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『聖女の影』はやり直す ~破滅の運命を越えて、最愛の騎士と共に生きます~  作者: 彼岸茸
第一章

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8 見過ごせない命

 夜の貧民街はとても暗い。

 汗と汚物と泥が混じるすえた臭気も漂っている。


 だが、リアナの目にはそれよりも警戒すべきものが映っていた。


「瘴気……なんで、こんなに?」


 瘴気とは何なのか、なぜこの国にだけ発生するのか、解明されていない。

 人々の負の感情から発生するとも、自然災害とも言われている。


 貧民街は瘴気が溜まりやすい場所なのかもしれない。

 この場所が破滅の始まりなのだろうか。


 そんなことを考えているうちに、ユリウスがスリ師の男の家を探し出した。

 貧民街の住人に男の特徴を伝えて、聞いて回ったのだ。


 男の名前はニコというそうだ。

 彼が暮らしているというあばら家に向かう。


 扉と呼べる代物はなく、ユリウスが壁をノックして中に入る。

 リアナも彼に続いた。


 ロウソクのうっすらとした明かりの中、ぐったりと横たわる女の子のそばで、彼女の手を握って項垂れている男――ニコがいた。


 ニコはハッとしてリアナたちを見る。


「なんだ、てめぇら! ここには何もねぇぞ!」

「落ち着け。俺たちは物取りじゃない」


 声を荒げるニコに、ユリウスが静かに声をかける。


「その声……その顔、昼間の騎士サマか。何しに来やがった。俺を笑いに来たのか?」

「いいえ。貴方のご息女を癒やすために来ました」


 リアナが一歩前に出て、告げた。

 反応した男が、床に転がっていたナイフを拾い、彼女に向ける。


「ふ、ふざけるな。変なことはさせねぇぞ。もう、放っといてくれ!」

「ですが、このままではご息女が――」

「薬もねぇのに治せるわけねぇだろうが!」


 取り乱したニコがナイフを構えたまま、リアナに突進してくる。

 咄嗟に動けなかったが、代わりにユリウスがニコを取り押さえた。さすがは若くして分隊長になった騎士だ。


「リアナ嬢がお前の娘を癒やすと言っているんだ。黙って見ていろ」

「く、くそ! 余計なことはすんじゃねえ!」

「リアナ嬢、今のうちに済ませてくれ」


 リアナは首を縦に振った。少しでも早く黒斑病を癒やさなければならない。


 喚くニコを無視するのは心苦しいが、リアナは聖具を床に置き、愛用のナイフも取り出す。


「何をする気だ! やめろ、娘を傷つけるんじゃ――は?」


 ばたばたともがくニコだったが、リアナがナイフで自らの掌を切ったことに絶句した。


 彼女は流れ出る血を聖具に押し当てた。

 いつもの『封印の儀』よりも捧げる血液量が多く、それに応じて聖具が放つ光も強い。


 浄化の光はニコの娘の身体を包み、あばら家の空気も清浄なものに変えていく。

 リアナの息が荒くなる。


 浄化の光が消えたとき、ニコの娘の表情は穏やかになり、苦しげだった呼吸も落ち着いていた。


「良かった……ニコさんのご息女はもう大丈夫です」


 ユリウスが押さえていた腕から力を抜くと、ニコがすぐに娘の元に駆け寄った。

 そして、全身を見て、「黒い斑点が消えてる……」と呟いた。


「本当に治してくれたのか?」


 リアナの方を振り向いて、ニコが尋ねる。

 彼女が頷くと、ニコは額を床にこすりつけるように頭を下げた。


「ナイフを向けちまって、すまなかった! 貴族なんて皆クソだと思ってたが、あんたは違う。何でも言ってくれ。俺にできることなら何でもする!」

「何でもって言われましても……」


 ニコの態度の豹変っぷりに驚き、ユリウスの方を見る。

 彼はリアナに任せる姿勢だ。


 彼女は考えて、そして手をポンと打った。


「この様子だと黒斑病の方は他にもいますよね? その方たちを広場に集めてもらえますか?」

「わ、分かった」


 ニコは言うなり、あばら家から出ていった。

 残されたユリウスが問う。


「リアナ嬢、何をするつもりだ?」

「このままにしておけば、必ず黒斑病が流行します」


 リアナがしようとしていることに気づいたユリウスが彼女を止めようとする。


「それは君の負担が大きすぎる。危険だ! 頼むから無茶はやめてくれ!」


 だが、彼女は静かに首を横に振った。


「ここで無茶をしないと、きっと破滅に繋がります。私はユリウス様と生きていきたいのです」

「君は一体何を言っている……?」


 ユリウスの困惑をよそに、ニコが戻ってくる。


「何人かに声をかけて、病気の連中を集めてもらってる」

「すぐに行きます!」


 床の聖具を回収し、リアナは広場に向かった。

 ユリウスも深く息を吐いて、ついてくる。


 広場には何人もの黒斑病患者が集められていた。

 小さい黒斑があるだけの軽症者から、ニコの子どものようにぐったりとして呻くことさえできない者まで、さまざまだ。


 その人数に圧倒されるリアナだが、覚悟は決めている。


「ユリウス様、もしも私が気を失ったら、そのときはよろしくお願いします」

「……分かった」


 彼の表情には苦渋が滲んでいる。リアナを止めたいが、止めても無駄だと分かっているのだろう。

 引っ込み思案で控えめだったリアナはもうどこにもいなかった。


 彼女は地面に聖具を置き、ナイフで腕を切った。


 痛い。

 熱い。


 だが、胸を貫かれる痛みに比べれば、大したことはない。

 二度とあの痛みを味わわないために、この痛みは必要なものだ。


 垂れる一滴まで無駄にするまいと、聖具に血を捧げ続ける。

 眩い光が広場を包み、貧民街を覆っていく。


 額には大粒の汗が噴き出て、呼吸が苦しい。

 意識を手放さないよう、気を張り続ける。


 どれだけそうしていたか分からない。


「もういい!」


 ユリウスが、聖具にかざしているリアナの左手を取り、出血部位を圧迫する。

 聖具が発する光も徐々に弱まり、周囲は月明かりだけが照らす、薄暗い広場に戻った。


「リアナ嬢、大丈夫か?」


 耳元でユリウスの声が聞こえた。


「だい、じょうぶ、です……それより、皆……さんは?」


 彼は広場を見渡してから言った。


「ちゃんと癒やせているから、安心しろ」

「そう……よかった……」


 貧民街の住人は黒斑病が収まったことに歓喜している。

 この場に留まれば、彼らにリアナがもみくちゃにされるかもしれない。


 だからユリウスは騒ぎが大きくなる前に、貧民街を後にした。

 彼はリアナの傷口を押さえつつ、両腕で彼女をしっかりと抱きかかえる。


「これほど鍛えていて良かったと思ったことはないな」

「ふ、ふふ。ありがとう、ございます」


 静かな夜道をアルクエル邸に向かって進んでいく。


「リアナ嬢はまるで聖女様のようだった。君の婚約者であることを誇りに思う」


 ユリウスの素直な感想だ。

 謝礼を求めるでもなく、純粋に黒斑病で困っている人を、その身を削ってでも助ける。

 まさしく聖女の行いだ。


「それは、違います……将来の、自分のために……しただけです。だから……」


 だが、依然として彼女の自己評価は低いままだった。

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