狐、その尾を濡らす。
野狐禅の口に、酒呑童子の支配に使われた枷があてがわれた。
野狐禅の目的は……輝宮寺の蘇生じゃない。
多分暗天妖王と私がいる時に、鵺をこちらに差し向けてきたのは野狐禅だ。
「軍人なんかこの世界に連れてきて、あやかしを幾分かわざわざ人間に倒させるような真似をして。鬼のように気まぐれでそういうことをしているならいいんだけどね。狐はずるがしこい。読みづらくて仕方ないよ」
暗天妖王は「償え。自らの犯した過ちを──化け狐」と野狐禅に冷ややかな視線を送った後、禍々しい瘴気を発した。
ひゅっと身体全体を無理やり弾き飛ばされる感覚の後、目を開けるとそこは港の桟橋だった。
どうやら人間の世界に戻って来たらしい。鵺が自分の手に負えなくなった暗天妖王が海に不法投棄をするが、全く同じ流れで私たち人間や口枷で支配している野狐禅を──捨てたということか。
すぐそばには酒呑童子と水社一心が、遠くでは相模局長、伊能局長、郷田が転がり、、管理局の面々は黒い龍に包まれる形で着地していた。
野狐禅は先ほど暗天妖王が纏っていたものと同じ瘴気を纏いながら、人型ではなく巨大な狐に姿を変えた。口には枷がついているが、咆哮を上げ、ぐるりと身体を震わせるとともに、荒波を引き起こす。
もう、理性はない。支配の呪具のせいで暗天妖王の意のままだ。
支配を解くには──野狐禅を倒すしかない。
「あの大きさで街に入られたらたまったものじゃない。相模さん、軍に応援要請と近隣住民の退避を。郷田くんは異能で防波堤を作ってください──水社くん、海って──水ですよね」
「はい」
こちらに向かって襲い掛かるように発生していた渦潮めがけ、水社一心は手をかざした。スパンッと一太刀入れるかのように渦潮が形を崩していく。
「あの野狐禅は、ひとまず眠らすなり──」
真原さんが問う。水社一心は首を横に振った。
「さっきの男が野狐禅につけた口枷は、死ぬまで外せない‼ 野狐禅はそれを分かって自分を囮にした‼」
水社一心は一瞬だけこちらに振り返る。
「野狐禅が支配される瞬間は、読めた。あいつの狙いは輝宮寺の蘇生じゃない──あやかしの祖の討伐と──酒呑童子を助けるためだ。輝宮寺の蘇生が敵わないことも、それを輝宮寺自身が望まないだろうことも、全部分かってる、人間を、助けようとしてた」
野狐禅は水社一心から心が読まれないよう対策をしていたはずだ。その対策が──支配により解けた。つまり野狐禅は心が読まれないよう行動していたということだ。
獣と化した野狐禅は、自らの尾を用いて荒波を引き起こしている。
こんなふうに我を失い暴れることを、野狐禅は望まないだろう。
口枷は──皇龍清明様やお姉様の力をもってしても駄目だった。あれは……支配の効果もあるが暗天妖王は支配を媒介に苦しみを与え続けることもできる。
このまま抑えるだけにしてしまえば、ずっと野狐禅は苦痛に苛まれ続ける。
なら。
野狐禅を口枷から解放する。このままにしておけない。
それは──野狐禅の命を奪うことだ。皇龍清明様は口枷により苛まれた酒呑童子を斬った時、苦しそうだった。自分が斬られたみたいな顔をしていた。お姉様を奪われかねない恋のライバルポジションだったし、敵だったけど、それでも心を痛めていた。
三百年の月日が流れても、皇龍清明様は人の心がある。そういう筋書きの流れもおそらく野狐禅は血を舐めて理解していたはずだ。なのに口枷を装着させられた瞬間の表情は、穏やかだった。
野狐禅は最初から、自分に口枷をつけさせることで──酒呑童子が支配されるシナリオを壊そうとしていたのかもしれない。
せめて、苦しまないように。
私は刀を握りしめた。
「てめえが何考えてるか知らねえけどなぁ‼ 俺は庇われんのも嘘つかれんのも一番嫌いなんだよ‼」
酒呑童子は棍棒で獣化した野狐禅に立ち向かうが、酒呑童子を支配した時と異なるのか、口枷を通じて野狐禅は暗天妖王に強化されているようだった。暗天妖王が行うような紫の瘴気による斬撃攻撃を繰り返している。さすがの酒呑童子もあやかしの祖によって強化された野狐禅に対しては、拮抗に留まるどころか押されていた。
私は水社一心を見る。
水社一心はしばらく悩んだ後、「危なくなったら強制的に連れ戻すからな」と前を見据えた。
もう私には御符がない。階段を作ることも海に出ることも出来ないが──水社一心に何とかしてもらう。
水社一心は海上に手を伸ばした。すると水面から水の柱が突き上がる。私は水の柱に飛び乗っていき、獣化した野狐禅に向かっていく。
酒呑童子と、攻撃を合わせる。
「お前は戦いが好きじゃねえって言ってたよな……なら、さっさとやめろおおおおおおおおおおおお」
酒呑童子が野狐禅に向かって棍棒を振りかぶる。
せめて苦しまないように。
殺したくない。
野狐禅を殺したくない。
私は野狐禅に向かって一太刀浴びせるが、手ごたえが無かった。野狐禅の動きは止まったものの、霊力は吸えているのだろうが、紫の──暗天妖王の瘴気が消えない。
私の、躊躇いのせいか──?
愕然とした瞬間、
「危ない‼」
水社一心が叫び、私と酒呑童子の目前に水流がよぎる。そして、ごうっと強風が吹き荒れた。
水流の隙間から優しくて静かな白檀が香る。
上空に流れる白銀の髪。
流星でも流れているのかと錯覚した。
「──花結び」
ヒュッと小石が水を打つような音の後、一筋の閃光が走る。獣化した野狐禅が大波と共に一瞬のうちに一刀両断され、泡が弾けるように光の粒子が瞬く。大波が雫と化し雨のようにこちらへと降り注ぐさなか──野狐禅を斬ったその人と、目が合った。
「お前は、皇龍」
酒呑童子が驚いている。
そう、今、目の前にいるのは……皇龍清明様だ。
皇龍清明様は自らの刀を振り払った後、鞘に納め、視線を桟橋に向けた。
桟橋に、粒子が流れている。
やがて粒子は人に戻った野狐禅の姿を形作っていくが、消えかけていた。
私は思わず野狐禅のもとに向かう。
「やっぱり来た……鵺じゃなくて、私よね。私なら、来ると思ってた」
口枷が取れた野狐禅は、皇龍清明様を見て笑う。
野狐禅は酒呑童子を助けるために口枷を自分が装着させられるよう仕向けたと考えていた。でも、もしかして、それもあるけど、口枷をつけ暴走した自分ならば、皇龍清明様を呼び込めることまで計算していたのでは。その答え合わせをするみたいに、野狐禅は笑っている。
「筋書きとは違ってしまったけれど、でも、これで縁は出来たでしょう」
そんな。自分の命を犠牲に、こんなこと。
「そんな顔、しないで、別に貴女のお姉さん化けてないわ」
野狐禅は言う。
千年桜は恋と咲くにおいて、野狐禅が死ぬのは最終局面だ。人を知ってみたい、色んな事を知りたいという理由で暗天妖王についていたが、最後の最後で、お姉様のふりをして皇龍清明様を庇って死ぬ。
『少しは似てた?』
そう訊ねて。皇龍清明様はお姉様と野狐禅を間違えたことなどない。そんなことは分かっている。それでも自分を庇おうとした野狐禅を守ろうとはした。どんな相手であれ、敵であっても、敬意を持つ人だったから。
「泣かないで頂戴。ただ、貴女の好きな物語のキャラクターが死ぬだけじゃない。それも、物語の中で死んでいたでしょう?」
そんなこと言われても、この世界はこの世界だ。野狐禅は生きてる。
「不思議ね。物語の世界の私は、あの人に惹かれていたのに、その感情が、私にあるのか、まだ分からないの。輝宮寺啓介に、それを向けていたのかも分からないの。あの人が私のなんだったのか、まだよく分からない。人間でいう恋心なのかもしれないけれど、もっと別の名前かもしれない。それを、教えてもらう前に、会えなくなってしまったから」
野狐禅の身体は、どんどん薄くなっていく。対照的に表情は穏やかだった。戦闘を終えた管理局の面々や酒呑童子、水社一心が私たちを囲む。
「彼岸の果てで──一目でも、会えるかしら、きっとあの人は、天国に行く……はずよね? 私は、そこには行けないけれど──」
寂しそうに微笑んだ後、野狐禅は私に顔を向けた。
「貴女は来なくていいから。貴女は、ちゃんと生きて。命を賭けることはもう私がやった。この世界が、筋書きを基にしてできているのなら、同じ展開はつまらない。だからやめて? いっぱい楽しんで、暗い顔をしないで、私を楽しませて。病気にかかっても、自棄にならずちゃんと生きて、貴女は大丈夫、地獄で──貴女を見てる」
そう野狐禅は微笑むと──消滅した。




