もうひとつのハチ公物語「八重とハチ」第九話 故郷の父と母
ひと夏のあいだにハチはぐんぐん大きくなった。
まだ甘えん坊なところもあるが、その動きは悠々として、散歩の時に何かに動じて引き綱を引っ張ることもなくなった。
ハチはいつも、横を歩く先生の速さに合わせて歩いた。
「ハチはずいぶんおとなになったな」
先生に笑顔で声をかけられ、ハチは上を見上げた。
大好きな先生から褒められるのは嬉しい。
ハチは今朝も先生の横にぴたりと付いて歩く。
やがて英三郎は引き綱をつけずにハチを連れ出すようになった。
ハチが勝手に自分のそばを離れることはもうない。
この頃には仕事に出かける英三郎を渋谷駅まで送るのがハチの朝の日課になっていた。
「ハチ、今日も駅まで行くよ」
帽子をかぶって鞄を下げた先生が言うと、ハチは先回りをして門の外へ出て、座って待っている。
先生が門を出てくると、さっと立ち上がり、横に付いて歩き出す。
帝大の上野教授と秋田犬のハチは近所では目立つ存在だった。
二人並んで道を歩けば、道を行くみんなが、その威風堂々たる姿に見入るのだった。
渋谷駅に着くと、ハチは改札口の前で前足をぴたっと揃えてきちんと座り、英三郎を見送った。
「じゃあ行ってくるよ。いい子にしておいで」
先生は手を振り、何度も振り返りながら、改札口を入って行く。
ハチは先生の姿が見えなくなってもしばらくそこに座っていた。
やがてゆっくり立ち上がり、くるりと向きを変えて、今来た道を今度はひとりで帰って行った。
ハチが家の近くまで来ると、八重が門のところで待っていた。
ハチがちゃんとひとりで帰って来るかが心配だったのだ。
角を曲がって来るハチを見つけると、八重は声をかけた。
「ハチ! お帰り。道草をしないで帰って来たのね。偉いわね」
ハチが自分の前まで来て止まると、八重はしゃがんでハチを抱きしめ、首の辺りに頬ずりをして褒めた。
朝の大事な仕事を終えたハチは満足そうに見えた。
夏が終わりかけたある日のことだった。上野家に一通の電報が届いた。
「チチキトク スクカエレ」
それは三重の英三郎の実家から届いた、父、六兵衛の危篤の知らせだった。
英三郎は三重に帰るために急いで荷造りをした。
高齢の父は昔から病気も患っており、相当に弱っているはずだ。
もしかしたら自分が帰っても間に合わないかもしれない。とにかく一刻も早く会いに行きたい。
「じゃあ行ってくるよ、八重」
「行ってらっしゃい。どうかお父様とお母様をお大事にして差し上げてください」
「ああ。わかった」
十数年前に帰郷した時には、八重との結婚を断固として認めなかった父である。
父は、英三郎と知人の娘との結婚話を決めていて強引に進めようとしていた。
親の決めた結婚が嫌なら籍を抜くとまで言った父だった。
追い詰められた英三郎は黙って実家をあとにし、入籍は叶わずとも、東京で八重との暮らしを始めたのだった。
汽車に揺られて、英三郎はあの日のことを思い出していた。
「黙って出てきてしまって父はどんなに怒っただろう。相手先にも申し訳が立たなかったに違いない…」
英三郎は今更ながら自分本位な行動を取ってしまったことを省みた。
だがあの時はああするしかなかったのだと、自分に言い聞かせるようにして、父の元へ向かうのだった。
実家に着くと、父は、家族や親族に見守られて座敷の布団に寝ていた。
「お父さん!」
英三郎は枕元に駆け寄り、弱り切った父に声をかけた。
「英三郎です。長いあいだご無沙汰をして申し訳ありませんでした。たった今帰って来ました」
父は薄く目を開けて英三郎を見て、小さくうなずいたようだった。
だが乾いた口元は少しも動かない。
母のたけと、姉のまきも、うつむいたまま座っている。
英三郎は正座をして母のほうに向き直り、言った。
「長いあいだ顔を見せずに申し訳ありませんでした…」
母は何も言わずにそっと目鼻を押さえ、小さくうなずいた。
いつもはよく喋る姉も首をうなだれて黙っている。
その夜、英三郎は寝ずに父のそばに座り続けた。
せめて自分に出来ることをしたいと思ったのだ。
明け方近く、父の呼吸が弱くなっているのに気付いた。
「お父さん!!」
英三郎の声を聞き、母と姉も駆けつけた。
母が泣きそうな声で父に呼びかけた。
「あなた!」
姉も耳元で呼びかけた。
「お父さん!! お父さん!!」
父の呼吸は静かに止まった。
「お父さん!! お父さん!!」
英三郎は何度も父に呼びかけたが、もう父は動かなかった。
息子は十数年ぶりの父との再会で一言も言葉を交わすことはなかった。
六兵衛の葬儀は名家の慣わしに従って厳かに執り行われた。
屋敷から寺まで遺体を運ぶ「野辺送り」は数百メートルにも及ぶ大行列になった。
葬儀の席には、亡き父が英三郎と娘との結婚を取り決めた知人も姿を見せていた。
長い時間が経ち、すでに過去の話ではあるものの、英三郎は一度も相手に会うことなく破談にしてしまったことを申し訳なく思った。
すべてのことが終わり、英三郎は母と二人きりで父の墓の前に立った。そして、今の自分の想いを母に告げた。
「…お父さんが希望していた結婚ができずに、申し訳ないことをしたと思っています」
母は夫の墓標を見つめながら言った。
「あなたが黙っていなくなった時、お父さんは怒っていたけど、半分はそうなることを予想していたみたいだったよ…」
英三郎は母の意外な言葉に驚いた。
母は遠い彼方を見るように言った。
「あなたが東京で結婚したい人がいると言って、自分に逆らってまで意志を押し通そうとしているのを見て、ただ事ではないように思ったのかしらね… お父さんは何も言わなかったから、本当のところはわからないけれど」
英三郎は、あの時の自分が何としてでも八重と結婚したい気持ちを伝えたかったことを思い出した。
同時に、最後までわかってもらう努力をせずに去ったことをまた悔いた。
「本当にすみませんでした…」
深く頭を下げる息子に、母は静かに言った。
「もう昔のことだから」
そして、少し考えたあとに、もう一言を加えた。
「一年が経って、お父さんの喪が明けたら、その人と正式に結婚しなさい」
英三郎は驚きと喜びで絶句した。
「え…」
「もういいでしょう。お父さんは…どう思っているかわからないけど」
母は、悲しみの中で笑顔を見せた。
三重から戻って来る英三郎を渋谷駅で出迎えるため、八重はハチを連れて駅に向かった。
久しぶりの再会にハチは英三郎に飛びついて喜んだ。
「お父様をお送りになられて、お疲れになったでしょう。ゆっくりお休みになって下さい」
「ああ。そうしよう。川のほとりを歩いて帰ろうか」
「はい」
緩やかに流れる渋谷川のほとりを歩いた。
途中で英三郎は歩みを止めて、八重に告げた。
「八重、実は一つ、話があるんだ」
「はい、なんでしょうか」
「実は…、結婚の許しが出たんだよ。お父さんの喪が明ける一年後なら結婚をしてもいいと、母が言ってくれたんだよ」
「え…?」
思ってもみなかった知らせに八重は戸惑った。
「来年の夏には正式に入籍ができることになった。僕たちはやっと法律上でも夫婦になるんだよ」
八重は信じられないという顔をした。
「…本当ですか?」
「本当だとも。あと一年だ。一年待てばいいんだ」
「一年…」
「嬉しいか?」
「ええ、もちろんです。嬉しいです…」
八重は嬉しさで涙があふれた。
英三郎は八重をそっと抱き寄せた。
大好きなふたりがこの上なく幸せなのを見て、ハチも嬉しそうに尻尾を振るのだった。




