枯賀末理の受難
「あれ、その腕」
お姉様は足を止めた。そして、右手で郷田の腕を示す。
お姉様の好きなところ、人を指ささない。おそるおそる、そっと手全体で人を示す。
「ああ、お見苦しいところ、すみません」
郷田が……詫びた。
郷田の腕には真新しい切り傷があった。あやかしだろうか、それとも誰かからの報復だろうか。
「良ければ……」
お姉様は郷田にそっと近づき、懐からかわいらしいハンカチを取り出すと、郷田の腕に巻いていく。
郷田はあっけにとられ微動だにしない。
私も動けなかった。
たすけて。
ひたすら思う。
たすけて、脳が壊れちゃう。
「壊れない」
水社一心が冷静に指摘してきた。
壊れちゃう。おかしくなっちゃう。頭おかしくなる。
「お前は元からおかしかったよ」
うううううううううう。
「ない刀を抜こうとするな。しかもお前、今調査されてるだろ、刀」
心の刀で斬り殺してやる。
「そうかそうか、良かった良かった」
水社一心は子供をあやす正気の保護者ぶる。
なんだこいつ、正気の保護者ぶりやがって。
「正気の保護者ぶるってなんだよ」
ただの保護者だと枯賀の父親みたいなのも含まれる。
正気の、をつければ富山局長とか水社夫婦みたいな保護者が該当する。
「別に話の流れで、みんなの考える保護者のこと言ってるって分かるよ。特にお前が言ったなら」
なんだそれ。
「同じ言葉でも言う人間と言われる人間の関係で意味変わってくるだろ」
たとえば。
「……お前がたとえば、郷田に夜道気をつけろよって言うのと、お姉様に夜道気をつけてって言うのとか?」
確かに郷田に対してはぶっ殺すぞニュアンスだけど、お姉様に対しては暗い道で転んじゃわないように、あやかしに攫われないように、そして私に気を付けて、だ。
暗いし私の顔も行動も見辛くなるだろうから、私が本当に危ない存在になっても分からない。
お姉様を守るために仕方ないと思ってお姉様を閉じ込めるかもしれない。
「だろ」
水社一心はしっかり注意してくる。
「向こうも同じ気持ちなら、二人で閉じこもってくれても、楽だが」
ぼそっと水社一心は呟く。
なに?
お姉様の合意が取れたらいいってこと?
なに?
止めろよお前。
お前はいいのかよそれで。どうすんだお前はそうしたら。
「お前の考えるそのよく分からない場所の前で、適当に警備でもしてるよ」
え、こわ。
監禁場所の見張り志願、こわ。
なにこいつ。
そういう性癖?
「お前なぁ」
水社一心は横目に呆れてくるが、私は歯を食いしばりながら郷田とお姉様を見つめる。
ハンカチを腕に巻かれた郷田は、ハッとした顔で「ハンカチ、汚れますよ」と付け足した。もう遅いんだよ。巻いた後に言うな。
「汚れなんて、とんでもない。お勤めの証です。お怪我は……悲しいですけれど」
お姉様は視線を落とす。
千年桜は恋と咲くでは、お姉様が皇龍清明様の手当てをするシーンがある。
というか、お姉様はよく誰かの手当てをしている。
だから郷田にだってするだろうし、この人だから手当てしない、なんて差別はしない。
そういうところがお姉様の気高いところだ。美しい。
私はよく怪我をする。
多分私のことも手当てしてくれるはず。
でも頼まない。お姉様の手を煩わせるわけにはいかない。
それに悲しませたくないから。
うらやましいいいいいいいいいいいいいいいいいいい。
私も、お姉様に腕、ハンカチでぐるぐるされたい。薄い綿布越しにお姉様の指の感触を感じて、こちらの傷を気遣い伏し目がちになるお姉様を見ていたい。まつ毛の影が目の下に落ちている感じを目に焼き付けたい。凝視する私をお姉様が「?」と、少し上目遣いっぽく見るさまを──あえて凝視したい。戸惑うお姉様に、笑みだけ浮かべて不思議がられたい。そしてそのまま池とかに飛び込んで驚かれたい。「きゃあああっ」とか言われたい。そういう願望がある。お姉様を「ワッ」とかして驚かせるのは嫌だけど、私が突然落とし穴に落ちるみたいな方向でびっくりさせて、あわあわさせたい。
心配させたくないけど。
「良かった良かった」
水社一心は適当な相槌をうつ。普段は良くないだろ、と言えるはずなのに、お姉様と郷田のやりとりが妬ましすぎて何も出来なかった




