もうひとつのハチ公物語「八重とハチ」第三話 帰郷
「どうして私を誘うんですか。許嫁がいるのに誘うなんて失礼です!」
故郷に許嫁がいるというのに自分を食事に誘った英三郎に八重は不信感を隠せなかった。もしや自分をからかうつもりで誘っているのかと思うと、怒りの気持ちさえ湧いてきた。
だが彼は、八重から非難の言葉を投げつけられても少しも悪びれた様子はない。
それを見て八重は少しだけ冷静な自分に戻った。
八重はなぜ自分が怒っているのかを伝えようとした。
「先生には故郷に許嫁の方がおいでだとお聞きしました。そんな方がいながら女性を食事に誘うなんて不誠実だと思いませんか?」
正論で来る八重に、英三郎は慌てて言葉を発した。
「ちょっと待ってください。それは違います」
しかし八重は続けた。
「それではまるで遊び人じゃないですか」
英三郎は思ってもみない言葉を投げられて呆然とした。
だが誠意をもって話さなければ、この人と話すことはもうできないかもしれないと思い、心を落ち着けて言葉を選んだ。
「たしかに私には許嫁がいます。ただ、それは親が決めた人で、私はその人と結婚する気はありません」
八重は何も言わずに疑いの目で英三郎を見た。すると英三郎が静かに言った。
「前にお話ししましたように、私は結婚は家同士のものでなく、本人たちの自由な意思によるべきだと思っています。私の親は古い人間なので、家同士の関係を第一に考えて私の結婚相手を決めました。ですが私はそれに従うつもりは全くありません。それはずっと前から親には言ってあることです」
きっぱりと言い切る英三郎はどうやら本心を言っているようだ。
だが八重の気持ちはまだ行き場を見つけられない。だからこんなことが口から出た。
「でも、そんなふうにずっとお一人でいらしたら親御さんは期待をするでしょう」
少し違う方向からの八重の言葉に戸惑ったものの、むしろはっきりと自分の想いを口にした英三郎だった。
「一生を共に過ごしたいと思う相手が現れなかったのです。今までは」
「えっ?」
八重は英三郎の目を見た。
英三郎もまた八重の目を見つめた。
八重はその目の奥に、自分に対する英三郎の真摯な気持ちを見た気がした。
そして自分の心を探ってみても、英三郎は初めてずっとそばにいたいと思えた相手だった。八重自身、親から見合いを勧められても結婚に背を向けてきたのだが、それは一緒に生きていきたい相手がいないからだ。
少なくとも英三郎に出会うまでは。
だがそれだけに、すぐに彼の言葉を信じるのは怖かった。
八重はうつむいて言った。
「やはりお食事には行けません。せっかくお誘いいただいたのにごめんなさい」
心の中では英三郎に好意を持ちながらも、八重は茶道の先生と生徒として一線を引く付き合いをすることにした。
これまでのように茶会のあとで何気ない会話を交わす関係がしばらく続くのだった。
そんな時だった。英三郎は突然父親の六兵衛から三重の実家に帰って来るように言われた。
結婚の話し合いのためである。
いつまでも煮え切らない息子に業を煮やして、この機に話を前へ進めるのが目的のようだ。
三重に帰る日の前日、英三郎は八重に、実は結婚の話し合いで三重に帰ることを話した。彼の八重への真摯な気持ちは少しも変わらなかった。
「今度こそ親を説得して諦めてもらうつもりです。強く迫ってきても、負けないで自分の気持ちを話してきます」
八重は何と答えてよいか分からず、こう返事をした。
「…どうぞ気をつけて行ってらしてください」
――そこで彼の結婚が決まるのだ。八重はそう思った。
上野家は三重の名家で、英三郎は三男である。
彼が戻ると早速、父六兵衛、母たけ、姉のまき、英三郎の四人での家族会議が始まった。
英三郎は父親から、許嫁と結婚するよう強く迫られた。
許嫁は父親と仕事の付き合いのある地元の名士の娘で、父親同士で結婚を決めていた。父は、許嫁と結婚しないなら上野の籍から抜けさせるとまで言った。
「そういうことだ。今まで好きにさせていたが、もう何も言わせない。いいな!」
姉のまきは父親の側に立ってこの結婚を押した。
「あんたは東京で好きにやってるんだから、それぐらいは親の言うことを聞いたらどうなの。お相手はこの辺りでも噂の素晴らしいお嬢さんなんだから文句はないでしょ」
母は、英三郎の気持ちを汲んでやりたいが、家の中で絶対的権力を持つ夫には反対できない弱い立場だ。
「お父さんの立場も考えて、会うだけでも会ってみて。会えばきっと気に入ると思うのよ」
しかし、英三郎は初めて父にはっきり告げた。
「自分には好きな人がいます。だからお父さんが決めた人とは結婚できません」
初めて別の女性の存在を理由にした息子に、父は強い憤りを見せた。
「今さらふざけたことを言うな。子どもの結婚相手は家長が決めるものだ。他の子どもはみんなそうしてきた。おまえだけ勝手は許さない」
姉も父の援護をした。
「私だってお父さんの役にも立つために、親が決めた人と結婚したのよ。でも今はこんなに幸せに暮らしてるのよ」
英三郎は何とか父を説得しようとして、八重のことを話した。
「私が結婚したい女性は茶道を仕事にして、自分の力で生きていこうとしている立派な、尊敬できる人です。これまでの女性の生き方とは少し違う、自分らしい自由な生き方を追求している人なんです。会ってもらえれば、きっと彼女の良さがわかるはずです」
だが父はそんな言葉には耳を貸さなかった。
「自由だとか新しい考えだか知らないが、わしは認めない。
その女とは絶対に結婚させない。お前はわしが決めた相手と結婚するんだ。もう決まったことだ。わがままは許さない。いいか、明日、許嫁に会うことが決まっている。明日だからな!」
父は一方的に言い放つと、立ち上がり、奥に行ってしまった。
母たけは下を向いた英三郎の顔をちらちら見ながら、父の機嫌も気になっている。
姉のまきは都会で自分だけ好きなように生きている弟を少し疎ましく思っているため、弟が意志に反して縛られる状況を当たり前だと思っている。
英三郎は悩んだ。
もはやここまで来たら父を説得するのは無理だろう。
家同士で話が進んでいることはよく伝わってきた。
今さら断るのは遅いことも分かった。
自分がいないあいだに顔合わせの席が設けられていたのには驚いたが、それに対して何かを言ってももう遅いと思った。
となれば、ここは形だけでも会ってみて、そのあとでどうにか理由をつけて断れないものか…。
いや、それはもっとできないことだろう。明日許嫁に会えば、きっと具体的に結婚を決められてしまう。
英三郎は八重の笑顔を思い出した。
初めて会った茶会の席で、流れるような美しい所作で茶を立てたあの姿を。
季節が移ろう庭を一緒に歩きながら、他愛ない話をして笑いあった日を。
勇気を出してようやく食事に誘った時に、今までに見せたことのなかった感情を自分にぶつけてくれたことを。
そのすべてを英三郎は失いたくないと思った。
言葉では素っ気なくしていても八重が自分に好意を持っていることは伝わってくる。
彼女はそうとは言わなくても、自分がこの結婚をはっきりと断り、彼女の元に戻ってくることをきっと望んでいる。
自分と八重のこの先のことは自分自身の行動にかかっているのだと英三郎は強く思った。
その夜、英三郎は実家の二階の窓から誰にも見られないようにして飛び出した。
靴も履かず、はだしのままだった。
汽車に飛び乗り、東京へと向かった。




