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第17話 ひっくり返せないもの



 翌朝。


 ウィルは家の外で、一本の木材を削っていた。


 屋根の応急修理で余ったものだ。長さはウィルの肩ほどあり、片手で持つには少し太い。


 昨日のうちに、表面のささくれは削ってある。


 今日は両端を整え、片方だけを細くしていた。


 鎧甲虫の身体の下へ差し込むためだ。


「これくらいか」


 ウィルは木材を持ち上げた。


 細くした先端を地面へ差し込み、近くにあった大きな石へ当てる。


 そのまま、木材の下へ小さな石を置いた。


 支点。


 鉱山で何度も使った方法だった。


 巨大な岩を、人間の腕力だけで持ち上げることはできない。


 だが、岩と地面の隙間へ丈夫な棒を差し込み、途中へ支点を置けば、わずかに浮かせることができる。


 最初に生まれる隙間は、指一本分にも満たない。


 そこへ小石を入れる。


 支点の位置を変え、もう一度持ち上げる。


 それを繰り返せば、自分より重い岩でも少しずつ動かせた。


 ウィルは木材の反対側へ、体重をかける。


 地面に置いた石が、わずかに持ち上がった。


「使えそうだな」


 ただし、相手は動かない岩ではない。


 六本の脚を持ち、大きな顎で攻撃してくる魔物だ。


 木材を差し込むまで、じっと待ってくれるはずもない。


 必要なのは、鎧甲虫の動きを止める場所。


 身体の下へ木材を入れるための隙間。


 そして、支点に使える岩か木の根だった。


 すべてが揃う場所へ、鎧甲虫を誘導しなければならない。


 ウィルは木材を《アイテムボックス》へ収納した。


 視界に短い説明が表示される。


 《加工した木材》


 家屋の修繕などに使用できる木材です。


 武器としての性能はありません。


「武器じゃないのは分かっている」


 魔物へ叩きつけるために持っていくわけではない。


 力の使い方を変えるための道具だ。


 ウィルは装備を確認した。


 初心者用片手剣。


 初心者用円盾+1。


 初心者用革防具。


 衝撃緩和の腕輪。


 投擲用石弾は、残り8個。


 小治癒ポーションは1本。


 体力回復薬が1本。


 低級解毒薬も補充してある。


 簡易魔石灯の燃料も、まだ十分に残っていた。


 ウィルは胸元の布袋へ触れる。


「行ってくる」


 家の扉を閉め、町へ向かった。


     ◇


 冒険者協会へ入ると、受付の女性はウィルの腰と背中を見た。


「今日は、いつもより荷物が少ないですね」


「《アイテムボックス》に入れている」


「何をですか?」


「木材」


「木材?」


「鎧甲虫をひっくり返すために使う」


 受付の女性の手が止まった。


「まさか、木の棒で殴るつもりではありませんよね?」


「殴らない」


「では、どう使うんですか?」


「身体の下へ差し込んで、梃子にする」


 女性は少し考えた。


「鎧甲虫を持ち上げるつもりですか?」


「全部は持ち上げない。片側だけ浮かせれば、あとは自分の重さで傾く」


「相手は動きますよ」


「分かっている」


「大顎で木材を挟まれれば、折られる可能性もあります」


「正面から差し込まない」


「脚で踏まれたら?」


「その前に離す」


 受付の女性は、深く息を吐いた。


「考えてはいるようですね」


「考えずに行くつもりはない」


「ですが、鎧甲虫について、まだ詳しい説明をしていません」


 第三階層の資料が机へ置かれた。


 鎧甲虫の頁を開く。


 黒い殻。


 太い六本の脚。


 頭部から伸びた大顎。


 昨日、暗闇の中で見た姿と同じだった。


「《鎧甲虫》は、第三階層に生息する通常魔物の中では、最も防御力が高い魔物です」


「背中へ剣を当てても弾かれると聞いた」


「そのとおりです。初心者用の武器で無理に斬れば、剣の方が欠ける可能性があります」


「脚の付け根と腹は柔らかい」


「買取所で聞きましたね?」


「ああ」


「皆さん、私より先に余計なことまで教えますね」


 不満そうに言いながらも、女性は説明を続けた。


「鎧甲虫の動きは、それほど速くありません。ただし、狭い場所では注意してください」


「大顎か?」


「それもありますが、突進された場合、避ける場所がなくなります」


 鎧甲虫は牙猪ほど速くない。


 だが、硬い殻に覆われた巨体が迫ってくれば、正面から止めることは難しい。


「木へ上るか?」


「太い木の幹や、傾いた倒木なら上ります。崖のような垂直の壁は苦手です」


「飛ばない?」


「飛びません」


「羽があるようには見えなかった」


「退化しているのか、殻の下にあるのかは分かりませんが、少なくとも迷宮内で飛行した記録はありません」


 空から襲われる心配はない。


 それだけでも、大針蜂より戦う場所を選びやすい。


「大顎の力は?」


「木の枝程度なら折ります。盾を挟まれた場合、無理に引き抜かないでください」


「盾を離す」


「はい。腕を捻られる前に離してください」


 ウィルは《初心者用円盾+1》へ目を向けた。


 同名装備を統合し、以前より丈夫になっている。


 だが、丈夫になったことと、絶対に壊れないことは違う。


「大顎を閉じたあとは、すぐに開くのか?」


「大きなものを挟んだ場合は、少し時間がかかります」


「盾を噛ませれば、動きを止められる?」


「可能性はあります」


 受付の女性は資料の絵を指で叩いた。


「ただし、盾を壊される可能性もあります。最初から捨てるつもりで使うのは、おすすめしません」


「壊すつもりはない」


「盾を囮にして、その間に木材を差し込むつもりですね?」


 見抜かれた。


「状況によっては」


「状況によっては、ではありません。ほかの方法がなければ撤退してください」


「分かった」


「それと、鎧甲虫の脚は見た目より力があります。木材で身体を浮かせても、反対側の脚で踏ん張られれば戻されます」


「脚を傷つけてから使う」


「それが安全でしょう」


 安全とは言っても、鎧甲虫の脚へ剣を当てられる距離まで近づかなければならない。


 大顎の届く範囲でもある。


「一体だけ倒したら帰ってください」


「迷宮討伐記録が9種類になる」


「報酬があるんですよね?」


「ああ」


「だからこそです。報酬を受け取った直後は、気が緩みます」


「気をつける」


「約束してください」


「一体倒したら帰る」


「怪我をした場合は?」


「倒していなくても帰る」


「装備が壊れた場合は?」


「帰る」


「木材が折れた場合は?」


「別の方法を試す」


 受付の女性の目が細くなった。


「帰ってください」


「……帰る」


「最後だけ少し遅かったですね」


 冒険者証を返される。


「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


     ◇


 第三階層へ到着するまで、魔物とは戦わなかった。


 第一階層では、スライムの気配を遠くに感じた。


 第二階層では、大針蜂の羽音が聞こえたため、太い木の陰で通り過ぎるのを待った。


 戦えば、魔石や素材を得られる。


 討伐数も増える。


 だが、今日必要なのは、鎧甲虫と戦うための体力だった。


 滝の横にある石段を下りる。


 第三階層へ入ると、ウィルは簡易魔石灯を腰へ下げた。


 淡い光が、湿った苔を照らす。


 昨日、糸吐き蜘蛛と戦った場所へ近づく。


 木の根の間には、切れた白い糸が残っていた。


 ウィルは灯りの向きを変える。


 新しい糸はない。


 《気配察知・小》にも、頭上からの敵意は感じなかった。


 さらに奥へ進む。


 昨日、鎧甲虫を見つけた場所には、黒い巨体の姿はなかった。


 地面を見る。


 苔の上に、硬いものを引きずった跡がある。


 六本の脚が残した窪み。


 太い木の根へ続いている。


「移動したのか」


 ウィルは痕跡を追った。


 途中で足を止め、周囲の地形を確認する。


 木の根。


 岩。


 倒木。


 鎧甲虫をひっくり返すなら、支点として使えるものが必要だ。


 だが、使えそうな岩があっても、周囲に十分な空間がない場所もある。


 狭すぎれば、大顎を避けられない。


 広すぎれば、鎧甲虫が別の方向へ逃げる。


 ウィルは戦える場所を探しながら進んだ。


 やがて、少し開けた場所へ出た。


 中央には、人の膝ほどの高さの岩がある。


 岩の片側には浅い泥。


 反対側には太い木の根が伸びていた。


 根と岩の間は、人間一人が通れる程度に空いている。


「ここなら」


 岩を支点に使える。


 鎧甲虫を泥の上へ誘導できれば、脚の動きも鈍くなるかもしれない。


 問題は、鎧甲虫をここまで連れてくることだった。


 ウィルは場所を覚え、痕跡を追う。


 硬いものが擦れる音が聞こえた。


 がり。


 がり。


 太い木の根の向こうに、黒い殻が見える。


 鎧甲虫は、大顎で倒木の表面を削っていた。


 中にいる虫でも食べているのかもしれない。


 身体の高さは、ウィルの腰ほど。


 横幅は、円盾より大きい。


 六本の脚には、短く太い棘が生えている。


 甲虫の周囲へ意識を向ける。


 敵意は一つだけ。


 ほかの魔物はいない。


 ウィルはすぐには攻撃しなかった。


 風向き。


 逃げ道。


 先ほど見つけた岩までの距離。


 すべてを確認する。


 腰の革袋から、投擲用石弾を取り出した。


 鎧甲虫の殻へ向けて投げる。


 石弾が黒い背中へ当たった。


 甲高い音が鳴る。


 傷はついていない。


 鎧甲虫の動きが止まった。


 ゆっくりと身体の向きを変える。


 小さな目が、ウィルを捉えた。


 大顎が開く。


「ギチ……!」


 硬いものが擦れ合う音。


 鎧甲虫が前進を始めた。


 想像していたより速い。


 牙猪ほどではないが、人間が歩いて逃げられる速度でもなかった。


 ウィルは背を向け、走り出す。


 背後から、六本の脚が地面を叩く音が聞こえる。


 どどど、と小刻みに地面が震えた。


 先ほど見つけた岩が見える。


 ウィルは岩の横を通り、泥の手前で振り返った。


 円盾を構える。


 鎧甲虫が迫る。


 大顎が開いている。


 盾を正面へ出せば挟まれる。


 ウィルは盾を身体の横へ引いた。


 直前で左へ避ける。


 鎧甲虫が横を通り過ぎた。


 黒い殻が、腕当てのすぐ近くを掠める。


 鎧甲虫の前脚が泥へ入った。


 身体がわずかに沈む。


 それでも止まらない。


 泥を蹴り、向きを変える。


「思ったより動けるな」


 浅い泥では、脚を完全に止められない。


 鎧甲虫が再びウィルへ向かう。


 今度は突進せず、ゆっくり距離を詰めてきた。


 大顎を開き、左右へ振る。


 ウィルは剣を抜いた。


 正面へは立たない。


 鎧甲虫の右側へ回ろうとする。


 だが、甲虫も身体の向きを変える。


 常に大顎をウィルへ向けていた。


 動きは速くない。


 それでも、側面へ回り込めない。


 ウィルは小さな石を蹴った。


 石が鎧甲虫の右側へ転がる。


 わずかに視線が動いた。


 その瞬間、ウィルは左へ走った。


 鎧甲虫の身体の横へ出る。


 剣を振る。


 狙うのは、中央の脚の付け根。


 刃が黒い脚へ当たった。


 硬い。


 殻ほどではないが、一撃では斬れない。


 浅い傷がついただけだった。


「ギチッ!」


 鎧甲虫が身体を横へ振る。


 太い脚が、ウィルのすね当てへ当たった。


「ぐっ!」


 ウィルの身体が横へ押された。


 倒れる前に、地面へ片手をつく。


 鎧甲虫が向きを変える。


 大顎が近づく。


 ウィルは円盾を前へ出した。


 大顎が盾の縁を挟んだ。


 金属が軋む。


 鎧甲虫が頭を持ち上げる。


 ウィルの左腕ごと、盾が引かれた。


 《衝撃緩和の腕輪》があっても、関節を捻る力までは消えない。


 ウィルは盾の持ち手から手を離した。


 円盾が鎧甲虫の大顎に挟まれたまま、持ち上げられる。


 大顎は深く盾へ食い込んでいた。


 すぐには外れない。


「今だ」


 ウィルは《アイテムボックス》から、加工した木材を取り出した。


 鎧甲虫の側面へ回る。


 盾を外そうと、甲虫が頭を振っている。


 ウィルは傷をつけた中央の脚へ近づいた。


 片手剣を両手で握る。


 同じ場所へ、もう一度振り下ろした。


 刃が、先ほどより深く入る。


 脚の先が大きく揺れた。


 鎧甲虫の身体が、傷ついた側へ傾く。


 ウィルは剣を引き抜き、すぐに離れた。


 甲虫が頭を振る。


 円盾が大顎から外れ、泥の上へ飛んだ。


 自由になった大顎が、ウィルを探す。


 だが、中央の脚が傷ついている。


 身体の向きを変える動きが、先ほどより遅い。


 ウィルは岩の反対側へ走った。


 鎧甲虫が追ってくる。


 傷ついた脚を引きずりながら、それでも止まらない。


 岩の横へ来たところで、ウィルは急に方向を変えた。


 鎧甲虫も追おうとする。


 負傷した脚が、泥へ深く沈んだ。


 巨体が傾く。


 ウィルは木材の細い先端を、鎧甲虫の腹の下へ差し込んだ。


 硬い殻と地面の間。


 完全には入らない。


 身体の縁に引っかかっただけだった。


 鎧甲虫が脚を動かす。


 木材が弾かれる。


 ウィルは手を離した。


 折れてはいない。


 だが、一度目は失敗した。


 鎧甲虫が大顎を開き、こちらへ迫る。


 ウィルは木材を拾わず、横へ避けた。


 円盾は泥の上に落ちている。


 左手には何もない。


 大顎の先端が、革の胸当てを掠めた。


 表面へ二本の傷が入る。


 ウィルは距離を取った。


 木材は、鎧甲虫と岩の間に落ちている。


 近づけば、大顎の範囲へ入る。


「先に、もっと傾ける必要がある」


 脚を一本傷つけただけでは足りない。


 反対側から押す。


 あるいは、さらに泥へ沈ませる。


 ウィルは地面を見る。


 鎧甲虫の傷ついた脚が入っている場所には、水が溜まっていた。


 動くたびに、泥が柔らかくなっている。


 同じ場所を回らせれば、さらに沈む。


 ウィルは腰の革袋から、石弾を取り出した。


 鎧甲虫の左側へ投げる。


 殻へ当たる。


 鎧甲虫が身体を向ける。


 傷ついた右脚が泥へ沈む。


 次は右側へ投げる。


 鎧甲虫が反対へ向く。


 再び同じ脚へ体重がかかる。


 泥が、さらに深くなる。


 甲虫の身体がわずかに傾いた。


「もう一度」


 ウィルは剣を構えた。


 石弾を、鎧甲虫の後ろへ投げる。


 甲虫が身体を回そうとする。


 傷ついた脚では、うまく踏ん張れない。


 黒い腹部の端が見えた。


 ウィルは走った。


 大顎が届く前に側面へ入る。


 片手剣を両手で握り、傷ついた脚へ三度目の攻撃を入れた。


 刃が深く食い込む。


 甲虫の脚が折れた。


「ギチィッ!」


 黒い巨体が大きく傾く。


 残った脚が激しく地面を掻く。


 ウィルはすぐに剣を抜き、木材へ手を伸ばした。


 拾う。


 細く削った先端を、浮いた殻の下へ差し込む。


 今度は、先ほどより深く入った。


 途中にある岩の縁へ、木材を載せる。


 支点。


 木材の反対側を両手で掴む。


 鎧甲虫が暴れる。


 大顎が、ウィルの脚を探すように動いた。


 届かない位置へ立つ。


 ウィルは木材へ体重をかけた。


 厚くなった両手が、木材を掴む。


 腕だけで押さない。


 腰を落とす。


 脚で地面を踏む。


 背中と肩の力を、木材へ伝える。


「動け……!」


 木材が軋んだ。


 鎧甲虫の身体が、わずかに浮く。


 残った脚が地面を掻く。


 元へ戻ろうとする。


 ウィルは力を緩めない。


 鉱山で岩を動かしたときと同じだ。


 最初から全部を持ち上げる必要はない。


 ほんの少し、隙間を作る。


 支点より先にある短い部分が、甲虫の巨体を押し上げる。


 黒い身体が、さらに傾いた。


 一本の脚が地面から離れる。


 続いて、もう一本。


 鎧甲虫が大顎を開き、木材へ噛みついた。


 硬い音が鳴る。


 先端が削れる。


 だが、木材はまだ折れない。


「もう少しだ」


 ウィルは全体重をかけた。


 木材が大きくしなる。


 鎧甲虫の身体が、支えを失った。


 傾きが限界を越える。


 黒い巨体が横へ倒れた。


 残った脚が空を掻く。


 そのまま勢いがつき、背中側へ転がった。


 鎧甲虫が、完全に裏返る。


 黒い殻の下から、柔らかそうな灰色の腹部が露わになった。


「倒れた」


 だが、終わってはいない。


 鎧甲虫は六本の脚を激しく動かしている。


 大顎も、何かを挟もうと開閉を繰り返していた。


 ウィルは木材を手放した。


 片手剣を拾う。


 甲虫の正面には近づかない。


 大顎が届かない後方へ回る。


 灰色の腹部へ、剣を突き刺した。


 刃が深く入る。


「ギチィィッ!」


 鎧甲虫が暴れる。


 脚の一本が、ウィルの肩へ当たった。


 衝撃で身体が揺れる。


 それでも剣を離さない。


 ウィルは刃を引き抜き、一歩下がった。


 甲虫の身体が左右へ揺れる。


 ひっくり返ろうとしている。


 地面へ脚が届けば、起き上がるかもしれない。


 ウィルは再び近づいた。


 同じ傷口へ剣を入れる。


 一度目より深く。


 両手で柄を握り、身体の重さを刃へ乗せる。


 鎧甲虫の動きが、少しずつ弱くなる。


 大顎が一度、大きく閉じた。


 それを最後に、脚の動きが止まった。


 黒い巨体が淡い光に包まれる。


 殻も。


 脚も。


 大顎も。


 すべてが光の粒子へ変わり、第三階層の闇へ溶けていった。


 地面には、大きめの魔石と、黒い殻の一部が残される。


 鎧甲虫を初めて討伐しました。


 初回討伐報酬を獲得しました。


 ガチャチケット:1枚


 所持ガチャチケット:3枚


 鎧甲虫討伐数:1体。


 迷宮討伐記録:9/10。


 迷宮コンプリート報酬を獲得しました。


 スキル《森林歩行》が強化されます。


 《森林歩行》→《森林歩行・極》


 ウィルは、浮かび上がった文字を見つめた。


「新しいスキルではないのか」


 《森林歩行・極》


 森林および森林型迷宮内において、足場の影響を大幅に軽減します。


 泥、苔、木の根、落ち葉、浅い水場などで姿勢を崩しにくくなります。


 移動時に発生する音が、わずかに軽減されます。


 深い沼、崩落、罠などを無効化することはできません。


 《森林歩行》が、より強い能力へ変化している。


 第三階層の湿った苔や泥は、歩くだけでも危険だった。


 その影響が減れば、毒牙トカゲや糸吐き蜘蛛とも戦いやすくなる。


 移動時の音が小さくなる効果もある。


 樹上猿や大針蜂に気づかれず、通り過ぎられる可能性も高くなるだろう。


「9種類の報酬は、強化か」


 3種類で、二つのスキル。


 6種類で、《毒耐性・小》。


 9種類で、《森林歩行》の強化。


 そして残っているのは、あと一種類。


 迷宮の最奥にいる魔物だけだった。


 ウィルは表示を閉じた。


 すぐに歩き出さない。


 受付で約束した。


 鎧甲虫を一体倒したら帰る。


 円盾を拾う。


 大顎に挟まれた縁には、二つの深い傷が残っていた。


 《初心者用円盾+1》でなければ、割れていたかもしれない。


 加工した木材も確認する。


 先端には、大顎で削られた跡がある。


 中央には細い亀裂も入っていた。


 もう一度、同じ力をかければ折れる可能性が高い。


 役目は終えた。


 ウィルは木材も《アイテムボックス》へ収納した。


 魔石と黒い殻を拾う前に、周囲へ意識を向ける。


 新しい敵意はない。


 素材を収納する。


 そのとき、鎧甲虫が削っていた倒木の奥に、石でできた壁が見えた。


 自然の岩ではない。


 人の手で積まれたような、四角い石。


 ウィルは簡易魔石灯を持ち上げた。


 倒木の向こうへ、古い石の通路が続いている。


 通路の入口には、浅く文字が刻まれていた。


 最奥区画。


 その下には、さらに小さな文字がある。


 森を駆けるものを倒し、迷宮を踏破せよ。


「森を駆けるもの……」


 ユーカリ森林迷宮の最奥にいる魔物。


 迷宮討伐記録の、最後の一種類。


 通路の奥から、獣の低い唸り声が聞こえた。


 遠い。


 今すぐ襲われる距離ではない。


 それでも、《気配察知・小》が、これまでとは違う強い敵意を捉えた。


 ウィルの身体が強張る。


 角ウサギ。


 牙猪。


 毒牙トカゲ。


 どの魔物よりも重い気配だった。


 森を駆けるもの。


 おそらく、迷宮の主。


 ウィルは通路へ足を踏み入れなかった。


「今日は帰る」


 円盾には深い傷がある。


 木材も壊れかけている。


 鎧甲虫との戦いで、腕と背中も疲れていた。


 未知の強敵へ挑む状態ではない。


 最奥区画の位置だけを覚える。


 ウィルは石の通路へ背を向けた。


     ◇


 第三階層を戻る途中、ウィルは《森林歩行・極》の変化を確かめた。


 湿った苔へ足を置く。


 以前より滑りにくい。


 黒い泥の上でも、足が深く沈む前に重心を移せる。


 木の根を越える動きも滑らかだった。


 意識して歩けば、足音もわずかに小さくなる。


 完全に無音になるわけではない。


 だが、以前なら水が跳ねていた場所でも、ほとんど音を立てずに進めた。


 第二階層へ上がる。


 枝の上に、樹上猿が一匹いた。


 ウィルは戦わず、木の陰を通る。


 樹上猿は遠くを見たまま、こちらに気づかなかった。


「使えるな」


 強い攻撃魔法ではない。


 魔物を一撃で倒すスキルでもない。


 それでも、戦わずに迷宮を進むためには大きな力だった。


 余計な戦闘を減らせば、体力も装備も温存できる。


 生きて帰る可能性が高くなる。


 ウィルは静かに第一階層へ戻った。


     ◇


 買取所の男は、黒い殻を両手で持ち上げた。


「鎧甲虫の背殻か」


「売れる?」


「もちろんだ。盾や防具の補強材になる」


 男は殻の表面を金属の棒で叩いた。


 高い音が鳴る。


 傷はつかない。


「状態もいい。腹側から倒したんだな」


「ひっくり返した」


「一人でか?」


「ああ」


「どうやって?」


「木材を身体の下へ入れて、岩を支点にした」


 男は黒い殻とウィルの顔を交互に見た。


「魔物に梃子を使ったのか?」


「力では持ち上がらないから」


「普通は脚を狙って、何人かで横から押すんだがな」


「一人しかいない」


「それで木材を持ち込む奴は、あまりいないぞ」


 男は少し笑いながら、魔石を確認した。


「大きめの魔石と、状態のいい背殻。合わせて銀貨1枚と銅貨46枚だ」


「牙猪より高いな」


「背殻が残ったからだ。魔石だけなら、そこまで変わらん」


 銀貨一枚。


 屋根の修理代へ回せる。


 ただし、円盾の修理も必要だった。


「盾を見せてみろ」


 ウィルが円盾を出すと、男は大顎の跡を見た。


「よく割れなかったな」


「少し強化してある」


「これなら、まだ直せるだろう。ただ、何度も挟ませるなよ」


「次は挟ませない」


「冒険者は、みんなそう言う」


 最近、何度も聞く言葉だった。


 ウィルは銀貨と銅貨を受け取った。


     ◇


 防具修理店へ円盾を持ち込むと、職人は何も言わず、二本の深い傷を見つめた。


「鎧甲虫です」


 ウィルが先に説明する。


「見れば分かる」


 職人は盾を裏返した。


 縁を押し、金属の歪みを確認する。


「割れてはいない。統合したとかいう強化が効いたんだろうな」


「直せますか?」


「直せる。ただし、傷を完全に消すことはできん」


「使えるならいい」


「銅貨9枚だ。今日中に終わる」


「お願いします」


 職人へ盾を渡したあと、ウィルは《アイテムボックス》から黒い殻の小さな欠片を取り出した。


 買取所へ売った背殻の端から、自然に割れて落ちていたものだ。


「これは使えますか?」


 職人が受け取る。


「鎧甲虫の殻か」


「ああ」


「小さいが、腕当てか胸当ての一部を補強するくらいなら使える」


「今の防具に?」


「できる。ただし、硬い殻をつければ、その分だけ動きにくくなる」


 ウィルの敏捷は、まだ高くない。


 防御を上げるために、さらに身体を重くするのが正しいとは限らない。


「今すぐ使わず、預けておけますか?」


「構わん。必要になったら相談しろ」


「お願いします」


 何でも手に入れた瞬間に使う必要はない。


 相手や戦い方に合わせて選ぶ。


 それも冒険者に必要なことだった。


     ◇


 食堂へ入ると、アレナはウィルの左腕を見た。


「盾は?」


「修理中だ」


「壊れたの?」


「甲虫に挟まれた」


「甲虫?」


「昨日話した、大きなやつだ」


「どうやって倒したの?」


「木材を使って、ひっくり返した」


 アレナはしばらく黙った。


「ウィルは、冒険者だよね?」


「ああ」


「大工じゃなくて?」


「屋根を直しただけだ」


「今日は木材で魔物を倒したんでしょう?」


「木材では倒していない。ひっくり返すために使った」


「余計に大工みたい」


 アレナは、少しだけ呆れた顔をした。


「怪我は?」


「脚をぶつけられた。防具が止めた」


「見せて」


「浅い」


「浅いかどうかは、見てから決める」


「協会でも同じことを言われる」


「じゃあ、見せるのに慣れたでしょう」


 ウィルは反論できなかった。


 壁際の席へ座り、すね当てを少しずらす。


 皮膚には、赤い痣が残っていた。


 腫れはない。


 アレナが指で周囲を軽く押す。


「痛い?」


「そこは少し」


「歩ける?」


「ここまで歩いてきた」


「聞いてるのは、普通に歩けるかどうか」


「普通に歩ける」


 アレナは痣を確認すると、すね当てを元へ戻した。


「冷やした方がいいと思う」


「家で冷やす」


「食事のあとにして」


「今日の定食は?」


「野菜と豚肉の煮込み。白いパンとスープ」


「銅貨8枚?」


「うん」


「食べる」


 ウィルは、以前より自然に答えた。


 店内の客の中には、まだウィルを気にする者もいる。


 だが、食堂へ入るたびに会話が止まることはなくなっていた。


 ウィルが席へ座っても、ほとんどの客は自分の食事を続けている。


 それだけの変化だった。


 それでも、七年間誰にも見つからないように生きてきたウィルにとっては、大きな変化だった。


     ◇


 夕方。


 修理された円盾を受け取り、家へ戻る。


 ウィルは、今日得た銀貨のうち一枚を、屋根の修理代を入れている木箱へ加えた。


 銀貨3枚。


 銅貨40枚。


 本格修理に必要な金額の、三分の一近くまで来ている。


 釘もある。


 小型の金槌もある。


 まだ木材と防水材が足りない。


 それでも、最初に空の箱を置いた日より、はっきりと目標へ近づいていた。


 ウィルは食卓へ冒険者証を置いた。


 レベル:3。


 迷宮討伐記録:9/10。


 所持ガチャチケット:3枚。


 所持スキル。


 《森林歩行・極》


 《気配察知・小》


 《毒耐性・小》


 残っている魔物は、一種類。


 最奥区画にいる、森を駆けるもの。


 通路の奥から感じた敵意を思い出す。


 これまでの通常魔物とは、明らかに違った。


 受付で資料を読む必要がある。


 装備も確認しなければならない。


 円盾は修理したばかり。


 防具には、これまでの戦いで何度も補修した跡がある。


 片手剣も、携帯砥石だけでは直せない細かな傷が増えていた。


 迷宮の主へ挑む前に、武器職人へ見せた方がいいかもしれない。


 ウィルは、亀裂の入った木材を《アイテムボックス》から取り出した。


 鎧甲虫をひっくり返したとき、中央に深い亀裂ができている。


 もう、同じ使い方はできない。


 それでも、すぐには捨てなかった。


 家の修理材として使える部分が残っているかもしれない。


 長いまま使えなくても、切れば短い板になる。


 道具として役目を終えても、別の使い道がある。


 ウィルは木材を壁へ立てかけた。


 迷宮討伐記録は、あと一つ。


 最奥の魔物を倒せば、この迷宮をコンプリートできる。


 だが、焦って挑むつもりはなかった。


 これまでの九種類は、どの魔物も違う方法で戦った。


 最後の一種類も、同じはずだ。


 まず、知る。


 次に、考える。


 準備をしてから挑む。


 ウィルは父親の剣と、傷の残る円盾へ目を向けた。


「次が、最後か」


 ユーカリ森林迷宮の攻略は、終わりに近づいていた。


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