もうひとつのハチ公物語「八重とハチ」第四話 新しい生活
三重から東京までは、大正時代には汽車で十三時間ほどかかった。
英三郎は昨晩、はだしのまま実家を飛び出し、名古屋で汽車を乗り継ぎ、今日の午前に東京に着いた。
そして迷わずそのまま八重の元へ向かった。
八重がいつものように師匠の家へ行こうとして準備をしていると、急ぐように玄関の戸を数回叩く音がした。
「どちら様ですか?」
「突然すみません。上野です。三重からたった今、帰って来ました」
八重はずいぶん早い帰京に驚きながら戸を開けた。
するとそこには、荷物を下げた、はだしの英三郎が立っていた。
八重は驚いて目を見開いた。
「靴は、どうなさったのですか?」
「家の者に見つからないように窓から出てきましたので…。今日許嫁の人と会わされる前に絶対家を出なければと思ったんです」
英三郎は並々ならぬ決心をしてきた様子である。八重は心配になって尋ねた。
「そんなことをして、おうちは大丈夫なんですか?」
「父は、その人と結婚しないなら僕の籍を抜くとまで言いましたが、それでもいいと思いました」
「そんな…」
眉をひそめて心配する八重を安心させようと、英三郎は無理に余裕を見せた。
「大丈夫です。必ず父を説得します。その人とは結婚しません。僕は八重さんと結婚したいのです。僕の言葉を信じていてください」
八重はしばらく黙って英三郎を見つめたあとで、小さな声で言った。
「はい。」
八重は熱意に押され、英三郎からの交際の申し込みを受けたのだった。
正式な交際を始めてからしばらく経って、二人は渋谷の英三郎の家で一緒に暮らし始めた。
しかし英三郎の父の許可は未だ得られず、八重の入籍は叶わなかった。
それでも英三郎は諦めなかった。
渋谷の家は英三郎が旧華族の邸宅を買い取ったもので、屋敷も庭も相当広く、茶室も備えていた。
八重はそこで茶道の教室を開いた。
家には、十五歳になる書生の才吉も住んでいた。
才ちゃんと呼ばれ、幼い頃から長野の野山を駆け回り、大自然に興味を抱いた子だ。
頭が良く、学問をしたい気持ちが強かったことから英三郎に預けられた。
住み込みで学校に通わせてもらう代わりに、仕事の雑務や使い走り、掃除や薪割りなどの力仕事もした。
明るい青年で八重もすぐに打ち解けた。
八重は才吉の助けを借りて、生まれて初めての大きな家での暮らしを切り盛りした。
上野家には屋敷を取り囲むように広い庭があり、近くに住む植木職人の小林菊三郎が毎日のように出入りしていた。
英三郎は西洋庭園の要素を取り入れた和洋折衷の庭を好み、菊三郎と常に相談をしながら色々な試みをしていた。
ある秋の朝である。
八重が茶室の露地で紅葉を眺めていると、菊三郎が声をかけてきた。
「ずっと使っていなかった茶室が喜んでいますよ。奥様が毎日大事に使ってくださって」
八重は微笑んで答えた。
「だと嬉しいですね。私にとっても、これほど心の安まる場所はありません」
八重は紅葉の美しい枝ぶりを見ながら言った。
「このお庭も、菊三郎さんが気を配ってくださるので、いつ見ても美しいですね」
「お褒めの言葉、恐縮です。何かご要望があれば、なんなりとおっしゃってください。石でも苔でもお好みのものを探してきますよ」
「ありがとう」
植木職人の菊三郎は、日本の農業土木の権威である上野教授を尊敬し、恩を感じ、自分にできることならどんなことでも力になりたいと思っていた。
その上野教授が自分で選んだ女性はどういう人なのか、菊三郎は気になっていた。
そして現れたのは彼が思っていた通りの女性だった。
上野教授と同じように、自分は奥様の力にもなりたい。
菊三郎はそう思うようになっていた。
そんなふうに英三郎と八重は周囲の人々に支えられながら暮らした。
親の許可をもらえぬまま、たとえ籍を入れられなくとも、夫婦同然の幸せな生活を送ったのである。
ところがそんな幸せな暮らしを壊さんばかりに、ある日突然、英三郎の姉のまきが上京してきた。
まきは弟を目の前に座らせ、自分は父の命令でやって来たと言い、詰め寄った。
「英三郎、夜逃げするとはどういうことなの? あのあと、私達がどんなに大変だったかわかってるの?・・・あの人とは別れなさい。今からでも遅くないから、お父さんが決めた許嫁と一緒になりなさい」
「それはできません。八重とは一生共に暮らしていくつもりですから」
「でもお父さんはこれからも絶対認めないと思うわ。このまま籍も入れないで暮らしていくつもり? 万が一子どもができたらどうするのよ。こんなのは世間様だって認めないわ。今のうちに別れたほうがいい。早く別れなさい」
英三郎は顔をこわばらせた。
「いいえ、八重とは何があっても別れません。帰ったらお父さんにも、はっきりそう伝えてください」
二人の話を八重は隣の部屋で聞いていた。
まきは不機嫌な顔で仕方なく部屋を出た。
帰り際に、まきは八重に言った。
「あなたは上野家には似つかわしくない人です。弟のことを想うなら別れてください」
八重は何も言えなかった。
結局その後も父の許しは得られぬまま、二人の生活は続いていった。
入籍は叶わずとも、英三郎と八重は幸せな毎日を送った。
そして九年の月日が流れ、英三郎は五十を過ぎ、八重は三十五歳になった。
英三郎と八重のあいだには子どもができなかった。
お互いに好きな仕事に勤しみ、日々の生活は充実していたが、やはり子どもがいないことは寂しく思えた。
大人ばかりの家は静かで落ち着いて暮らしてはいるが、どことなく物足りない。
ここにもし可愛くて活気をもたらすような存在がいれば…と思うこともある。
そこで二人は考え、話し合って、犬を飼うことにした。
ちょうどその時、知人の一人が秋田犬の子犬をもらってくれる先を探していた。
英三郎は早速八重に相談した。
「なあ八重、知り合いから秋田犬の子犬を引き取ってくれないかと言われたんだが、どう思う?」
八重はぱっと明るい顔になり、答えた。
「秋田犬の子犬ですか? ああ…それは可愛いでしょうね。先生は飼いたいんですか?」
「八重がいいなら、私は飼ってみたいと思ってるんだ」
「はい。私も飼いたいです。ぜひお願いします」
こうして二人は秋田犬の子犬を一匹もらい受けることになった。
当時、家庭で愛玩犬を飼うことはまだ一般的ではなかったが、秋田犬は素朴ながらも勇猛な外見とおっとりした従順な性向で愛犬家のあいだで人気を上げていた。
だが、その大きさのため、広い敷地の家でしか飼うことができなかった。
すなわち裕福な家で飼える犬種だった。
上野家には広い庭があり、大きな犬小屋と犬が自由に走り回れる場所をつくることもできる。何より、心優しく世話好きな英三郎も八重も、子犬をその腕に抱き、世話をし、可愛がりたいと強く思った。
子どものいない英三郎と八重にとって、生まれたばかりの子犬を迎えて育てることは大きな楽しみになった。
そうして迎えたのが、上野家に最初にやって来た秋田犬、太郎だった。




