もうひとつのハチ公物語「八重とハチ」第八話 卒業生からの贈り物
「ハチ、今日から外へ出るぞ。散歩へ行こう」
ある朝、英三郎がハチに声をかけた。
「ワン!」
ハチはまるでこの日を待っていたかのようにすっくと立ち上がった。
首輪をつけてもらい、細い引き綱で引かれて門の外へ出ると、好奇心いっぱいのハチは引き綱をぐいぐい引っ張って跳ねるように歩いた。
最初のうちは見知らぬ人や自転車に驚いてあとずさりもしたが、少しずつ外の世界の刺激に慣れていった。
英三郎はハチに十分な運動をさせるために、毎朝、朝食の前に一時間ぐらい散歩をした。歩く道は商店が立ち並ぶ通りや川の土手、神社の周りなどだ。
初夏の爽やかな日差しの中を歩くのはとても気持ちがいい。
人家の庭にいるドーベルマンや散歩中のシェパードとは顔なじみになった。
英三郎は彼らに向かって笑顔で挨拶をした。
「おはよう! 今日も元気かい?」
犬たちは新参者のハチをじろじろ見たが、まだ子犬と思ったのか相手にしなかった。
雑貨屋の店先につながれた茶色い雑種犬だけは、いつもハチを見るなり「ううう」と唸った。
最初は他の犬を怖がり、立ちすくむハチだったが、次第に怖がらずに挨拶ができるようになった。
飼い主たちはみんな、あまり見かけることない純粋な秋田犬のハチに興味を持った。
幼いながら凛々しいハチはすぐに界隈の人気者になったのである。
英三郎が出張でいない時は、書生の才吉がハチを連れ出した。
英三郎は出張から戻るとすぐに、才吉にハチの散歩の様子を尋ねた。
「ハチはどんな様子だったかい? 何か変わったことはなかったかい?」
「はい。大丈夫でした」
「それで?」
英三郎は自分がいない間のハチの様子をもっと聞きたそうにした。
そこで才吉は他の犬のことや何やらを思い出そうとした。
「そうですね… ああ、ブルドッグの飼い主が、ハチはずいぶん大きくなりましたねえと言っておりました」
「そうかいそうかい」
英三郎は満足そうな顔をした。
才吉は答えがしやすいように、ハチの散歩日記のようなものをつけ始めた。
一方、八重の役目は散歩から帰ったハチにブラシをかけてやることだった。
弾力性のある上質の豚毛のブラシで全身をマッサージするように毛をとかしてやると、ハチは細い目をますます細めて気持ちよさそうにした。
「じっとしていてお利口ね。気持ちがいいのね」
八重が顔を見つめると、ハチは黒い口角をきゅっと上げて笑っているような顔を見せた。
「この首輪ももう小さいわね。先生にお願いして、大きいものに替えてもらいましょうね」
生後八カ月になり、ハチの体重は三十キロになった。
好奇心旺盛な時期には散歩のしつけのために首輪を使っていたが、落ち着いてくれば胴輪に変えても良さそうだ。
英三郎は、ハチが知らない犬が吠えてきても動じなくなり、物音にも平静でいるようになったことで、今までつけていた首輪を、体に負担の少ない胴輪に切り替えた。
「よく似合ってるぞ、ハチ」
胴輪をつけたハチは急に大人びて立派に見える。
八重も堂々としたハチの姿にすっかり見入っている。
「散歩がもっと楽しくなるわね」
初夏の日差しがだんだん強まり、本格的な夏が訪れようとしていた。
英三郎にとってはきつい夏だ。
元来、英三郎は体が丈夫なほうではなかった。
数年前には重い中耳炎を患い、半年以上入院したこともあった。
生死の境をさまようほどの大変なものだった。
大学の卒業生たちは先生の体を心配して、自分たちで何かができないかと話し合った。
「先生が無理をしないようにするにはどうすれば」
「夏の暑い時期を快適に過ごしてもらうには…」
彼らは話し合った結果、みんなで少しずつお金を出し合い、先生に葉山の別荘を贈ることを考えた。
日本の農業工学の権威である英三郎の教え子は全国に数百人おり、寄付を募ると、先生のためになるならばと、まとまった金額がすぐに集まった。
神奈川県の三浦半島にある葉山は海のそばにあり、気候が温暖だ。
明治期に設置された皇室の御用邸をはじめ、多くの華族や実業家、知識人が別荘を構える静養地である。
教え子たちはこの地で先生に少しでも体をいたわってほしいと思い、別荘を贈る申し出をした。
「先生にずっと健康でお仕事を続けていただきたいのです」
「ぜひ僕たちの気持ちを受け取ってください」
ところが英三郎はそれを断った。
「そのような高価なものを貰うわけにはいかぬ」
卒業生たちを前に、英三郎は怖い顔をして黙り込んだ。
その様子はいつもの気さくで明るい先生とは違っていた。
卒業生の代表は熱心に言葉を継いだ。
「私たち卒業生は、上野先生に別荘で快適に過ごしていただきたいだけなのです。どうかみんなの気持ちを受け取ってください」
最後には彼らの熱意にうなずいた英三郎だった。
「君たちの気持ちはわかった。それでは、ありがたく使わせてもらおう。ただし、私が生きているあいだだけ使わせてもらうことにしよう」
英三郎は、自分にもしものことがあった時には、その別荘を卒業生全員のものとして自由に使ってもらうことを条件にしたのだ。
彼らは先生が申し出を受けてくれたことをとても喜んだ。
その頃東京では、前の年に起きた関東大震災で壊れた街の復興事業が行われていた。
英三郎もその事業に協力をして毎日忙しく働いていた。
一緒に仕事をしていた教え子たちは英三郎に言った。
「先生、残った仕事は自分たちに任せてください。暑い夏のあいだ、どうか別荘でゆっくり過ごしてください」
「ありがとう。ではそうさせてもらおうか」
英三郎は彼らの厚意に感謝し、葉山の別荘に行くことにした。
英三郎と八重は、渋谷駅で才吉とハチに見送られて葉山に発った。渋谷駅の改札口でハチの頭を撫でながら英三郎は言った。
「じゃあ行ってくるからね。いい子で待っているんだよ」
八重もハチの背中を優しくさすった。
「いい子でお留守番をしていてね」
ハチはと言えば、いつもとは違う二人の様子におとなしくしている。
二人が改札口の奥へと歩いて行く姿をじっと見つめている。
二人の姿が完全に見えなくなると才吉が言った。
「さあ戻ろうか、ハチ公」
ハチはくるりと向きを変えて、才吉と並んで歩き出した。
その姿はどこか寂しそうに見えた。
今日からしばらくは、散歩は先生とではなく、才吉とだ。
ハチはなんとなくそれをわかっているようだ。
英三郎と八重がようやく渋谷の家に帰って来たのは、夏が終わりかけた、ひぐらしの声が響く頃だった。
電車の到着時間に合わせて、才吉がハチを連れて迎えに行った。
「もうすぐあそこから先生と奥様が出て来るからな。じっと見てるんだぞ、ハチ公」
才吉がそう言うと、ハチは改札口から少し離れたところに座って、改札口の彼方を見つめた。
まるで、しばらくぶりに会う二人の姿を絶対見逃すまいと決めているように。
やがて電車が着き、人々が改札口へ降りて来た。
その中に英三郎と八重がいた。
二人はハチを見つけて笑顔になった。
ハチも二人を見つけて耳をぴんと立てた。
改札口を出た英三郎はとても元気そうだ。
「ハチ、ただいま! 来てくれたのか」
八重も嬉しそうにハチに微笑んだ。
「ハチ、長いあいだ留守にしてごめんなさいね」
二人に頭や背中をたっぷり撫でられ、ハチは嬉しそうだ。
巻尾の根元をゆっくり大きく振って、はっはと舌を出して甘えるような声を出した。
渋谷駅での幸せな再会。
ハチにとって、この場所はとても大事な場所になっていく。




