第16話 見えない糸
翌朝。
ウィルは寝台の上で、右手をゆっくりと握った。
指先の痺れは消えている。毒牙トカゲに噛まれた場所を押しても、わずかな痛みが残っているだけだった。
木の杯を持ち上げる。
落とさない。
次に、食卓の上へ置いた片手剣を握った。
柄を強く掴む。
腕へ力を入れても、動きに違和感はなかった。
「大丈夫そうだな」
昨日、協会の治療師から言われていた。
朝になっても痛みや痺れが残っている場合は、迷宮へ入らず休むこと。
今の状態なら、戦うことはできる。
ただし、防具の修理が必要だった。
右腕の腕当てには、毒牙トカゲの牙が通った穴が二つ開いている。このまま使えば、次も同じ場所を狙われたときに防げない。
ウィルは革防具を《アイテムボックス》へ収納した。
朝食には、ガチャで手に入れた保存食を一つだけ開けた。
白い固焼きパン。
干し肉。
乾燥させた果物。
パンは硬かったが、鉱山刑務所の黒パンとは違う。
水へ浸さなくても噛み切れる。かびの臭いもせず、口の中へ嫌な苦味が残ることもなかった。
食べ終えたウィルは、胸元の布袋へ触れた。
「行ってくる」
誰もいない家へ声をかけ、扉を閉めた。
◇
防具修理店へ着くと、職人は腕当ての穴を見ただけで顔をしかめた。
「昨日は牙猪。今度は何だ?」
「毒牙トカゲです」
「第三階層まで行ったのか」
職人は腕当てを裏返し、牙が貫いた場所を確かめた。
「革が弱くなっていたところを、きれいに抜かれているな」
「直せますか?」
「預かっている補修用革を使えば直せる。材料代はいらんから、手間賃の銅貨4枚だけでいい」
「お願いします」
ウィルが代金を渡すと、職人はすぐに作業台へ腕当てを置いた。
「少し待て。これくらいなら、今直す」
穴が開いた場所の周囲を切り取る。
新しい革を裏側から当て、太い糸で縫いつけていく。
針が革を通るたび、きしむような音がした。
ウィルは職人の手元を見つめる。
「自分でも直せますか?」
「縫うだけならな。だが、防具は革を重ねる向きと、力がかかる方向を考える必要がある」
「屋根と同じか」
「屋根?」
「板を重ねる順番を教わりました」
「似たようなものだ。適当に穴を塞ぐだけなら誰でもできる。次の攻撃を防げるように直すのが職人の仕事だ」
職人は糸を強く引き、結び目を革の内側へ隠した。
「母さんも、似たことを言っていた」
「仕立屋だったのか?」
「服の修繕をしていました」
「なら、縫い方くらい習っておけばよかったな」
「七年前は、自分で防具を直すとは思っていませんでした」
「人生なんて、そんなものだ」
職人は完成した腕当てを差し出した。
穴があった場所には、濃い色の革が重ねられている。
「これで前よりは丈夫だ。ただし、同じところを何度も噛ませるなよ」
「次は噛まれません」
「昨日も似たことを言っていそうな顔だな」
協会の受付にも同じようなことを言われた。
ウィルは返事をせず、腕当てを受け取った。
◇
冒険者協会へ入ると、受付の女性は最初にウィルの右手を見た。
「指を動かしてください」
「もう動かした」
「私の前でもお願いします」
ウィルは右手を開き、指を一本ずつ曲げた。
次に拳を握る。
「痺れは?」
「ない」
「痛みは?」
「傷を押せば少しある」
「剣は握れますか?」
「ああ」
「本当は、もう一日休むという選択もありますよ」
「腕に問題があれば休んだ」
「問題がなくても休んでいいんです」
ウィルは少し黙った。
鉱山刑務所では、働かない日はなかった。
高熱が出た囚人でも、立てるなら坑道へ連れていかれた。倒れれば邪魔にならない場所へ運ばれ、そのまま放置された。
休むという選択に、まだ慣れていない。
「今日は一体だけにする」
「何をですか?」
「第三階層の、次の魔物」
受付の女性は小さく息を吐いた。
「分かりました。ですが、その前に解毒薬を補充してください」
「今日は毒牙トカゲを狙わない」
「狙わなくても出会う可能性があります」
正しい。
ウィルは銅貨35枚を払い、新しい低級解毒薬を一本購入した。
青い瓶を《アイテムボックス》の取り出しやすい位置へ収納する。
「第三階層の二種類目について教えてほしい」
受付の女性は、第三階層の資料を取り出した。
昨日は閉じられた、次の頁を開く。
そこには、大きな蜘蛛が描かれていた。
丸い腹部。
細長い八本の脚。
頭部には、小さな目がいくつも並んでいる。
「《糸吐き蜘蛛》です」
「毒は?」
「確認されていません」
「なら、《毒耐性・小》は関係ないか」
「毒がないから安全、という意味ではありません」
女性は蜘蛛の腹部を指した。
「糸吐き蜘蛛は、木の根や倒木の間に巣を作ります。細い糸へ獲物が触れると、その振動を感じて近づいてきます」
「糸で動きを止める?」
「はい。粘着性のある糸を吐き、脚や腕を絡め取ります」
「剣で切れるか?」
「一本なら切れます。ただ、何本も重なると普通の刃では簡単に切れません」
資料の隅には、糸へ包まれた小動物が描かれていた。
「盾で受けるのは?」
「可能ですが、盾へ糸が貼りつきます。無理に引けば、盾を持つ腕ごと動きを制限されます」
「盾を捨てればいい」
「捨てた盾を餌に近づいてくるとは限りません。相手は木の上や天井にいることが多いですから」
大針蜂と同じように、剣が届かない位置から攻撃してくる。
だが、飛んでいるわけではない。
糸や枝を使って移動する。
「弱点は?」
「腹部は柔らかいです。ですが、背中側は硬い毛で覆われています」
「地面へ落とせれば倒せる?」
「可能性は高いです。ただし、落ちても脚は速いので注意してください」
受付の女性は、資料の蜘蛛を指先で隠した。
「糸吐き蜘蛛そのものより、先に巣を見つけてください」
「細い糸なら、暗い場所では見えない」
「簡易魔石灯を持っていますよね?」
「ああ」
「光を低い位置から当てると、糸が反射する場合があります。正面から照らすだけでは見えにくいので、灯りの向きを変えてください」
「分かった」
「糸を見つけても、すぐに切らないでください」
「なぜ?」
「切った振動で、蜘蛛が近づいてくるからです」
触れても駄目。
切っても、居場所を知らせる。
先に蜘蛛の位置を探さなければならない。
「石を投げるのは?」
「巣へ投げれば、蜘蛛を誘い出せるかもしれません」
「石ならある」
「投げることを止めても、もう聞かないんですね」
「役に立っている」
「そうですね」
女性は諦めたように頷いた。
「単体なら戦っても構いません。複数の反応があれば、すぐに戻ってください」
「約束する」
「今日は先に言えましたね」
受付の女性から冒険者証を受け取る。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
◇
第一階層と第二階層では、魔物との戦闘を避けた。
角ウサギの気配を感じたときは、木々の間を遠回りした。
第二階層では、頭上を飛ぶ大針蜂を見つけた。
ウィルは太い木の陰へ隠れ、蜂が離れるのを待った。
今は討伐数を増やすより、第三階層へ無傷で到着することを優先する。
滝の横にある石段を下りる。
第三階層の暗闇が、ウィルを迎えた。
簡易魔石灯を腰へ下げる。
淡い光が、湿った苔と木の根を照らした。
昨日、毒牙トカゲと戦った場所には近づかない。
別の方向へ進む。
足元には、黒い泥と浅い水溜まりが広がっている。
頭上には、太い木の根が何本も重なっていた。
ウィルは何度も立ち止まり、灯りの向きを変えた。
正面。
右側。
左側。
足元。
最初のうちは、何も見つからなかった。
しばらく歩くと、魔石灯の光が一瞬だけ白く反射した。
ウィルは足を止める。
目の前には、何もないように見える。
灯りを少し下へ動かした。
再び、細い光が浮かんだ。
「糸か」
木の根と倒木の間に、髪の毛ほどの細い糸が伸びている。
一本だけではない。
高さを変えて、何本も張られていた。
正面を見たまま歩いていれば、胸や脚へ触れていた。
ウィルは後ろへ下がった。
糸の先を目で追う。
倒木の陰。
太い根の裏側。
暗くて、奥までは見えない。
《気配察知・小》へ意識を向ける。
弱い敵意。
一つ。
頭上にある。
ウィルは顔を上げた。
重なった根の間に、黒い塊があった。
丸い腹部。
折り畳まれた細長い脚。
糸吐き蜘蛛が、根へ張りついている。
まだ動かない。
こちらに気づいているのかも分からない。
ウィルは腰の革袋から、投擲用石弾を一つ取り出した。
蜘蛛そのものは狙わない。
少し離れた場所に張られている糸へ投げる。
石弾が、細い糸へ触れた。
糸が大きく震える。
次の瞬間。
頭上の黒い塊が消えた。
「速い……!」
糸吐き蜘蛛が、根の間を走った。
八本の脚が、ほとんど音を立てずに動く。
石弾が引っかかった場所の真上まで移動した。
腹部が持ち上がる。
白い糸が吐き出された。
石弾の周囲へ、何重にも巻きついていく。
獲物ではないと気づいたのか、蜘蛛の動きが止まった。
複数の目が、ウィルへ向けられる。
敵意が強くなった。
「見つかったな」
ウィルは円盾を構えた。
糸吐き蜘蛛が、根から根へ移動する。
正面。
右上。
背後へ回り込もうとしている。
ウィルは太い倒木を背にした。
後ろから攻撃される方向を減らす。
蜘蛛が腹部をこちらへ向けた。
糸が飛んでくる。
ウィルは円盾を前へ出した。
白い塊が、盾の表面へ貼りつく。
次の瞬間、糸が強く引かれた。
左腕が上へ持ち上がる。
「っ……!」
糸吐き蜘蛛は、頭上の根へ身体を固定している。
ウィルが力で引き戻そうとしても、相手は巣全体を使って支えていた。
盾を持つ腕が上がる。
腹部が空く。
蜘蛛が根を蹴った。
糸を伝いながら、ウィルへ近づいてくる。
ウィルは左腕へ力を込めるのをやめた。
反対に、一歩前へ出る。
張っていた糸が緩んだ。
盾を引かれていた力が弱くなる。
右手の剣を振る。
白い糸が切れた。
盾が自由になる。
糸吐き蜘蛛が、途中で動きを止めた。
再び根の上へ逃げる。
「張っていると切りにくいのか」
鉱山で、鉱石を載せた荷車を縄で引いたことがある。
重い荷を無理に引き合えば、縄は硬く張り、人の手では扱いにくくなる。
力を緩める。
動かす方向を変える。
それだけで、結び目を外せることもあった。
盾に残った糸は、まだ粘ついている。
だが、腕を動かせないほどではない。
糸吐き蜘蛛が、再び位置を変える。
今度は、ウィルの右側へ回った。
剣を持つ腕を狙っているのかもしれない。
ウィルは盾を右側へ向けた。
蜘蛛が糸を吐く。
盾で受ける。
二本目の糸が貼りついた。
蜘蛛が引く。
ウィルは、今度はすぐに前へ出なかった。
左腕を引き、糸が張った状態を保つ。
相手の位置を確かめる。
糸は、蜘蛛の腹部から真っすぐ伸びている。
蜘蛛の身体は、太い根へ脚をかけていた。
「引くなら、引かせる」
ウィルは盾を持ったまま、横へ走った。
糸が太い木の根へ触れる。
そのまま根の外側を回る。
白い糸が、根へ巻きついた。
蜘蛛がさらに引く。
だが、力の向きはウィルへ真っすぐ届かない。
間に挟まった根が、糸の方向を変えている。
ウィルは盾を身体へ引き寄せた。
厚くなった手のひらが、盾の持ち手を強く掴む。
鉱石を吊り上げる縄を引いたときと同じように、腕だけではなく、脚と背中を使う。
「おおっ!」
全身で糸を引いた。
根へ身体を固定していた糸吐き蜘蛛が、大きく揺れる。
八本の脚が根を掴む。
だが、糸の方向が変わったことで、身体が横へ引かれていた。
一本の脚が外れる。
続いて、二本目。
糸吐き蜘蛛の身体が、根から落ちた。
途中で別の糸を吐こうとする。
ウィルは盾から手を離した。
糸がついた円盾が、根の向こうへ引っ張られていく。
その代わり、ウィルの左腕は自由になった。
地面へ落ちた蜘蛛へ向かって走る。
糸吐き蜘蛛が体勢を立て直した。
地上でも速い。
横へ走り、倒木の陰へ逃げようとする。
ウィルは腰の革袋から石弾を取り出した。
逃げる蜘蛛の前へ投げる。
石弾が泥へ当たった。
泥水が跳ねる。
糸吐き蜘蛛が進路を変えた。
ウィルが待っていた方向だった。
片手剣を振る。
刃が、蜘蛛の長い脚を二本まとめて切り落とした。
「ギチッ!」
硬いものを擦るような声が響く。
糸吐き蜘蛛の身体が傾いた。
残った脚で跳び、ウィルの顔へ向かってくる。
円盾は、まだ根の向こうにある。
ウィルは剣を両手で持った。
蜘蛛の背中は硬い。
狙うのは、柔らかい腹部。
飛びかかってきた身体を、ぎりぎりまで引きつける。
横へ一歩動く。
糸吐き蜘蛛の腹部が見えた。
ウィルは下から剣を振り上げた。
刃が、丸い腹部へ深く入る。
蜘蛛の身体が地面へ落ちた。
それでも脚を動かし、ウィルの足へ糸を吐こうとする。
ウィルは一歩下がった。
剣を持ち上げる。
腹部と頭部の間へ、刃を振り下ろした。
糸吐き蜘蛛の動きが止まる。
黒い身体が淡い光へ包まれた。
粒子となって消えたあと、地面には小さな魔石と、白い糸が巻かれた袋が残された。
糸吐き蜘蛛を初めて討伐しました。
初回討伐報酬を獲得しました。
ガチャチケット:1枚
所持ガチャチケット:2枚
糸吐き蜘蛛討伐数:1体。
迷宮討伐記録:8/10。
「あと一種類」
第三階層の通常魔物は、残り一種類。
その一種類を倒せば、迷宮討伐記録は9/10になる。
新しいコンプリート報酬も得られるはずだ。
だが、ウィルはすぐに先へ進まなかった。
右肩で息をしながら、周囲を確認する。
《気配察知・小》に、新しい敵意はない。
ウィルは根の向こうへ引かれた円盾を拾った。
表面には白い糸が何重にも貼りついている。
手で剥がそうとしても、強く張りついて動かない。
剣で少しずつ切り離す。
すべてをきれいに取るには時間がかかった。
「盾を持っていかれるところだったな」
装備が強くなっても、使えなくされれば意味がない。
糸を受け続ける戦い方は危険だった。
次に戦うなら、最初から木の根を利用する。
蜘蛛へ糸を吐かせる場所も、自分で選ぶ必要がある。
ウィルは魔石と白い袋を《アイテムボックス》へ収納した。
そのとき。
暗い森の奥から、硬いものが擦れる音が聞こえた。
がり。
がり。
石を削るような音。
ウィルは簡易魔石灯を持ち上げた。
光の端に、黒く光るものが映る。
最初は、丸い岩に見えた。
だが、その岩が動いた。
硬い殻。
太い六本の脚。
前方には、大きな顎がある。
人間の腰ほどの高さがある、巨大な甲虫だった。
まだ、こちらには気づいていない。
第三階層の最後の通常魔物。
そう考えた瞬間、足を進めたくなる。
あと一種類。
倒せば、新しいスキルが手に入る。
だが、受付で約束した。
今日は一体だけ。
円盾には、まだ粘つく糸が残っている。
右腕も、毒牙トカゲに噛まれた翌日だ。
未知の魔物へ挑む状態ではない。
「今日は帰る」
ウィルは灯りを下げた。
巨大な甲虫へ背を向けず、ゆっくりと距離を取る。
硬い殻を持つ魔物は、ウィルに気づかないまま暗闇の奥へ消えていった。
◇
買取所の男は、白い袋を金属製の皿へ載せた。
「糸吐き蜘蛛の粘糸嚢だな」
「売れるのか?」
「売れる。糸を加工すれば、靴底や鞄の補強に使える」
男は小さな棒で袋を押した。
中から、白い糸がわずかに伸びる。
「直接触るなよ。皮膚には問題ないが、指同士が貼りつくと面倒だ」
「盾から剥がすのにも時間がかかった」
「水では落ちにくい。油を少しつければ剥がしやすくなる」
「先に知りたかった」
「生きて持ち帰ったんだから、問題ないだろう」
男は魔石も確認した。
「魔石と粘糸嚢で、銅貨63枚だ」
「高いな」
「粘糸嚢が傷ついていないからな。剣で腹を斬りすぎると、糸が使えなくなる」
今回は、腹部を斬った。
それでも、袋そのものには刃が届かなかったらしい。
次も同じ状態で持ち帰れるとは限らない。
「第三階層の奥に、大きな甲虫がいた」
ウィルが言うと、男は銅貨を数える手を止めた。
「黒い殻か?」
「ああ。大きな顎があった」
「《鎧甲虫》だな」
「硬いのか?」
「名前のとおりだ。背中へ剣を振り下ろしても、普通の刃じゃ弾かれる」
「弱い場所は?」
「腹と、脚の付け根だ。だが、ひっくり返せればの話だな」
人間の腰ほどもある甲虫を、どうやってひっくり返すのか。
牙猪ほど重くは見えなかった。
それでも、手で簡単に持ち上げられる大きさではない。
「大顎にも気をつけろ。盾を挟まれれば、そのまま持っていかれるぞ」
「盾を使えない相手が続くな」
「盾は何でも止める道具じゃない」
受付や防具職人と、似たようなことを言う。
ウィルは銅貨63枚を受け取った。
そこから解毒薬を買った代金を引けば、今日の利益は銅貨28枚。
防具の修理代も含めれば、さらに少なくなる。
それでも、毒牙トカゲと戦った昨日よりは金が残った。
怪我もしていない。
「少しは、ましになったな」
ウィルは硬貨を革袋へ入れた。
◇
食堂の前を通ると、今日はアレナの姿がなかった。
そのまま帰ろうとしたところで、店の扉が開く。
「ウィル?」
料理の皿を持ったアレナが顔を出した。
「どうして、店の前で止まってるの?」
「止まっていない」
「少し歩くのが遅くなった」
「気のせいだ」
アレナはウィルの全身を見た。
腕当て。
胸当て。
円盾。
血がついていないことを確かめたらしい。
「今日は怪我してない?」
「ああ」
「毒は?」
「受けていない」
「何と戦ったの?」
「蜘蛛だ」
アレナの表情が、わずかに固まった。
「大きい?」
「子供くらいはあった」
「それは蜘蛛じゃなくて魔物」
「最初から魔物の話をしている」
「糸は?」
「盾へつけられた」
「取れたの?」
「時間がかかった」
アレナは円盾へ残った白い糸を見つけた。
指を伸ばそうとする。
「触るな」
ウィルは盾を後ろへ引いた。
「貼りつく」
「先に言って」
「今言った」
「触る前に」
「まだ触っていない」
アレナは少し不満そうに手を下ろした。
「食事は?」
「保存食を食べた」
「朝でしょう?」
「ああ」
「お昼は?」
「まだだ」
「なら、入って」
ウィルは店内を見た。
昼を少し過ぎているため、客は多くない。
「今日の定食は?」
「鶏肉と豆の煮込み。スープと白いパンもつく」
「銅貨8枚?」
「うん」
「食べる」
以前のように、入口で長く迷うことはなかった。
ウィルはアレナが開けた扉をくぐる。
店内にいた何人かがこちらを見た。
すぐに食事へ戻る者もいる。
小声で話し始める者もいる。
すべての視線が消えたわけではない。
それでも、ウィルの足が止まることはなかった。
◇
夕方。
家へ戻ったウィルは、屋根の修理代を入れている木箱を開けた。
今日の収入から、銅貨20枚を入れる。
銀貨2枚。
銅貨40枚。
まだ本格修理には届かない。
それでも、毒を受けた昨日よりは進んだ。
ウィルは食卓へ座り、冒険者証を開いた。
レベル:3。
迷宮討伐記録:8/10。
所持ガチャチケット:2枚。
第三階層で未討伐の通常魔物は、鎧甲虫だけ。
それを倒せば、9種類討伐のコンプリート報酬が手に入る。
だが、背中は硬い殻で覆われている。
剣を振り下ろしても弾かれる。
大顎で盾を挟まれる可能性もある。
ウィルは円盾へ残っている、細い白い糸を見た。
糸吐き蜘蛛との戦いでは、力で引き合うのをやめた。
根へ糸を巻き、力の向きを変えた。
鎧甲虫も、正面から殻を斬る必要はない。
ひっくり返せば、柔らかい腹が見える。
問題は、どうやって巨体を裏返すかだ。
ウィルは厚くなった両手を見た。
鉱山では、自分より重い岩を何度も動かした。
持ち上げたわけではない。
棒を差し込む。
支点を作る。
少しずつ傾ける。
力だけで動かせないものにも、動かし方はある。
「使える棒が必要だな」
第三階層には、太い木の根や倒木がある。
だが、都合のいい場所で戦えるとは限らない。
持ち運べる丈夫な棒。
あるいは、甲虫の身体の下へ差し込める道具。
ウィルは家の隅へ視線を向けた。
屋根の修理で余った、細長い木材が一本置かれている。
長さは、ウィルの肩ほど。
そのまま武器にはならない。
だが、梃子としてなら使えるかもしれない。
ウィルは木材を手に取った。
両手で力を加える。
簡単には折れない。
表面を削り、持ちやすくすれば迷宮にも持っていける。
父親の剣。
円盾。
ガチャから出た道具。
そして、家の修理で余った一本の木材。
何が役に立つかは、戦ってみるまで分からない。
ウィルは木材を作業机の上へ置いた。
明日は、これを持って鎧甲虫へ挑む。
迷宮討伐記録は、あと一つで9/10。
だが、報酬を得るために戦うのではない。
無事に倒せる方法を考えたうえで、挑む。
ウィルは白い糸の残った円盾と、一本の木材を見比べた。
力で勝てないなら、力の使い方を変えればいい。




