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アダーシャン伯爵夫妻の日常  作者: 々 千早
Ⅴ 伯爵夫妻の日常~夜会編~
30/30

伯爵夫人の一騎打ち

 五十一番の札を持つイリスの席は偶然にもキャヴェンディッシュ子爵夫妻の丁度右斜め後ろであった。

耳をすませば、すぐに声が聞こえるような位置。振り向かない限り相手からは顔が見えない。――この位置は実に都合がいい。本命の競売が始まるまで、なるべく目立たないように心がけていればいいだけだ。


 まさにハウエルが四方八方手を回したと察するのが易い席順である。彼の今宵の競売に対する執念を見せつけられた気分だった。


「さあ、お次は金貨六千枚で落札されたダリューシャンの壁掛けに続きまして、異国品最後の品はアバラマの宝飾品。アバラマの旧王族が纏った首飾りでございます。ご覧ください。この真新しい葡萄酒のように鮮やかな紅玉(ルビー)の輝き。少々の破損はありますが、歩くたびに擦れて音が鳴る細かな金の飾りを――ご婦人の細首にさぞお似合いでしょう。さあ。ではこちらは金貨五千枚からはじめましょう。保存状態が少々お悪いため、破格の値で始めさせていただきます」


 進行役がカン、と木槌を打つと、即座に札が上がった。


「金貨六千枚」


「七千枚」


「七千五百枚」


「一万枚」

「おっといきなり一万越えです! 四十二番のキャヴェンディッシュ子爵が入札。他には?」


 しん、と会場が静まる。当然だ。競りはまだ絵画などの芸術品と異国の品を数品過ぎたばかり。支払いは出来れば現金で、というダルトー公爵夫妻の意向に従い、現金しか持ってきていない貴族が大半で、小切手で支払う貴族は今のところ、見かけていない。


 いきなり七千五百枚から一万の高値がつき、他の入札希望者は一気に札を下げた。これから先の競売も念頭に入れて散財している貴族たちは、早々にこの競売から身を引くことを決めたようだった。


 首飾りに金貨一万枚以上の価値を見いだせなかったのだろう。そもそも、あの装飾品の価値自体がよくて金貨八千枚程度なのだ。確かに素晴らしい装飾だが、金は――混ざり物が入っているのか、はたまた変質しただけなのかわからないが――煤けたように曇っているし、進行役の言う通り、細かな飾りには一部破損も見られ、修復にもかなりの金がかかると思われる。むしろ紅玉を取り出して新しい装飾品にした方が安くつくのではないかとイリスも考えたほどだ。先程競売から潔く身を引いた人々も、イリスと同じことを考えていたのだろう。


 そこまで手間がかかる装飾品を欲しがる者は少ないから、キャヴェンディッシュ子爵もそれがわかっていて、この競売を早く終わらせるために早々に金貨一万枚の高値をつけたのだ。


 イリスは咳払いを装って、更紗織の布を僅かに上げ、その隙間から横目でシャーメインに目配せする。シャーメインは目で頷き、再び素知らぬ顔で正面を向いた。


「……他にご入札の方はおられませんか?」


「金貨一万二千枚」

 スッと神妙な顔で札を上げるのはシャーメインだ。キャヴェンディッシュ子爵は邪魔物を見るように一瞬、眉を寄せた。

 進行役は機嫌よさげに頷き、さらなる高値をつけたシャーメインを褒め称える。


「素晴らしい、先程『湖の処女』を競り落とした二十二番のウィルフォング侯爵が入札です。さあ、他はおられませんか」


「金貨一万三千枚」


「おっとキャヴェンディッシュ子爵が再びご入札です」


 再び値がつり上がり、シャーメインが少し考えて札を上げた。


「金貨一万四千枚」

「おや! またまた高値がつきました!」


 すでに一騎打ちとなった競売を、周囲の人々が固唾をのんで見守る。すでに本来の価値から金貨六千枚も値が吊り上がっている。


 イリスはちらりと子爵の表情を窺う。ぐっと奥歯を噛み締め、真剣な顔で考え込んでいる。あの首飾りに、シャーメインが提示した金貨一万四千枚以上の価値を見出そうとしているようだった。


 イリスはその表情を見て、顔を隠す更紗織の布の奥から人知れず笑む。シャーメインはイリスの指示通り、実にうまくやってくれた。ダリューシャンの壁掛けが思ったより新しいもので本来の価値から金貨千枚程度しか上がらなかったことには冷や冷やしたが、それだってシャーメインが動いてくれなければ更に下回って競り落とされていたことだろう。


 真剣に思い悩む子爵の表情が否の方向に傾いているのを素早く見定め、イリスは一計を案じる。まずい。ここで競りを辞退されたら、請求書がハウエルに送られる羽目になってしまう。


(……仕方ないわね)


 イリスは一計を案じる。彼の性格は以前伯爵の仕事関係で情報収集した際にある程度わかっているつもりだ。


 彼は愛想がよく人当たりがよい。しかし、話してみると成金貴族にありがちな見栄っ張りな部分が多々見え隠れし、『成金』であることを気にしていない素振りを見せるが、実は貴族に強い憧れと対抗心を持っている。


 背後から『あんな素晴らしい紅玉の首飾り、滅多にお目にかかれませんわね。流石キャヴェンディッシュ子爵。貴族の鑑ですわ』と隣の客を使って聞こえよがしに唆してやろうかと思っていたのだが――イリスが囁く前に、奥方が子爵に耳打ちした。


「あなた、是非とも競り落として頂戴。だってあんな素晴らしい紅玉(ルビー)、滅多にお目にかかれませんことよ」


 夫人の後押しで、子爵は覚悟を決めたようで、札を高く抱え上げた。


「金貨一万五千枚!」


「おっと一万五千枚! 更に吊り上がりました! ほかにおられませんか? 侯爵は?」


 ちら、とシャーメインの目が一瞬判断を仰ごうとイリスを見たが、あえて無視する。これはここでおしまいにしましょうの合図だ。


 シャーメインは緩く首を振り、札を引っ込めた。


「アバラマの装飾品、キャヴェンディッシュ子爵が金貨一万五千枚で落札!」


 イリスは早速頭の中で算盤をはじく。ダリューシャンの壁掛けは思ったよりものが新しかったため、金貨七千枚での入札が無難とされた。しかし、歴史ある装飾品は一万五千枚で落札された。本来の価値から金貨七千枚も多い。――さすが侯爵。己の威光を存分に利用して、生粋の貴族に憧れる成金の子爵の虚栄心をうまくくすぐり、値をつりあげてくれた。


 引っ込みがつかなくなった子爵は競り落とすしかない。彼は見栄っ張りで、それ故に引き際を見定めるのがあまり上手な方ではないのだ。これで――恐らく子爵は革袋の中身を使い切ってしまったはず。装飾品も半分は換金せねばならない。


「では時間も押しておりますので、次に参りましょう。……こちらは本日の競売において異色の品でございます。一晩で金貨数千枚を稼ぐ伝説的な男娼、アスパシアと一夜を共に過ごす権利!」


 ざわ、と招待客から声があがる。髪を異国の女のように結いなおし、先程男――シンが運んだ高級感ある長椅子にゆったりと腰かけ、にこりと微笑んで誰とは限らず手を振った。


 その顔は微笑みを湛えているが――イリスの方をずっと見ていた。正面ではない。若干ずれている。


 まるで久々に参観日に来た母親を気にしてちらちら後ろの気配を窺う子供のようだった。


 焦って前向いて前! と顎の動きで促すと、やっと視線が逸れた。


 大丈夫なのか、彼。イリスは無事彼を競り落とせるかより、偽客(さくら)がばれないか気が気ではなかった。


「彼はそんじょそこらの男娼ではありません。知性に富んだ話術、学者と真剣に議論できるほどの高い教養を持ち、楽器の腕は演奏者顔負け。加えて床上手。その甘い声は人肌恋しい北方の夜を慰め、この大理石のように美しい肌はしっとりと水を含み新鮮な果実のよう。加えて北方の一部にしか見られないこの蜂蜜色の瞳は黄金のようで素晴らしい!」


 ほう、と貴婦人の溜息が聞こえた。ちなみにイリスは同じ色の瞳を持っているが、間違っても『黄金のように美しい』などと褒めちぎられたことがない。やはりハウエルの何処か浮世離れした美しさがあってこそ、ただの物珍しい瞳の色が、黄金のように美しいまで価値が跳ねあがるのだろう。


 その美しさにイザベラ一筋のシャーメインまでもが感嘆の息を漏らす中、お世辞にも品がよいとはいえない野次が割って入る。


「競売の前に脱がせろ!」


「そうよそうよ!」


「そんな年増の男娼、脱がさねば価値がわからぬではないか!」


 下卑た声を上げる男女を、主に多くの貴婦人が汚らわしいものを見るように睨み付ける。


 しかし、ハウエルは一層笑みを深くしただけで、怒ったような下卑た声に対して怒りもしなければ怯えもしなかった。この程度で動じないところはやはり一流の男娼としての場数を周囲に知らしめていた。


 静粛に、と人々を宥めつつも進行役が戸惑ったように視線を寄越す。ハウエルは目を伏せて、男の目での問いに答え、ゆっくりとした、もったいぶったような動きで長椅子に沈ませていた体を起こした。


「構いませんよ」


 立ち上がり、上着を床に落とすと、地肌が透けそうなくらい薄い布を幾重にも重ねた異国風の服が姿を現す。あまりに薄いためか、幾重にも着つけているというのに、実際光を背負って地肌が透けていた。


 綺麗に浮いた鎖骨の形や体の線がはっきりと見え、後光をしょって立つ惚れ惚れとする美しさに皆一瞬言葉を忘れた。美の神とはまさにこのことなり。


「仕方のないご主人様たち。これ以上は、今宵お仕えする主人の前でのみ脱ぎましょう」


「金貨千枚から開始!!」


 カン、と打ち鳴らす音に、完全に空気に飲まれていた人々が我に返り、こぞって札をあげる。


「二千!」


「二千五百!」


「三千五百」


「五千五百」


「六千」


「六千百!」


「六千二百」


 ハウエルは一晩で平均金貨五千枚を稼ぐ男娼だ。当然、競りも金貨六千枚を過ぎると進みが悪くなる。彼は美しくても男娼としては年増だし、六千枚以上の価値はないと踏んでいるのだろう。


「金貨七千枚」


 キャヴェンディッシュ子爵がここぞとばかりに遅ればせながら札を上げる。彼はこの瞬間を待っていたのだろう。


 いままで嫣然と微笑んでいたハウエルの表情が、多分本人も意識していないだろうが、硬く引き締まった。


 ここが狙い目か、とイリスは静かに札を上げた。


 ここからは子爵との一騎打ちだ。


「八千枚」


 ギョッとした痛いほどの視線が一気にイリスに降り注ぐ。


 子爵夫妻は、まさか落札に興味がないように見せていたアダーシャン伯爵夫人が、まさか破格の値段で男娼を競り落とすとは思いもよらなかったのだろう。ぽかんと口をあけて、唖然としていた。


「は……っ、八千枚! 五十一番のご夫人が一気に八千枚までつり上げました!」


 数多くの競りを渡り歩く進行役までもが驚いた声を上げる。


「…………は、八千百」


「八千五百」


「八千七百」


 なおも往生際が悪く値を上げる子爵にイリスは平坦な声で、金貨五百枚ずつ値をつり上げる。焦った彼はもう手持ちの現金がないはずだ。あとは装飾品を換金するしかない。しかしイリスの焦りを感じさせない冷静な態度から、まだまだ金を持っていると勝手に想像しているのだろう。顔色が悪く、けれどなんとかアスパシアを競り落としたくて、必死で金策を巡らせている。


 奥方の手袋に包まれた手が、諫めるようにプルプル震える彼の手の甲に重なった。


「あなた、今日の手持ちが、もう」


「お前は黙っていろ! 金などあとで換金所にいって換金すればよいんだ。使用人にもってこさせても構わん」


 諦めさせようとする奥方は夫に怒鳴り散らされ、ピタリと貝のように口を閉じてしまう。


 人当たりの良すぎる人はその反動で家内では横柄であるというのがイリスの持論である。彼もまたそういう性格の人のようで、奥方は強く出られないのだろう。

 子爵は上着の襟を正し、気を取り直して再び落札札を上げる。


「九千」


「九千五百」


「一万」


 一万越えは避けたいイリスは、ここで切り札を出すことに決めた。


「……子爵。わたくし今宵は装飾品の他に小切手を持ってきておりますの」


 す、とソランジュ夫人から持たされた品の良い小さな手提げから小切手をちらつかせると子爵夫妻の顔色が変わった。


「………」


「だからまだまだ出せますわよ?」


「……あ、あなた」


 子爵はしばらくパクパクと意味不明な開口を繰り返した後――隣で奥方に宥められ、渋々といった体で札を下ろした。


「……ご、五十一番のご夫人が一万枚で落札!」


 通常の二倍の破格値での競り落としであった。カン、と木槌が落とされ、小気味いい音が競りの終了を告げる。

 それは勝者の合図だった。


(……勝った!)


イリスはこっそり鞄の下で拳を握った。




***************



「よかったですね、イリス」


 自分も目当ての品を競り落とせたシャーメインは嬉し気な声でイリスに声をかける。


「ええ。シャーメイン様のおかげでなんとか乗り切れました。ありがとうございました」


 イリスも機嫌よさげにお礼を言った。今回の競売、間違いなくシャーメインの助けがなければここまでうまくいかなかっただろう。

 競売後、教えられた通り、ロール夫人の名前で金貨一万枚の小切手を切って必要な手続きを済ませたイリスは、シンに案内されてハウエルの商品受け渡しの個室に赴いた。


「こちらです」


 ハウエルはすでに落札された美術品に囲まれながら、長椅子にゆったりと腰かけて待っていた。それまでは遠くを見ていたのだが、扉が開く音がするなり、待ってました! と言わんばかりに蜂蜜色の瞳が親を見つけた犬のように輝いた。


「イリッ……」


 ギッと睨むと、彼は慌てて呼び方を正した。


「ああ、えー……ご主人様!」


「よろしいですよ。お疲れさまでした」


 いいながらイリスは彼の手の戒めを解くべく手枷に金貨一万枚の小切手と引き換えに受け取った鍵を差し込む。競売の趣向として、ハウエルは手錠で手を戒められており、それを主人が外してやってはじめて受け渡しが成立する流れとなる。


「……それで、これからどうすれば?」


 帰っていいんですか、とたずねると、ハウエルは緩く首を横に振った。


「そこに個室が用意されてるから、しばらく一緒にいてほしいんだ。偽客(さくら)がばれたらまずいからね――そこで少し休もう。ウィルフォング侯爵閣下もいかがですか?」


 突然焦点をあてられたシャーメインは驚いたように目をパチパチさせた。


「私を知っているんですか」


「勿論ですとも。奥様一筋のシャーメイン・ウィルフォング侯爵閣下」


 北方に根を下ろす男娼として、その地の有力者はすべて頭に入っているのだろう。彼はこともなげに言って見せ、胸に白皙の手を当ててその場に跪く。目を伏せ首を垂れる様はまるで洗礼を受けているようで、一層神々しさが増した。


「今宵はお二人のお力添えあって我が身は救われました。お二人に心からの感謝を。ありがとうございました。お礼とまではいきませんが、本日のご主人様のために別室にて酒肴を用意しております。閣下にもそこで他国の美酒を振る舞いましょう。ご一緒に、いかがですか?」


 美酒、という言葉にシャーメインは少し誘惑を感じたようだったが、ややあって首を横に振る。


「折角ですが遠慮させていただきます。妻を待たせているし」


「流石、奥様一筋のウィルフォング公爵閣下です。高級男娼を前にしても変な気を起こさず、常に奥様を大切になさっておられる貴族の殿方は珍しいものです」


「はは。妻は私の女神ですからね。女神をぞんざいに扱っては罰が当たる。……イリス。あまり遅くならないようにするんですよ。ウェンデルが心配する」


 こそ、と耳打ちする侯爵。何故ここで伯爵が出てくるのか謎だったが、遅くならないようにの下りはその通りだったので、疑問は残るが頷く。


「はい、シャーメイン様」


「よろしい。……では、私はこれで失礼。それからくれぐれも変な気を起こさないように。この方は人妻なんですからね」


 ちら、とシャーメインの目が何処か牽制するようにハウエルに向けられる。


「はい、閣下。肝に銘じます。お気をつけてお帰りください」


 ハウエルはにこりと極上だが掴みどころのない笑みを浮かべ、侯爵の言葉に是を返した。

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