第14話『差し伸べられた蹄』
時を遡ること二十時間前――ロアとフルムの二人は、真夜中の森を歩いていた。
森へ入ると、二人は小川に沿って小石の敷かれた川原を進み、上流へ向かった。
夜の小川は月明かりを受けてきらきらと輝いていた。その光は周囲にも広がり、二人の足元を淡く照らし続けている。
二人が川原を進んでいくと、その先に小さな滝の流れる崖が現れた。
崖下の滝壺では、三頭の角の生えていない子鹿が肩を並べ、水面に口をつけていた。
「鹿だ。初めて見た」
「ラザーフ クッビ トーイ?」
「トン トーイ(食べないよ)。
まず、ナイフ一本じゃ鹿は仕留められないからね」
「ケオー」
僕達は進路を変えることなく、そのまま崖へ向かって歩いた。
子鹿との距離が縮まると、崖上の川の対岸に一頭の灰色の狼が姿を現した。
「——ッ!? 狼がいるっ……!!」
僕はドラゴンの鱗を地面に立て掛けるように倒し、すかさず袋からナイフを抜いて臨戦態勢を取った。
「タウ!!」
「えっ!?」
フルムは突然、両手を狼へ向けた。
次の瞬間、魔法で生み出された水球が狼目掛けて撃ち放たれる。
しかし狼は、その水球を軽々と跳躍して回避すると、その勢いのまま二人の背後へ着地した。
「——!? フルムちゃん……後ろにいて……」
僕は即座に身体の向きを変え、狼に正対した。
背後ではフルムが低くグルルルと唸り、今にも僕の背中を飛び越えて襲いかかりそうになっている。
僕は左手で彼女を制しながら、右手のナイフを強く握り締めた。
狼の動きを一瞬たりとも見逃さないよう、その姿を凝視する。
「魔法が使えたら、この状況を打破できるんだけど……」
僕は狼の鋭い眼光に臆することなく睨み返しながら、少しでも数的有利を得ようと子鹿達のいる場所まで後退した。
狼はこちらを睨みつけながら、じりじりと距離を詰めてくる。
「まずいな……逃げ場がない……!!」
僕は狼が飛び掛かってくるのを覚悟した。
極限の緊張状態に、自分の呼吸が荒くなっているのが分かる。
僕は無理やり平静を取り戻そうと、大きく息を吸い込んだ。
その時だった。
ズシン……ズシン……ズシン……
断続的に、巨大な何かが地面を踏み鳴らすような音が夜の森に響いた。
音が近づくたび、地面が微かに震える。
「はぁ…はぁ…今度は何だ……!?」
ズシン……ズシン……ズシン……
ガサザザザザ……
次第に足音は大きくなり、その主はこちらへ近づいてきているようだった。
「「「コォーーー」」」
三頭の子鹿が森へ向かって鳴き声を上げた。
それは威嚇ではなく、どこか甘えるような鳴き声だった。
ガサザザザザ……
ズシン……ズシン……
やがて、樹々の合間から巨大な顔が姿を現した。
森から現れたのは、大きな角を持つ、高さ三メートルほどもある鹿だった。
「何て大きさだ……。この世界には、こんなに大きな鹿がいるのか……」
その巨大な鹿は、狼と僕達を漆黒の瞳でじっと見つめていた。
ズシン……ズシン……
巨鹿はゆっくりと狼へ歩み寄る。
そして狼の前で足を止め、圧倒的な高さから小さな獣を見下ろした。
巨鹿は狼を見下ろし、狼は「グルルル……」と唸りながらそれに対抗している。
やがて五分ほどが経過した頃、狼はその威圧感に耐えきれなくなったのか、慌てて対岸へ飛び渡ると、そのまま森の中へ姿を消した。
「はぁ……助かった……」
「アノキオン アウェムサ トネウ……」
生命の危機が去ったことで、僕は全身の力が抜け、その場にへたり込んだ。
ツカツカ……ツカツカ……
三頭の子鹿が巨鹿の足元へ集まる。
巨鹿は子鹿達を引き連れながら川原を歩き、滝壺へ向かった。
滝壺へ着くと、その場に腰を下ろし、水面へ首を伸ばして川の水を飲み始めた。
「そうだ、ドラゴンの鱗!」
僕は狼との遭遇でドラゴンの鱗を手放していたことを思い出し、回収へ向かった。
鱗を拾い上げた後、僕は滝壺の上にそびえる崖を見上げながら、上流へ進む方法を考えた。
「上流へ行くには、遠回りするしかないかなぁ……」
「ラザーフ クッビ、グニセモス ジ フクタウ?」
「ん?どうしたの?
……あ、何かすごく見られてるね」
フルムは鹿の方を指差し、その視線がこちらへ向けられていることを教えてくれた。
巨鹿は僕達を睨みつけるでもなく、警戒するでもなく、穏やかな眼差しで見つめていた。
僕がその視線に気付き見つめ返すと、巨鹿は徐ろに立ち上がり、右前脚の蹄で地面を掘るような仕草を繰り返した。
「……? こっちに来いって言ってるの?」
どうやら巨鹿は、僕達をどこかへ案内したいらしい。
突然の誘いに戸惑ったが、狼を追い払ってくれた恩もある。
その善意を無下にはできなかった。
「……フルムちゃん、彼らについて行こうか」
僕はそう告げ、彼女の手を取った。
巨鹿は僕たちが近づいてくるのを確認すると、僕らを導くかのように川とは反対方向の崖沿いを歩き始めた。
そして三頭の子鹿も、その後ろを付いて、歩いていく。
僕たち二人もその一行に加わり、巨鹿の後を追った。
「ラザーフ クッビ、カブ レード エス ノ エジル フルム ナク?」
「んー? どうしたの? お腹空いた?」
フルムが突然話しかけてきたが、僕には何と言っているのか分からなかった。
狼との遭遇で神経も体力も大きく消耗しており、頭が上手く回らない。
星典を開いて翻訳するという発想さえ、この時の僕にはなかった。もっとも、仮に開いたとしても、辺りは暗く、本に表示された文字を読むことはできなかっただろう。
僕の曖昧な返答を受けて、フルムは気持ちを理解してもらえなかったと思ったのか、頬を膨らませて不満そうな表情を浮かべる。
そして突然、僕の手を振りほどくと、高く跳び上がって巨鹿の背中へと飛び乗った。
「フルムちゃん!勝手に乗ったらダメだよ!」
僕は彼女が巨鹿の怒りを買わないか心配になり、背中から降りるよう注意した。
しかし、フルムは僕の言葉に反抗するように、ぷいっと顔を背けた。
そして巨鹿の背に跨るように座り直すと、その角を掴み、揺れる背中の上で器用にバランスを取った。
件の巨鹿はというと、少女に突然背へ飛び乗られても、動じる様子ひとつ見せなかった。
そして、気にも留めていないかのように、そのまま歩みを続ける。
しばらく崖沿いを進むと、進行方向の岩壁にぽっかりと巨大な穴が開いているのが見えた。
「洞窟だ! それに、鹿がもう一頭いる……!!」
僕たちは滝壺から村の方角へ向かって数分ほど歩き、巨鹿に導かれるまま、その大きな洞窟へと辿り着いた。
洞窟の入口には、ここまで先導してきた個体とは別の巨鹿が待ち構えていた。
その巨鹿の顔や身体には幾つもの傷跡が刻まれており、まるで歴戦の戦士のような風格を漂わせている。
門番のように佇むその巨鹿は、僕たちを先導してくれた巨鹿を見るなり、鋭い眼差しを向け、その前へ立ちはだかった。
まるで、捨てられていた子猫を拾ってきた者に対し、「飼う余裕などないから元いた場所へ返してこい」と言わんばかりの雰囲気だった。
しかし、先導の巨鹿は怯むことなく歩み寄る。
そして門番の顔へ、自らの顔を優しく擦り付けた。
まるで宥めるようなその仕草に、門番の巨鹿は次第に警戒を解いていく。
鋭かった目をゆっくりと閉じると、巨体で塞いでいた入口から脇へ退いた。
フルムは終始、先導の巨鹿の背に跨ったまま、そのやり取りを不思議そうに眺めていた。
「フルムちゃん、もう降りるよ。…ほら、おいで」
僕は先導の巨鹿の脇へ移動し、両腕を広げて彼女を受け止める準備をした。
フルムは僕の呼び掛けに応じて振り向くと、巨鹿の背の上で立ち上がる。
そして次の瞬間――
僕目掛けて大の字になって飛び込んできた。
まるでそれは、ムササビのような豪快な跳躍だった。
「うわっ!?」
は慌てて彼女を抱き留める。
受け止めた衝撃で後ろへ倒れそうになったが、必死に脚へ力を込めて踏ん張った。
その後、顔へしがみついているフルムの両脇を掴み、そっと地面へ降ろす。
「良かったね、フルムちゃん」
鹿の背に乗って移動するという体験がよほど楽しかったのか、フルムは満面の笑みを浮かべていた。
それから僕たちは、先導の巨鹿に導かれるまま洞窟の中へ入った。
内部は想像以上に広く、奥へ続く長い通路のようになっている。
最奥へ至る手前には左右それぞれに部屋のような空間があり、地面には藁や干し草が敷かれていた。
どうやら普段から寝床として利用されているらしい。
先導の巨鹿は最奥へ辿り着くと、その場へ腰を下ろして脚を折り畳み、眠る体勢になった。
すると三頭の子鹿もやって来て、その傍へ寄り添うように座る。
子鹿たちは脚を折り畳み、まるでスフィンクスのような姿勢で身を休め始めた。
「フルムちゃん、僕たちもそろそろ寝ようか」
「ンー?」
僕はフルムを連れて右側の空間へ入った。
壁際にドラゴンの鱗を立て掛け、少し離れた場所へ荷物を置く。
そして、部屋の左奥に敷かれた干し草の上へ腰を下ろした。
今日一日の疲れがどっと押し寄せてくる。
僕たちは互いに身を寄せ合いながら干し草へ横になり、そのまま静かに眠りへ落ちた。




