第21話『門番の試練』
それから数時間後。
太陽――正確には、この星を照らす最大の光源が頭上に差しかかる頃、側で横たわっていた門番の巨鹿がゆっくりと立ち上がり、僕たちのもとへ歩み寄ってきた。
「……?」
そして門番の巨鹿は、顔を僕の胸元へ近づけると、服を唇で挟み、ぐいっと引っ張った。
「おわっ!? な、何!?」
僕は門番の巨鹿に服を引っ張られた勢いで、二、三歩ほど前によろめいた。
門番の巨鹿はそのまま樹々の聳える森へ向かって歩き出し、森の入り口でふと立ち止まった。
そして振り返り、ついて来いと言わんばかりに僕たちを見つめる。
「え、何だろう……。来いって言ってるのかな。
——取り敢えず、ついて行ってみるか」
僕はそっとフルムの手を取り、門番の巨鹿の後を追った。
フルムは朝と同じお出かけだと思っているのか、鼻歌混じりに上機嫌な様子だった。
一頭と二人は、深い森の中へ入っていった。
門番の巨鹿は途中、何度か立ち止まっては周囲を見渡し、再び歩き出す――そんな動作を繰り返していた。
やがて一行は、一頭の巨大な野獣と遭遇した。
「デカい……」
僕は思わず息を呑む。
その野獣は猪によく似た姿をしていたが、門番の巨鹿ほどではないにせよ、少なくとも軽自動車ほどの大きさはあった。
体毛は黒く、ところどころが構造色となっており、光の加減で紫色の光沢を放っている。
さらに下顎からは太い牙が左右に一本ずつ突き出ており、左脇腹には鉤爪で引き裂かれたような新しい傷跡が残っていた。
その傷口からは今もなお血が滴り落ちている。
「あれは……猪なのか……?」
野獣は荒々しく鼻息を吐きながら、その場をうろついていた。
明らかに興奮状態にある。
しかし目が悪いのか、まだこちらの存在には気付いていないようだった。
その時だった。
門番の巨鹿が突如として右前脚を振り上げ、地面へ叩きつけた。
ドォオオンッ――!!
重々しい轟音が森中へ響き渡る。
衝撃は大地を震わせ、周囲の樹々を大きくざわめかせた。
「うわぁっ!?」
僕は思わず身を竦める。
「ビックリした……。地震でも起きたのかと思った」
急激な揺れに驚いたフルムは、たまらず僕の胸へ飛び込んだ。
「フルムちゃん、大丈夫だよ。
僕がついてるからね」
僕は彼女の頭を優しく撫でながら、十メートルほど先にいる野獣の様子を窺う。
一方、その野獣も突然の振動に驚いたらしく、敵の姿を探すように周囲を見回していた。
そして次の瞬間――
外敵を視界に捉えたのか、野獣は門番の巨鹿へ向かって一直線に突進を開始した。
だが、その時だった。
木漏れ日がふいにフルムの頭上へ差し込む。
金色の髪に落ちた光は柔らかく反射し、その煌めきが木々の隙間を抜けて野獣の瞳へ飛び込んだ。
すると野獣は地面を砕かんばかりに踏み込み、突如として進路を変更した。
標的は門番の巨鹿ではない。
僕とフルムだった。
土煙を巻き上げながら迫る巨体。
僕たちが異変に気付いた時には、すでに猛り狂う野獣が目前まで迫っていた。
「――マズいっ!!」
僕は咄嗟にフルムを抱き寄せる。
そしてその場で垂直に跳び上がった。
野獣の突進は、紙一重で僕たちの真下を通り抜ける。
しかしあまりにも急な出来事だったため、僕は魔力制御を誤ってしまった。
気付けば十メートル近い高さまで跳び上がっている。
だが、安堵する暇はなかった。
野獣は二人の着地点から五メートルほど先で強引に踏み止まると、その場で反転した。
そして落下してくる二人へ向け、再び猛然と突進を開始する。
「(マズい……!
間に合わない……!
火の魔法じゃダメだ――せめて衝撃を抑えるための水の壁を!)」
僕は咄嗟に水属性魔法を発動した。
着地点と野獣の間に、幾重もの水の壁が展開される。
しかし野獣は、その障壁に激突してもほとんど減速しなかった。
水の壁を次々と突き破り、そのまま二人との距離を一気に詰めてくる。
衝突する――。
そう思われた瞬間だった。
——ダンッ!!!
門番の巨鹿が横合いから飛び込み、その鋭い角で野獣の巨体を豪快に掬い上げた。
野獣の身体はふわりと宙へ舞う。
四、五メートルほど打ち上げられた後、
ドシンッ――!!
という重い音を響かせながら地面へ叩きつけられた。
「……はぁ……はぁ……。
助かった……。
本当に死ぬかと思った……」
門番の巨鹿はフルムの背後へ回り込むと、その襟首をぱくりと咥えた。
そして軽々と持ち上げる。
「ワワッ!?」
次の瞬間、フルムの身体はふわりと宙を舞い、そのまま門番の巨鹿の背へと乗せられた。
フルムは慌てて角にしがみつき、落ちまいと必死に体勢を整える。
一方、野獣は呻き声を漏らしながらゆっくりと起き上がった。
フー……フー……と荒い息を吐き、鋭い蹄で地面を削る。
その様子は、再び突進の機会を窺っているようだった。
その時――
門番の巨鹿がフルムを背に乗せたまま僕の背後へ回り込み、鼻先で僕の背中を軽く小突いた。
二重の意味で背中を押しながら、
――狩るのはお前だ。
そう告げているようだった。
「……分かったよ。
——僕が仕留める」
覚悟を決め、僕は野獣の動きを食い入るように見据える。
その直後だった。
ドンッ――。
背後で重い音が響いた。
反射的に振り返る。
すると地面には灰白色に輝く魔法陣が展開されていた。
次の瞬間、門番の巨鹿と僕の間を塞ぐように、大地から幾つもの岩の針が天へ向かってせり上がった。
それはまるで、無数の岩槍を連ねて築いたような巨大な岩壁だった。
鋭く尖った円錐状の岩が不規則に並び立ち、凹凸の激しい障壁を形作っている。
「凄い……。
これが、上位属性魔法か……」
門番の巨鹿は岩壁の向こうから頭だけを覗かせ、僕をじっと見下ろしている。
その背に乗るフルムもまた、角を掴みながら不安そうな表情でこちらを見つめていた。
僕は静かに息を整える。
そして野獣へ向き直った。
「……目の前のことに集中しよう。
よし――始めるか」
前方へ紅い魔法陣を展開する。
その中心から放たれた火球は、薄暗い森を照らしながら一直線に飛翔した。
光に気付いた野獣は、即座に僕の方へ向かって突進してきた。
そして次の瞬間。
火球が野獣の顔面へ直撃した。
火の粉が飛び散り、体毛へ燃え移る。
だが、野獣は怯まない。
炎を纏ったまま、凄まじい勢いで突進を続けてくる。
僕は即座に足へ魔力を流し込んだ。
迫る巨体。
距離は一瞬で消える。
そして突進が目前まで迫った瞬間――
足に溜めた魔力を解放した。
身体が弾かれるように宙へ跳び上がる。
さらに岩壁を蹴り、空中で軌道を変更。
僕は野獣の背後へと回り込んだ。
標的を見失った野獣は、そのままの勢いで岩壁へ激突する。
ゴォンッ――!!
鈍い衝撃音が響き渡った。
巨体は岩壁へ叩きつけられ、その場へ崩れ落ちる。
(――今だ!)
僕は空中から魔法陣を展開した。
《【火属性魔法――『炎天』】》
地面へ刻まれた紅い魔法陣が激しく輝く。
次の瞬間。
倒れた野獣の足元から巨大な火柱が噴き上がった。
轟々と燃え盛る炎が野獣を包み込む。
野獣は一度だけ身体を震わせたが、それ以上動くことはなかった。
やがて火柱の中で完全に沈黙する。
僕はその様子を見届けると、静かに魔法を解除した。
炎が消え去る。
そこには岩壁の傍らで横たわる野獣の亡骸だけが残されていた。
もう二度と動くことはない。
互いの生死を懸けた戦いは、静かに決着を迎えた。




