表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
16/48

第16話 見えない糸



 翌朝。


 ウィルは寝台の上で、右手をゆっくりと握った。


 指先の痺れは消えている。毒牙トカゲに噛まれた場所を押しても、わずかな痛みが残っているだけだった。


 木の杯を持ち上げる。


 落とさない。


 次に、食卓の上へ置いた片手剣を握った。


 柄を強く掴む。


 腕へ力を入れても、動きに違和感はなかった。


「大丈夫そうだな」


 昨日、協会の治療師から言われていた。


 朝になっても痛みや痺れが残っている場合は、迷宮へ入らず休むこと。


 今の状態なら、戦うことはできる。


 ただし、防具の修理が必要だった。


 右腕の腕当てには、毒牙トカゲの牙が通った穴が二つ開いている。このまま使えば、次も同じ場所を狙われたときに防げない。


 ウィルは革防具を《アイテムボックス》へ収納した。


 朝食には、ガチャで手に入れた保存食を一つだけ開けた。


 白い固焼きパン。


 干し肉。


 乾燥させた果物。


 パンは硬かったが、鉱山刑務所の黒パンとは違う。


 水へ浸さなくても噛み切れる。かびの臭いもせず、口の中へ嫌な苦味が残ることもなかった。


 食べ終えたウィルは、胸元の布袋へ触れた。


「行ってくる」


 誰もいない家へ声をかけ、扉を閉めた。


     ◇


 防具修理店へ着くと、職人は腕当ての穴を見ただけで顔をしかめた。


「昨日は牙猪。今度は何だ?」


「毒牙トカゲです」


「第三階層まで行ったのか」


 職人は腕当てを裏返し、牙が貫いた場所を確かめた。


「革が弱くなっていたところを、きれいに抜かれているな」


「直せますか?」


「預かっている補修用革を使えば直せる。材料代はいらんから、手間賃の銅貨4枚だけでいい」


「お願いします」


 ウィルが代金を渡すと、職人はすぐに作業台へ腕当てを置いた。


「少し待て。これくらいなら、今直す」


 穴が開いた場所の周囲を切り取る。


 新しい革を裏側から当て、太い糸で縫いつけていく。


 針が革を通るたび、きしむような音がした。


 ウィルは職人の手元を見つめる。


「自分でも直せますか?」


「縫うだけならな。だが、防具は革を重ねる向きと、力がかかる方向を考える必要がある」


「屋根と同じか」


「屋根?」


「板を重ねる順番を教わりました」


「似たようなものだ。適当に穴を塞ぐだけなら誰でもできる。次の攻撃を防げるように直すのが職人の仕事だ」


 職人は糸を強く引き、結び目を革の内側へ隠した。


「母さんも、似たことを言っていた」


「仕立屋だったのか?」


「服の修繕をしていました」


「なら、縫い方くらい習っておけばよかったな」


「七年前は、自分で防具を直すとは思っていませんでした」


「人生なんて、そんなものだ」


 職人は完成した腕当てを差し出した。


 穴があった場所には、濃い色の革が重ねられている。


「これで前よりは丈夫だ。ただし、同じところを何度も噛ませるなよ」


「次は噛まれません」


「昨日も似たことを言っていそうな顔だな」


 協会の受付にも同じようなことを言われた。


 ウィルは返事をせず、腕当てを受け取った。


     ◇


 冒険者協会へ入ると、受付の女性は最初にウィルの右手を見た。


「指を動かしてください」


「もう動かした」


「私の前でもお願いします」


 ウィルは右手を開き、指を一本ずつ曲げた。


 次に拳を握る。


「痺れは?」


「ない」


「痛みは?」


「傷を押せば少しある」


「剣は握れますか?」


「ああ」


「本当は、もう一日休むという選択もありますよ」


「腕に問題があれば休んだ」


「問題がなくても休んでいいんです」


 ウィルは少し黙った。


 鉱山刑務所では、働かない日はなかった。


 高熱が出た囚人でも、立てるなら坑道へ連れていかれた。倒れれば邪魔にならない場所へ運ばれ、そのまま放置された。


 休むという選択に、まだ慣れていない。


「今日は一体だけにする」


「何をですか?」


「第三階層の、次の魔物」


 受付の女性は小さく息を吐いた。


「分かりました。ですが、その前に解毒薬を補充してください」


「今日は毒牙トカゲを狙わない」


「狙わなくても出会う可能性があります」


 正しい。


 ウィルは銅貨35枚を払い、新しい低級解毒薬を一本購入した。


 青い瓶を《アイテムボックス》の取り出しやすい位置へ収納する。


「第三階層の二種類目について教えてほしい」


 受付の女性は、第三階層の資料を取り出した。


 昨日は閉じられた、次の頁を開く。


 そこには、大きな蜘蛛が描かれていた。


 丸い腹部。


 細長い八本の脚。


 頭部には、小さな目がいくつも並んでいる。


「《糸吐き蜘蛛》です」


「毒は?」


「確認されていません」


「なら、《毒耐性・小》は関係ないか」


「毒がないから安全、という意味ではありません」


 女性は蜘蛛の腹部を指した。


「糸吐き蜘蛛は、木の根や倒木の間に巣を作ります。細い糸へ獲物が触れると、その振動を感じて近づいてきます」


「糸で動きを止める?」


「はい。粘着性のある糸を吐き、脚や腕を絡め取ります」


「剣で切れるか?」


「一本なら切れます。ただ、何本も重なると普通の刃では簡単に切れません」


 資料の隅には、糸へ包まれた小動物が描かれていた。


「盾で受けるのは?」


「可能ですが、盾へ糸が貼りつきます。無理に引けば、盾を持つ腕ごと動きを制限されます」


「盾を捨てればいい」


「捨てた盾を餌に近づいてくるとは限りません。相手は木の上や天井にいることが多いですから」


 大針蜂と同じように、剣が届かない位置から攻撃してくる。


 だが、飛んでいるわけではない。


 糸や枝を使って移動する。


「弱点は?」


「腹部は柔らかいです。ですが、背中側は硬い毛で覆われています」


「地面へ落とせれば倒せる?」


「可能性は高いです。ただし、落ちても脚は速いので注意してください」


 受付の女性は、資料の蜘蛛を指先で隠した。


「糸吐き蜘蛛そのものより、先に巣を見つけてください」


「細い糸なら、暗い場所では見えない」


「簡易魔石灯を持っていますよね?」


「ああ」


「光を低い位置から当てると、糸が反射する場合があります。正面から照らすだけでは見えにくいので、灯りの向きを変えてください」


「分かった」


「糸を見つけても、すぐに切らないでください」


「なぜ?」


「切った振動で、蜘蛛が近づいてくるからです」


 触れても駄目。


 切っても、居場所を知らせる。


 先に蜘蛛の位置を探さなければならない。


「石を投げるのは?」


「巣へ投げれば、蜘蛛を誘い出せるかもしれません」


「石ならある」


「投げることを止めても、もう聞かないんですね」


「役に立っている」


「そうですね」


 女性は諦めたように頷いた。


「単体なら戦っても構いません。複数の反応があれば、すぐに戻ってください」


「約束する」


「今日は先に言えましたね」


 受付の女性から冒険者証を受け取る。


「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


     ◇


 第一階層と第二階層では、魔物との戦闘を避けた。


 角ウサギの気配を感じたときは、木々の間を遠回りした。


 第二階層では、頭上を飛ぶ大針蜂を見つけた。


 ウィルは太い木の陰へ隠れ、蜂が離れるのを待った。


 今は討伐数を増やすより、第三階層へ無傷で到着することを優先する。


 滝の横にある石段を下りる。


 第三階層の暗闇が、ウィルを迎えた。


 簡易魔石灯を腰へ下げる。


 淡い光が、湿った苔と木の根を照らした。


 昨日、毒牙トカゲと戦った場所には近づかない。


 別の方向へ進む。


 足元には、黒い泥と浅い水溜まりが広がっている。


 頭上には、太い木の根が何本も重なっていた。


 ウィルは何度も立ち止まり、灯りの向きを変えた。


 正面。


 右側。


 左側。


 足元。


 最初のうちは、何も見つからなかった。


 しばらく歩くと、魔石灯の光が一瞬だけ白く反射した。


 ウィルは足を止める。


 目の前には、何もないように見える。


 灯りを少し下へ動かした。


 再び、細い光が浮かんだ。


「糸か」


 木の根と倒木の間に、髪の毛ほどの細い糸が伸びている。


 一本だけではない。


 高さを変えて、何本も張られていた。


 正面を見たまま歩いていれば、胸や脚へ触れていた。


 ウィルは後ろへ下がった。


 糸の先を目で追う。


 倒木の陰。


 太い根の裏側。


 暗くて、奥までは見えない。


 《気配察知・小》へ意識を向ける。


 弱い敵意。


 一つ。


 頭上にある。


 ウィルは顔を上げた。


 重なった根の間に、黒い塊があった。


 丸い腹部。


 折り畳まれた細長い脚。


 糸吐き蜘蛛が、根へ張りついている。


 まだ動かない。


 こちらに気づいているのかも分からない。


 ウィルは腰の革袋から、投擲用石弾を一つ取り出した。


 蜘蛛そのものは狙わない。


 少し離れた場所に張られている糸へ投げる。


 石弾が、細い糸へ触れた。


 糸が大きく震える。


 次の瞬間。


 頭上の黒い塊が消えた。


「速い……!」


 糸吐き蜘蛛が、根の間を走った。


 八本の脚が、ほとんど音を立てずに動く。


 石弾が引っかかった場所の真上まで移動した。


 腹部が持ち上がる。


 白い糸が吐き出された。


 石弾の周囲へ、何重にも巻きついていく。


 獲物ではないと気づいたのか、蜘蛛の動きが止まった。


 複数の目が、ウィルへ向けられる。


 敵意が強くなった。


「見つかったな」


 ウィルは円盾を構えた。


 糸吐き蜘蛛が、根から根へ移動する。


 正面。


 右上。


 背後へ回り込もうとしている。


 ウィルは太い倒木を背にした。


 後ろから攻撃される方向を減らす。


 蜘蛛が腹部をこちらへ向けた。


 糸が飛んでくる。


 ウィルは円盾を前へ出した。


 白い塊が、盾の表面へ貼りつく。


 次の瞬間、糸が強く引かれた。


 左腕が上へ持ち上がる。


「っ……!」


 糸吐き蜘蛛は、頭上の根へ身体を固定している。


 ウィルが力で引き戻そうとしても、相手は巣全体を使って支えていた。


 盾を持つ腕が上がる。


 腹部が空く。


 蜘蛛が根を蹴った。


 糸を伝いながら、ウィルへ近づいてくる。


 ウィルは左腕へ力を込めるのをやめた。


 反対に、一歩前へ出る。


 張っていた糸が緩んだ。


 盾を引かれていた力が弱くなる。


 右手の剣を振る。


 白い糸が切れた。


 盾が自由になる。


 糸吐き蜘蛛が、途中で動きを止めた。


 再び根の上へ逃げる。


「張っていると切りにくいのか」


 鉱山で、鉱石を載せた荷車を縄で引いたことがある。


 重い荷を無理に引き合えば、縄は硬く張り、人の手では扱いにくくなる。


 力を緩める。


 動かす方向を変える。


 それだけで、結び目を外せることもあった。


 盾に残った糸は、まだ粘ついている。


 だが、腕を動かせないほどではない。


 糸吐き蜘蛛が、再び位置を変える。


 今度は、ウィルの右側へ回った。


 剣を持つ腕を狙っているのかもしれない。


 ウィルは盾を右側へ向けた。


 蜘蛛が糸を吐く。


 盾で受ける。


 二本目の糸が貼りついた。


 蜘蛛が引く。


 ウィルは、今度はすぐに前へ出なかった。


 左腕を引き、糸が張った状態を保つ。


 相手の位置を確かめる。


 糸は、蜘蛛の腹部から真っすぐ伸びている。


 蜘蛛の身体は、太い根へ脚をかけていた。


「引くなら、引かせる」


 ウィルは盾を持ったまま、横へ走った。


 糸が太い木の根へ触れる。


 そのまま根の外側を回る。


 白い糸が、根へ巻きついた。


 蜘蛛がさらに引く。


 だが、力の向きはウィルへ真っすぐ届かない。


 間に挟まった根が、糸の方向を変えている。


 ウィルは盾を身体へ引き寄せた。


 厚くなった手のひらが、盾の持ち手を強く掴む。


 鉱石を吊り上げる縄を引いたときと同じように、腕だけではなく、脚と背中を使う。


「おおっ!」


 全身で糸を引いた。


 根へ身体を固定していた糸吐き蜘蛛が、大きく揺れる。


 八本の脚が根を掴む。


 だが、糸の方向が変わったことで、身体が横へ引かれていた。


 一本の脚が外れる。


 続いて、二本目。


 糸吐き蜘蛛の身体が、根から落ちた。


 途中で別の糸を吐こうとする。


 ウィルは盾から手を離した。


 糸がついた円盾が、根の向こうへ引っ張られていく。


 その代わり、ウィルの左腕は自由になった。


 地面へ落ちた蜘蛛へ向かって走る。


 糸吐き蜘蛛が体勢を立て直した。


 地上でも速い。


 横へ走り、倒木の陰へ逃げようとする。


 ウィルは腰の革袋から石弾を取り出した。


 逃げる蜘蛛の前へ投げる。


 石弾が泥へ当たった。


 泥水が跳ねる。


 糸吐き蜘蛛が進路を変えた。


 ウィルが待っていた方向だった。


 片手剣を振る。


 刃が、蜘蛛の長い脚を二本まとめて切り落とした。


「ギチッ!」


 硬いものを擦るような声が響く。


 糸吐き蜘蛛の身体が傾いた。


 残った脚で跳び、ウィルの顔へ向かってくる。


 円盾は、まだ根の向こうにある。


 ウィルは剣を両手で持った。


 蜘蛛の背中は硬い。


 狙うのは、柔らかい腹部。


 飛びかかってきた身体を、ぎりぎりまで引きつける。


 横へ一歩動く。


 糸吐き蜘蛛の腹部が見えた。


 ウィルは下から剣を振り上げた。


 刃が、丸い腹部へ深く入る。


 蜘蛛の身体が地面へ落ちた。


 それでも脚を動かし、ウィルの足へ糸を吐こうとする。


 ウィルは一歩下がった。


 剣を持ち上げる。


 腹部と頭部の間へ、刃を振り下ろした。


 糸吐き蜘蛛の動きが止まる。


 黒い身体が淡い光へ包まれた。


 粒子となって消えたあと、地面には小さな魔石と、白い糸が巻かれた袋が残された。


 糸吐き蜘蛛を初めて討伐しました。


 初回討伐報酬を獲得しました。


 ガチャチケット:1枚


 所持ガチャチケット:2枚


 糸吐き蜘蛛討伐数:1体。


 迷宮討伐記録:8/10。


「あと一種類」


 第三階層の通常魔物は、残り一種類。


 その一種類を倒せば、迷宮討伐記録は9/10になる。


 新しいコンプリート報酬も得られるはずだ。


 だが、ウィルはすぐに先へ進まなかった。


 右肩で息をしながら、周囲を確認する。


 《気配察知・小》に、新しい敵意はない。


 ウィルは根の向こうへ引かれた円盾を拾った。


 表面には白い糸が何重にも貼りついている。


 手で剥がそうとしても、強く張りついて動かない。


 剣で少しずつ切り離す。


 すべてをきれいに取るには時間がかかった。


「盾を持っていかれるところだったな」


 装備が強くなっても、使えなくされれば意味がない。


 糸を受け続ける戦い方は危険だった。


 次に戦うなら、最初から木の根を利用する。


 蜘蛛へ糸を吐かせる場所も、自分で選ぶ必要がある。


 ウィルは魔石と白い袋を《アイテムボックス》へ収納した。


 そのとき。


 暗い森の奥から、硬いものが擦れる音が聞こえた。


 がり。


 がり。


 石を削るような音。


 ウィルは簡易魔石灯を持ち上げた。


 光の端に、黒く光るものが映る。


 最初は、丸い岩に見えた。


 だが、その岩が動いた。


 硬い殻。


 太い六本の脚。


 前方には、大きな顎がある。


 人間の腰ほどの高さがある、巨大な甲虫だった。


 まだ、こちらには気づいていない。


 第三階層の最後の通常魔物。


 そう考えた瞬間、足を進めたくなる。


 あと一種類。


 倒せば、新しいスキルが手に入る。


 だが、受付で約束した。


 今日は一体だけ。


 円盾には、まだ粘つく糸が残っている。


 右腕も、毒牙トカゲに噛まれた翌日だ。


 未知の魔物へ挑む状態ではない。


「今日は帰る」


 ウィルは灯りを下げた。


 巨大な甲虫へ背を向けず、ゆっくりと距離を取る。


 硬い殻を持つ魔物は、ウィルに気づかないまま暗闇の奥へ消えていった。


     ◇


 買取所の男は、白い袋を金属製の皿へ載せた。


「糸吐き蜘蛛の粘糸嚢だな」


「売れるのか?」


「売れる。糸を加工すれば、靴底や鞄の補強に使える」


 男は小さな棒で袋を押した。


 中から、白い糸がわずかに伸びる。


「直接触るなよ。皮膚には問題ないが、指同士が貼りつくと面倒だ」


「盾から剥がすのにも時間がかかった」


「水では落ちにくい。油を少しつければ剥がしやすくなる」


「先に知りたかった」


「生きて持ち帰ったんだから、問題ないだろう」


 男は魔石も確認した。


「魔石と粘糸嚢で、銅貨63枚だ」


「高いな」


「粘糸嚢が傷ついていないからな。剣で腹を斬りすぎると、糸が使えなくなる」


 今回は、腹部を斬った。


 それでも、袋そのものには刃が届かなかったらしい。


 次も同じ状態で持ち帰れるとは限らない。


「第三階層の奥に、大きな甲虫がいた」


 ウィルが言うと、男は銅貨を数える手を止めた。


「黒い殻か?」


「ああ。大きな顎があった」


「《鎧甲虫》だな」


「硬いのか?」


「名前のとおりだ。背中へ剣を振り下ろしても、普通の刃じゃ弾かれる」


「弱い場所は?」


「腹と、脚の付け根だ。だが、ひっくり返せればの話だな」


 人間の腰ほどもある甲虫を、どうやってひっくり返すのか。


 牙猪ほど重くは見えなかった。


 それでも、手で簡単に持ち上げられる大きさではない。


「大顎にも気をつけろ。盾を挟まれれば、そのまま持っていかれるぞ」


「盾を使えない相手が続くな」


「盾は何でも止める道具じゃない」


 受付や防具職人と、似たようなことを言う。


 ウィルは銅貨63枚を受け取った。


 そこから解毒薬を買った代金を引けば、今日の利益は銅貨28枚。


 防具の修理代も含めれば、さらに少なくなる。


 それでも、毒牙トカゲと戦った昨日よりは金が残った。


 怪我もしていない。


「少しは、ましになったな」


 ウィルは硬貨を革袋へ入れた。


     ◇


 食堂の前を通ると、今日はアレナの姿がなかった。


 そのまま帰ろうとしたところで、店の扉が開く。


「ウィル?」


 料理の皿を持ったアレナが顔を出した。


「どうして、店の前で止まってるの?」


「止まっていない」


「少し歩くのが遅くなった」


「気のせいだ」


 アレナはウィルの全身を見た。


 腕当て。


 胸当て。


 円盾。


 血がついていないことを確かめたらしい。


「今日は怪我してない?」


「ああ」


「毒は?」


「受けていない」


「何と戦ったの?」


「蜘蛛だ」


 アレナの表情が、わずかに固まった。


「大きい?」


「子供くらいはあった」


「それは蜘蛛じゃなくて魔物」


「最初から魔物の話をしている」


「糸は?」


「盾へつけられた」


「取れたの?」


「時間がかかった」


 アレナは円盾へ残った白い糸を見つけた。


 指を伸ばそうとする。


「触るな」


 ウィルは盾を後ろへ引いた。


「貼りつく」


「先に言って」


「今言った」


「触る前に」


「まだ触っていない」


 アレナは少し不満そうに手を下ろした。


「食事は?」


「保存食を食べた」


「朝でしょう?」


「ああ」


「お昼は?」


「まだだ」


「なら、入って」


 ウィルは店内を見た。


 昼を少し過ぎているため、客は多くない。


「今日の定食は?」


「鶏肉と豆の煮込み。スープと白いパンもつく」


「銅貨8枚?」


「うん」


「食べる」


 以前のように、入口で長く迷うことはなかった。


 ウィルはアレナが開けた扉をくぐる。


 店内にいた何人かがこちらを見た。


 すぐに食事へ戻る者もいる。


 小声で話し始める者もいる。


 すべての視線が消えたわけではない。


 それでも、ウィルの足が止まることはなかった。


     ◇


 夕方。


 家へ戻ったウィルは、屋根の修理代を入れている木箱を開けた。


 今日の収入から、銅貨20枚を入れる。


 銀貨2枚。


 銅貨40枚。


 まだ本格修理には届かない。


 それでも、毒を受けた昨日よりは進んだ。


 ウィルは食卓へ座り、冒険者証を開いた。


 レベル:3。


 迷宮討伐記録:8/10。


 所持ガチャチケット:2枚。


 第三階層で未討伐の通常魔物は、鎧甲虫だけ。


 それを倒せば、9種類討伐のコンプリート報酬が手に入る。


 だが、背中は硬い殻で覆われている。


 剣を振り下ろしても弾かれる。


 大顎で盾を挟まれる可能性もある。


 ウィルは円盾へ残っている、細い白い糸を見た。


 糸吐き蜘蛛との戦いでは、力で引き合うのをやめた。


 根へ糸を巻き、力の向きを変えた。


 鎧甲虫も、正面から殻を斬る必要はない。


 ひっくり返せば、柔らかい腹が見える。


 問題は、どうやって巨体を裏返すかだ。


 ウィルは厚くなった両手を見た。


 鉱山では、自分より重い岩を何度も動かした。


 持ち上げたわけではない。


 棒を差し込む。


 支点を作る。


 少しずつ傾ける。


 力だけで動かせないものにも、動かし方はある。


「使える棒が必要だな」


 第三階層には、太い木の根や倒木がある。


 だが、都合のいい場所で戦えるとは限らない。


 持ち運べる丈夫な棒。


 あるいは、甲虫の身体の下へ差し込める道具。


 ウィルは家の隅へ視線を向けた。


 屋根の修理で余った、細長い木材が一本置かれている。


 長さは、ウィルの肩ほど。


 そのまま武器にはならない。


 だが、梃子としてなら使えるかもしれない。


 ウィルは木材を手に取った。


 両手で力を加える。


 簡単には折れない。


 表面を削り、持ちやすくすれば迷宮にも持っていける。


 父親の剣。


 円盾。


 ガチャから出た道具。


 そして、家の修理で余った一本の木材。


 何が役に立つかは、戦ってみるまで分からない。


 ウィルは木材を作業机の上へ置いた。


 明日は、これを持って鎧甲虫へ挑む。


 迷宮討伐記録は、あと一つで9/10。


 だが、報酬を得るために戦うのではない。


 無事に倒せる方法を考えたうえで、挑む。


 ウィルは白い糸の残った円盾と、一本の木材を見比べた。


 力で勝てないなら、力の使い方を変えればいい。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ