もうひとつのハチ公物語「八重とハチ」第六話 ハチ
大正十二年、十一月二十日。吹雪が舞う夜明けだった。
秋田県の北にある大館市の農家で、四匹のオス犬が生まれた。
秋田犬の名犬の血を引く子犬である。
誕生の知らせを受けた間瀬はすぐに東京の田中正男に連絡した。
「田中くん、子犬を頼んでいたところから今朝産まれたと連絡が来たよ。オスの子犬が4匹生まれたらしい。そのうちの1匹を譲ってくれるそうだよ。すぐに先生に知らせてくれるかな」
正男は朗報を喜んだ。
「間瀬さん、ありがとうございます。すぐに知らせます」
英男は先生を探し、喜び勇んで子犬の誕生を伝えた。
「上野先生! 秋田犬の子犬が産まれて、オスの1匹を譲ってもらえるそうです!」
忘れそうになりながら一年間待った英三郎は驚き喜んだ。
「そうなのか? ありがとう!」
英三郎は家に帰るとすぐ八重に言った。
「秋田犬の子犬をもらえることになったよ!」
八重の表情がぱっと明るくなった。
「そうですか。待っていた甲斐がありましたね」
思いがけなく届いた知らせに二人は胸を躍らせた。
英三郎と八重は子犬が来るのを心待ちにしていたが、その後の連絡はなかなか来なかった。
秋田から東京までは汽車で二十時間。
生まれたばかりの子犬を移動させるのは無理というものだ。
貨物列車に載せるには、もう少し大きくなるのを待たなければならなかった。
年が明けて一月の半ばになり、ようやく間瀬から連絡が来た。
「先生、お待たせしました。明日、子犬を汽車に載せるそうです。あさっての昼には上野駅に着く予定です」
「そうか、分かった。色々骨を折ってくれてありがとう」
隣で電話を聞いていた八重も喜んだ。
「子犬が来るんですね」
「ああ。やっと来るんだ」
ところが英三郎は明後日には大学の講義があるため迎えに行くことができない。
八重も茶道の仕事がある。
書生の才吉もその日は不在だ。
そこで英三郎は、ちょうど庭に来ていた植木職人の小林菊三郎に子犬の迎えを頼むことにした。
「菊さん、申し訳ないが、あさって上野駅まで犬を迎えに行ってもらえないだろうか? 私の代わりに」
菊三郎は先生が待ち望んでいた子犬が来るのを喜んだ。
「分かりました。私が責任をもって連れてきます」
「ありがとう。頼んだよ」
二日後、生まれて二カ月になった子犬は頑丈な木箱に入れられて二十時間、貨物列車に揺られて上野駅に着いた。
菊三郎は小荷物係から子犬が入った箱を受け取ると、金網のついた小窓から中を覗いた。すると、薄い黄色の毛をした円顔の子犬がぐったりとしていた。
菊三郎は慌てた。
「おい、大丈夫か? 息はしてるだろうな!」
菊三郎はしばらく様子を見て、子犬が無事なことを確かめると、箱を抱えて急いで電車に乗り、渋谷の英三郎の家に向かった。
英三郎の家は渋谷駅から歩いて十分ほどの場所にあるが、高台にあるため、ゆるい坂を上らなければならない。
菊三郎は少しでも早く上野家に着こうと、重い箱を持って急ぎ足で歩いた。
そうして上野家に着くと、菊三郎は玄関先から八重を呼んだ。
「奥様! 今着きました! 犬が着きました!」
すぐに八重が駆けつけた。
「菊さんご苦労様でした。大丈夫でしたか?」
「はい。でもなんだか元気がないようで。とにかく早く出してやりましょう」
二人は協力して箱を開けた。
すると、毛がむくむくした垂れ耳の子犬が両腕に顔をうずめて丸まって入っていた。
子犬は眠っているのか、ただ疲れて力をなくしているのか、動かない。
八重は戸惑った。
「すぐ体を温めなければ!」
八重は急いで毛布を持ってきて子犬の体をくるんだ。
そして毛布の上から子犬の体をさすった。
「こんなに小さいのに一人で列車に揺られて、可愛そうに」
子犬は少し開けた目をまたつぶって小さく息をしている。
八重は牛乳を温め、小さい皿に入れて持ってきた。
子犬を床の上にそっと降ろし、皿を目の前に置いてやった。
子犬は目を小さく開けて、くんくんと牛乳の匂いを嗅いで、小さな舌でぺろぺろなめ出した。
「飲んでるわ! よかった!」
八重は喜んだ。菊三郎もほっと胸を撫で下ろした。
「よかったです……」
子犬は牛乳を全部飲み干し、最後は牛乳がついて白くなった口の周りをぺろりとなめた。子犬はしばらく毛布に包まれて八重に抱かれていたが、そのうちあくびを一つして目をつぶり、また眠ってしまった。
夜には英三郎が大学から帰って来た。
英三郎は玄関でコートも脱がずに八重に尋ねた。
「犬はどうした? 無事に着いたのか?」
「大丈夫でした。居間で眠っていますよ」
八重がそう答えると、英三郎はうなずき、すたすたと廊下を歩いて居間に入った。
そして毛布にくるまれてすやすや眠っている子犬を見た。
横には火鉢があり、部屋の中は暖かい。
「疲れたろうなあ。長いこと汽車に揺られて来たんだから」
英三郎は子犬のそばに座り、毛布の端からちょっとだけ見えている薄い黄色の頭を優しく撫でた。
「ここで安心して眠っていいからな」
すると毛布がむくむくと動いて、その下で子犬が立ち上がった。
子犬は毛布を背中から落として、きょろきょろと周りを伺った。
英三郎は顔をくしゃくしゃにして子犬に言った。
「やあ、起きたかい。ここがどこか分かるか? お前は今日からうちの子になるんだよ」
子犬は前足をぐーっと前に伸ばして低い姿勢になり、次には短い後ろ足を一本ずつ伸ばして、全身の伸びをした。
「ぐう…」
子犬はいかにも気持ちの良さそうな小さな声を出した。
英三郎は愛くるしい子犬を思わず抱き上げた。
「お前、むくむくしてるな」
そう言って子犬を目の前に掲げて顔を近づけると、子犬はぺろっと英三郎の顔をなめた。
「おいおい」
英三郎は困ったような照れたような声を出した。
子犬は主人の顔をまじまじと見つめている。
その様子を笑顔で見ていた八重が両手を伸ばして子犬を受け取ろうとする。
「さあこっちにもいらっしゃい」
八重は子犬を胸の中にしまうようにして抱っこし、部屋を歩いた。
まるで母親が生まれたばかりの赤ん坊をあやすように。
「いい子ね。まだ眠いのね」
胡坐をかいて座っている英三郎が二人を見上げて言った。
「名前をつけてやらないとな」
「そうですね。何がいいかしら」
二人はしばらく黙って考え込んだ。
やがて英三郎が思いついたように言った。
「“ハチ”はどうだ? 八重の“や”の字をとって、ハチ」
「いいんですか? 私の名前からで」
英三郎はうなずいた。
「もちろんだよ」
八重は腕の中の子犬に優しく呼びかけた。
「ハチ」
英三郎も呼びかけた。
「ハチ。お前の名前は今日からハチだ」
「ハチ。元気な響きですね」
「そうだな」
そう答えつつも、英三郎はふと別のことに思いを馳せ、紙と筆を取り出した。
そしてこう言った。
「八重の名前の中にハチがいるよ」
「え?」
八重は疑問に思い、彼が書こうとする字を見た。
英三郎はまず「八チ」と書いて、
「ハ、チ」
と読んだ。
そしてその下に「里」を書いた。
「ごらん。八重という字は、ハチと里でできてるんだ」
「…言われてみれば…そうですね」
八重は少し驚いたような顔をした。
英三郎は続けた。
「ハチに里を足すと、八重になる。つまりハチの里は八重ということだよ」
八重はくすっと笑った。
「私がハチの里ですか」
「そうだよ。ハチにとって八重は、大事な里になる」
二人は顔を見合わせて微笑んだ。
こうして、英三郎と、八重と、ハチの生活が始まった。




