第94話 サーラ、とんでもない事が起きたよ
内匠櫂。12歳。
32歳の冴えないサラリーマンであった彼は、異世界に転生した際に何故か12歳の美少女に生まれ変わっていた。
神竜フウカの背に乗り、エルフリードと共に帝都へと向かう櫂たち。その目的は銀鷲帝国皇帝に謁見し、特使として再び諸国連合に赴く機会を得る——ひいてはそれを以て帝国と連合の戦争を止める為であった。
冬のその日、帝都イーグレの空は灰のような雪雲に覆われていた。
身を切るような寒風こそ吹いていないが、多くの住民たちは吹雪を警戒して外に置かれた物や商品を仕舞いこもうとしている。
そんな時、ふと空を見上げればそこには灰色の空を横切って飛ぶ、純白の竜の姿があった。
ほどなくして帝都は騒然となる。神竜が帝都に姿を現したのは実に350年ぶりの出来事であった。
慶事の前触れだと手を合わせて拝む人達に見送られるように、神竜フウカは丘の上に建てられた離宮へと到着しようとしている。
一方その頃——離宮を含む銀鷲帝国皇宮アルザーンでは、貴族院と臣民会議に所属する議員が一堂に会する帝国議会が開かれていた。
通常の両院議会とは異なり、皇宮の一角で開催される帝国議会には、二つの大きな意義がある。
一つは貴族だけでなく、庶民と目される中産階級や有識者も参加して、帝国全体に関わる重大な政策や法案の採決を取ること。
そしてもう一つは、議場に銀鷲帝国の最高権力者である皇帝と皇后が臨席することであった。
現在の帝国において皇帝自身が政治を取り仕切る事はないが、皇帝は議長の任命や議会それ自体を開くことを命じる権限を有している。
だがそれはわざわざ議場まで足を運ばずとも可能な話であり、皇帝自身が臨席するのには更にもう一つの意義が存在していた。それは議論に決着が付かず採決が取れなかった場合、皇帝自らがその是非を判断する事である。
つまり議会政治を戦争に例えるならば、皇帝が臨席する帝国議会は決戦の場であるとも言えた。
この日、帝国議会を紛糾させていたのは、八萬諸国連合との戦争における帝国側の今後の方針であった。
遡ること四ヶ月前——諸国連合の宣戦布告から始まった二大国の戦争は、帝国の属国に当たる赤狼公国軍が敗退してオウサの関を奪われ、これまた名ばかりの属国である海竜公国軍が連合側の港町イマズを占拠した事で現在は膠着状態に陥っている。
しかし帝国にとっての対外危機はそれだけではない。
北の属国である翠馬公国が五胡連合を名乗る軍事同盟に都を攻め落とされた今、翠馬公国と土地を接する帝国中~北部では五胡連合の兵士たちによる略奪や領民の殺害が続いており、領主たる貴族たちは頭を悩ませていた。
従って東の諸国連合と北の五胡連合、どちらを優先して対処するかを巡って国論は二分し、今もその対立は治まることを知らずにいた。
一旦は東征論——諸国連合との戦争を優先させる事で議論は決着したが、戦争が膠着状態に陥った今、再び北征論——率先して五湖連合を追い払うべきだとの主張が勢いを盛り返してきていた。これには帝国の経済事情が深く絡んでいる。
銀鷲帝国は広大な国土に幾つもの穀倉地帯を有しており、古くより農業が盛んな国であった。農作物の生産量は一国ではとても消費しきれない量にのぼり、それを帝国は大陸全土に輸出している。その最大の取引相手が東の大国・八萬諸国連合である事は言うまでもない。
しかしその諸国連合と戦端が開かれてしまった事で農作物の輸出は滞ってしまい、何よりも穀物類が収穫された直後である事が問題をさらに悪化させていた。
農作物の中でも主食となる穀物類は他の農作物とは比べ物にならないほどの生産量を誇り、輸出の面でも最大の商品である。
それが国内でダブついてしまった事で穀物の価格は暴落し、しかも各地の倉庫を売りたくても捌ききれない穀物類が占拠したおかげで、他の農作物や交易品の輸送まで遅滞し始めた。
農民は作物を出荷すればするほど赤字になり、商人はダブついた品で埋め尽くされた倉庫に頭を抱え、領主たちは何とかしろと泣きつく領民の声と悪化が避けられない税収に胃を痛くする。
唯一喜んでいたのはパンが安く買えるようになった都市部の住民くらいで、輸出の再開と輸送網の再建は帝国における最大の経済問題と化していた。
そもそも今回の二大国間の戦争は一部の過激な主戦論者を除いて、誰しもが望まないままに始まった戦であった。
開戦当初より帝国も諸国連合も早急にこの戦いを終えるための外交活動を始め、互いに手打ちとなる妥協点を探り合っていたところ——帝国の大貴族の一つ、シャイハスティン公爵が独断で行った軍事作戦が全てを台無しにしてしまう。それが諸国連合の港町イマズの占拠であった。
傍目には二大国の戦争を膠着状態に持ち込んだ奇策——にも見えるかもしれないが、そもそも帝国と諸国連合の外交担当者たちはオウサの関の奪還を口実に、互いに休戦を呼びかけるように水面下で話を進めていたのである。
もしも諸国連合がオウサの関を抜けて赤狼公国の公都アルテンヴォルクにまで侵攻したとしたら、帝国はもはや全面戦争に踏み切らせなければならなくなる。属国とはいえ赤狼公国の大公家は皇室とも縁が深く、血脈的にもきわめて近い言うならばもう一つの皇族であった。
その都を戦火に巻き込もうものなら、帝国は総力を挙げて諸国連合を迎え撃つことを躊躇わないだろう。それは諸国連合側も望むところではなかった。
それに比べてオウサの関は、昨年まで諸国連合側が支配していた関所でしかない。
関を奪われることで連合側の顔を立てて休戦に持ち込もうと言うのが帝国側の思惑であり、諸国連合側もその要件を呑むことで早期の休戦を目論んでいた。
しかしそんな折に帝国の一貴族が私兵を率いて諸国連合領内に侵攻。無血開城とは言え港町の一つを占拠してしまった事で、帝国側は相手の顔を立てるどころか泥を塗りたくってしまい、連合側も手を引くわけにはいかなくなってしまった。
要するにどちらもこれ以上戦争をしたくないのに、戦果を挙げなければ面目が立たないという事態に陥ってしまったのである。
そのシャイハスティン公爵は今、議場の一角で呑気に鼻を鳴らしてふんぞり返っており、その隣には桃色の髪と大きな鳶色の瞳をした少女が不機嫌そうな様子で佇んでいた。彼女は名を斯波勝己と言う。
二人はつい先日までイマズにいたのだが帝国議会の開催に合わせて帰国——と言うよりは重要参考人として召喚されたと言った方が正しい。独断での軍事行動と帝国の外交努力をご破算にした事に対する懲罰はもはや避けられそうになかった。
とは言え、若きシャイハスティン公爵はその責任を前当主である祖父に擦り付ける気でいたし、国内の安く買い叩いた農作物を兵糧を口実にイマズへと持ち出して、それを売りつける事で私服を肥やしていたので、例え自分が処罰される事になろうとも大事はないと考えていたのである。
一方でこの企てを立案した勝己は自分の目論見自体は成功したものの、それがまさか戦略上の大失策に繋がる事になろうとは露ほどにも予測しておらず、臍を嚙むような屈辱と逆恨みに愛らしい顔を顰めていた。
「然るに——シャイハスティン公の独断専行は赤狼公国公女マリアリガル様を囮とし、自身の軍事的成功に利用した不敬極まる暴挙であると、私は告発するものである!」
議場で大演説をぶつのは端正な顔に無数の皴を彫り込んだ美丈夫、ヴィフシュタイン公爵であった。
彼はシャイハスティン公爵家と並ぶ帝国の大貴族の一角で、北征論の提唱者でもある。稀代の美男子と若き頃から称えられたのは、決して容姿だけが優れていたからではない。武人としても経験豊富で領国経営にも長けていた事から、貴族の中でも伝統と格式に重きを置く一派の長として絶大な影響力を誇っている。
そんな彼が北征論を主導しているのは彼が帝国中西部——翠馬公国に面した穀倉地帯を領有しているからに他ならない。
ヴィフシュタイン公爵は穀物を中心とした農作物の暴落と輸送網の停滞だけでなく、シャイハスティン公爵の軍事活動が同時期にオウサの関で諸国連合軍と激突した赤狼公国公女マリアリガルを囮にしたものであるとして非難を続けていた。
シャイハスティン公爵からすると大公家の公女を囮にするという大それた真似をしたつもりはないが、さりとてそう見做されても仕方ないよねとヘラヘラ笑うだけ。
しかし皇室への忠誠が厚い貴族にとって、未来の皇后陛下を危険に晒したと言うヴィフシュタイン公爵の告発は非常に重いものであり、シャイハスティン公爵が東征論を唱えていたこともあって、北征論支持へと寝返る者は決して少なくなかった。
「イマズからの即時撤兵と連合との停戦協定——これは私個人ではなく、心ある帝国臣民全ての要望である!!」
ヴィフシュタイン公爵が演説を終えると、議場から割れんばかりの拍手が巻き起こった。
その多くは貴族ではなく臣民会議の議員たちであり、彼らにとっては諸国連合との貿易再開こそ緊急の課題であり、ヴィフシュタイン公爵の訴えは彼らの切なる声をしかと拾い上げていたのである。
「ケッ——そうそう上手く行くもんかよ」
面と向かって扱き下ろされる形となった勝己は悪態を吐くが、共謀者であるシャイハスティン公爵は「まぁ仕方ないねー」と他人事の様に平然としている。それが更に勝己を苛立たせた。
このままでは自分の目論見は完全なる愚策として成果を否定され、賞賛どころか罵声と嘲笑を浴びる羽目になる。そんなのはまっぴら御免だと意地を張っても、彼女のそこそこ聡明な頭脳は自分の失態を否定しきれないでいた。
そんな時である。
ひときわ高い席から議会を視察していた初老の男性——銀鷲帝国24代目皇帝・フリーデン三世の元に侍従が駆けつける。隣に座る皇后でも聞き取れない声で報告を受けるとフリーデン三世は慌てて立ち上がった。
「まぁ、どうしました陛下?」
おっとりした調子で妻に尋ねられた初老の皇帝は、人好きのする顔に穏やかな笑みを湛えて答える。
「サーラ、とんでもない事が起きたよ。神竜様がこちらにお出でになられたのだ」
「まぁまぁ、それは今すぐご挨拶に伺いましょう」
フリーデン三世は皇后の手を取り席を離れる。その様子は議員たちにも伝わり、ざわめく議場を伝言を携えた従者たちが行き来し始める。
ヴィフシュタイン公爵は報告子を受けるや否や議会の一時休止を宣言し、慌てて皇帝の後を追った。他の大貴族も続いて席を立ち、シャイハスティン公爵も侍従から報告を受けるや否や「マジかよ!?」と叫んで席を飛び出していた。
「ちょ、ちょっとどこ行くんスか公爵!」
慌てて追いかけてきた勝巳に、若きシャイハスティン公爵——サイレン・ド・シャイハスティンは少年のような笑顔で答える。
「神竜様だよ! 本物の神竜様に会えるんだ!」




