暗天妖王
「ふっ……死んでしまったか、野狐禅」
甘ったるい嘲笑が、空気を一変させる。
「やはり誰かのために作ったものを、別の存在にあてがうことは出来ない──考えものだな。人間に味方をするあやかし──いや、こちらの計画を邪魔する同族か……」
桟橋の端に、野狐禅が装着していた口枷が落ちている。そこから紫の瘴気が漏れ出ていた。瘴気は暗天妖王を形作る。あいつは人間の世界にまだ来れないらしい。
三百年前のお姉様の防衛システムにより、あいつは脅威判定を食らっているからこの世界に直接飛んでくることが出来ない。こうして呪具やあいつの念がこもった完成品──あやかしを通して、こちらに干渉してくる。
「成功しても、こうして野狐禅のように犬死にするあやかしが現れる。実に難儀だ」
犬死。
その言葉に刀を握る手に力がこもった。このまま斬り殺してしまえば。そう思うと同時に「犬死にだぁ?」と、地を這うような声が隣から響く。
酒呑童子だ。瞬きもせず、口枷を見つめている。
「ああ。だってそうだろう。何も結果を残せず、大業を果たすことなく死んでいった。なんと惨めで情けない。ただ悩み、馳せる想いに意味などない。感情に振り回されて、結果を出せぬならば、その価値など話すにも値しない」
「てめええええええええええええええええええ」
酒呑童子は口枷に殴りかかろうとするが、瘴気に弾かれた。
「やはり、なにかに期待をするというのは、浅ましく傲慢な行為なのだろうか? 理解し合うことは、遠き夢──」
暗天妖王はひとりでに話す。
「くどい」
皇龍清明様が口枷と瘴気を一瞬にして叩き切った。
冷えきった瞳をした彼は、慈悲なき眼差しでこちらを一瞥した後、ふっと空を蹴るように姿を眩まそうとする。
「お待ちください皇龍様」
伊能局長が冷静に引き止めた。
「私は、人の理に干渉する気は……」
「違います」
伊能局長は明確に皇龍清明様の言葉を遮った。
「人間があやかしの世界に連れ去られる事案が発生したんです。その人間の理に、乱れが生じています。そのため近日軍にご同行願います。皇都や帝にも報告しなければなりませんので。でなければ、そちらの人間──枯賀末理さんと言います。あやかしの兆候が見られれば処刑対象です。同時に今、軍の上層部から、もしあやかしになっていたら殺して亡骸だけでも取り返せたと、そういう話にしろと命令が出ているんです」
伊能局長は私を示した。
私は、殺されることになっていた?
水社一心の顔を見ると水社一心も驚いた顔をしていた。
「見ればわかる。人間だ。あやかしになる寸前の兆候もない」
皇龍清明様は私を一度眺めた後、何の感情も持たないような口ぶりで話す。
「それを上層部の前で言ってください」
「なぜ」
「上層は格上の言葉しか信じないからです」
「なぜ」
「それを日々、疑問に思いながら働いています。ただ」
伊能局長はこちらを一瞥した。
「野狐禅が……夏に、輝宮寺啓介という人間に化け、捜査をかく乱させる事件も起きていました。その野狐禅に、彼女は攫われた。上層部の目はより一層厳しい。こちらの娘は、皇龍様の後ろ盾が無ければ確実に殺される」
「……」
皇龍清明様はしばしの沈黙を経て、「いつ」と訊いた。
「いつかは分かりません。そもそも彼女を救出した知らせを上層に伝えるにも、上層が集まらなければなりませんし、皇都からの遣いも呼び寄せなければいけない。その点は皇龍様のほうが詳しいのでは」
「いつか、分からない」
「はい。なのでこちらと連絡がすぐ着くようにしていただきたいのですが。もしくは、帝都退妖軍にしばしご滞在いただくとか、こちらのあやかしのこともあるので」
伊能局長は酒呑童子を差した。酒呑童子はぼんやりしている。普段なら「戦いか?」とはしゃぎそうだが、野狐禅のことがある。気分が乗らないのだろう。当然だ。私も皇龍清明様を前にしているけど、どう接していいか分からない。今が、チャンスなのに。
「ひとまず、今日はこちらをお渡しします。上層からの招集があればこちらでお伝えしますので、軍に来てください」
伊能局長はパッと決めて皇龍清明様に御符を渡した。皇龍清明様は言われるがまま御符を掴み、当たりを見渡した後、ふっと姿を消す。
この世界に、いるのか。やっぱり。
話には聞いていたし、存在を疑っていたわけではないけど、実際に目にするのは違う。
「無事でよかった」
野狐禅の消滅した桟橋の果てを見つめていると、富山局長が呟いた。
振り向くと、富山局長、真原さん、福野さんがこちらを見ている。
「ほんまやな、皇龍様の太鼓判もあるし」
真原さんがこちらに近づいてきて、「よかった」と福野さんも心なしか安堵の表情を浮かべている。
帰って来た。
私は──確かに帰って来た。
只今の代わりに、会釈をする。
「じゃあとりあえず、軍に戻って……」
水社一心が周りの様子を伺いながら言うが、福野さんが「その前に」と呟く。
「お姉さんに、会いに行けばいいんじゃないですか。このまま軍に帰ってもしばらく報告で、屯所から出られないだろうし」
「このままか?」
真原さんが怪訝な顔をする。
「はい。無事戻った知らせより、一旦顔出して軍に調べられますのほうが、いいんじゃないですか? 家族は。よく分かんないですけど」
「確かに、家族は心配してるし……水社家の顔を立てる為って言えば、軍も問題なさそうだよね」
富山局長が伊能局長にちらっと視線を送る。
「まぁ、港の襲撃等で、指揮系統が乱れているので、ある程度……どうとでも言えますよ」
伊能局長は、「僕は知らないですけどね」と付け足し、野狐禅が消滅した桟橋を見つめていた。




