5 ユリウスの想い
ユリウスに『封印の儀』を見せる。
そのことを考えただけで、リアナは緊張してしまう。
瘴気を浄化するためとはいえ、やることは自傷に他ならないのだ。
彼女自身はもう慣れている。
先代の聖女だった彼女の母親が亡くなってからは、カタリナとともに聖具に血を捧げてきた。
今ほど、頻繁に儀式を行っていたわけではないが、それでも何十回と繰り返してきたことだ。
ただ、他人が見たらどう思うかは別問題だ。
ユリウスにおぞましいと思われはしないだろうか。
そんな不安はどうしてもつきまとう。
だが、今は彼との逢瀬を喜ぶことにする。
騎士の訓練が終わって、すぐにユリウスはリアナの待つ応接室にやってきた。
彼の私服姿は新鮮だ。
一周目の世界では、婚約者でありながら接する機会は少なかった。婚約破棄されてからはなおさらだ。
だから、リアナにとってユリウスは「鎧の人」という印象が強い。
落ち着いた色合いの服装は彼によく似合っていた。
鎧姿とは違い、鍛えられて引き締まっているのがよく分かる。
あの腕に抱かれることがあれば……と想像して、リアナの顔が熱くなった。
「どうした、リアナ嬢? 顔が赤いが、やはり体調が悪いんじゃないのか?」
「だ、大丈夫です。何でもありません」
ぶんぶんと首を振ってリアナは否定する。
貧血気味なのに急に頭を揺らしたせいで、ふらついてしまった。
「おっと、危ないぞ」
ユリウスがすかさず彼女の身体を支える。彼の腕はやはり逞しい。
互いの顔も至近距離になる。
リアナは少ない血が顔に集まるのを感じた。
恥ずかしいやら嬉しいやらで、先ほどまで感じていた不安はどこかに行ってしまった。
「あ、ありがとうございます。で、でも、本当に大丈夫ですから!」
リアナにしては大きな声が出た。
そのままの体勢でいたら、心臓がどうにかなってしまいそうだった。
「あ、ああ。分かった」
ユリウスがそっと彼女を立たせる。
離れていく彼の腕を、リアナは少しだけ残念に思った。
「それじゃあ、君を屋敷まで送ろう」
「よろしくお願いします」
ユリウスはサンドイッチが入っていたバスケットを持ち、反対の手でリアナをエスコートする。
リアナはそっと彼の腕に手を添えて、応接室を出る。
訓練場を出るまでに、ユリウスの部下が彼をからかう声が聞こえたが、いずれも揶揄するものではなく、親愛を感じるものだった。
一周目の世界では一度も彼とこうして歩いたことなどない。
そこに小さな幸せを感じながら、アルクエル邸に向かった。
◆
屋敷に行く間に、陽は少しずつ傾いていった。
すっかり暗くなってしまったが、ユリウスが真鍮製のランタンを持っていたので、足元はしっかりと照らされている。
「準備がよいのですね」
とリアナが言うと、彼は笑って答えた。
「魔獣は夜に出ることもあるからな。いつ呼び出されてもいいように持ち歩くようにしている」
その言葉に頼もしさを感じる。
屋敷に到着し、ユリウスには少しだけ待ってもらい、すぐに私室から聖具とナイフを取ってくる。
その間、カタリナの姿を見なかった。
今後の儀式について王族と打ち合わせをしているのかもしれない。
姉の不在を安堵する自分に気づく。
一周目の世界では、ユリウスはリアナと婚約破棄した後、カタリナと婚約をした。
自分より優れている姉なので、それも仕方ないと受け入れた。謂れのない罪で投獄されていた事情もあった。
だが、その時のことを思い出すだけで心が痛む。
ユリウスを姉に取られたくないという独占欲が自分にもあったのだ、と驚いた。
だからこそ、やり直しの機会を得た今、愛するユリウスとの関係を進展させたい。
そのためにも、彼に隠し事をするのはよくないと考える。
「ユリウス様、どうぞこちらへ」
彼の元に戻り、リアナが案内したのは、庭園のガゼボだ。
婚約者といえど、私室に招くのはさすがにはしたない。
「ああ。いい庭だな」
ユリウスが庭園を見渡す。よく手入れされた芝生からは青い匂いが漂ってくる。
辿り着いたガゼボの柱の金具に、ユリウスがランタンを引っ掛けた。
二人の影がゆらめく。
これから、リアナは『封印の儀』をユリウスに見せる。
彼女の顔に緊張が走った。
リアナは深呼吸を一つして、抱えていた聖具をそっとテーブルに置く。ことり、と小さな音がした。
「……始めます」
彼女は長手袋を外す。
ランタンの明かりの下、彼女の傷だらけの手が露わになった。
その手を見たユリウスの目が鋭くなる。
そのことに胸がちくりと痛んだ。
だが、やると決めた以上、儀式を彼に見せないといけない。
ナイフの刃を左手の中指に押し当て、軽く引く。チカッとした痛みと熱が走るが、リアナにとってはもはや慣れたものだ。
玉になった血を聖具に押し当てる。
祈りの言葉も念じることもない。
ただ、血を聖具に捧げるだけだ。
血を吸った聖具が僅かに輝き、周囲に拡散していった。
リアナにとっては毎晩のことで、見慣れた光景だが、ユリウスにとってはそうではない。
意識しなければ、気づかないほどの光だ。
しかし、そうと気づけば、どこか幻想的に見える光景に、彼は息を飲んだ。
「ふぅ……」
リアナが息を吐いて、聖具から指を離す。額に浮かんだ汗を拭ってから、血を止めるために、切った箇所をぐっとハンカチで押さえた。
「リアナ嬢は毎晩この儀式をしているのか?」
ランタンの明かりに照らされたユリウスは痛ましそうな顔をした。
リアナは素直に答える。
「はい。破滅を避けるために――いえ、お姉様の助けになりたくて……それに、私の血で王国が平和になるなら、と」
彼の手がリアナの手に伸びる。
傷だらけの手と指はとても令嬢のものとは思えない。
人様に見せるようなものではなく、咄嗟に引っ込めようとしたが、ユリウスの方が早かった。
「こんなになるまで……」
「あの、おやめになってください……このような醜い手をお見せして申し訳ありません」
だが、彼は手を離さず、空いている手でポケットから何かを取り出した。
軟膏のようで、リアナの新しい傷に塗る。
「傷薬だ。切り傷や擦り傷によく効く」
「そんな……もったいないです」
ユリウスはリアナの言葉を無視して、別のポケットから取り出した包帯を優しく巻いた。
「仕事柄、怪我が多いから持ち歩くようにしていて良かった」
「……」
俯いてしまったリアナに、ユリウスは言葉を続ける。
「さっき、君は『醜い手』と言ったな。俺はそうは思わない」
「え……?」
ぱっと顔を上げるリアナ。
「令嬢に対して使う言葉ではないが、君の傷は勲章だ」
「勲章……」
ユリウスは立ち上がり、リアナの隣に移動すると、片膝をついた。
「身を削って国を守ろうとするリアナ嬢を、俺は誇りに思う。君が俺の婚約者で良かった」
彼は包帯越しに手の甲に温かな口づけを落とす。
布越しにも伝わる確かな熱に、リアナの身体が小さく震えた。
ユリウスは頭をがしがしと掻く。
「ただ、まあ、なんだ。心配だから、これからは俺の前でやってくれると助かる」
不器用な言い方だが、リアナのことを本気で心配していることが伝わる。
胸の奥が熱くなり、彼女の瞳から涙がこぼれた。
「わ、悪い。痛かったか? すまない」
ユリウスが慌てて頭を下げるが、この涙は痛みや悲しみによるものではない。
「違うのです。嬉しくて……ユリウス様にそう仰っていただけたことが、本当に嬉しいのです」
一周目の世界では得られなかった彼からの共感が、これほど心を動かすとは思わなかった。
あの時は誰にも共感されず、孤独だった。
そのことが、自分で思っていた以上に心を凍らせていたのかもしれない。
リアナは心から思う。
――ほんの少しの勇気を出してよかった。
――ユリウス様を愛してよかった。
リアナとユリウスの心の距離は縮まり、確かな絆へと変わった。




