が注意を引き、もう一人が脚を狙う。
理屈は分かる。
問題は、誰と組むかだった。
アレナは冒険者ではない。
受付の女性も戦わない。
買取所や修理店の人間へ頼むことでもない。
冒険者協会には、毎日何人もの冒険者がいる。
名前も知らない。
こちらを知っている者の多くは、ウィルを犯罪者だと思っている。
断られる。
嫌な顔をされる。
罵られる可能性もある。
それでも、声をかけなければ何も変わらない。
母親の手紙には、憎しみに残りの人生を渡さないでほしいと書かれていた。
誰も信じるなとは、書かれていなかった。
ウィルは炭を置いた。
「明日、協会で探してみるか」
誰かへ頼ると決めたわけではない。
まず、迷宮主を倒した経験がある冒険者を探す。
話を聞く。
それから判断する。
食卓の上には、ウィルが描いた最奥区画の地図がある。
線は歪んでいた。
母親やアレナが描く絵とは比べものにならない。
それでも、入口と狼の動きは分かる。
ウィルは地図の中央に、灰色の狼を表す丸を描いた。
その横へ、短い文字を書き込む。
速い。
賢い。
一人では、攻撃を当てる時間がない。
最後に、もう一つ加えた。
勝てないわけではない。
今日のウィルは、迷宮を踏破できなかった。
ガチャチケットも増えていない。
屋根の修理代も増えていない。
治療と装備の加工で、金は減った。
それでも、逃げたことを失敗だとは思わなかった。
勝てないまま戦い続けるより、戻ることを選べた。
鉱山刑務所にいた頃は、逃げる場所も、休む権利もなかった。
今は違う。
戻り。
考え。
もう一度、挑むことができる。
ウィルは紙を折らず、食卓の上へ広げたままにした。
明日は、迷宮へ入らない。
疾風のフォレストウルフを倒すために、まず人の話を聞く。
それは剣を振るよりも、ウィルにとって難しい挑戦になるかもしれなかった。




