10 カタリナの誘惑
リアナがユリウスのために弁当を作り、騎士団の訓練場に持っていく。
もう何日も繰り返してきたことだが、彼に会えるだけで、リアナの心は弾んだ。
騎士たちからも温かい視線を受けている。
リアナが行くたびに、ユリウスが部下の騎士にからかわれるのも見慣れた光景になった。
それはとても平和で幸せな日常だ。
最近は訓練場の隅にあるベンチで、ユリウスと一緒に弁当を食べることが多い。
今日も二人で並んで、リアナが持ってきたバスケットを広げている。
中身はいつもサンドイッチだが、飽きがこないようにアルクエル邸の料理人と相談しながら具材や味付けは毎日変えている。
自分ではまだまだだと思う。
それでもユリウスは美味しいと言ってくれるので、リアナの心も温かくなる。
一周目の世界とは違って、勇気を出して良かった。
彼女は心からそう思う。
そんな彼女の隣で、ユリウスの表情に陰が落ちる。少しだけ言い淀んでから、口を開いた。
「最近、君がいないときに聖女様がよく騎士団に来るんだ」
「お姉様が……?」
「ああ。俺に会いに来て、夕食を何度か誘われた」
一周目でユリウスが最終的にカタリナを選んだことが、リアナの脳裏によぎる。
冤罪とはいえ、牢獄に囚われたリアナを愛せるはずがないことも頭では分かっているが、そのことを思い出すだけで胸が苦しくなった。
ユリウスが姉を選ぶというなら、潔く身を引こうとは思う。
その方がユリウスの幸せに繋がるというのであれば、自分の幸せは二の次でいい。
――本当に?
それが嫌だったから、二周目の世界ではユリウスとの仲を進展させようと思ったのではないのか。
二人の逢瀬も毎晩ではない。逢えない夜、ユリウスがカタリナと過ごしている可能性に思い至る。
心臓の鼓動が速くなった。
姉と何かあったのか、尋ねるのは怖い。
だが、尋ねないといけない。
「あの……ユリウス様はお姉様とお食事を……?」
顔を伏せ、ユリウスに問うた。
視界の端で、彼が首を横に振るのが見える。
「俺には愛する婚約者がいるからな」
「え……? あい……」
ぼっと顔に火がついたように熱くなった。
さっきとは別の意味で動悸が激しくなる。
「それに畏まった食事会よりも、リアナ嬢とこうして食べる弁当のほうが何倍も美味い」
「あぅ……」
変な声が出てしまった。
突然の「愛する」発言に混乱していると、ユリウスがリアナの顔を覗き込んだ。
汗の匂いがふわっと漂う。
「だから安心してほしい。聖女様との食事会は断った」
「……その、良かった、です」
なんとかそれだけ答えた。
「惚気るのは二人だけのときだけにしてくださいよ、分隊長」
ふとベンチの近くを通ったユリウスの部下の女性騎士が呆れたように呟いた。
彼女はユリウスに「うるさい」と追い払われる。
リアナにとっては、彼のおかげで少し心が落ち着いた。
ユリウスが「愛する婚約者」と言ってくれたのだ。自分も何か気の利いたことを言わないと。
誰にも聞かれたくないので、小さく周囲を見まわす。
近くに騎士がいないのを確認してから、意を決してユリウスの顔を見つめた。
顔は真っ赤になっていることだろう。
「あの、ユリウス様……私は、ずっとユリウス様の隣にいたいです」
今のリアナにはそれが精いっぱいだった。
彼女からも「愛している」と言いたかったが、まだ無理だ。せめて本当に二人きりの場所でないと、口に出せる気がしない。
それでも想いは確かに伝わった。
「俺もそう思っている」
彼はリアナにしか見せない穏やかな笑みを浮かべる。
いつもの精悍な顔つきもいいが、時折見せるこうした顔もリアナは好きだ。
彼もリアナのことを愛してくれている。
「今日も弁当、ありがとう。美味しかったよ」
そう言って、訓練に戻っていくユリウスの大きな背中を見つめる。
彼を誰かに譲るようなことはしたくない。たとえ、相手がカタリナであっても。
リアナはそう心に決めた。
◆
ユリウスの訓練が終わり、いつものように彼にアルクエル邸まで送ってもらう。
その予定だった。
しかし、ユリウスが来るのを待っていると、カタリナが訓練場にやってくるのが見えた。
「お姉様、何を……?」
彼女はリアナに気づかないまま、ユリウスの執務室へ向かう。
何度かユリウスを食事に誘っているという話も聞いたばかりで、どうしても姉が何をするつもりなのか気になった。
リアナも急いで執務室に行く。
姉が目的の部屋に入っていくのを見て、背筋が凍ったように感じた。
ユリウスからリアナに向けられる愛は本物だ。
だが、カタリナが「聖女」の権力を使ってきたら?
「ふぅ……」
リアナは深呼吸をしてから、執務室の扉をノックした。
不躾だと分かっているが、返事を待たずに扉を開ける。
「……!」
目撃したのは、机に腰掛けるように身を預け、ユリウスの手を握っている姉の姿だった。
ユリウスは心底嫌そうな顔をしている。
リアナの方を向いたカタリナが口を開く。
「あら、リアナ。わたくしがユリウス様と話しているというのに、無作法ね」
笑顔を浮かべている。だというのに、目が笑っていない。
「聖女様、何度来られようと、俺は貴女との食事には行きません」
ユリウスははっきりとカタリナに告げるが、カタリナは握った手を離さない。
そのまま熱っぽい視線でユリウスを振り返る。
「ユリウス様。わたくしならあなたをもっと上の立場に推すこともできましてよ?」
「俺には必要ありません」
きっぱりと断るユリウス。
それでもなお、カタリナは彼に何かを言おうとする。
リアナは怖気づく心を奮い立たせる。
「お、お姉様! ユリウス様は私の婚約者です……!」
姉がもう一度、リアナに目を向ける。
その冷たい瞳にぞっとした。
「はぁ……」
カタリナは溜め息を漏らす。ユリウスの手を解放し、身を預けていた机から下りてリアナの前まで歩いてくる。
そして、彼女にだけ聞こえるよう声を抑えて言った。
「リアナ、婚約破棄なさい」
「え……?」
姉が何を言っているのか、一瞬理解できなかった。
「あなたは十分ユリウス様との逢瀬を楽しんだでしょう? そろそろわたくしの番よ」
「い、嫌です。私はユリウス様を愛して――」
「わたくしも彼を愛しているわ。ね、『半分こ』よ。ユリウス様にとっても、相手が『聖女』のほうが箔がつくでしょう?」
カタリナは勝ち誇ったように、言葉を続ける。
「『聖女の影』のあなたよりも、『聖女』のわたくしがより相応しいわ」
だが、リアナもユリウスを誰にも譲らないと決めたのだ。
思えば、これが姉に対する初めての反抗かもしれない。
「ユリウス様は私が『聖女の影』であることをご存知です。それでも、私を愛していると仰ってくださいました」
その言葉に、カタリナの目が見開く。
「……そう。分かったわ」
カタリナはすっと踵を返し、ユリウスに目をやる。そして、軽く膝を折る。
「ユリウス、突然の訪問にお応えいただきありがとうございました。これにてお暇させていただきます」
リアナが胸を撫で下ろす。
しかし、カタリナは去り際にぼそっと囁いた。
「わたくしのものを欲しがるなんて、痛い目を見せてあげるわ」
「お姉、様……?」
彼女は退室していったが、しばらくリアナは動けなかった。
初めて見る姉の本性に膝が震える。
顔も青くなっているだろう。
そんな彼女を、いつの間にか隣に来ていたユリウスがそっと抱きしめてくれた。
「助かった。君が来てくれて、本当によかった」
彼の温かい声と腕で、リアナが感じていた恐怖は少しずつ消えていった。
カタリナが自分に悪感情をぶつけようと、ユリウスがきっと守ってくれる。
そう思っただけで、身体の強張りが解けていった。
一周目の世界では何もできずに最期を迎えた。
だが、今度は自分の意志をはっきりと告げ、ユリウスの隣を守ることができたのだ。
微々たるものかもしれない。それでも確かな自信に繋がる。
ただ、カタリナが去り際に遺した言葉だけが耳に残った。




