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もうひとつのハチ公ものがたり「八重とハチ」  作者: 「八重とハチ」制作委員
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もうひとつのハチ公物語「八重とハチ」第二話 噂

挿絵(By みてみん)


坂野八重(さかのやえ)は茶道の指導者となって働き、一人暮らしで生計を立てていた。

 春に八重が主催した茶会に来た上野英三郎(うえのひでさぶろう)という男性が、たびたび茶室を訪れるようになっていた。

この頃には、少人数の厳格な茶事とは異なる、大勢の客が集まる茶会が催されるようになった。

英三郎は八重がいる時によく姿を見せ、茶会が終わると、庭をゆっくり歩いて樹木に触り、土や砂利の様子を眺め、つくばいの水面を眺めたりしていた。

 そんな様子に気づいた八重はふと彼に声をかけた。


「いつも庭をご覧になっていらっしゃいますが、草花がお好きなんですか?」


 英三郎は庭の四方を見渡して答えた。


「花も好きですが、仕事柄、庭がどんなふうになっているかに興味があるんです。よく整っていますね」


「ありがとうございます」


 八重は礼を言い、一緒に庭を眺めた。庭に関係する仕事とはどういうものなのかが気になり、漠然と尋ねた。


「庭に関係するお仕事をされているのですか?」


 すると英三郎は答えた。


「庭というわけではなく、農業に関する仕事です。農業土木学という分野がありまして…。農地、つまり水田を整備して、灌漑と排水の設備を作る仕事なんです」


「…灌漑(かんがい)と排水… お国のためになる重要なお仕事をされているんですね」

 

挿絵(By みてみん)


 この日、二人は初めて会話らしい会話をした。

八重は思った。考えてみれば自分はこの人物について何も知らずに何度も顔を合わせてきた。岩尾教授に代役を頼まれたことと、英語が堪能なこと以外は。


そしてこのあとすぐに、八重は彼について詳しく聞かされるのだった。 

すべての客が帰った頃、春の茶会で補佐役を務めた美佐代が八重に話しかけてきた。


「八重さんは、あの方のこと御存じでしたの?」


「あの方? どなたのことですか?」


「上野英三郎教授のことですよ」 


教授、と聞いて一瞬八重は驚いた。

上野英三郎は岩尾教授の知り合いだとは思っていたが、彼もまた教授だとは知らなかったからだ。


「じゃあ八重さんは知らないでお話をしてらしたの? あの上野英三郎様は東京帝大の農科大学の教授でいらっしゃるのよ。帝大を卒業されて、それはもう優秀な方なのよ」 


八重は気さくで人懐こい英三郎がそんな偉い人物であったことに驚いた。

だが茶会での落ち着いた様子や知的な顔立ちを思い出すと、すべて納得が行くと思った。

ところが美佐代の話はそれで終わらなかった。

身を乗り出し、なぜか大げさな小声になって八重に告げるのだった。


「それにあの凛々しいお顔。素敵よね? しかも、たしか四十ちょっとだと思うけど、まだ独身でいらっしゃるのよ? 良いお相手がいないのかしら。それとももう決まった方がいるのかしら。とにかくあの方に憧れている女性はいっぱいいるんですの。みんながあの方と話したいと思っているのよ」


美佐代の熱のこもった話に八重は何も返せなかった。美佐代はさらに続けた。


「渋谷の大きなお屋敷に住んでいらっしゃるんですって。…結婚は考えていらっしゃらないのかしら…」

 

挿絵(By みてみん)


八重は、美佐代が結婚に憧れていて良い相手を探していることを知っている。

美佐代の口から噂の的の男性の名前が出ることはよくあるが、今回は特に夢見るような口調だ。

だが、美佐代の話は自分にとってはそれほど大事なものではない。

結婚よりも仕事が、今の八重には大事なことだった。

 

その後も英三郎は茶会によく姿を見せた。

茶会が終わると八重のほうを見て、笑顔で近づいてきて他愛のない会話をした。

八重も八重で、彼の地位や暮らしぶりの噂を聞いた後でも、彼に対する態度は変わらなかった。 

出会って三カ月ほど経ったある日、初夏の庭を眺めながら八重と英三郎は話していた。

話題はどういうわけか結婚制度のことになっていた。


「八重さんは結婚についてどう思いますか?」


 唐突に聞かれ、八重は口ごもった。


「結婚… 私はあまり考えたことがないです」 


すると英三郎は遠くを眺めながら言った。


「西洋では結婚は本人同士で決めて自由にするものらしいです。しかし日本では結婚は家同士のもので、家父長が相手を決めて、本人たちはそれに従います。自分の人生なのに自由がないと思いませんか?」 


日頃自分が感じていたことをすらりと言葉にした彼に、八重は笑顔になってうなずいた。

英三郎はさらに続けた。


「時代が変わっていくなら、そういうところも変わっていっていいと僕は思うんです」 


英三郎は八重を見て微笑んだ。


「そう思いませんか?」 


八重は多くは語らず自分の気持ちを言葉にした。


「そうですね。自由というのがどういうことかはあまりよく分かりませんが」


「自分が好きになった人と結婚し、一緒に生きていきたい。僕はそう思っています」 


英三郎は八重の目を見てそう言った。

八重は何となくそわそわして思わず庭に目をやった。


この日のあとも英三郎はたびたび茶会に顔を出し、二人はすっかり打ち解けた。会っていない時でも彼のことを思い出すと気持ちが明るくなる八重だった。


だが、その数日後、八重はまた美佐代から、ある噂話を聞かされるのだった。

 茶道の稽古の帰り道、八重に言った。


「私、残念なことを聞いてしまったの。上野教授は故郷の三重県に親が決めた許嫁(いいなづけ)がいるんですって。いずれはその人と結婚するらしいわ」


 美佐代の言葉に八重は複雑な気持ちになった。

結婚は家同士のものではなく本人が自由にするものと言った彼の言葉は何だったのだろう。

自分が好きになった人と結婚したいというのはただの理想だったのか。

だが、はっと八重は気づいた。

 なぜ自分はこんなことを思うのか。

英三郎が自分を好きだと言ったわけでもないし、自分との結婚の話をしたわけでもない。

ただ世間話で話しただけなのに。

いや、そもそも自分が彼の存在を気にすること自体がおかしいのではないか。

八重はすぐに気持ちを切り替えようと思った。

自分はこんな噂を聞いたところで何とも思わない。

次に会う時には茶道を通じて出会った友人として接しよう。

そう心に決めたのだった。


 そうして数週間が過ぎ、セミが鳴き、夏の暑さが本格的になった頃、英三郎がひょっこりまた姿を現した。

茶会のあとに庭に出て夕涼みをする人々に混じって、彼も縁側に座っていた。

 八重は遠くにいる彼と一瞬目が合った気がしたが、何となくそらして、忙し気に茶室の方に戻ろうとした。

すると、それに気がついた英三郎がおもむろに立ち上がり、八重の近くまで来た。

そして今日はいつになく真面目な顔で話しかけてきた。


「今日はこのあと用があってすぐにお暇をするのでお話ができないのですが、…あの…八重さん、もしよかったら、今度どこかでお食事でもしませんか? 渋谷に美味しい店があるんです」


 八重は頭に軽く血がのぼる自分を感じた。口から思わずこんな言葉が出た。


「どうして私を誘うんですか?」


「え?」


 英三郎はぽかんとして立っている。

 八重は、彼が無言のままなので仕方なく、もう一言を言った。

それは自分でも思ってもみない一言だった。


「許嫁がいらっしゃるのに他の女性を誘うなんておかしくないですか?」


 八重はもう言うのをやめたかったが、その気持ちとは裏腹に、極めつけの一言が口を突いて出てしまった。


「許嫁がいるのに誘うなんて失礼です!」


 英三郎は表情を止めたまま、何も言えずに、ただ八重の顔を見ていた。


挿絵(By みてみん)


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