第二次元:妃
オムニバス方式なので、前回とは全く登場人物の異なる別次元の物語です。ラスト近くまで、昼ドラみたいな話が続きますが、これはあくまで次元連続者の話です。いろんなジャンルの話が出てくるので、オムニバスなのです。
ハリソン夫人は、最近世間から浮いた存在となっていた。夫も子供も隣人も親戚も、自分を避けている。しかし、これはハリソン夫人の人付き合いに特別問題があったせいではない。彼女の周りの人間は、彼女ではない方に味方しているのだ。
ハリソン夫人「こうなったのは、あの女が来てからよ…」
彼女が手に取って睨みつけた写真立てには、彼女の息子と夫、そして一人の若い女性が写った写真が飾ってある。彼女がいないときの旅行で取ったという写真だ。妻である自分を置いて子供と旅行に行くのも信じられないのに、ましてや自分ではなくこの女が一緒だなんて。
彼女は夫の秘書のメアリー・キャリー。そして疑いようもなく━夫の浮気相手だ。
ハリソン夫人が今の夫、ハロルド・ハリソンと出会ったのは彼が議員選挙に出馬した時のこと。地元から出馬したハロルドを同じ町の出身者として、選挙スタッフになって熱心に応援していたのがきっかけだった。選挙活動をしているうちに交際をはじめ、二人の苦労の末に選挙で当選した時には、ハリソン夫人は勝利の女神だと、ハロルドからのろけられたものだ。
当然をきっかけに結婚し、ハロルドが議員として活動する中、彼の帰る家庭を守った。ハロルドは知名度が上がってからも、「今の自分があるのは妻のおかげだ」と公言してはばからなかった。愛妻家であることは、彼の誠実なイメージの後押しにもなり、彼はまだ短いキャリアながら多くの支持を得た。その支持に彼は有効な政策で返し、次期大統領を望まれるようになる。
ハロルド本人はまだ早いからと遠慮していたが、ハリソン夫人が背中を押した。この時、ハリソン夫人は妊娠しており、「大統領になって、この子の未来を作ってほしい」と願ったのだ。我が子のための願いにハロルドは答え、その決心は全国民にも知れ渡り、親近感を生む結果となった。そして見事大統領に当選。その頃にハリソン夫人も出産。このドラマチックな展開に、ハリソン夫人もファーストレディとして内助の功をたたえられた。ハロルドは大統領として腕を振るい、息子のロナルドも素直な子に育ってくれている。
すべてが順風満帆、そんな時に彼に首席補佐官がついてきた。上院議長からの強い推薦で、人当たりもいい有能な人物とのこと。首席補佐官には通例となっている政治的キャリアはないが、政治補佐のスキルはそれを補って余りあるらしい。だがハリソン夫人はそんな能書き以上に、彼女の写真を見て驚いた。輝くブロンドにくっきりした目鼻立ち。元の顔もあるが、大胆なメイクに彩られ、ゴージャスに仕上がっている。スーツを着ていても目立つスタイルの良さ。社交界でも見たことのないような美女だった。女の自分も見とれるほどだから、夫はこんな女性と仕事していて大丈夫だろうか…と不安になった。しかし、夫は今や愛妻家で通っている大統領。それを裏切るなんて国民が許さない。そう考えなおして不安を振り切った。ハロルドの誠実さは私が一番よく知っている、綺麗な女性だからってなびくはずがないと。
ところがそれから数日後に、ハリソン夫人はメアリー本人に会うことになる。しかも、ハロルドが家に招待してきたのだ。
ハロルド「ただ今ハニー。彼女がこの間写真を見せた、首席補佐官のメアリーだ。彼女がぜひうちにお邪魔したいというからね」
メアリー「初めまして奥様。首席補佐官のメアリーです。ハロルドさん自慢の我が家が見たくて、図々しいお願いをしてしまいました。噂以上に素敵なお家とご家族ですね」
ハリソン夫人「ええ、よろしく…」
メアリーと会釈しながら握手したものの、ハリソン夫人は早くもハロルドの怪しさに気づいていた。
ハロルドは愛妻家である自身を、公私ともに損なわないように気を付けていたはずだ。それなのに、数日の付き合いの女性一人だけを家に誘ってくるなんて、スクープにでもなったらどうするのか。それに、もうメアリーと呼び捨てにしている。ハロルドは女性に対してはファミリーネームに敬称をつけて呼ぶような、紳士的な対応が身についている。何より、いつもの「ハニー」と言う呼び方に心がこもっていないようだ。なぜか目が泳ぎ、メアリーの方に視線を送っている。
やはり何か怪しい。その後もディナーを御馳走しながら、ハリソン夫人は二人を注視した。
メアリー「おいしい…。このスープ、10種類以上の野菜からブイヨンを作っていますわね。素晴らしい栄養バランスです、流石奥様」
ハリソン夫人「ええ、そんなところで…」
ハロルド「謙遜することないさハニー。メアリーは会食に出ることが多くて、舌が肥えてるんだ。僕もメアリーにいい店を紹介されたんだ。今度家族でも行こう」
メアリーは先ほどからハリソン夫人をほめちぎっており、どうにも調子が狂う。かと言って安心もできない。同時にハロルドが、メアリーと店で食事したようなことを言っている。本当に何を考えているのだろう。
食事が終わると、メアリーは泊まっていきたいという。ハリソン夫人は断ろうとするが、ハロルドが彼女は迷惑にはならないからと主張する。夫婦で問答していると、寝かしつけていた息子のロナルドが、寝室から出てきた。
ロナルド「パパ、ママ、うるさくて眠れないよ…」
ハリソン夫人「ごめんなさい、ロナルド。でも今お客さんがいるから…」
目をこすっているロナルドに、メアリーが近づき、優しく頭をなでる。
メアリー「よしよし、おねむなのね。お姉さんが子守唄歌ってあげる」
ロナルド「お姉ちゃん、だあれ?」
メアリー「お姉さんはパパのお友達よ。今夜は一緒にいてあげる。だからお姉様って呼んでみて?」
ロナルド「…おねえさま?」
メアリー「そうそう、いい子ね。かわいいあなたは~ママの腕の中~」
メアリーは何やら子守唄らしき歌を歌いながら、ロナルドを抱き上げ、寝室に連れて行く。
ハロルド「あの通りさ。子供の面倒見るのも得意なんだ。今夜はメアリーに任せていいんじゃないか」
ハリソン夫人「まあ、今回は私たちの声で起こしたからしょうがないけど…」
メアリーはロナルドの寝室で、ハリソン夫人とハロルドは夫婦の寝室で寝ることになった。ハリソン夫人はベッドに入って目を閉じてもなかなか眠れない。まんじりともせずにいると、ハロルドがベッドから出ていく気配がした。こんな夜中にベッドを出てまさか…。そっと後をつけると、ハロルドはロナルドの寝室に入っていく。扉に耳を当てると、中からはハロルドとメアリーのささやく声。やはりそういうことだったのだ。
それから一睡もできずにベッドの中で考えたハリソン夫人。浮気されたのはショックだが、それでもハロルドのことは愛している。離婚するつもりは無い。問題はあのメアリーの方だ。彼女はきっと、大統領になったばかりのハロルドを陥れるために近づいてきたに違いない。例えば彼女を紹介した上院議長が、ハロルドを追い落とすために…。ハロルドは私が守らなくては。私は彼の勝利の女神なのだから。
朝の出勤時間になると、ハロルドとメアリーは肩を並べて出かけて行った。ハリソン夫人は笑顔で見送る。メアリーに気取られてはならない。それから、早速ハロルドの紹介で知り合ったFBI長官に取り次いでもらう。そちらにメアリーの身辺調査を頼んだのだ。メアリーが政府関係の手先だとすれば、そちらから離れたところに依頼した方がいい。FBI長官のハイド・アンダーソンは半信半疑ながらも、ハロルドに悪い虫がついてはと、引きうけてくれた。
数日後、ハイドは、自ら調査報告書をまとめてきてくれた。
ハイド「メアリー・キャリーはシロだ。私が保証する」
ハリソン夫人「そんな!だって彼女はハロルドが大統領になった途端に近づいてきたんですよ!」
ハイド「彼女は推薦してくれた上院議長の元で実績を上げている個人秘書だし、その上院議長にもハロルドを追い落とす理由なんてなかった。全面的に大統領派に属しているからね。大統領になれば仕事も増える、新しく補佐がいるのは当然のことさ」
ハリソン夫人「それなら、ハロルドと彼女が浮気しているのは…」
ハイド「報告書を見給え。彼女は常にハロルドの公務をサポートしているだけ。レストランでの食事も、彼女が会食のために手配しただけだ。ハロルドが大統領を順調にこなせているのは、大物議員の仕事を支えてきた彼女の力あってこそだと思うがね」
ハリソン夫人「でもあの夜は二人で…」
ハイド「それも聞かれたくない仕事の話をしていただけではないかな?君の内助の功は知ってるが、だからこそハロルドも心配を掛けたくないということもあるだろう?」
ハリソン夫人はそんなものかしらと納得しかけるが、又違和感を感じる。報告書のメアリーの写真を見るハイドの目。あの時のハロルドと同じだ。
ハリソン夫人「あなたもメアリーと…」
ハイド「何のことかな。メアリーとは会ったこともないな。とにかくこれ以上疑わしくもないメアリーは調べられない」
ハリソン夫人「もういいです。あなたがそんなにだらしない人だったなんて…」
途中からメアリー呼びになってるこの人もハロルドと同じ…やはり男に彼女を探らせるのが間違いなのか。
ハリソン夫人は作戦を変えた。選挙スタッフ時代から地元の友人であった女性パパラッチに依頼した。
ハリソン夫人「そういうわけで、男がメアリーに近づいても丸め込まれるだけ。ハロルドのスキャンダルじゃなくて、そういう怪しい関係から調べ上げてほしいの」
トレ―ス・キャメロン「OK、そのメアリーが男に唾つけてるのを調べ上げてってことね。同じ女として許せないわ。必ず化けの皮を剥いでやるから」
彼女は有名人のスキャンダルを追っている反骨心の強い性格で、一方で約束は守ってくれるフェアな友人だ。トレースにメアリーの人間関係や生い立ちなどを徹底的に洗ってもらったのだが…
トレ―ス「コメントに困るわね…。彼女はごく普通の補佐官だったわ」
ハリソン夫人「どうして!?」
トレ―ス「彼女は今までずっと信用のおける秘書としてやってきてるみたいなの。実際に仕事ぶりも優秀。どうやら彼女に、勝手に男が寄ってきてるみたいね。あの美貌だし」
ハリソン夫人「でもハロルドは自分から浮気するような人じゃないわ!」
トレ―ス「そのハロルドなんだけど…本気らしいのよね。彼の方から誘いをかけるのが、最近は多いから」
ハリソン夫人「違う、そんなの…だって私はハロルドの…」
トレ―ス「ねえ、そんな男信じるのいい加減にやめたら?ハロルドも所詮は男だったっていうことよ。いい弁護士紹介するから、さっさと別れた方が傷も少ないでしょ」
ハリソン夫人「…弁護士はいい考えね。こうなったらあの女と直接対決するわ。白黒ついてから記事にして」
トレ―ス「私は結果が出てから記事にするのでいいけど、あなたは本当にそれでいいの?私はいろんなスキャンダルを見てきたけど、愛人がすべて悪いと決まってるわけじゃないのよ。あなたが傷つく結果になるかもしれないわ」
ハリソン夫人「ハロルドを支えるのが私の人生なのよ。ハロルドが堕落したっていうなら、ますますあの女を遠ざけなくちゃいけないわ」
ハリソン夫人が奔走している間にも、メアリーはハロルドとさらに親密になっているようだった。ハリソン夫人が断ろうとしても毎晩泊まっていく。息子のロナルドもすっかりなついてしまっている。ハリソン夫人がメアリーのことでピリピリしている間に、いつもロナルドをあやしているのがメアリーだからだ。
夜に泊まっている間には、家の電話にも彼女が最初に出るようになった。家に電話してくる間柄の人間であっても、大統領ともなれば陳情がらみで電話してくることもある。つまり家にも大統領宛ての電話がかかることもあるわけで、彼女が取り次いだ方がいいそうだ。確かに親戚や知り合いからの電話でも、いつの間にか大統領政権へのクレームになって辟易することもあったので、自分の方がうまく対応できるとは言えなかった。
彼女のお愛想は電話の相手にも効果的らしく、愚痴気味に電話してきた親戚や知り合いも、メアリーとすっかり打ち解けて話している。男の方は、彼女の甘い声を聴いただけで勢いが半減しているが…女が相手でも彼女にはうまく丸め込まれてしまっている。クレーマーの女性と言うものは、同性に対してもヒステリックになりがちなのだが、彼女はその感情的なクレームに対してもひたすら低姿勢に接し、相手の話を引き出していく。彼女ほどの女性の媚びが、相手の自尊心をくすぐるのだろう。
そんなわけで、彼女はこの家を中心とした人間関係を着々と我がものにしていた。悔しいが、彼女が仕事や人心掌握に長けているのは明らかだ。でも、それでも、ハロルドを大統領にまで押し上げたと評価されていたのはこの私だ。それをはっきりさせなくてはいけない。
ハリソン夫人は、トレースから紹介された弁護士のロー・カウス女史の取り仕切りで、ハロルド、メアリーとの争議の場を設けた。ハリソン夫人としては、ここで今までの調査結果を叩きつけ、メアリーの存在がハロルドを堕落させたと突きつけるつもりだ。たとえ、ハロルドがメアリーにほれ込んだのだとしても、道を間違えたなら止めるのは私の義務なのだから。
ロー・カウス「それでは、ハリソン夫人。ハリソン氏とキャリー女史への要望を仰ってください」
ハリソン夫人「私は、ハロルドとメアリーが不倫していることを、私個人の調査で知っています。その発端がハロルドであろうことも。それでも、私はハロルドと離婚したくはありません。慰謝料もいりません。二人が別れて、二度と接触しないことを望みます。私はハロルドに、元の生活に戻ってほしいだけなんです」
ロー・カウス「ハリソン夫人の要望は、ハリソン氏とキャリー女史の接触禁止のみです。これに対して、ハリソン氏とキャリー女史は何かありますか」
ハロルド「私が妻のある身でメアリーと交際していたのは本当です。しかし、不倫と言ういい加減な関係で終わらせるつもりはありませんでした。彼女を第2のパートナーとして迎えたいと思って、私は交際を始めたのです」
ハリソン夫人「ちょっと待ってハロルド!本気で言ってるの!?」
ハロルド「僕は本気さ。メアリーは数日の仕事の間に、大統領になりたての僕の大きな力になってくれたんだ。大統領としての人生を歩む伴侶としては、メアリー以外にいないと思えた。大統領になるまでの人生を支えてくれた君への感謝は忘れてない。でも、これから大統領としてやっていくには、どうしても彼女じゃなきゃダメなんだ」
ハリソン夫人「考え直してハロルド!あなたは私たち家族のために大統領になったんじゃないの?」
ハロルド「そう、だから君のことは愛すべき国民として幸せにする。君は僕が大統領になってから、ついてこれていない気がした。だから、普通の人生を歩んでほしいんだ。僕を大統領として、背中を押してくれただけでも、君は誇っていい」
ハリソン夫人「私がおかしくなったとしたら、そのメアリーのせいよ!だからその女さえいなければ元通りに…」
ハロルド「僕はその意見には賛成できない。確かに僕たちは変わったかもしれないが、僕が大統領を全うしていくには必要な変化だったと思っている。だからその要望は聞けない」
メアリー「私からもよろしいですか?私とハロルドは、ハロルドが慰謝料を支払い、離婚することで決着をつけたいと考えています。つきましては…ロナルド君の親権もハロルドの方にもらいたいと」
ハリソン夫人「私から…ロナルドまで奪おうというの!」
メアリー「ロナルド君の幸せのためです。ハロルドに離婚の責があるとしても、ロナルド君との親子仲は良好。これからの養育環境を考えても、専業主婦だったハリソン夫人には負担が大きすぎます。安心して私たちに任せてください」
ハリソン夫人「ロナルドはきっと、私と別れることなんて望まないわ!」
メアリー「では聞いてみましょう。おいで、ロナルド」
ドアを開けて、ロナルドが部屋に入ってくる。
ハリソン夫人「ロナルドどうして?今日は隣のおうちにいるんじゃ…」
メアリー「家族の大事なお話だから来てもらったんです。ね、ロナルド。これからはママがいなくなって、パパとお姉様と暮らすかもしれないの。それでもいい?」
ロナルド「うん、いいよ!」
ハリソン夫人「待って!ロナルド、ママと一緒のおうちにいられなくなるのよ。それでもいいの?」
ロナルド「さびしいけど…でもママがいなくてもメアリーお姉様が優しくしてくれるから!」
ハリソン夫人「そんな、そんなことって…」
メアリー「ロナルド君にもこうなるかもしれないと、すでに説明して、了解を得ておきました。ロナルド君が正式に私の家族となれば、育児休暇もとれますので、養育環境に問題はありません」
ハリソン夫人「先生お願い、何とかして!」
ロー・カウス「事情は分かりました。残念ながら、あなたの家族の心はもうキャリー女史の方に向いています。あなたも少しでも慰謝料を多くもらって、新しい人生を歩んだ方が…」
ハリソン夫人「諦めろとおっしゃるんですか…うっうっうっ、うわあああん!」
打つ手がなくなり、泣き崩れるハリソン夫人。慰めようとする弁護士。気まずそうに頭を下げて帰っていくハロルド。ハリソン夫人に何か声を掛けようとしたロナルドも、メアリーが「新しいおうちを見せてあげる」とささやくと、そちらに興味を持ってメアリーについて出て行った。
弁護士の尽力で、ハリソン夫人は現在住む家と土地、相当額の慰謝料を受け取れることになった。しかし、そんな金や住居など受け取ったところで何の慰めにもならない。特に、家族がいないのに、思い出だけ残ったこの家に住み続けるなどできはしない。売却するために私物を片付けていたところ、冒頭の写真立てが見つかった。
そんな苦い回想に浸っていると、玄関のチャイムが鳴った。片づけを手伝いに来る知り合いはないはずだ。
メアリー「いらっしゃいませんか?この家に写真を忘れたと思ってきたのですが…」
メアリーの声。ハリソン夫人が家族も、この思い出の家も、人生さえも失うきっかけとなった女の声だ。ハリソン夫人は写真に視線を落とし、メアリーがハロルドとロナルドと一緒にいる姿を改めて確認し、ある感情を掻きたてた。そう、殺意だ。ハリソン夫人はキッチンに向かい、ナイフを手に取る。もちろん人を刺したことなんてない。でも、私からすべてを奪ったあの女から、今度は私が奪ってやらなければ。家族を、幸せを、未来を、命を。
ナイフを後ろ手に隠したまま、ハリソン夫人は玄関に向かい、ドアをさっと開ける。いないかもしれないと思っていたメアリーは、急にドアが開いて驚いたようだった。その彼女の胸に、ハリソン夫人はナイフの刃を突き立てた。彼女の胸に深々と刃が埋まると、大きな血のシミが滲み、苦しげなうめき声をあげ、血を吐く。ハリソン夫人が突き刺した勢いで、力を失った彼女の体は倒れた。そして周囲からの悲鳴。ああ、見られていた。でもどっちでもよかった。あの女を殺せれば。ハリソン夫人はナイフを持ったまま呆然と立ち尽くし、そのまま警官に取り押さえられた。
その後警察の取り調べで、メアリーは重傷ながら一命を取り留めたと聞いた。そして、メアリーはこの事件はハリソン夫人が一時的な心身喪失によって引き起こしたものだから、情状酌量を望むとも。ハリソン夫人は、最初は偽善ではないかと思った。メアリーの不貞が疑われるのを避けるために、そんなポーズをとって、勝手に事件を終わらせようとしているのだと。しかい、メアリーの紹介だという刑事専門の弁護士も現れて、情状酌量を進めた。その弁護士の話では、陪審員にも話を通した者が過半数存在するという。実際の裁判も、検事の追及に対して、弁護士も陪審員も情状酌量を訴えた。その結果、執行猶予つきの懲役刑に。殺人未遂としては軽すぎるほどだが、マスコミからの批判もない。その方面でも、ハロルドと病床のメアリーが必死に情状酌量を訴えていたらしい。執行猶予で解放されたハリソン夫人は、メアリーに会いに行った。自分を殺そうとした相手を野に解き放った、その真意を知りたかったのだ。メアリー側の要望もあったことから、警察や病院も監視をつけることで渋々認めた。
ハリソン夫人「どうして私をかばったの?私はその、本気であなたを殺そうとしたのだけれど…」
メアリー「今の態度が何よりの証拠です。あなたは少しおかしくなっただけで、だからその後にずっと戸惑っています。私は今までのあなたを見て、そうに違いないと思ってたんです。大統領を支えるのは私でも、あなたがいなければ、今の大統領ハロルドは生まれなかったから」
ハリソン夫人「ごめんなさい、私あなたのことを誤解して、あなたに何もかも横取りされた気がして、私のことを何も考えてないと思って、本当にごめんなさい…」
メアリー「もう気にしないで、あなたはあなたの人生を歩めばいいわ。実はあなたにお似合いの議員がいるの。その人もあなたにぜひ会いたいと言ってたから、今度紹介するわ。そんな泣き顔じゃいけないわね」
ハリソン夫人「ありがとう、うっうっ、ハロルドをお願いね、うっうっうっ」
涙を抑えながら、ハリソン夫人は出て行った。監視の警察官は、ハリソン夫人に張り付いていく。病室はメアリーだけになった。メアリーは慈愛に満ちた微笑をたたえたままだ。
メアリー「私のためにあんなに泣いちゃって、かわいいわね。…本当に、私の思い通りに動いてくれたわ」
メアリーは、頭の中で会話を始める。しかし、相手のない会話ではない。テレパシーにより、頭の中で念じた内容を、別次元にいるもう一人の彼女自身に伝えることができるのだ。
メアリー「あなたの世界の大統領夫人、とうとう落ちたわよ。上手く執行猶予もついたことだし、もうすぐ離婚調停でもサインしてくれるわ。ここまで大事になれば、国民もハロルドの再婚には反対しないでしょうし」
???「あのハリソン夫人が…。あなたの言った通りになりましたね。マリーアさん」
そう、メアリーは本来の名前ではない。彼女は異次元から来て、この世界の同位体と入れ替わった次元連続者。元の世界での本名を、マリーア・ワネットという。今話している相手こそが、この世界に元からいたメアリー・キャリーであり、マリーアは同位体としてそっくりの姿をしているメアリーの身分を借りて、メアリーには別の世界で影武者をさせていたのだ。テレパシ-で連絡を取り合い、必要に応じて入れ替われる二人が、影武者として仕損じることはない。そしてマリーアがこの世界での大統領夫人となる計画も見事に達成された。この世界では超大国に当たる国の、大統領を籠絡してしまえば、他の国の高官にも近づき、実質的に統一支配してしまうことは、彼女の技量ではたやすい。
実はハリソン夫人に刺されたのも彼女の計画通り。写真立てを残して憎しみを煽りつつ、再びハリソン夫人に会う口実を作る。キッチンに目立つように置いてあったナイフも、実はすり替えておいたトリックナイフ。刺した瞬間だけ刃が引っ込み、血糊が噴き出す仕組みだ。自分で口の中を噛んで血を吐き出すという演技までして見せた。一度現行犯逮捕にしてしまえば、凶器のナイフや医師の診断などは、いくらでも手を回せる。
(メアリー改め)マリーア「あの夫人は、夫を大統領にまで押し上げる人生と、大統領になってからの人生、それが同じものだと思っていたのが甘かったのよ。大統領になるまでの夫婦愛という美談、それを守ってれば国政ができるわけじゃない。彼女はその引き際が見えてなかったってこと」
メアリー(本物)「私は少し期待していたんですけれど…マリーアさんが間に入って揺さぶった途端、崩れたのはがっかりですね。それに浮気した大統領の方も、似非紳士だったなんて」
マリーア「私はただ誘惑したわけじゃないわ。ただ首席補佐官の顔をして、奥さんが疲れてるみたいだからどんな相談も私に任せてって、彼を甘えさせてあげたのよ。そして、あなたは十分頑張ってるけど、奥さんの知らない世界まで来てしまったとほのめかす。職場恋愛っていうのは、奥さんの立ち入れない仕事のストレスから燃え上がるものなのよね」
メアリー「仕事にまじめだから、マリーアさんに頼りだしたんですね。では、FBIはどうやって切り抜けたんですか?」
マリーア「FBIは直接落としてないんだけどね。ただ、男っていうのは、好みの女が少しモーションを送っただけで、脈ありのような気がして大抵のことは許しちゃう生き物なのよ。少しウインクや流し目を送ってあげたり、肌を見せたりしてあげただけでね。私に気づかれないか気にしてる人たちは、勝手に勘違いしてくれるわ」
メアリー「それがマリーアさんのやり方…それじゃあ、議員は何人落としたんですか?」
マリーア「あなたもその気になって来たわね。議員くらいになると目も肥えてるから直接お相手してあげるんだけれど、その時に急所も握っておくわね。行きずりの女と思わせれば、口も軽くなるみたい。だから各派閥に分かれてるこの国の中枢も、私の声には逆らえないわ」
メアリー「流石です。あなたはこの世界でも“妃”になったんですね」
マリーア「私の話をそれだけ聞いてくれるなら、あなたもその資質に目覚め始めてるってことよ。この世界を支配したら、平時の仕事はあなたに任せるわ。私には、まだまだ脂ののった政治家が待ってるものね」
彼女の心は、数個の次元を支配しただけでは満たされない。多くの世界の妃となり、いずれは数十個の次元を束ねる派閥さえも乗っ取るつもりだ。無限の次元に散らばる国と言う宝を全て手に入れ、愛でるために。彼女の欲望は、無限の次元に匹敵するほど巨大だった。
次元連続者の一人、妃の物語。ハリソン夫人がかわいそうと言う感想を持ったなら、それは間違っておりません。妃のような人間が間に入ることがなければ、彼女は幸運な人生を全うできたかもしれません。ただ、彼女は幸運を自力で守れる人間ではなかったということです。
妃が嫌いになったという感想もごもっともなものです。彼女は次元連続者の中でも悪女で通ってますから。ただ、彼女は手に入れたものを宝とみなしているので、扱いは良かったりします。蹴落としたハリソン夫人にも、一応救済措置は用意したので。
作中のとおり、次元連続者は実力のある人材が近い世界の自分によく似た同位体と入れ替わることで、その世界を征服し始めます。必要に応じてテレパシーで連絡を取り、時には入れ替わるのでほぼバレず、征服のために協力している方も、影武者としての技能を身に着けていきます。
このように相互で協力しているものの、ほぼ影武者で精いっぱいな人材もいるため、そのような人間は強力な味方にはなり得ず、影武者たちがいても派閥とは呼べません。妃は、世界を支配する上で影武者は用意したものの、有力な次元連続者の協力者はいないので、派閥には属していないと言えます。
今回のみ登場の人物紹介
ハリソン夫人:今回はほぼ彼女の視点で物語が進む。ハロルドを助けることこそ人生と思ってきたが、その大前提を崩され、精神崩壊。そして今は、マリーアに救ってもらったと感謝している。元はごく常識的な女性。いや、普通のままファーストレディになったのが、彼女の不幸だったのかもしれない。
ハロルド・ハリソン:大統領。ハリソン夫人の視点では薄情者に見えるが、作中で解説した通り、大統領の職務に疲れて、難解なために家族にも相談できず…と言う状態だった。マリーア相手に数日で落ちるのは長く持った方。ハリソン夫人とではやっていけないと吐露したが、マリーアが相手じゃ仕方ないともいえる。
ロナルド・ハリソン:ハリソン夫婦の息子。大統領選挙の間、夫婦を精神的に支えた。基本的にいい顔しか見せないマリーアになついていく。離婚後も、ロナルドとハロルドは時々ハリソン夫人に会いに行くが、わだかまりは見られず、良い親戚と言った間柄。
メアリー・キャリー:この物語の悪女…じゃなくて身分を交換した方。元は普通の事務員だったが、マリーアが入れ替わった後は政治家の秘書になり、この名前を使う。議員の時代からハロルドの風評は聞いてたので、本当に落ちるかどうか疑問に思っていた。計画通りハロルドを落としたマリーアの手練手管に舌を巻く。
ここまでのメアリー・キャリーとハリソン一家は、韻を踏んだだけの命名。
ハイド・アンダーソン:FBI長官。捜査員ともども、マリーアに色目使われて落とされた。名前はhide(隠れる)とunder(下に)から。
トレース・キャメロン:女性パパラッチ。ハリソン夫人との友情は通したが、ハロルドが悪いと結論を出してしまった。名前はtrace(追跡)とcameraから。
ロー・カウス:女性弁護士。ハリソン夫人の利益は考えていたが、その結果ハロルドと手を切るしかないと判断した。名前はlaw couceler(弁護士)から。
妃ことマリーア・ワネットは次元連続者として、人物紹介にて記載。




