もうひとつのハチ公物語「八重とハチ」第七話 先生とハチ公
英三郎はハチのために庭に小屋をつくった。
小屋は居間からよく見えるところにあり、ハチが寝起きをして遊ぶのには十分な広さがある。
床にはすのこを置いて毛布を敷いた。
英三郎は仕事から帰ると家に入る前にまずは庭の小屋に行き、ハチの様子を見た。
「ハチ、ただいま。元気にしてたかい?」
「ワン!」
小さいハチはすっと立ち上がって主人の前に行き、「お帰りなさい」と言っているかようにその手をぺろぺろ舐めた。
ただ、ハチはお腹が弱く、しょっちゅう壊していた。
だから英三郎は餌には気を配った。
前の太郎を一歳になる前に失くしたことで、英三郎も八重も、今度こそできるだけのことをして、ハチを丈夫に育てたいと思っていた。
みそ汁にご飯と小さく刻んだ野菜を入れて、ハチが消化をしやすいように軟らかく煮直した。
肉をやる時も煮込んでスープにしたり、食べやすいように細かくちぎってやったりした。英三郎は出張の時以外は毎朝ハチのご飯を用意し、自分で食べさせた。
ところが、順調に育っていたハチが急に具合を悪くしたのは、上野家に来て一カ月後のことだった。
餌をあまり食べなくなり、一日中ぐったりと横になったまま動かない。
英三郎と八重は太郎の時のことを思い出し、すぐに医者のところへ連れて行った。
「ハチはどこが悪いのですか?」
おろおろ心配する二人に医者は言った。
「どうやら風邪のようです。薬を飲ませて体を温かくしてあげてください」
風邪と言われても、ハチを絶対死なせるわけにはいかないと思った。
そこで英三郎はハチを家の中に入れて、自分の布団で寝かせることにした。
人間に使う氷枕をハチの頭の下に置き、湯たんぽを布団の足元に置いて体を温めた。
人間の子どもにするのと同じようにハチを看病した。
「ハチ、早く良くなってくれよ」
「大丈夫。私たちがそばにいるからね」
二人は昼も夜もハチの看病をした。
やがてハチは回復し、また元気になった。
庭を走り回るハチの姿に、英三郎も八重も心から安堵した。
「ずっと元気でいておくれよ」
二人にとって、もはやハチは本当の子どものような存在だった。
春の草木と同じように、ハチは日々成長していった。
むくむくだった体は、手足や胴が少し伸びてすっきりしてきた。
丸かった鼻先も少しだけ伸びて、垂れていた耳も次第にぴんと立ってきた。
ハチは屋敷の中で自由に遊んだ。
書生の才吉などはハチのいたずらにいつもヒヤヒヤしていた。
歯が生えて歯茎がむずがゆいうちは机の脚や家具の下を歯型だらけにしてしまった。
書斎に入って走り回り、書類をばらばらにしたり、インクの瓶をひっくり返すこともあった。
だが英三郎はハチを怒らなかった。
「子どものうちは仕方がない。今だけだよ」
と、笑うだけだった。
ハチは庭で遊ぶのも大好きで、虫を追いかけてあちこちの土を掘り返したり、鉢植えをひっくり返したりもした。
ある日には花壇を走り回り、土の上に萌え出た水仙の葉を踏み倒してしまった。
だが八重も苦笑するだけで怒らない。
「あらあら、ハチには困ったものね」
と言いながら、しゃがんで庭を片付けた。
二人はハチを心から可愛がった。
英三郎は時々縁側でハチのノミ取りをしてやる。
敷かれた毛布の上でハチは手足を伸ばして横になる。
英三郎はノミを一つずつつまんでは水を張った器に移していく。
「大人しくしていて偉いぞ、ハチ」
ハチは気持ちがいいのか、そのまま眠ってしまいそうだ。
丹念にノミを取ったあとはハチを風呂に入れてやるのも習慣になった。
英三郎はハチの体をよく洗ってやり、一緒に仲良く湯舟に浸かる。
「ハチ、いい湯加減だな」
ハチは座って目をつぶり、主人と一緒に気持ちよく湯に浸かっている。
八重は焚口に薪をくべながら、英三郎とハチの至高のひとときを微笑ましく思う。
折に触れ、庭師の菊三郎が八重に言う。
「まったく、先生みたいに犬の世話をする御仁が他にいるでしょうかね」
「そうねえ。なかなかいないかもしれないわね」
四月になった。
ハチは生まれて四カ月になり、体重は十二キロになっていた。
鼻筋がしっかりとして、日本犬らしい、きりっとした表情も見せるようになった。
耳は完全に立ち上がって大きく、尻尾はくるりと巻いて背中の上に乗っている。
桜の季節である。
上野家の庭には大きな桜の木があり、英三郎は毎年大学の学生や卒業生を呼んでお花見をする。
日本の各地で農業土木に関する仕事をする教え子たちだ。
彼らはみな上野先生を慕っており、毎年この日に、遠くから来て上野家に集まるのだ。
庭に机や椅子が運び出され、おでん、お寿司、焼き鳥、団子など、美味しい物がずらりと並ぶ。
八重は朝から大忙しだ。
英三郎はいつもとは違う様子に落ち着かないハチに声をかけた。
「ハチには初めてのお花見だな。お客さんがいっぱい来るからお前を紹介するよ」
広い庭に五十人ほどの教え子が集まり、賑やかに花見が始まった。
大勢の教え子たちに囲まれて英三郎は嬉しそうだ。
学生時代の思い出話に花が咲く。
彼らの今の活躍を聞くのも英三郎は誇らしい。
その膝にはハチが座っている。
体が大きくなっても、小さい頃と同じように英三郎の膝に乗ってくるハチである。
だがさすがにそろそろ厳しいようだ。
英三郎は大きなハチの体を支え、優しく背中を撫でている。
あまりにハチを可愛がる恩師に教え子たちは驚いていた。
「先生は本当にハチが好きなんだなあ」
「まるでご自分のお子さんみたいだ」
「普通の犬とは違うんだ。我々も心して接しないと」
すると、そこにいた田中正男が言いだした。
「そうなんですよ。先生の大事な家族を呼び捨てにするのは気が引けるから、これからは“ハチ公”って呼ぶのはどうですか?」
「秋田犬のハチ公か!」
「いいじゃないか。これからはハチ公と呼ぼう!」
教え子たちはハチのことを「ハチ公」と呼び始めた。
満開の桜の下で楽しい宴会はまだまだ続いた。
それから少し経った五月。
英三郎は一カ月の朝鮮出張に出かけた。
これまでも出張で家を留守にすることは多かったが、今回は特に長い期間だ。
英三郎はハチのことを心配しながら出かけて行った。
残されたハチは梅雨のせいもあってか、なんとなく元気がない。
食欲も落ちてしまった。
八重は先生が帰ってこないことでハチが元気をなくしているのではと思った。
「もう少し待っててね。先生は必ず帰ってくるからね」
八重はハチに言い聞かせた。
ハチは顔を上げて八重のほうを見たが、
「くーん…」
と言ってまたあごを下ろした。
庭先で人力車の音がしたり人の声がするたびに立ち上がるが、先生の戻りではないことを知ると、また小屋に入った。
そんなハチの心に寄り添うように八重も英三郎の帰りを待つのだった。
そして、ついに先生の帰って来る日が来た。
英三郎は屋敷に戻ると玄関を入らず、まず庭のハチの小屋に行った。
「ハチ! ただいま! 元気にしてたか?」
ハチはむっくりと立ち上がり、英三郎の前に行った。
そして鼻を鳴らし、嬉しそうにその手をなめ、前足を膝に乗せて顔までをなめようとした。英三郎は顔をほころばせた。
「会いたかったぞハチ! お前もか?」
ハチはずっと先生の帰りを待っていたのだ。
今回はいつもより帰りが遅かった。
でも先生はちゃんと帰って来た。
八重が牛乳を温めて持ってきた。ハチはぺろぺろと牛乳を飲み干した。
「あらあら、ハチは先生のお顔を見たら急に食欲が出たみたいね」
八重は、ハチと一緒に、英三郎の帰りを喜んだ。




